まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

受刑者にサン付けで戸惑う 府中刑務所 12 7/5 あの頃

2024-05-15 08:33:28 | Weblog

八嶋龍仙作    青森県弘前市在




あの大国魂神社や競馬場で有名な府中市は東洋一といわける威容を誇る?刑務所でも有名な場所だ。三億円事件の舞台となった刑務所の塀に沿う道路は東芝府中工場が隣接し、その広大な敷地を囲う施設は、さほどの興味を持たなければ内部の様子など知る由もない。

昔、八王子や府中近辺は甲州と江戸の境目にあたり、神社の祭りにはそれぞれの勢力が角突き合い、露店の売り物だった鎌や鍬などを喧嘩道具にして亡くなったものも少なくなかった。

また神社の掲額に和算が記されているほど農閑期には学問も盛んだった。ちなみに芦ノ湖からの導水建設も和算である。つまり斜面を上下から掘り進んで合致する計算である。ちなみに近鉄の生駒山トンネルは近代工法で行ったが合致点ではずれが有ったという。西洋方程式と和算は計算方法も異なるが、その慣性に馴染んだ発想も違うのは当然のこと。

「法」も「矩」とか「則」と記されるが、内包するものはまったく異なるのは古今東西の歴史でも明らかではある。いまは「法」が成文(文章)され、それををマニュアルにして、判例裁判や食い扶持としている法匪の群れに新たな社会悪を視るのは筆者だけではあるまい。受験による人間選別にあるごとく、人間を人格や長い目で見た歴史的有効性など賞罰の置く所が変わる「秤」の均衡さえ保たれなくなっている。府中は郷士も多くあの近藤勇もこの地の出身だ。体制の警護も風が変われば勤皇の志士を討った国賊である。










津軽


おもえば18歳からの司法ボランティアでは更生保護に関わる多くの行政関係者との縁があった。
たとえば中学生が不幸にして犯罪を犯すとまずは警察、次は家庭裁判所、不処分もあれば、問題があると思われると練馬の鑑別所、そして家裁での少年審判、そして法務省保護局の各都道府県にある観察所において観察官のもとで保護観察が行われる。

少年院などの施設と異なり在宅観察は社会内処遇として地域の保護司、あるいはBBS(ビックブラザー・ビックシスターである兄と姉の更生援護活動)によってグループワークが行われ、また更生保護女性会による更生を助ける啓蒙活動が行われ、代表的なものとして「社会を明るくする運動」が全国的に行われている。

私事だが、社会内処遇に伴う社会資源としてボランティアの活用が謳われた頃、よく保護局の依頼でテレビやラジオの生番組にコメンテーターとして招かれたが、聴き様によっては硬い題材のせいか、法務省としては二十代の方が周知宣伝として都合がよかったのだろう。最近の周知ポスターには若い女優を使っているが、一般社会からすれば非行少年や成人犯罪者など意識の外という観念のなかで、まさに徒労さえ感ずる活動だった。

これら更生保護関係者によっておこなわれる社会内処遇という再犯防止や更生援助から、その活動を周知する意味での保護司の秘匿的立場から積極的な周知啓蒙へと変化するにしたがって、近頃では学校、自治体、地域への活動として広がりをみせている。

一方、治安警察から送検され裁判で刑期が確定した人の自由を拘束する施設についてはその実情は明かされることはあまりないようだ。また入所者の人権もあるが、時折起こる官側の不祥事に内部の制限内公開の圧力もある。それゆえ施設内の責任についても新たな矯正教育や出所後の生活設計の指導など、きめ細やかな作業が進められてきた。

とくに応報刑のように不倫したら死刑、泥棒は手を切るような事とは違い、施設内教育刑ゆえに、肉体的労苦も少ない殖産のための勤労など社会から隔離された処遇は、人の内面の転化を促す方法としては内省を期待するほかはないようだ。

よく、網走や旭川は寒い、逆に南方は暑い、しかも週に二回の入浴ではどちらがいいか、まして犯罪別で入所先が決定するために当然なことだが自由選択もなく、遠隔地での長期刑は特殊な覚悟と諦観が必要になってくる。
なかなか裁判が結審しない未決(無罪の場合もある)は東京では小菅の東京拘置所に収監されるが、なかには二年も裁判が始まらないこともあり、判決確定しても長期の場合は全国各地の刑務所に移送されて長期収監される。最近多くなったのは老齢者の入所だ。








最近、独り暮らしの高齢者の生活保護が多い。なかには従順ならざる人物や天涯孤独でアパートを借りたくても保証人もいない老人がいる。
行政の施設は規則が厳しく歳をとっても好き勝手なこともできないと忌避しても、保証人もいないので旅館に入るが、アパートなら月割り家賃だが旅館は日割り、自由だが月に数万高い。それでも規則的なことや人に頼むことを、゛頭を下げる゛ことと考えている。筆者も少なからず頑固だと自任しているが、人に頭を下げるのが嫌なのではなく、そんな自分が情けない自責があるようだ。それが社会にリンクするとつい苦言がこぼれる。

よく「ひかれ者の小唄」とか「女房に負けるものかとバカが云い」と浮話があるが、雄の子の性は時おり刑務所の塀の上を歩くことも叶わず、塀を眺めて思案する脆弱さがあるようだ。ときおり思慮分別を忘れ無邪気な童心に望みを託すが、齢が邪魔する。なにも長寿のみを将来の糧だとは思わないが、つい解らねモノに届かない惜しい気持ちが残るのもそのせいだろう。

とくに官吏からの褒章にも縁遠く、かつシャイともおもえる反抗が見てとれる彼らの姿は、遠き童心に回帰したくとも、社会も素直には仕組まれてはいない。「好き好んで」とはその心情なのだろう。






浮俗の楽しみ



管理棟から入ってはじめに視た舎は老人病院のようだった。70歳を超えている老人がペットを並べてまさに動けない重度の様子だ。しかも長期刑だという。それも年々増えているという。以前筆者が担当した方だが、難聴で思い込みが強く隣室で悪口を言っていると妄想し、ドアを蹴って破損。その保護観察だったが病気になり福祉事務所と連絡を取り入院。毎月の面接は病院でおこなった。それから幾人か私より年かさの方を担当したが、更生援護より身体を心配することの方に重点が置かれた。

それをいくら刑期のある犯罪者だとしてもペットで排便の始末を行い、ときに便を壁にこすりつけたり、投げられたりする刑務官だが、いくら職住環境を同じくするものとして、あるいは職責だとしても、それは職分として介護専門職のさらなる助力が必要なことだ。

ました府中は多い時で約3000名弱の収容である。さまざまな障害や病気もある。だが医師も足りない。もちろん医療介護士も不足している。あの大岡越前と赤ひげ療養所のようにはうまくはいかないらしい。

洗濯物の整理、印刷、皮製品、自動車部品、などの作業工場、体育館や運動場、まさに工場と呼ぶような厨房、風呂場、隅々まで案内していただいたが、一般の人ではなかなか対応できないであろう様相である。とくに目立ったのは外国人と老人である。もちろん鮮やかな唐様の刺青を彫った稼業の世界の人もいるが、黙々とミシンを踏んだり病棟のおしめを丁寧にに畳んでいる。社会では女性の作業のようにみられるが、男だけの世界では軍隊の艦隊勤務のようで自助が養われる。

よく刑務所に行くと読書家になるという。また難しい話題も容易に話せるようになるというが、読書もそうだが緊張感と集中力を維持するには不謹慎だが格好の場所のようにも見える。炎天下に鎌をとっての雑草取りは都会育ちには苦しい。老若のコミ二ュケーションも大変だがここでは否応もない。雑居といって六人部屋もあるが荷物は所定のボストンバックが一つ。独居も同様、布団の上げ下ろしと整理整頓が決まりだ。

当然のことだがむかしの侠客は部屋住みといって挨拶応答、箸の上げ下ろしや買い物の手順、長幼の順まで厳しく教えられ、刑務所生活でも模範となるものも多かった。いくら社会で高名な親分でもここでは平等である。とくに喜ぶのは外国人だという。









永い期間、社会の状況が分からない懲役を負っている高齢者は大親分が同室になっても分からない。その親分も侠客として分別のつく人格者だと、高齢の服役者には礼儀正しく世話を焼いたり話し相手になっているという。世間に出ても一流の紳士として尊敬される人物だが、世相の「暴・・」で人くぐりするには惜しい人物もいる。

その環境は強制的矯正といっても、一方ではその矯正とは別に内面から湧き上がるような転化を援けるようなこともある。いくら法に定められたことから逸脱しても、あるいは法に随って刑期を経たとしても、もしくは寡黙な作業で交流がなくても、同時期に舎に棲み分けられ、互いに縁の微かなる中でも生まれるであろう共感は、生死の緊張と自由の拘束なればこそ残像は焼きつくように刻まれ、出所後の社会でも時折想起されるのだろう。

それを、懐かしむ時間、己を知る機会、それが己の蘇りとして時と存在の「分」を知る瞬間でもあるのだ。
「男子、三日会わねば刮目する」のである。変われる自分と、周囲の変化をみるのだ。まさに強制や拘束を伴わない人生の転生であろう。

とくに男の義理と人情とやせ我慢といっても一般人にも棲みづらくなった世の中で、いろいろな性(しょう)のやんごとなき情根を抱えて生きなければ通らない人生に、刑務所で経た刻(とき)のひとこまは、四角四面となってしまった人の行いの良否に活きることだろう。

つまり、自身を省く(はぶく)ことによって他人の受け入れの容量が増え、それは単純な許容量ではなく、節とか筋でも表現される道理という道徳の理(ことわり)への探究であり、成文法が絶体視されるような、息詰まるような世の中においても人情と情緒を心の矜持として人の縁を重ねられる、そんな自省自得、あるいは真の素行自得の機会でもあろう。

たしかに科目は殺人、強盗、詐欺、薬物、性犯罪、窃盗常習など様々のようだ。また刑期も短期から無期も刑務所にはある。だだ、切り口の異なる、あるいは甘ったるい考察かもしれないが、単純作業のなかでも知恵と工夫がみてとれる。皮細工の精密な型押し、印刷のレイアウト、自動車の塗装など独特な技量がある。また府中のコッペパンは殊のほか美味しい。豆の煮物にサラダも絶品だ。なによりも見入ってしまったのは陶芸だ。一心不乱に粘土をかたどっている。





乱れはここからはじまる


あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵も徒人を石川島に集めて殖産事業をしている。職を与えて、教え、褒める、それを当時の権力者である武士の仕事として行っている。縁あって武士となり、農民となり商人となるが、はじめは身分の責任と忠恕があった武士は汚職腐敗で堕落し、その風潮は子供たちにも感染してブランド品であるかんざしや刀の鍔を自慢しあい、罪人までにはならないが無職の遊び人(徒人)が増えて風紀も乱れた。
平蔵は強権を以て捕えたが、ときおり石川島に渡って徒人を励ました、つまり権力の励ましである。なによりも働くことの大切さを伝えたかったのだ。

今は横文字の研修や応対手法が流行だが、鬼平の人情味ある行為は今でも通用する治安役人の 姿でもある。また、今は役所の縦割り弊害なのか1人の罪人に矯正局管轄下の刑務所、少年院、保護局管轄の観察や就労支援があるが、施設教育を受けての更生準備、生活再建に向けた支援をスムーズにおこなう手立てとして、法務省内での矯正と保護の有効的協働あるいは、思いきって一つの局にまとめることも考えるべきだろう。

鬼平の頃はみな学問はなかった。勉強したければ僧職になるか、商人は寺子屋に通って読み書きソロバンを習った。今どきのように理科、算数、社会、国語などはなかったが、人がウブで素直だったし騙すものも少なかった。いまはウブで素直だけでは生きてはいけない世知辛い世上だ。

府中刑務所は約2800人、その入所者ある部分は、世間の流れに追いつけない、理解できない、あるいはウブで素直なために相手にもされない妙な世間に鬱積した純情があったのかもしれない。
そして本当の自分を探しているようにも察しられた。

ふと、そんなことを考えながらの帰途に想いだしたのは18の頃を訪問した千葉の養護施設で無邪気に遊ぶ子供たちだった。多くはコインロッカーに捨てられた子供たちだった。
施設の帰りに渡された「おかあさんへ」と書かれた手紙だった。もちろん宛所のないものだがその臨場の戸惑いは解決のないままに数十年の齢を重ねている。

どこか、己の中でそのときに戻ったような動揺が府中刑務所にはあった。

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