まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

中国革命で、外国人としての最初の犠牲者

2007-11-16 09:23:47 | Weblog


《中国革命で、外国人としての最初の戦闘犠牲者は山田良政であり、そして弟純三郎は孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人である。その部屋には妻宋慶玲と純三郎のみであった》

 山田良政は、明治元年11月3日、弘前の在府町で生まれています。
 父、浩蔵は、津軽藩のお小姓を勤めたことのある家禄百石取りの津軽藩士。明
治13年、自ら漆器授産会社を創り、初めて津軽塗と命名して、世にその真価を
問うた人。

 浩蔵は、津軽塗会社の社長に有りながら、その在職中は、自分の家では、ただ
一個の津軽塗すらも使用するようなことはなかった。それほど頑固一徹の古武士
の風格をもち続けた人でした。その浩蔵爺さんは、私の母の父でもありました。
私は何時も爺さん婆さんの所へ遊びに行ったものでしたが、一度も叱られたこと
など、ありませんでした。私にとっての爺さんは、頭のつるつるに頽げた、植木
いじりの好きな、ただの好々爺でした。
 爺さんは、孫文が書き贈ってくれた
        「若吾父、孫文」(吾が父の若(ゴト)し)
 という扁額の下に、いつもきちんと端座していて、姿勢を崩していたことなど
ついぞ見たこともありませんでした。
 ところが私が母から聞いたところでは、誰かが、うっかり炉端の板を踏んだり
、畳のへりをふむと、爺さんに火箸でピシャリと敲かれたものだという。作法に
かなった歩み方をしさえすれば、決して踏むようなことは、ないようにできてい
るのだと云うのです。

良政は、自分の母親に
 「私の父は、世間で言う、まま親(継父)ですか」
 と問い正したほど、厳し過ぎる父であったと、私の母は語っています。
 良政は、東奥義塾を出てから、青森師範学校へ入学。その当時は、まだ気骨が
買われる風気が残っていた時代でした。学生たちは正義感から学校の食堂の賄征
伐をやりました。学校当局では、結局どうしても首謀者を出せということになっ
たのです。

 良政の人となりは、寡黙であまり無駄口は言わない人でした。心のおく底には
人一倍の情熱を秘めながらも、静を為さずして、静自ら生ずといった、あくまで
も物静かな人でした。しかも、己れに対しては、あくまでも厳、人に対しては寛
、心裕かで温く、人に驕るようなことはなく、とくに友誼に厚い人でした。
 動かずして敬せられ、言わずして信じられた堂々たる風格をもち、犯しがたい
気品を具えた青年でした。

 まして賄征伐などをして騒ぎまわるような男ではなかったのです。首謀者は良
政の親友、弘前出身の佐藤謙之助という人でした。ところが彼の家庭は、貧しく
、その生活は彼一人の双肩にかかっていたのでした。良政は、自ら首謀者である
と、はっきりと名乗り出で、退学処分に付され、静かに学校を去っていきました

 食堂の従業員たちは、
 「食事の鐘が鳴る度に、学生たちは先を争って食堂になだれこみ、味噌汁の中
身などをすくい上げてしまうのに、あの学生(良政)だけは、いつも落着いて食
卓についていました。汁には中身がほとんど無くなっているのに、いつでもそ知
らぬ顔でした。学校を去るその日まで、その態度は変りませんでした。」
 と良政青年を深く惜しんでいたと語り伝えられています。
 少年時代から唐詩選の歌がるたに熱中したという良政には、大丈夫たる者は、
千秋のために計らんとすることこそ、男子の本懐であると、自らの心に言い聞か
                      
せていたようです。在府町の良政の生家の真向いは陸羯南の家でした。良政はそ
の幼少の頃から羯南に可愛がられていました。師範を退学処分にされた彼は、ま
っすぐに東京の羯南先生を訪ねています。

 先生は、よく来た。これからは支那というものを、よく研究しなさい。支那へ
渡っても、食うのに困ってもいけないから、まず水産学校へ入れと云われ、水産
伝習所の一期生として入学、卒業後、北海道昆布会社に入社、会社の職員として
上海へ渡ったのは、明治23年のことでした。すべて羯南先生の指導影響が大き
かったものと思われます。国際都市上海は、良政の目を更に大きく開眼してくれ
たようです。

 明治31年、清朝の戊戍の政変は、袁世凱の裏切りで、改革派は危機に陥りま
した。その時、良政は北京の日本公使館付武官海軍中佐滝川の所にいたのでした
。良政は改革派の救出に奔走し、改革派の中心人物王照らを保護して天津近くの
溏沽に停泊していた日本の軍艦大島艦に乗せ、日本に亡命させています。

 良政が孫文と会談したのは、その翌る年の明治32年7月のことでした。
 当時、東京神田三崎町には、津軽出身の書生たちが、ゴロゴロしていた宿舎、
文字通り梁山泊(中国の小説、水滸伝の中に出てくる豪傑連中の集まる所)があ
りました。ある日良政は
 「おい、今日は支那の偉い人が来るから、少し静かにしていろ。角力だけはと
るな……」
 と言いつけました。
 弟の純三郎は、障子の破れ目から、支那の偉い人なるものを、かい間見たら、
額もオデコ、後頭部もオデコのような小肥りの変てつもなさそうな小男が、ちょ
こんと坐っていた……と語っています。

 この時、良政は孫文は
 「支那の国政改革について談論して以来、深く孫文の革命主義に共鳴して、援
助を約束するように、なったのである」(内田良平伝)
 と記録されています。

 良政は孫文の祖国中国に寄せる愛国の情熱、アジア復興にたいする崇高な理念
、そして情愛のにじみ出るような孫文の人柄に、深い感銘をうけたようですす。
そして何よりも清風朗月、二人とも全く一点の私心もないのです。二人はただそ
の道を同じうするからこそ、結ばれたのです。良政が中国革命に殉じて、恵州の
露と消えたのは、その翌る年のことでした。


【妻 敏子】
 良政と孫文が知りあったその年(m32)に、良政は郷里弘前で、藤崎村の医
師藤田奚疑の娘、敏子(函館、遺愛女学校卒)と結婚しています。二人は新婚生
活を一週間しただけで、夫の良政は、“両親をたのむ”と一言残したまま上京し
ています。
 注.藤田奚疑の「奚疑」とは、おそらく、陶淵明(晋)の「帰去来の辞」の中
にある一句、「夫れ天命を楽しみて、また奚(ナン)ぞ疑わんや」から、とったものであろう。

 良政は、南京の同文書院の教授兼幹事として、南京に着任したのは、結婚した
翌る年の明治33年2月のことでした。青森県からは、南郡六郷村赤坂の宇野海
作と、良政の弟純三郎の二人が、その学生として中国に渡っています。

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アジアに生きる津軽弘前の歴史と教育

2007-11-12 11:26:00 | Weblog


 台湾海峡を挟んで異なる政治体制を持ちながら双方、互いに「国父」として敬愛している人物に孫文がおります。
 西洋の植民地政策のもと、疲弊したアジアの中で唯一、維新改革によって近代化に踏み出し、当時の列強の凌駕からまぬがれた日本に触発された孫文は、列強の分割利権によって衰退した清朝を倒してアジア主義に基づく新体制を打ち立てようと辛亥革命を起こしました。 それは偏狭な民族主義ではなくアジア全体の問題として植民地化によって蹂躙されたアジアの心の解放であり自立を唱えたものでした。  

 列強の覇道に恐れを抱きながらも保身のため迎合する指導者の姿は民衆の信頼を失い、国家そのものが滅亡の危機にさらされていました。それは西洋列強をアジアから追い払うと同時に国内政治の改革を唱えた孫文にとってまさに「内(心)なる独立」であったのです。 このような真剣な訴えは外国人、とりわけ多くの日本人の義侠心を呼び起こすとともに、我が事のように挺身する人々が現れました。 それは孫文が言い続けた

「中国革命は第二の明治維新である。中国と日本の提携がなければアジアの復興がない。アジアの復興がなければ世界の平和はない」という姿に実直に呼応した当時の日本人の普遍なる勇気と、異なる民族への命懸けの献身でした。そのことは互いの民族はもとより、世界史の中でも特筆した民族交流の証しとして語り継がれています。

 そのころの弘前では東奥義塾の創始者、菊地九郎の指導によって外国人教師の招聘をはじめとし我が国の先駆けとなる教育が行われ、 明治の代表的言論人、陸羯南 をはじめ日本の近代化の礎を築いた功績者を多く輩出しています。

 そのなかでも当時の在府町で津軽塗の殖産の功労者、山田浩蔵の子として生まれ幼少より真向かいに住む陸羯南に可愛がれ、その影響のもと辛亥革命に挺身し、恵州の戦いで犠牲となった兄良政、その遺志を継ぎ革命に挺身し、孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人、弟純三郎の兄弟は、当時の日本および日本人の姿としてさも当然のごとく、しかも、郷里弘前の教育に培われた遠大な世界観をもとに命を惜しまず異郷の地においてアジア復興のために捧げたのです。

孫文は父浩蔵に
「吾、父の若し」と揮毫をもって感謝し、民族を代表して良政の死を惜しみ、その功績を讃え頌徳碑文を献じています。
桜の季節になりますと各地からゆかりの人々の来弘があります。

恒例になりました東京の東洋思想研究で著名な郷学研修会 (寶田時雄代表世話人)主催により一昨年は金沢隆市長に国父記念館より感謝状贈呈、昨年は台湾の大使館にあたる台北駐日経済文化代表処の陳文化組長の新寺町、貞昌寺のおける孫文選書、「山田良政先生頌徳碑」への献花、拝礼の儀、今年は四月三十日赤平法導住職への感謝状贈呈と、弘前は辛亥革命の東北聖地の様相を表しています。 振り返ればその頃の弘前には異民族の信頼に応えるような教育があったということでしょう。

雪とリンゴと桜かと思っていた弘前の人々の足元に、すばらしい「歴史」と「偉人」と「世界に通用する教育」があったことが不言の教えとして溶け込んでいることに気が付かなければなりません。

 そのことはアジアの混迷の兆しを眼前にしてどのように活かし、継承していくのかを弘前の人々への歴史の恩恵として優しく問いかけているようにもみえます。

http://sunasia.exblog.jp/7292498/ 【請孫文再来】

東奥日報、陸奥新報
RAB青森放送、
「依頼参考資料として」

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11月6日の産経の煩い 羯南はどう観る・・

2007-11-08 10:41:27 | Weblog
   明治の言論人 陸 羯南の郷里弘前
                     〈名山の元に名士在り〉


以前、この欄で産経新聞の一面にある「産経抄」について書いたことがある。
それは永年コラム執筆者であった石井英夫氏が勇退し、一時幾人かの執筆者が選考?を兼ねて日替わりで書いているようだ、と記した。

しかし、この度の小沢党首と福田総理の会談についての産経抄は半生の焼き芋のようで、加減の按配が薄く、かつ紙面の終章まで貫き通す重厚さが観得ない。

それと対比するのも酷のようだが、同日の花岡氏のコラムは成文化したもの対する読者の応答を斟酌したような男(オノコ)の心情が感じられる。

産経抄の前任者も晩年は何故か事象に食って掛かる印象があったが、一方では風雅を漂わす叙情的なものもあった。良いも悪いも練れていた印象がある。
一方、アカデミックな切り口は確かに即興的な理解は得るだろうが、後味が薄い。

「文は経国の大義にして・・」と大仰になれとは言うまいが、紙面を貫く産経の薫譲された意志を前段の「抄」において標記するなら、もう少し工夫があろう。

業界には一種独特の元老が存在するという。その中には枯れた人物と、生々しい人物が居るともいう。

『文は、巧い、下手ではない』と碩学は説く。
広告クライアントの兼ね合いからユルふんどしのような記事も散見するが、瓦版が木鐸と言い換えられる時代に、せめて異なることを恐れないプロの矜持を示してみては如何なものだろうか。

碩学の言に「六錯」がある。
怯えを守り、贅沢を幸せ、暴を勇、詐を智・・など言い換えたり、言いくるめて幻惑する、つまり見るものを錯覚させる筆術、話術が横行している。
アカデミックな合理的根拠を添えても沈殿するものは毒性を持つようだ。

永年購読者ゆえに・・・
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自 省   自 得

2007-11-04 12:04:03 | Weblog
津軽の秋

 売文の徒、言論貴族と称せられるものたちの熱狂が今まだ続く我国において、歴史の検証はもう暫くの時間が必要です。終戦と敗戦、太平洋戦争と大東亜戦争、あるいは我国においても8月15日は解放記念日と呼称する一群もあります。
 まだまだ熱狂と偏見が過ぎ去らず落ち着きのない風が吹いているところに、調和とれた歴史の再検証など望むべくもありません。

 建て前の上でも一度は納得した近代日本の検証を、あえて平和遊情に浸っている現在に自己の歴史を内観するならまだしも、属性価値優先の状態で全体行為を評することは返って錯交した歴史観を作り上げてしまいます。
 世代の断絶、教育偏重、個(孤)性の尊重などと言われている今、連綿と継承すべき歴史すら再々検証などと試みられる時期が到来しないとも限りません。
 将来予測しうる価値の錯交を考え日本人が日本人あるべきそのものの価値を顧ることのほうが大切なことではないでしょうか。

 過去の事象を単純知識の情報として役立てたところで、単なる歴史の学習やのぞき見的裏話で終始します。 しかも、それだけで将来を案ずる目安や判断の材料にしたところで民族の普遍的意志にはなりません。

 それはややもすると「群盲象を撫す」がごとく時運の流れに群行群止する民族が特に注意しなければならない事でもあります。 
 例えば、孫文の満洲共同経営に関する「日支連盟論」ABCD包囲網による「戦争誘導論」、国際共産主義による「南進誘導論」、ユダヤによる「謀略論」、はたまた「黄禍論」等、さまざまな立場の話はあるが国民が観た戦争の結末は、
「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」
「我汝らほど書を読まず、然るが故に我汝ら程愚ならず」
を悟った敗戦の事実だった。
地位経歴学歴という属性は土壇場では何の役に立たなかったことが判かった。

しかも、一部の迎合性、卑屈性を兼ねたものたちが、勝者の文化にのみに価値を偏重したせいか、保持すべき民族の特性、地域性とが新しい文化と軋轢を起こし生存地域での異端性は過去と同様の歴史を刻み始めているようにおもわれます。
 自己の本性や歴史の継承すべき真理(中紐)を洞察することなしに、表層に現われたことのみに評価を加えることは、歴史の持つ価値を遠ざけ小間切れの歴史観を描き出しています。

 戦争は馬鹿々々しいものですが、その行為に対する単絡的理解も現代を惑わしている元兇の一つです。
「負けると判かっていても今行かなければ日本そのものが駄目になってしまう」と答えた特攻隊の若者、
「私は命より大切なもののために抵抗せずにあえて殺されるのを待っている」と言った天安門の学生達それは全体の中の分(自分)を弁え、生かされていると感謝する人々に対するささやかな世代の好意であり警鐘でもあります。
 
 我国がアジアの光明と称せられアジアが動いた歴史の事実、そこには孫分、アギナルド、ネール、がいた。天安門の若者の行為に東欧が動き世界史が開かれた。
 これからは全て馬鹿々々しい行為ではないあえて「莫過」と呼ばせて戴きたい魂の継承でもあります。
 戦は相手があるが、他を語る前に自らを悟ることです。今では経済力、政治力は永い民族の歴史の禍いに対して小手先の手段方法にはなるが、それだけでは解決手段にはなり得ない。

 それよりも「本立つて道生ず」の例えがあるように政治(教)経済(養)の分別と調和が“力”として“知恵”として他に働きかけそこから生ずる均衡のとれた評価は自他の分別を生み将来を推察する道筋にもなります。戦争は忌しい単語ですが、交通、経済、受験、これ程安易に使われることも珍しい、平和になると登場するまさに“戦禍”である。
 戦后構成された社会を視ると、生かされているものとして「莫過」に申し訳けない気がする。
 
“当時は生まれていなかった”と言っても民族の歴史に感謝と責任があります。
 自らの秘奥な良心に、あるいは民族の特性に思い至すことなく、今を知らずして歴史を書き直すような愚は民族として潔ぎよい姿ではありません。
 孫文は「西洋覇道の犬となるか、東洋王道の干城となるか」と日本にその選択を問い  インドの司法家ラダ.ビノード.パルは
「時がその熱狂と偏見が過ぎ去った暁には、女神は秤の均衡を保ち多くの賞罰にその名を変えることを要求するだろう」と述べている。

 歴史は「自」(オノズ)から成ります。「自」(ミズ)から行えば争いになる。
 日本人が誠の日本人でありつづけるならその永い歴史を希求することに誰も妨げたりしない。
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知恵が遺した津軽の魂

2007-11-01 22:54:47 | Weblog


10月28日津軽弘前は抜けるような青空だった。
今どきは見る事が少なくなった戦没者を祀る忠霊塔だが、この弘前では、゛マサカ゛とおもえる威容で建立されている。
 戦後のGHQ(駐留連合軍司令部)の指令で各地の忠魂碑、忠霊塔、あるいは軍国主義の国威発揚のために建立された施設、建物の多くは取り壊されたが、ここ弘前では無傷のまま遺されている。

 あの八甲田雪中行軍で有名な弘前師団は日露戦争の陸戦のターニングポイントであった黒溝台の激戦を勝利した師団としても有名である。
 そのせいか当地では自衛隊との交流も多く、東京ではついぞ見なくなった自衛隊の市内行進が秋に市民の盛大な歓迎のもと大々的に行われる稀で貴重な地でもある。

 今でも現地採用赴任が多く退職してもその連携は強いものがあり、OBもその歴史を誇りにして、妙な話だが歓楽街でもその辺の公務員とは違い、兵隊さんは歓迎される存在でもある。

 忠霊塔に戻るが、高さは6階建てのビルと同じ高さの威容を誇り、敷地が広くないと見上げるのにクビを痛めてしまうほどだ。一階の基室は展示室となっているが、そこまでは地上からの階段が下に続いている。

 今回はその部分に忠霊塔の意義を新たな石版に刻んだことによる記念除幕式典への参列だった。
 実はこの威容を誇る忠霊塔がなぜ残ったかの解明も弘前行きの理由だったが、着いた途端その謎はとけた。
 主催は「宗教法人仏舎利塔」、何のことは無い忠霊塔を釈迦の採骨(仏舎利)が安置してあると理由をつけて、゛これは仏舎利塔である゛と解体を回避したのである。

 占領政策は成功したというが、どっこい当地弘前ではそれに逆らわず変化球を返したのである。さすが弘前出身の明治の言論人陸羯南が喝破した「名山のもとに名士在り」は伊達ではない。頑固で忍耐力があり、しかも進取の気概がある津軽人だが、いざというときの頓智には恐れ入るものがある。

 明治天皇の東奥巡視のおり東奥義塾では生徒が英語の歌でお迎えしたという、まさに辺地の郷学は驚愕の俊英を生み出す土壌でもあった。

 そういえば中国近代化の魁となった辛亥革命において日本人最初の戦闘犠牲者であった山田良政、孫文の側近として唯一臨終に立ち会った弟純三郎の兄弟も弘前出身である。

 津軽弘前には時代を見通す何かがある
 それは忠霊塔が問いかけるように、津軽疲弊の折、偉人菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」に集約された歴史から人間への問いかけでもあるようだ。

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