ことは人間の問題である
あの佐藤栄作首相は施政方針演説で間違いのないように目を凝らして読む箇所があった。
「そもそも政治は人間の問題から発して・・」
それは吉田学校の優等生が、その校長である吉田茂氏から言い含められたであろう、
「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」という魏の文帝の言葉の教訓である。
楠田秘書官によれば施政方針演説の草稿が出来上がると、佐藤は「安岡先生に御覧に入れるように」と促がされるのが通例だった。
そして安岡正篤氏は決まって人間云々を挿入した。つまり、いくら官制学歴を得ても愚か者はいる、金があっても遣い方を知らないものもいる。その問題をリーダーの人格に求めたのである。それを外せば幾ら高邁な理屈やコンサルタントに委ねた政策でも実にならない、継続性、関連性、つまり統合性がない掛け声になってしまう危惧だ。
清朝末の哲人、梁巨川の「一読書人の節操」に景嘉はこう記している。
「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか」
景嘉は在日にして易経の大家である。もちろん安岡正篤、佐藤慎一郎両氏も親交がある。加えれば、易経については両氏も教えを請う立場である。
中国生活二十余年、漢籍古典がすらすらと北京語で湧き出る佐藤も「いや、易経は難解だ」と難渋していた。スマシ気味の安岡氏とて了知には至ってはいない。
易経といっても占いではない。
「易」はトカゲの象形文字、季節によっては色も変化する。その意味ではつかみどころが無いが、西洋学の整理、合理からすれば亡羊の感がある東洋にも定理がある、といえば幾らか分かるだろう。到達点がハルマゲドンと永久循環とも考える。
あるいは量子力学の大家、ハイゼンベルグは部分の集合が全体を表さない、それを融合させるものがなくてはならない、と東洋の哲理に目を向けている。アインシュタインもそうだった。既存の西洋の学会は彼らを異端視さえした。
どうも、「人間」の探求は彼らの言う合理には馴染まないことを分かっていたようだ。
安岡氏は古今東西の学派に造詣が深いが「西洋学に没頭するとノイローゼなりそうだ。東洋に戻ると味わいがあり心が落ち着く」と回顧していた。
「ネ」「申」は神 示すは行動、申すは語り、「神」は己の心に在り
「玄宮」奥深い潜在する心
佐藤氏は「人情」の問題だと、いとも容易に説く。
津軽で生まれ、寝小便が直らなかった幼少期に家出してベコ(牛)と戯れ自然に抱かれ、長じて旅順小学校の教師として子供と戯れ、妙なことから死刑判決を受けて自らの墓穴をスコップで掘りながらでも悠々としていた氏のたどりついたのは、その「人情」だった。
「人情は国法より重し」氏の銘でもある。
人が自然に語りだす、思わぬところで助けられる、それは功利を超えたところにある人情の在り処を自得していることに他ならない。その集合と離散、調和と連帯、それはまるで部分の検証、整理統合の学派、加え複雑な要因を以って構成されている社会や国家の考察においても有用な「人情」から読み解く科学的な人間考学でもあろう。
民情、民風、その動きや吹き回しが政治や社会構成の考察や将来観に、重要な位置を占めていると解るのも指導者の素養だとは古来から言われてきた。
いまは恣意的な数値アンケートや情報が主流だが、これもハイゼンベルグが煩悶した数値では解けない問題でもある。
しかし、先に書いた人間考学的な考察がなくなって久しい。「人間考学」は筆者の造語だが、機械工学は別として、量子力学でもあるとおり、「解けないものを眺める」「熟成を待つ」、あるいは「そうゆうものだ」と考えるのも一妙である。解けない恐怖から逃避する自己愛とも見えるが、人間の関係性、それを拡大した社会や国家、異民族との関係などは、まずはその心地を理解できる部分の協調が始めとなるようだ。
訪れる人もなく、まさか忘れてはいないと思うが
以前「潜在するものを観る」と題して講義したことがある。
要は、洋楽と唐学(漢学)の間におかれた我国の情緒が、良質のバーバリズム(自然性、野蛮性)を失くして恣意的といわれる勝手気ままな解釈で文明論を語り、倣い慣れると、その内に吾が身の存在や社会の求めるべき方向まで分からなくなった。
また、その文明が土産として持ってきたものがある。これまた己の勝手な解釈の中には有っても、己と相手との関係になると競争と軋轢さえ生むスローガンである。あえて自由、平等、民主、人権が塗されると、どうしていいか皆目分からなくなり、諸事の解決の糸口もつかなくなってくる。つまり「人情」が薄くなり、人心が微かになるようだ。
これでは不自由、不公平、エゴ、差別感を助長させるごとく、毒も使う人間によって良薬になるが、劇薬にもなる。政治政策も執行役のサジ加減で繁栄もあり、腐敗堕落も起きる。
それを混沌(カオス)といい、ビックバンとも西洋では言う。
それを更生するために東洋の指導者は民情においては道徳喚起、行政では綱紀粛正、つまり「制」を自制と権力による他制に分別して、自らも清廉によって「信」を得たのである。
それは゛「人間」をつねに問い続け、その尊厳を毀損しないよう慎重な政の姿である。
じつは、津軽弘前も維新の混乱と凶作が襲ったとき「人間がおるじゃないか」と喝破した菊池九郎という人物がいる。
佐藤慎一郎氏は懐古する。
いつも蚊帳で一緒だった。寝小便たれても怒ることはなかった。維新の混乱のなか東奥義塾を創って英語教育をした。青年の頃、西郷に憧れ鹿児島に留学した。伯父の山田兄弟も親戚だった伯父に学んだ。陸羯南や後藤新平も伯父には心酔した。
菊池九郎
彼らは人を見抜く目があった。山田は孫文に随い兄は戦闘で亡くなり、弟は終生側近だった。あの秋山真之将軍も伯父さんの影響で孫文に協力している。羯南は正岡子規を育てた。それがなかったら俳句などない。後藤さんは孫文の理解者だった。台湾にも貢献し、満鉄も立派な経営をした。東京の基礎も造っている。菊池九郎は東北の西郷といわれるくらい人材が育った。
みな人間を知っていた。何を基準にみて、どこを活かすかだ。
満州崩壊で帝大出の官吏や軍人は開拓民を棄てて逃げた。点取り学の典型だ。羯南も秋山さんも南方熊楠もバカバカしくなってみな辞めた。残ったのが食い扶持官吏と軍人だ。あの安岡さんだって授業がつまらなくて、いつも図書館にいた。
つまり「人間」を育てるところではなかった。それが政治家や裁判官や官吏になったら滅ぶのは明らかだった。維新の功労者はみな塾や藩校だ。
人間そのものを育てる学問が欲しい
いまは知識でも「識」という道理がない。知だけだ。
みな、どんな弱く小さくても無駄には生きていない、そんな人間の大切さを知っていた。
孫文と山田兄弟 木村ヨシ作
今、その津軽も人を得たようだ。ひしひしと熱気が伝わる。それも歴史の薫りを添えて漂ってくる。きっと各々が刮目したのかもしれない。そして歴史の人物に倣い躍動するに違いない。先人は思想、宗教、民族を超えて「人間」を信じて付き随った。国境を越えて日本人の矜持を津軽魂で突破した。いまも異民族からも多くの感謝が添えられている。
遠くを見て耳を飛ばし、そして率先する。
それが人間の善なる能力と威厳だと古人は教える。
津軽の一声は隆々としてアジアに広がる気配がする。なぜなら、一党一派を超然としてその資格と責務があることを分かりかけてきたのだ。
それは独立した津軽立国の気概に満ち溢れている。
また中央に追従することではなく、魁となる勇気を郷土の歴史と教育を再び掘り起こした。それができるのも、人間として生きることを勇気を持って行える喜び、それが名山の元に棲むものの幸せだと再確認したからに他ならない。
2011/6
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