数年前のこと、筆者と「萬晩報」を主宰する共同通信の伴さん、そして当時は総務省のCIO補佐官の大塚寿昭の三人で台湾に、゛人探し゛にいった。組織や経済、法律で社会が成り立っているというが、もとは携る人物如何でどうにでもなる。
よく「一人によって国は興き、一人によって国滅ぶ」にあるが、ことさら英雄と悪党の問題ではなく、夫々の一人の独立した「独り」が狭い範囲の特定ではなく、不特定多数の社会や国、あるいは世界の一部分として自覚した行動をとることが大切だとの認識だった。ここでは台湾と日本との関係、そして大陸を含めたアジアの経綸の存在如何を人物に探る訪問だった。

それは、東京の大使館にあたる台北中日経済文化代表処の文化組陳組長の兄である外交部長(外務大臣のあたる)との面会のための訪問だった。
以前、陳組長の言葉からだった。
「兄は米国留学を終えて郷里の台南県の知事になったとき、李総統から政府に入るように促されたが、まだ郷里の人たちのために働きたい・・」との言葉が耳についていた。
そして政権が代わり外交部長になった。

゛人物を探しに参りました゛と・・・
今回は諜報事件の処理で急遽渡米したため外交部次長との面会になった。
中正国際空港に降りたときから外語大出身の伴さんが頼りである。その伴さんが耳寄りな話を聴かせてくれた。土産物屋の店員の語った内容だが、まさに人を得ることの意味を実感させる。
「どうせ赤も青も同じだよ」
国民党も民進党も同じだということだ。

一番先に訪れたのは「六士先生の墓」です
大塚寿昭氏
国民党の赤の保守、利権、民進党の青の進取 汚職浪費撲滅が印象だが、後だしジャンケン宜しく、それこそ社会構造や民情を変化させた後の政策遂行ゆえ民進党も難儀である。
しかもポケットは双方にある。ポケットとは利権の時とともに昂進する汚職の誘いである。
何処でも当初の歓心は不満に転化するのが常だ。男がだらしないからと女に天下を委ねると混乱すると歴史が示すが逆もある。男と女の対比ではあるが経年劣化は水の流れのようでもある。
細かいことを非難しても、゛ならばお前が変わってやってみな゛といわれて大向うからも無責任な後押しされても、国民等しく食い荒らした片付けは大変だろうし、次の飯も用意しなければならない。まずは掃除をする習慣と喰うときの行儀を直さなければならないが、流動的な政治に次の飯の定番メニューを読み上げられてはたまったものではない。
「お前、言ったじゃないか・・」と、大人の、゛ほじくり゛゛いいわけ゛児戯が毎度のこと再演される。

国立の研究所で唯一人の日本研究者と
右 伴 武澄氏
日本の政権交代も落城と入城、入れるものは決まっているし兵糧もない。検地と刀狩、年貢も弛緩している。ならば開拓したり、他所の領地に行くも、糖尿病と生活習慣病、働かない自由と平和愛好家では手も足も出ない。
あの時、国民党の領袖であった蒋介石は国民運動をしている。国民党が大陸を追われたのは国の維(国維)が弛緩したために腐敗堕落して民衆から遊離したためだ、と「新生活運動」という道徳清風運動を提唱している。先ずは綱紀粛正と政治の信頼回復だ。
金を配るだけでは国民が怠惰になり貪る心が助長する。そのための国家を挙げての道徳運動の提唱だった。一時は反目していた息子経国も意をともにして協力している。
だが、効果はあったが、「権力者の飾りつけ」と揶揄する国民を連帯させることは難しかった。蒋介石に連なるものにとって権力は美味しいものなのである。総統の死後、米国に渡った妻は時折チャーター便で帰国し、故宮博物院の財を物色したとの噂も立った。
その後の民進党も総統の縁者の収賄容疑で裁判にかけられている。

辛亥革命の戦闘地恵洲 山田良政はこの戦闘で殉死している
二大政党制も聞こえは好いが、携る人物の名利にたいする向心性は何らかわりなく、言い訳も五十歩百歩だ。韓国などは大統領が代わるたびに前大統領を糾弾する。とくに本人ならず身内への情を超えた名利の誘いは引きもきらず、まるで我が国の交通違反のごとき微罪でも金が動くように、いたるところ政、官、軍を蝕んでいる。
人の心の筋を考えると、統制的な経済下における二大政党へのおもいと、゛食い扶持゛、゛やりたいこと゛、の放埓民主主義下の政権交代は欲望の交差が複雑になり、いずれカオス(混沌)のような国情になることは必然である。
あの元羽田総理が若かりし頃、腕まくりして小選挙区制に邁進していたころは熱病といわれようと、その結果として成るだろう二大政党制による政権交代への緊張感があった。
当時は「矛盾を感じとり現況を正す」と、直感したときは有効性があったが、浮俗が糜爛したり、外交、とくに曲がりなりにも世界の長(おさ)の存在が茫洋としている昨今である。
それは、人の欲望のコントロールが環境や核という問題として顕在化し、政治の及ぼす範囲が少なくなりながら、欲望の交差点への依頼心が増加するといったような、゛わがまま民主゛が巡り廻って民の怨嗟や不満として滞留してしまう現象がある。
欲望と不満と怨嗟と依頼のスパイラル的循環は止め処もなく、何れの部分も矮小化された検証ゆえに俯瞰した解決方法が見出せないでいる。

「小人の学は利にすすむ」「上下交々利をとれば国危うし」
欲望が我利に向かうと、その利の動きによって裁かれる
「利は裁制」ともいう。
また往々にして
「小人、利に集い、利、薄ければ散ず」、そこに゛寄らば大樹゛のような群れる行動が国家観をオボロゲニさせ、信仰のようになった財貨への志向が唯一の生きがいのようになっている。
人間の動向やたどり着く道を推考して添加物なり触媒を与えると現在のようになる。
いつごろからか、誠に聴き易い世界的スローガンが刷り込まれた。だれも反対しない、いやできない麗句を散りばめ民族を超えて浸透する。
とくに、経済的欲求の亢進によって思索と観照、あるいは精霊の在り様を感じ取れなくなった人々は面白いようにそれを謳い賛美する。
また、それを人々の仮の連帯と錯覚し身近な存在である家族、縁者も功利的な関係にしてグローバルかつ架空な連帯を模索し始めた。
とくに愛と平和に順化しやすい西洋とは異なり、人の情と縁、自然などの抗することの出来ないもの力には諦観という心の順化、そして平和とは争いの隙間であり安寧こそ万世の願いと考える東洋的な感受には合理的に分断や排除が具現される政治の争論には一歩退いたり、生活とは分別する知恵が備わっている。
それゆえ、東洋のいう「力」の考え方を対比したとき、異質ともおもわれる議会制民主主義という選別排除を是とする形態に違和感を覚えるのである。それは、現実を否定するものではないし、かといって合理性、実証性からいえば、オボロゲな判別しか出来ないと思われている人間の「人物」とか「人格」とかいう人の倣いの範をみるとき、この劣化は人の織り成す歴史を俯瞰してみるまでもなく、あらゆる場面で影を落としている
合理的と喧伝されている言動やシステムが人間の「情」や「徳心」を無用なものとして遊離させ、欲望のコントロールを官警に依存し、分配は税に依存する人の在り様は、特定の環境に依存し生活するための知恵である掟、習慣を衰亡させ、社会の基礎的な力である人びとの調和や連帯を微かなものとしている。
人物の涵養とか学問を修めるということではないが、自民党の谷垣氏は「みんなでやろうぜ」、戻れば麻生氏は「さもしい」、福田氏は「あなた方とは違う(立場が)」陣笠とは違う立場が作る長(おさ)の登覧した観かただろう。

しかし、国民は「個人」とか「個性」を謳い上げていることとは逆に群行群止するようになった。人は失いそうなもの、あるいは無いものがあるとき衆を恃んで謳い上げる。
反核、人権、平和、平等、個の確立、環境、みな反古になったり、亡くなりそうなものだ。
おかしなことにこの様なことを唱えても、崇高?な議会制民主主義という掴みどころのないスローガンを維持する票にはならない。
人々はそんな状況は百も承知だが、他人の貰い扶持、食い扶持への嫉妬と怨嗟と、綺麗なもの見たさを混在させたりして、自と分の峻別がオボロゲになっている。
「どうせ赤も青も同じだよ」
税金も払うし、投票も行く、どうでもいいが、干渉しないでくれ。そんな思いが感じられる。
やはり彼の民族の「人情、国法より重し」を実感するところでもあるが、「重し」はアカデミックな考察から排除される、いや無理解に過ごされるようだ。
だか、これを以って創めて、民族や国や法があるという、まさに到達した科学である。
元の宰相、耶律楚材は「一利を興すは一害を除くに如かず」と、経国の要諦を説く。
「害」は有用に比した無用なものではない。また「利」は害を生むことかある。
真の害は心中の賊を発見して自らが覚醒することにある。
それは外の賊が寄り付かないことでもある。
その意味では似て非なる権力ではあるが、赤も青も同じだということがよく解る。