まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

対支二十一箇条要求をたどり観る 2009 12 再

2023-10-22 04:04:29 | Weblog

 

2021 4/13 日刊ゲンダイ連載で保坂正康氏が、対シ二十一カ条要求は大陸シナの植民地化と書いている。

以前、安岡正篤氏道系の埼玉県東松山にある郷学研修所で保坂氏とお目にかかったとき「国際問題研究所」の私冊子をお渡ししたことがある。それは当事者から直接、佐藤慎一郎氏が聴取した内容である。

泥沼化、日本軍部の横暴、北進から南進、政治の動向、いろいろ記載するも、その謀略企図や、それによる情勢の変化などは参考とされなかったようだ。国民党幹部の聴取もある中で、蒋緯国氏の記述もあるが、来日時には佐藤氏と自身の出生についての秘話など語り合っている。

また、氏の著書にもある孫文と山田兄弟の逸話は、山田純三郎氏子息の保管していた資料からの転用記述ではあるが、この資料は行動を共にした佐藤慎一郎氏の膨大な資料の一部子息に寄託されたものであり、多くの関係性や史実にある臨場事実を複合したものとしては不足感があるようだ。

今回の稿、袁世凱に宛てた二十一カ条要求についても、同様なことが散見する。

 

    秋山真之

 

本章

袁世凱政権にむけた対支二十一か条要求というものがある。いまでも国辱として中国の歴史認識に刻まれている。
もう一つ孫文と交わした日中盟約というものがある。アメリカの公文書館で発見されたものだが、その署名孫文と側近陳基美、日本側は満鉄理事の犬塚信太郎と山田純三郎である。また起草は外務省の小池張造と秋山真之があたっている

その模様は以前NHKのドキュメントでも紹介されているが、その内容は日本政府が袁世凱に突きつけた要求と極似している。

この署名がされた場所は頭山満が孫文の隠れ屋として用意した隣家であるカイヅマ邸の奥座敷である。そこは頭山邸を通らなければ入れない処ではあるが、当時の官警は分刻みで事細かに監視している。

その状況は、まず山田が呼ばれ、次に陳基美が入室する。盟約本文は山田が持参している。
そこで孫文、陳基美が連署、そして山田が署名し後刻別の場所で犬塚が署名している。ドキュメントにはその時系列はないが筆者はそう見る。






北一輝 陳基美(右端)



なるほどと思うのは、先ず山田が呼ばれ次に陳が入る。署名後、今度は陳が先に退出し、暫くして山田が退出する。通常、そのような重要事案なら先ず国籍をともにした陳が入り、そこに山田が呼ばれ署名し、その後陳が退出するのが自然だろう。

その陳基美だが上海の山田の家で袁世凱の刺客に撃たれ亡くなっている。
《その家は世界中の華僑から送られてくる援助金や武器弾薬を受け入れるようになっている。もちろん責任者は山田だ。それを都度乳母車などに革命党に運び込んでいる。そのとき山田は二階にいた。突然の発砲で階下に降りると陳は袁世凱の刺客に襲われ撃たれた。抱えていた民子を床に落としてしまった。それ以来民子は不具(身障)になってしまった。ちなみに山田の子供は民子と国子、つまり民国だ》    
佐藤慎一郎  談

下世話な話だが彼の国は同民族を信用していないのか、それとも「実利」については民族を問わず選択肢は、゛今、必要とする゛ものなのか。

あの満州皇帝の溥儀は工藤鉄三郎を皇帝秘書長としている。関東軍への盾なのか工藤も公私にわたって溥儀に仕えている。










工藤は津軽の板柳に生家が現存している。青年期に志を立て樺太に渡り結氷をまって徒歩でロシアに渡っている。司馬遼太郎の「北のまほろば」にある十三湖の安東水軍は、今と違い日本海側が表日本だったころ大陸と盛んに交易をしている。津軽は進取の志を持つ独特の人間をつくるようだ。

その工藤は甘粛省まで行き、しかも同様なことを再度試みている。
溥儀との端緒は食事のときに毒を盛られているかと躊躇していたとき、工藤は一番先に手を付けて平然として食した。溥儀は感心して「忠」という名をつけている。つまり工藤忠である。甘粕が迎えに来るといったら「あの、人殺しが・・」と頑として動かなかったが工藤は容易にできた。  (佐藤慎一郎氏 工藤との録音記録)

だからといって、あの忌み嫌った関東軍と同族日本人を最も重要な位置に付けるだろうか。そう思うのがもまた日本風である。
フビライも北京で見つけた色目人(異民族)の耶律楚材を宰相に就けている。

たしかに異能だろう。また幕末維新もそのような異国人がオブザーバーに就いたが、中枢の側近には付けられない独特の「陋」というものがあった。

山田の兄良政は恵洲の戦闘で亡くなっている。しかも当時は外国人だったら助命されたものを、あくまで「中国人」と言い張って斬首されている。果たしてそのような気風は日本人だけなのだろうか。










資金も武器もみな上海の山田を経由している。戦後、蒋介石は満州の国内財物の処理を全て山田に委ねている。もともと財利に鷹揚な山田のこと、財閥、軍官吏、浪人の詐欺的搾取にあいうやむやになってしまったが、革命の先輩である山田を蒋介石は問い詰めてはいない。ただ、孫さんの指令で満州問題に行ったときのことを、「そろそろ話してもいいだろう」と呟くと蒋介石は「そうしたらいい」と全幅の信頼を寄せている。









戦後、訪台した国会議員が大陸帰還の礼を述べると「それは君たちの先輩に向けたほうがいい」と中国革命に挺身した日本人を民族の歴史に刻むように促している。

満州問題とは孫文が唯一日本政府に歓迎された鉄道全権で訪日した際、東京駅の喫煙室で桂太郎と会談した内容の遵守であった。
「・・・満州を日本の手でパラダイスにして欲しい、そしてロシアの南下を抑えて欲しい。時が許せば、シナと日本は国境を撤廃してでも協力していきたい・・・」

ロシア革命の領袖ゲルショニとの会談では
「シナの革命が成就したらロシアの革命に協力して欲しい」というゲルショニには頑なに断っている。「われ、万里の長城以北は関知せず」との信念である。それは数百年に亙った清朝満州族を万里の長城以北に駆逐して漢民族国家をつくるという革命本来の目的があったからだろう。

一次革命成功の宣言にはその勢力圏を長城以北にまで言及しているが、このとき孫文はハワイに滞在して関知していない(山田談)。これをペテンと称し、かつロシアと結ぶことを裏切りというが、ロシアに向かわせたのは孫文を相手にもしなかった当時の日本である。









                

                  アヘン戦争




そして日本と協力して白人の植民地に喘ぐアジアの民を救うという大経綸があった。そこに日本朝野の志士達が協力を惜しまなかったのである。
もちろん、あの秋山真之もその一人だ。山田の「国おもうこと国賊」と題する論文に秋山将軍のことが記されている。

「戦争の後、秋山将軍は神かかって虚ろだったと人はいうが・・・」、戦争の美酒に酔う国内よりまだやり残していることがある、ということだ。
東郷さんでさえ明治神宮の参道を頭を垂れて歩いていた、世間は凱旋将軍のようではないというが、児玉も間もなく亡くなっている。








戦争はまさに天運というべき辛勝であった。数多の兵も亡くなっている。浮かれる軍部と民衆の行く末を彼等は見据えていた。秋山はこの勝利をきっかけとしてアジアの諸民族に勇気を湧かせて植民地の頚木を自らが取り去る自助の心を持ってもらいたかった。
その端緒が中国革命の成就によって虎視眈々と狙っている西洋列強の盾と願っていた。
それゆえ巷の官位褒章を願う処世のものからすれば、理解しがたい人物に見えたのだろう。

中国人にこう云われた事がある。
<日露戦争ではなく「亜細亜解放戦争」とすればよかった。皇国の興廃・・は、亜細亜の興廃は此の一戦にあり日本海軍はその目的のために・・・、そのほうが日本にとっても近隣にとっても実利になったはずだ。四角四面の軍人はともかく、そういう智者がいなかった。まことに惜しいことだ。>

つまり、日本は対ロシア戦争を日露戦争と呼んでいるが、秋山氏は白人の植民地政策に喘ぐ亜細亜民族のアジア解放戦争と考えていた。単なる日本防衛ではないということだ。
乃木も朝鮮の子供に「他国の軍隊がこの地で戦うことは忍びないことだ・・」との意を語っている。
今でもそうだろうが、資源や宗教や行きがかりの戦争が絶えないが、縁も微かな人々が命令によって殺し合いをした果てが勝者としての美酒を交わすだけでは平和とはいえない。

平和はpeaceというが、本来は力の強いものが弱いものを平定することを指していう言葉だ。中国ではこれを「和平」という。平和とは戦争と戦争の一時の間(あいだ)を言うのである。本来は未来永劫「安寧」「太平」だろう。これは文字解釈をいうのではない。その真意を理解する人間達の行為だからだ。つまり彼等はVサインではなく敗者に対する哀悼と民族への忠恕だったからこそ、当時のアジアは日本を光明として倣ったのだ。
余談だが、カンボジアのPKOの隊員がバスの窓からカンボジアの人々に向かってV
サインをしていたが、乃木や秋山、児玉はなに思うだろうか。

日中盟約はその日本人の連携が帝位を窺った袁世凱政権に向けられたのである。それゆえ、あのメンバーだった。現代中国人識者でさえ「孫文を考え直さなければ」というが、何おかいわんやである。付け加えれば袁世凱も人物だった。氏の詠んだ漢詩は日本人がみても胸を打つ素晴らしいものだ。彼も愛国者だった。







解放を謳った共産党ですら専制独裁を描いたように、砂にたとえられるように纏まりのない民俗、あるいは特徴ある性癖を読み取る為政者は一極専制しかこの国をまとめられない、と考えるだろう。民族独特の力の論理は「力こそ善」であり、良し悪しはその後の問題と考え、また力や自然に対する諦観は各々独自の世界観を有している。いくら複雑要因を以って構成されている「国」といえど、連帯と帰属性がなければ意味が無い。

ただ、首領にふさわしい、゛らしさ゛はある。袁、孫、毛、もそれらしいものがある。それは後の縁や能力という人爵、でなく天運を宿命的に保持する天爵のようなものだ。
人々は、゛それらしい゛人物を推戴する。継承皇帝ではないので尚更なことである。

山田、小池、秋山、犬塚、夫々立場は異なるが中国革命の領袖孫文と一体になった行動があった。犬養、頭山、宮崎、萱野、末長もそうだ。
孫文は大法螺吹きでペテン師、浪費家で女好きという評がある。ネガティブな証憑ではない、その通りだろう。ならば秋山も山田も頭山も騙されたオッチョコチョイだったのか・・・
それとも小説という嘘実読み物である「坂の上の雲」ではあるが、孫文にだまされた愚者のような登場人物を描いたものなのか。



             



革命家や歴史上の英傑は大法螺吹きといわれている。後藤は大風呂敷だった。騙されたほうはペテン師というが一方は戦略家だ。ただ負けるが勝ちの時間軸が永いかどうかの問題だ。勝たせて、奢らせて、弛緩させて、為替を操作したり外来のルールを歓迎する国は戦わずして軍門に下る。これこそペテンを知らぬ輩ではないか。浪費家、女好き、応答するに馴染まないことだ。

ただ、あの頃の人物はアジアに普遍な目標を描くことのできた柔軟なグランドを闊達に動いていた。家計のごとく国家の財布を按配するような男子とは違い、豊かな識見を涵養し、異民族だろうがその経綸に賛同する実直さがあった。データーや情報に惑わされず意志を発信する精神と肉体的衝撃を超越する「他」への安寧の希求があった。

それはノスタルジック、センチメンタル、懐古趣味、という部類ではない。人間を知り民族を知るとき普遍な姿として孫文的(的 のような)人物の再復が実利的国家経営にも必然とされるだろう。ことさら孫文を誇張するものではない。己が異民族にも普遍な意志をもち、他の文明圏との調和を描ければ自身もその「的」にも当るだろう。

もちろん大ホラ、ペテン、女好き、浪費家の評を恐れず、浮俗と異なる世の中を俯瞰して経綸をたてるような、異なることを恐れないなら、その任は自ずと吾が身にある。

どうだろうか、潜在する良心に懸けてみては・・・

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