《中国革命で、外国人としての最初の戦闘犠牲者は山田良政であり、そして弟純三郎は孫文の臨終に立ち会った唯一の日本人である。その部屋には妻宋慶玲と純三郎のみであった》
山田良政は、明治元年11月3日、弘前の在府町で生まれています。
父、浩蔵は、津軽藩のお小姓を勤めたことのある家禄百石取りの津軽藩士。明
治13年、自ら漆器授産会社を創り、初めて津軽塗と命名して、世にその真価を
問うた人。
浩蔵は、津軽塗会社の社長に有りながら、その在職中は、自分の家では、ただ
一個の津軽塗すらも使用するようなことはなかった。それほど頑固一徹の古武士
の風格をもち続けた人でした。その浩蔵爺さんは、私の母の父でもありました。
私は何時も爺さん婆さんの所へ遊びに行ったものでしたが、一度も叱られたこと
など、ありませんでした。私にとっての爺さんは、頭のつるつるに頽げた、植木
いじりの好きな、ただの好々爺でした。
爺さんは、孫文が書き贈ってくれた
「若吾父、孫文」(吾が父の若(ゴト)し)
という扁額の下に、いつもきちんと端座していて、姿勢を崩していたことなど
ついぞ見たこともありませんでした。
ところが私が母から聞いたところでは、誰かが、うっかり炉端の板を踏んだり
、畳のへりをふむと、爺さんに火箸でピシャリと敲かれたものだという。作法に
かなった歩み方をしさえすれば、決して踏むようなことは、ないようにできてい
るのだと云うのです。
良政は、自分の母親に
「私の父は、世間で言う、まま親(継父)ですか」
と問い正したほど、厳し過ぎる父であったと、私の母は語っています。
良政は、東奥義塾を出てから、青森師範学校へ入学。その当時は、まだ気骨が
買われる風気が残っていた時代でした。学生たちは正義感から学校の食堂の賄征
伐をやりました。学校当局では、結局どうしても首謀者を出せということになっ
たのです。
良政の人となりは、寡黙であまり無駄口は言わない人でした。心のおく底には
人一倍の情熱を秘めながらも、静を為さずして、静自ら生ずといった、あくまで
も物静かな人でした。しかも、己れに対しては、あくまでも厳、人に対しては寛
、心裕かで温く、人に驕るようなことはなく、とくに友誼に厚い人でした。
動かずして敬せられ、言わずして信じられた堂々たる風格をもち、犯しがたい
気品を具えた青年でした。
まして賄征伐などをして騒ぎまわるような男ではなかったのです。首謀者は良
政の親友、弘前出身の佐藤謙之助という人でした。ところが彼の家庭は、貧しく
、その生活は彼一人の双肩にかかっていたのでした。良政は、自ら首謀者である
と、はっきりと名乗り出で、退学処分に付され、静かに学校を去っていきました
。
食堂の従業員たちは、
「食事の鐘が鳴る度に、学生たちは先を争って食堂になだれこみ、味噌汁の中
身などをすくい上げてしまうのに、あの学生(良政)だけは、いつも落着いて食
卓についていました。汁には中身がほとんど無くなっているのに、いつでもそ知
らぬ顔でした。学校を去るその日まで、その態度は変りませんでした。」
と良政青年を深く惜しんでいたと語り伝えられています。
少年時代から唐詩選の歌がるたに熱中したという良政には、大丈夫たる者は、
千秋のために計らんとすることこそ、男子の本懐であると、自らの心に言い聞か
せていたようです。在府町の良政の生家の真向いは陸羯南の家でした。良政はそ
の幼少の頃から羯南に可愛がられていました。師範を退学処分にされた彼は、ま
っすぐに東京の羯南先生を訪ねています。
先生は、よく来た。これからは支那というものを、よく研究しなさい。支那へ
渡っても、食うのに困ってもいけないから、まず水産学校へ入れと云われ、水産
伝習所の一期生として入学、卒業後、北海道昆布会社に入社、会社の職員として
上海へ渡ったのは、明治23年のことでした。すべて羯南先生の指導影響が大き
かったものと思われます。国際都市上海は、良政の目を更に大きく開眼してくれ
たようです。
明治31年、清朝の戊戍の政変は、袁世凱の裏切りで、改革派は危機に陥りま
した。その時、良政は北京の日本公使館付武官海軍中佐滝川の所にいたのでした
。良政は改革派の救出に奔走し、改革派の中心人物王照らを保護して天津近くの
溏沽に停泊していた日本の軍艦大島艦に乗せ、日本に亡命させています。
良政が孫文と会談したのは、その翌る年の明治32年7月のことでした。
当時、東京神田三崎町には、津軽出身の書生たちが、ゴロゴロしていた宿舎、
文字通り梁山泊(中国の小説、水滸伝の中に出てくる豪傑連中の集まる所)があ
りました。ある日良政は
「おい、今日は支那の偉い人が来るから、少し静かにしていろ。角力だけはと
るな……」
と言いつけました。
弟の純三郎は、障子の破れ目から、支那の偉い人なるものを、かい間見たら、
額もオデコ、後頭部もオデコのような小肥りの変てつもなさそうな小男が、ちょ
こんと坐っていた……と語っています。
この時、良政は孫文は
「支那の国政改革について談論して以来、深く孫文の革命主義に共鳴して、援
助を約束するように、なったのである」(内田良平伝)
と記録されています。
良政は孫文の祖国中国に寄せる愛国の情熱、アジア復興にたいする崇高な理念
、そして情愛のにじみ出るような孫文の人柄に、深い感銘をうけたようですす。
そして何よりも清風朗月、二人とも全く一点の私心もないのです。二人はただそ
の道を同じうするからこそ、結ばれたのです。良政が中国革命に殉じて、恵州の
露と消えたのは、その翌る年のことでした。
【妻 敏子】
良政と孫文が知りあったその年(m32)に、良政は郷里弘前で、藤崎村の医
師藤田奚疑の娘、敏子(函館、遺愛女学校卒)と結婚しています。二人は新婚生
活を一週間しただけで、夫の良政は、“両親をたのむ”と一言残したまま上京し
ています。
注.藤田奚疑の「奚疑」とは、おそらく、陶淵明(晋)の「帰去来の辞」の中
にある一句、「夫れ天命を楽しみて、また奚(ナン)ぞ疑わんや」から、とったものであろう。
良政は、南京の同文書院の教授兼幹事として、南京に着任したのは、結婚した
翌る年の明治33年2月のことでした。青森県からは、南郡六郷村赤坂の宇野海
作と、良政の弟純三郎の二人が、その学生として中国に渡っています。