まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

税と警察の姿で国民の信を得ることができる   14  1/20再

2023-11-22 01:38:30 | Weblog

岩木神社

 

税と警察には政治家も腰をひく。

目の細かい投網のような選挙法は警察のさじ加減でどの様にもなる。

税も同様にサジ加減が利くが、警察の正義、税の公平が崩れたら国は自ずと融解する。

国会でそのような分かり易い国家の根源的な論議は聞いた事はない。

議員ですら口を封じ、いや問題意識すら抱かない、それよりか見て見ぬふりが現状なのだろう。

 

1989北京

近ごろはこの様な元気すらない日本。やはり仕方がない諦めか。



標記は漢学者の安岡正篤氏の筆者につぶやいた呻吟でもある。
くわえて子息正明氏もその経歴にある税務大学校長の経験から父の言をなぞっている。
筆者も一方は自宅書斎で、正明氏からは小会(郷学研修会)で同様な社会観察、歴史考察から同様な憂慮を聴いた。

当時、安岡氏の周囲には多くの集いがあった。
何を意図しているかわからない経済人、政界関係者、あるいは人脈の必要性を「あの人を知っている」類の集まりを募って仮想、偽装の弟子と称して商業言論、売文に勤しむジャーナリストもいた。

なかには出自に劣等感を持っていた投機家は出版会社を作り売名に目ざとい商売人を表紙に顔写真をデカデカと掲載し、安岡氏を始めとする名のある言論人、教育者の論文を種物ページにして、会員制の月刊誌を販売しているものもいるが、終には巨額の脱税で逮捕されている。





安岡正篤氏


その集いだが、警察関係のキャリアが多く参集していた。安岡氏の大きな会合には公安関係者がカメラ片手に参会者を撮っていたが、氏の国家的思想、右翼的人脈などと勝手な枠組みがあったようだが、参会者の警察官僚の多くは実直な学徒として存在していた。
もちろん官界も大蔵省をはじめとして各省の多くのキャリアが参集していた。

その安岡氏が税と警察の姿勢に言及し、その面前権力の姿によって国民は国家の意志を観察し、税の公平、警察の正義を為政者の秤として、それを倣い、その意向を、息をひそめて観察していることを社会の下座観と無名の庶民の視点で憂慮していた。

いまは税収も取り締まり件数も、その評価は総て数値になっている。官吏とて新税の在り処を探り、罰金も網の目のごとくその種類は多くなっている。罰金のキックバックは数百億、とくにあの二人組の緑装束が出てきてからは交通関係から生ずる罰金、反則金は膨大な量になっている。交通安全に寄与することは国民も承知だが、些細なことで己に降りかかってくるようになると、どこか首を傾げざるを得ない。





川路大警視



都内には通常の通い交番のほかに駐在所がある。家族で住み込み地域の行事に参加したり、啓蒙パンフレットを作成して配布したりして地域住民から信頼される存在である。交番には住民の旅行みやげが届けられ、駐在さんは四方山話の中から地域環境を読み取りつつ、また住民も面前の出先権力の姿として安心感を感じ取っている。ときに結婚式に招待されたりもする。
「ところで地域内の駐車違反などはどうしているのですか」
すこし意地悪い質問だったが笑いながら応じてくれた。

「住民が困って通報してきたら対処しますが、駐車違反を探し回ることはしません。事前対処、防犯ということも大切ですが、警察と住民を離反するようなことは、本題の防犯協力や警察のいろいろなお願いになじまないようです」

繁華街と住宅地の違いはあるが、地域住民の見る目はこの駐在さんと変わりがない。ただ、上司が駐禁の成績ノルマを課したらどうだろうか。いや、国民がそのような覗き方をすることこそ良好な関係を壊すことを心得ているから、駐在さんにはそのことを聴くことはない。その点はまだ信頼関係が残っている。

駐在さんは、権力は国民からの預かりもの、と考えている。組織の都合で恣意的に罰金なり反則金という庶民の財を取り上げることは警察本来の目的とは違うことだと、峻別している。

その人柄ゆえか、転勤には盛大な送別会が催され、惜しまれて転地に赴いた。一昔前は校長、医者、警察官は子供のあこがれの職業だった。安定高給を担保にしてはいなかった。みな別れを惜しみ縁への感謝として、よき目標としてその人格を懐かしんだ。









街中では税官吏との接触は少ないが、若い官吏のトレーニングなのか、ときおり商店や法人事業所に調査に入るが、ことさら便宜を意図しない人の善い主人が昼飯の用意をしても、腹を減らした若い官吏でさえ丁重に断る。なにも手心を加えてほしいわけでもなく、「腹減ってるか」は、ごく普通の日本人の縁のなせる情だが、なかにはお茶さえ断る若者もいる。

新潟から出てきた若者が住み込み修行して独立、豆腐屋を営んでいた。人が寝静まったころ起きて冷水に手を入れ、仕込みをする。極寒なら難儀な仕事だ。儲けようと思えば豆乳に水を多く入れるが、とても食えたものではないと亭主は言う。

細かい税吏は大豆の量で豆腐の量を換算するがこの亭主には馴染まない。根掘り葉掘り質問するが、もとより亭主には説明責任などということは慣れていない、しどろもどろになると官吏は高飛車に問い詰める。

老いた女房はおろおろしながら買い物客を相手にしているが、官吏はお構いなしに亭主を引き留める。結果はなにがしかの追徴金を払い決着するが、面倒なので徴税に首を垂れる。医者でさえインフォームドコンセプト、つまり不明には親切に教えて処置の理由を伝えるが、税は言うもいわせぬ権力を振り回す。

税務大学校長だった安岡正明氏は若いころ東北の税務署長を経験した。洒脱な逸話だが、民情を察するためによく居酒屋に行った。もちろん身分を知る者はいないが、座敷の衝立の向こう側から男女の会話が聞こえてくる。いわくある女性と男のお手当の会話だった。
「このところ景気も悪くて税務署も厳しく、すこし負けてくれないか・・・」聴いているほうも衝立を隔てて吹き出しそうになった。税務署も使いようがある、と。

あのころは疑わしきは罰せずだったが、近ごろではノルマがあるのか疑わしいことを探すようになった。自己申告も国民の社会参加意識が希薄になったせいか、あるいは税の関する法が緻密を通りこして煩雑になったためか様々な場面で無理解が衝突する。それは投網をかけられた国民の側でなく、運用者側の現場に対する無理解と、委ねられている権力に対する意識が変質したようにも見える。税は国民のこの国への参加料だ。道路も歩けば交番では道案内もしてくれる.

だだ、面前の執行者に国民が税を添えて権力を負託した人間の意識が、単なる支配権力者のための官吏となり、そこに生活の意義や担保を見出している食い扶持官吏となると、国民、つまりタックスペイヤー(税を支払う側)からすれば不満が募る。さらに信用がなくなる。






山内たつお作


とくに標題に掲げた、警察の正義、税官吏の公平が衰えると政府の政策も届かなくなる憂慮だ。かといって、四角四面の硬直した運用もいただけない。
世情は生活安定を求めることに汲々としている。親は子供を公務員にと自然躍動の芽をつぶすことに邁進している。

公務員に人生観を問うものではないが、だだ、食い扶持安定のための担保としてその職を選択したなら、食い扶持の種である民の信頼を得なくては何の「公」なるか。

唯一の息抜きであろう狭い範囲の行動にも四角四面の法に括られ、組織に入ればコンプライアンス(法令順守)に縛られる。なんと愚かな自縛循環なのだろうか。
気が付いたら衰亡と亡国、世には「わかっているが、止められない」ことが多くなってきた。そして諦めつつある。光明を見出すのは些細なことだが、面前官吏の運用執行には自身に向けた問題意識を喚起することだ。

上しか見ないヒラメ上司を嘲る居酒屋談義よりもより良き人生があるはずだと、ゴマメですら歯ぎしりをしている。

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