まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

明治の日本人と孫文

2015-05-21 16:34:09 | 請孫文再来
請孫文再来

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孫文は後継総統を山田に尋ねた  10 3/7 稿  再

2015-05-10 10:46:32 | Weblog



孫文は側近の山田純三郎に後継総統について尋ねている
「山田さん、次の総統について聞かせて欲しい」

山田は孫文の問にこう応えた
「蒋介石君が適任かと・・・」


津軽での講演会の前日、知友との歓迎宴のさなか、事業家であり郷土史研究家の三上さんから電話が入り、
「孫文さんが山田さんに次の後継者は誰がいいかと問われたとき、蒋介石を推薦したという」
「充分考えられますね、国民党の最高顧問であり、実行間際で終わったが、山田を仲介にした毛沢東、蒋介石の接触や、孫文の指示で満州を日本の経営でロシアの南下を押さえるための工作に蒋介石は石岡という日本人名で山田と潜入している。

そのとき失敗をして帰ってきたとき蒋介石は真っ赤な顔をして『失敗して帰ってきました』と真摯な態度を示した。秋山真之、犬塚信太郎など革命協力者は、『こんど蒋介石に何かあったら援けよう』と誓っている」

また、「日本がだめになったら中国もだめになる」と孫文の意志を忠実に守り、あの共産軍を攻撃しない東北軍の張学良にしびれを切らして西安の前線にいったところ事件にあった(西安事変)





                 






「戦後は満州国の日本国内の財産の処理を名利に恬淡な山田に依頼していた。『山田先生に任せるように・・』との命令だったが、事務方の日本人の○○公使が財閥に便宜供与して、発覚したら山田の玄関で土下座して謝っていたと、佐藤慎一郎氏が目撃談を伝えている」

「あるいは、日本人の軍民数百万の帰還を全力をもって行い、゛徳を以って怨みに報いる゛と中国に発令したことは民族の歴史にもなることだ。また、それを感謝した日本人政治家に向かって>『私に礼はいらない、あなた方の先輩に言ったらいい』と、盟友山田をはじめとする辛亥革命に命がけで闘った日本の先覚者を、あなた方日本人は忘れてはならないと訪中(中華民国台湾)した議員を諌めている」

「大陸から渡った外省人と内省人とのいさかいはあるが、蒋介石は新生活運動という道徳運動を提唱し、息子経国は『国民党が負けた原因は内なる腐敗にある』と、規律維持を政策に掲げている。

しかし民族の性癖というべきか権力と賄賂は縁者や側近に染み付いて、いまでも国民党の根幹にシロアリのように棲み付いている。宗家三姉妹の長女は財閥孔家に嫁ぎ財を愛し、美齢は蒋介石に嫁いで権力を愛し、慶齢は国父の妻として国を愛した。美齢は米国に住み時おり飛行機をチャーターして戻ってくるが、故宮の財物も意中のものであった。
蒋介石は革命成就の目的のために孫文の妻の妹をもらって縁戚となり権威をつけた。たしかに前妻をアメリカに追いやりとんでもないことだが、条件に突きつけられたキリスト教に改宗、本妻とする、などの強欲な欲求を忍んだ蒋介石の気持ちも革命成就に向かったものだ。





                 


蒋介石は孫文の妻慶齢の妹美麗を妻にした。革命領袖は義兄となった。

山田は「美齢を妾にしろ」と叱責し交流を絶ったが、混乱のなか「山田先生を守れ」と厳命している。それは山田に、゛いつか解ってくれるという゛という心情だったのだろう。
戦後、蒋介石は山田を厚遇し、『いつでも来てください。事情が許せばいつまで居てください』と家まで用意している。

また、山田が「蒋さん、そろそろ孫文先生の命令で君と丁仁傑と私で満州工作に行ったことを話してもいいだろう」と問うと、当時を思い出したように「それはいい」と、笑顔で応えている。

当時のことを知らない高官たちは蒋介石と山田の会話を凝視して聞き入っている。
満州工作とは、
≪日本の手で万里の長城以北(満州、清朝)をパラダイスにして、ロシアの南下を押さえて欲しい、だが、シャッポ(帽子、頭に置く)は中国人だよ。そして事情が許せば国境を撤廃してでも日中は連携しアジアを復興しよう≫これは孫文の意志だが、これは訪日したときに桂太郎と東京駅の喫煙室で会談したことの約束でもあった。




                 






日本が滅んだら中国もだめになる。
その後の蒋介石と山田の行動は孫文の意志の継承であった。
つまり、民族を超えた「信義」の在り様でもあった。

山田が『孫文さんの意志を全うする為に毛沢東との関係を修復できないか・・・そして日本と中国は提携してアジアをもう一度、安寧に向かわせたい』と、廖承志(初代中日友好交流の責任者であり、革命同志廖仲凱の子息)を通じて毛沢東の了解を得た。もちろん蒋介石は山田の言うことを孫文の意志として随っている。









                







孫文の臨終に際して別室にいた山田に妻 慶齢は「山田さんお願いします」と、末期の水をとらせている。山田は溢れる涙を孫文に落としながら、そのガーゼに含ませた水で口元を拭っている。山田の兄は恵洲の戦役で、゛中国人゛と言い張って処刑され、弟は孫文の意志を蒋介石につないでいる。それは中国人と日本人の交誼だけでなく、アジアの安寧を願った孫文への誓いでもあった。
もちろん、思い出話として蒋介石に話している(佐藤談)

独立、和中と軋轢はある。また内省、外省の歴史的軋轢もある。その意味では日本人について揶揄された、゛四角四面゛の姿ではあるが、砂民といわれまとまりのない民族、あるいは財利への直線的指向や賄賂にみる公の意識と、それに添える人情、それらを俯瞰してなお、連帯と統一に賭け、その力をアジアの連帯に導こうとした孫文の意志は、山田を通じて蒋介石に継いでいる。

アカデミックな検証や、うがった見方、はたまた一方の勢力に偏した曲学阿世の売文の輩や言論貴族の弁に歴史を眺めるような観照は望むべくもないが、事象の背景に潜在する誓いや魂のなせる人の情(ころろ)の在り様を、蒋介石、山田という異民族の共有した意志と願いとしてみることができる。


後継のライバルには王精衛もいたが、しかし余りにもボロジンを中心としたソ連の影響下にあった。思想の共感や力の依頼は、状況打開の為の一過性の連衡としてよくあることだが、アジアの被抑圧や国々の煩悶や離反を考えるとき、孫文を領袖とした異国の革命を我がことのように挺身した山田にとって、そもそも孫文が革命を発起し、それに賛同し、アジアの国々がどのような期待を息潜めて中国の安定を待望しているのかという俯瞰した歴史観と将来の逆睹が蒋介石を推挙したのであろう。







                

               孫文絶筆




蒋介石は真摯で実直である。その誠実さを山田も認めている。評価は、直にして彼の国特有の柔らかさはないが、それでこそ土壇場でも信念を曲げない剛直さがある。この現在カオスのような国情には必要な人材である。それが山田の人物観だった。

蒋介石は子息経国にたいして厳しく教育している。当初のソ連留学が人質と変化し12年の長きに亙っても決して私事において国家の方針を変えることなく、帰国しても経国に対する厳しい指導は後の台湾施政にも表れている。

軍人、役人への綱紀の粛正、民衆の道徳運動の喚起など、自らが大衆に飛び込み国家の連帯と調和を基とした三民主義の具体的遂行に邁進している。国民党が権力に増長し、終には民衆の離反を招いたことへの反省と慙愧からの出発は、経済においても台湾をアジアの発展モデルとして脚光を浴びた。


人が集えば、取り巻きや反目があり、嫉妬から抗争が起きる。しかし民族歴史を俯瞰した忠恕とそれを執行する突破力や勇気は、数値に表される大小、多少のみならず、東洋のいう人格とか識見に多くを委ねなければならないのは歴史の栄枯盛衰を観ても必須の人物観でもある。





              


        左 佐藤      右 山田



山田は必然の訪れと、民族の統領として、また諸外国との調和、あるいは何れアジアを代表する指導者となる資質を推挙の基としたのである。

もちろんその意味は孫文も同じだった。それは異民族たる山田に確認したようにも思える尋ねごとだった。

このことで再度、三上氏に確認を行なった。
「このことは佐藤先生が弘前で講演をおこなった時に語ったことです」
筆者が聞き漏らしたのか、それとも先生が伝え忘れたのか・・・

山田は『慎ちゃん』と呼び、つねに相談を掛け行動を共にしている。
筆者が「のろまの純コウと寝小便の慎ちゃんでも歴史を作りましね」というと、




                  





『人間は無駄には生きていないょ。だだ、叔父の語りは記録ではなく記憶だから日時は間違っていることがあるが、研究者は当てにならないといっている。でも、伯父がいつも言っていた、゛孫さんは・・゛、゛あのとき蒋介石は・・・゛、と革命同志の人間味溢れる逸話が臨場感を帯びてが語られるとき、本当に必要な歴史が身近になる。

そもそも、記録では頭が動いても心は動かない。これでは革命も語れない。つまり人間の歴史の嘘の部分だ。その場で革命の記録など書けないのが真実だ・・。
この歴史の事跡は中国人と日本人の歴史として恩讐を超えて甦る。孫文が真の日本人と称した明治の日本人と中国人との共同精神は必然の歴史として甦る。いやそのような人物を求める必然の時がくる。それまで、皆さんが繋ぐことが大事だ。』



まだ、遅くない。諦めるのは早い。そんな気持ちにさせる逸話でもある。
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