まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

碩学の伴侶   その一 「安岡正篤の妻」

2007-10-20 11:29:31 | 郷学

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、安岡正篤氏は旧姓は堀田姓、兄は高野山の管主で仏教美術に造詣の深い堀田真快氏で、正篤氏は16歳のときに土佐の安岡家に養子に入っている。

あの土佐日記で有名な紀貫之とも係縁の家柄でもある。
その時からいいなづけとして安岡の娘であった後の奥様と同居の身である。

その後は多くの関係書籍に譲るとして、その奥方とのエピソードだが、、どこの家庭にもある光景だが、長男正明氏らと食事中にテレビを観ていたときのこと、やにわに奥方が「食事中ぐらいテレビを消したらいかが・・」とスイッチを突然消したことがあった。

碩学と某省のキャリアだった長男は呆然としつつも、何も無かったように食事を続けていたとのこと。正明氏もその手のエピソードには事欠かない。
少年の頃、青雲の志を描いた愛読書漫画「冒険ダン吉」を庭で燃やされたことがある。氏はこの事件を吾がバイブルの焚書として記憶している。

父から直接教えられたことは無いが、興味を持って観察していたことは事実だった。とくに種々の来客者の多岐に亘ることが栄養になった。ある試験が通らなかったとき「試験は落ちるものかね」と父は呟いたと、これも親譲りの洒脱な呟きが印象的だったことを記憶している。

ちなみに正篤氏はいたって時代劇が好みである。また世俗の出来事の細事にも関心を持ちテレビはよく観ていたという。まさに下座観というものでも在ろう。


また、財界の招きで講演後宴席を囲んで気分よく帰宅した折、またもや「アナタのお弟子さんと称する人は世間では立派な肩書きや地位があるようですが、どうも下半身の始末が悪いようですね」と酔いも飛ぶようなつぶやきが襲った。

もちろん応えるすべも無く、苦笑いが精一杯だったという。

余話だが、これは後の奥方にエリートらしい悪戯と思われるエピソードだか、帝大の学校祭に同伴した折、自分らの催しがあると教場に尋ねると学生が皆教室で寝ていたという。黒板には「孝経」にある「身体髪膚、これを起床せず」と大書してあった。

つまり中国にもある漢文の文字遊びで「毀傷せず」を「起床せず」と変えて全員寝ていたのである。世俗にとっては野暮な児戯のようなものだが、深窓のエリートにとっては、ことのほか愉快な仕草だったろう。

気風だが、後年、言っても解らぬものに皮肉交じりの洒脱な言辞を発することがあった。これも黙っていればよいものをも思えるが、よくよく考えれば何時の日か理解できるだろうという可能性への優しさとも理解できる。

これは決して贔屓目に見ているのではない、ありがちな事である。
陛下の言辞にて恐縮ですが、入江侍従が亡くなった時、健啖家をさして「入江は食べすぎだった・・・」俗人はなかなか言えるものではない。考える力を「考力」と仮称すると特異なモノがあるのが解る。加えて小人には測りかねない゛せつない゛感情も芽生えたと想像する。

語る相手によってはヒンシュクをかう恐れがあるエピソードがある。

ある冷夏の年に「陛下、この頃は気候も涼しく過ごしやすいです・・」と侍従が申し上げた途端、視線を合わせず「東北は今年は冷害で大変だろう」と仰せになられた。このような応答は、なかには気分を害するものも居るだろうが、そんなことには心を向けない孤高で登覧した観点と境地がある。

気遣いと、洒脱、は真摯な責任感と潤いと観るべきだろう。また浮俗に虚無を感ずることでもあろう。

安岡氏に戻れば、16歳といえば思春期の盛り、いくら優秀でも養子の身ではさぞ息苦しかったとも推察するが、どっこい学生時代からの書籍出版の潤いは、料亭遊びから世俗の遊興に、その種には事欠かなかったようだ。ある時は困窮している人に小遣いや援助をしていたという。学生の身分ではナカナカ出来ることではない。

つまりこの様な座談と応答辞令の修行?は、人を観察する眸と行く末を逆賭する直観力を培い、後年、臨機の応答に正鵠を得た場面認識がその効を示している。それもこれも奥方の先見性のある観察眼?とサポートの為せる業でもあろう。

筆者も初対面にもかかわらず、長時間の応答のなか「君は無名かつ有力を旨とすることがいい」と、道の行く末を観られてしまった。それは齢を得て実感する言葉でもあった。

それゆえ、晩年世俗の口の端にのぼったことも、分かるような気がする。

想えば思春期に他家への結縁、何よりも世話焼きで、時には剛毅な理解者である妻の亡失は一時の潤いに心を任せることでもあっただろう。
義に対する滅我と、浮俗の附属性価値で人物を測らない気風は、ときとして脇が甘く観えるだろう。

普遍な情の為した結果の忖度は、懐かしくも蘇る情縁として今も記憶に残っている。

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