まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あるインタビュー  08 1/27再

2024-05-21 23:07:04 | Weblog

 

 

 

━このお店を始められたのはどういうきっかけですか。


 僕はもともと建築が専門で、防音のショウルームでもつくろうと思ったんです。そこにピアノを置いて音楽を楽しめる場所にしたのが始まりです。店に来たお客さんを注意して見ているといろんなことに気が付きます。どんな人も世界の人口70億分の1の、人と異なるいいところをもっている。つまり個性と皆さんが言っているものです。

そういうことが分からないで、データ主義、あるいは官製学校歴(簡単に言うと中身のない学歴主義)の前提にある受験などで、思春期に当然、経験しなければならないことを順序良く体験していないと、手鏡を使って駅でいかがわしいことをしたり、お金をゲームのように扱ったりするようになってしまう。
そこで、今日はエスノペタゴジー、つまり土着的な教育についてお話したいと思います。

                 

            オスニー・ロル氏 ブラジルより

 

 

━エスノペタゴジー?

そう。勉強は何のためにするかというと、色・食・財を満足させ人生を謳歌するためという人が多いんじゃないかと思います。いい学校に入っていい会社に入れば、いい家を建てられて、きれいな奥さんがもらえるっていうことです。でも知識や技術や情報を取り入れた理屈で表現した情緒は薄いと感じる人はよくおりますね。
僕の言う学問は、守るべきものを護る、あるいは知識の積み重ねだけではなく、省くことも考えられる「活学」といわれるものです。  たとえば、今はなくしてしまった大切なもの、純粋なものを見て、それとわかるようになること。活学という学問は官製学校に対する、アンチアカデミックな教育学です。これがない人間教育というのは何の意味もありません。

国の作った制度と税を原資とした補助金、与えられた課題に疑問も抱かず、せっせと数値を獲得するために模範解答を記し、他人による無機質な選別によって人生さえ委ねてしまう官製の学歴ならぬ学校歴獲得に邁進する姿にこそ、問題意識を抱くことが必要ではないでしょうか。世の中のさまざまな煩いごとは人間の問題から発しています。ですから先の附属性価値獲得のような狭い目的意識を持つことなく、その現象を眺めるようなもう一つの境地、つまり無名に求めるのも必要な観点ではないでしょうか。

たとえば、江戸時代には、幼稚園の年頃の子どもから四書五経(中国の古典:論語や詩経など)の素読という勉強の仕方をずっとやってきたんです。いわゆる刷り込みのようですが、知識や技術の修得の前提となる本(もと)となる佳き習慣性を浸透させる学びのようなものです。四書五経というのは、音(オン)のよい文章だから、お経のように唱えることで、自然と身になってくる。刷り込まれたものは後になって、自分のなかによみがえってくるんです。 ことわざもそうですね。学校で教えない、年寄りからしか教わることができない知恵です。数値選別や利得に偏重するような学びの習慣性を基とした人間関係は社会そのものを劣化させますね。

煙突に2人の人が入って掃除をしました。出てきたとき、1人は真っ黒。1人は汚れていなかった。さて、顔を洗ったのはどっちでしょう?。真っ黒な人を見て、自分も真っ黒だと思った汚れてない方が洗ったんですよ。これはユダヤ民族の頓知(とんち)にあります。
テレビはこの方法で宣伝しています。今の人は宣伝に流されやすい。人の顔ばかり見て、自分の顔と勘違いしている。戦後の教育に欠けてしまったのは、よくよくこういうことをかみしめて理解するということですね。

明治維新をやった人達が学んだのは大学校ではありません。塾・藩校ですよ。
まげ結ってわらじを履いていた人たちが、維新から30数年後にはバルチック艦隊をやっつけるんだから、この国はなんだと思いますね。でもそこには海軍に秋山真之、陸軍には児玉源太郎という優れた参謀がいた。この2人はトリッキーなんです。直観力と頓知がすばらしい。これは文部省の作った官製学校歴の中では身につけることはできません。それこそ自己の内と外の体験や自然から感受して身に修めるものです。

世代を超え、それを活かして人から習うということですが、15年位前、東京都青少年問題協議会から依頼された原稿に、いずれ少子化の問題は起きてくるわけですから、廃校する学校の半分は老人が遊べる場所にして、子どもとの接点となる場所をつくりなさいと提言しました。子どもが一番バランスがいいのは年寄りと歩いている時なんです。速度も情緒もです。今だいぶ学校が開放されてきたようですが、役所は情緒を排除し、制度や時間、あるいは縦割りで人を管理しようとするから、現在でも実効性がいうのが薄いですね。これも人の問題です。

                          

  ハーピーハンコック氏とオスニー・メロ

 

━学校がお年寄りや障害のある人たちと日常的に交われる場所になると本当にいいですね。

自然の中で働いている漁師やお百姓さんは、時計の時間ではなくて自然の時に沿って働いていますよね。
僕は「漁師のつぶやき」という例え話をするのですが、いまどきのエリートが完璧な装備で海釣りに行った。案内する漁師は小学校しか出てないけれど、どこに魚が集まるかということを良く知っている。しかし、この日漁師は嵐の気配を感じて、沖に出ずに引き返そうという。漁師よりも天気予報を信頼している勉強家は、『そんなはずはない、金は払ったんだから船を沖へ向けろ』と携帯電話を片手に権利要求する。そこへドーンと嵐がやってくるという筋です。これは釣りの話だからいいようなものの、国家経営となったらどうですか。

本当に頭がいいというのは直観力があるということです。人間を観るときの直感力は観相学という学問にも通じていますが、「相」という字は、もとは木偏の上に目を置くというものです。高いところに登って見わたすと、360度見ることができるし、たどってきた過去の道を見ることもできるし、将来をも見通す「先見の明」です。首相・宰相というのは、本来そういう人のことをいうんですよ。

 

                       

                        「相」とは・・・・

                 

 

 

━直観力には、何か秘訣があるんですか。

 やっぱりムメイですよ。

━ムメイ?

 直接教えをいただいた中に、安岡正篤(まさひろ)という漢学者がいました。耳慣れないかもしれませんが頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)といって亡くなった人の徳をたたえる文章を添削していただいたときでした、

 先生の教えは『文章はうまい下手が問題ではない。君の真の気持ちが百年、二百年残ると思って書きなさい。もし百年たって、一人の人がそれを読んで、感銘を受けたらそのおかげで国が興きるかもしれない。国というのは一人によって興きるし、一人によって滅ぶ』ということです。

たとえば福祉を志している貴方の文章を見て、総理になる人が感銘をうけたら福祉政策はスムーズに行くじゃないですか。時代というのは変わるものだから、今に迎合した文章を書いて、大勢から褒めてもらうことは考えない方がいい。むしろ「無名」で人に添うことが大事なんだということです。

 地位、名誉、財力、学歴というのは大部分が人格とはなんら関係の無い附属性の価値です。附属性価値というのは、欲望に作用します。そういうものに支配されず、すなおに現象を感じ取れることが大事なんです。そういう人たちの存在こそが、まさに無名で社会に有力な深層の国力だとおもいます。

だから一度、経歴につながる苗字を抜いて名前だけで一人旅をしてごらん。社会の中の属性からはなれた自分として生きるというのは実にさわやかですよ。

 

                      

         秩父

 

 

━想像しただけで解放感があります。

コンゴ(ザイール)から来た青年が、来日まもなく私の店でコンボを叩いてくれたことがあります。コンゴは、ベルギー人の虐政はあり、内政も不安定という大変な国でした。そういう国から来た青年の叩き出すコンボの音を聞いていると、ライオンとかキリンが出てきそうな気配になった。つまり自然で素朴なんです。ニューヨークジャズにはドラッグの感じがあるよね。音楽も文章も、単に憧れで書くものと、身に沁みたものではぜんぜん違う。だから、いい文章や音に触れる、いい人間に触れるということが大切ですね。 

 

写真の一部は関係サイトより転載

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1 コメント

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おはようございます (はまさん)
2008-01-28 07:59:34


やっと お日様が

顔をだしてきました。

お話しを読んで

心が とても うれしいです。



毎日 少しずつ

読ませていただいています。



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