まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」 聞くか、聞かんかは、我が知るところなし 2022再

2024-08-31 07:57:15 | Weblog

 

要は、口は軽くても、重くても問題ではない、信と実の忠恕の気概がなくては詭弁でしかない。

写真は関連サイトより転載
2011  再掲載

筆者は御懇嘱をいただく諸分野での講話で、「やりたい事より、やるべきこと」と伝えます。

それは70数億人の地球人が存在する中で、2人として同じ特徴(特質)はないが、多くは他人と異なることを恐れ、情報なるものに翻弄され己の特徴を埋没させている。

成長は特徴を自身で発見して伸ばす、もしグランドが狭ければ、たとえ孤独でも広い世界に進出して天与の特徴を伸ばす、それが、為すべきこと、やるべきことだと一考拙意を伝える。

ときに「狂」の境地と他は嘲るが、内心を探れば似たものと勝手に察している。

それゆえ小楠のように、ハナシではなく語る。(吾を言う)

また先師に倣って駄賃は遠慮する。懐中ねじ込まれれば依頼人の呑みシロか学生ならコンパなるもので消える。

いくら小楠や海舟が来るから駄賃持って聞きに来いと言われても、いくら少しは利口になるといっても、バナナ売りの口上の方が気分は舞う。

金など差し出そうものなら腕は切られても文句は言えまい。つまり了見違いだが、それが「狂」なる小楠の矜持でもあろう。

☆ 「狂」は陽明学のある行き着く境地。アップルのジョブス氏もその気概を述べている。

 

智将 秋山真之氏も戦後、戦勝に浮かれた将軍達からは、おかしくなったと言われた。兄は故郷松山の小学校の校長、真之は孫文の辛亥革命を俠助  地位名誉に囚われない。

世間はこの生き方を変わり者という。言い募った群れは昭和20年の結果を招いた。

 

 

標記は、勝海舟が怖い人物の一人としてあげた横井小南の言葉を、天皇の側近であった元田永孚が聞き書きしたものである。海舟のいう恐ろしい人物のもう一人は西郷である。

「私は誠意を尽くし、道理を明らかにして言うべきことを言うだけである。相手が聞かないだろう(分からないだろう)とおもっていては、その人(人物、機会)を失ってしまう。だが、聞きたくないというのを無理に強いると、言うことが無駄になってしまう。相手が聴こうと聞くまいと、我は言うべきことを言うまでである」

「将来を考えるにあたっては、成功するかしないかは、ただ言動を正直にして、世の中に阿(おもね)ないことだ。道理さえ立てていれば将来の子孫にも志操は遺る(のこる)ものだ。そのほかに言うことは無い」    ・・・阿る(迎合)

安岡正篤氏はその小楠の姿勢を至誠への「道」として度々論じている。
ここで大切なのは、「誠意」とか「道理」とか「正直」、「志操」、「将来」、という文字をどう考えるかということだ。加えてその関係性や実効性と養い方の問題である。

教えを請う総理たちにも論語をひいてこう訓導している。
温、良、恭、倹、譲、これを以って施政をおこなうことが肝要

※ 各文字は漢辞典の参照を請う

あの福田総理には「任怨分謗」(怨みは吾身で受け、謗り(そしり、非難)は他に転嫁しない)を伝え、宰相のあるべき姿を説いている。

これらは、いくら試験勉強をしたり、暗記術に長けていても、もともと官制学カリキュラムにもなく、遭遇といってよいほどの機会がなければ知ることも、その必要もない教養である。

ましてや漢字を知っていても読めたとしても、習慣化、肉体化するためには別の修練と、覚悟の目標を立てる機会が必要となってくる。あるいは、それ以前に宿命感に堕してしまうと理解の淵にも届かない。

だが、その機会の遭遇はいたるところにある。浮俗の生活や、仲間、師の縁からも吸収できるものだが、往々にして部分検証のみを論の根拠としたり、観察座標の定まらない己との観照(本質を見る)は、歴史の俯瞰、将来の先見、己の身の置き所さえ難しくさせている。

小楠は己の潜在する能力を探り、確証と覚悟を言論の座標として名利褒賞を敢えて忌避した。その人格の矜持は言論の背景として人々を驚嘆させ、あの海舟をもって畏怖の念を抱かせた。それは、西郷隆盛、吉田松陰らの共感と、それに連なる志士達にも伝播して行動を喚起している。



                  
                言うべきことは、云う  後藤田正晴


 
人を得ないのか、機会を逃しているのか、あるいは感応しないのか、それは頭と手足が連動していないのかと不思議なおもいに駆られる。

聞くか、聞かんかは、我知ることなし


あの当時は意見出版もなければ、著作に権利もなかった。良ければみなで活かして欲しいと願っていた。商売人が挨拶代わりに使うこともなかった。何よりも小楠の意志を理解する人々の教養が今より高かった。

当世では「解らん、意味ない!」と言われるような言辞だが、無学で古臭い筆者にとっては、多くの示唆を与えてくれる一章でもある。

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「教員の待遇を良くして給料を上げよ」と、北野たけしさんは言うが・・ 15 8/8 再

2024-08-29 02:45:46 | Weblog

北野 武さん

 

2024   8/28  東京新聞

 

 


≪3/10  また教員が頭を下げている。≫


筆者がガキの頃、毎月爺さんと浅草に行った。本堂の足場が架かっていた頃だが、普段は教えもしなかった爺さんは「あの瓦の裏には名前が書いてある」とぼそぼそ語っていた。どこに行くのも、いつも、゛なっぱ服゛を着ていたせいか、本堂から六区に行く途中の路地の呑み屋で一杯入れていくが、店の婆さんが『税金の都合でお銚子一本になっているんで・・』と、浅草でも着なりをみるのかと不思議になった。爺さんは孫の前で恥かしそうだったが、余分にスズメという串刺しの小魚をたのんでくれた。

六区では石井きん、大江美智子、浅香光代、大宮デンスケの人気者が看板を掛けていたが、総なめした。そのうち明治座で曾我廼家五郎八まで連れて行ってくれた。ロック座があったようだが、爺さんは早足で劇場側を歩いて見せないようにしていた。大人になってから寄席に行って三平を聴いた。新国劇も島田正吾や辰巳柳太郎が渋く格好良かった。妙な縁て鎌倉の別邸の改築に一カ月泊って朝の地引網を愉しんだ。

当時は東上線もイモ電車といわれ、埼玉の年寄りが油を塗ってある床に新聞紙を敷いて酒盛りしていた。熱海か伊東、成田山が相場だ。上板も進駐軍の引っ込み線があり秩父のセメント貨車や薪や墨俵も運んでいた頃だ。池袋からはトロリーバスで雷門まで一時間ほどかかった。まだ武さんも足立で頑張っていた頃だ。

筆者も見上げる大人が視界を遮っていた頃だが、境内のバナナの叩き売り口上やガマの油売りが見えないので、爺さんは肩車をしてくれた。「裏も表もバナナだよ」と、いま思えば滑稽だが、新聞紙にくるむとオッチョコチョイは財布を出す。ガマは武士の衣装で何故か猿が付き添って?いる。刀で腕を切り付け油を塗ると傷がない。肩車から大人の姿をみていると、首を出したりひっこめたり、頷いたり、手を叩いたり、この興奮は寅さんに引き継がれた。

当時の役者や露店の縁者は、真剣だった。相方もそうだが、客も真剣だった。想いだせばバカバカしいが記憶が鮮明だ。相対の面白さがなくなったというが、これはテレビやネットのせいでもない、人間の厚みと許容が乏しくなったのだろう。とくにデン助や均さんの面白さは、懐かしさだけではなく、江戸の悪所と云われたエンコ(浅草)に集まる当時の善人が醸し出す風があったようだ。ヤクザも芸人も吉原のやり手婆さんや女郎まで、当時はまともだった。そのまともが悪をやり、笑いをやり、春を売っていた。そして゛まとも゛には物わかりよく付き合い扱った。たが、゛まとも゛でないものにはきつかった。

             

    物わかりのいい親父 勝海舟

 

週刊ポストの北野たけしさんのコラムで書いている、いや、゛云っている゛
彼の商業出版の多くはしゃべりの文章化のようにみえるが、ノッているときは前後のまとまりがあるが、ときおり俗っぽい風があるときがある。
金に困った、女がばれそうだ、朝まで飲んだ、人並みな男はそれに影響される。

たけしファンに合わせて易しく(人を憂う、優しくではなく)書こうとすれば、ひら仮名を駆使して行間を空け、短い句読点でまとめると、これまたよく売れる。難点はもっと易くしようとすると読者の層は増えるが、一過性の記憶として流されるような羊のような群れを作り、作者としてはより世俗に迎合した突飛な解釈と表現が求められるようになる。

ときおり難解な表現や能力を見せれば、賞味期限のラベル張替え可能だが、仮借した下座観は、古典落語の重鎮が真っ赤なキャデラックに乗って金鎖をしているようなもので、お昇りの江戸っ子風な、野暮風袋を被るようになる。







林家三平 さん





三遊亭園朝  

落語も口が良く回ることが、頭が良いと思わせる。先代の三平さんとてカタギが呑み席でもしない愚かを芸として騒ぎ魅せることに、カタギはさも有りなんと溜飲を下げるが、所詮は下卑たこととして嗤っているのだ。あの世界では大御所だが、この手の嗤いは、笑ではない。通人ぶった客は三平さんを、あそこまで出来るのは余程の人格者だと想像する。どちらに転んでも木戸銭は入ってくる。
あの人情家の三平さんが人情噺に取り組んだら、園朝なみだと筆者は思う

近ごろでは子供のやんちゃがイジメになる時世だが、大人が人前でやると観客は面白がる。熱湯ならぬ温水を熱湯らしく演技して飛び込ませたり、若き女性に時間内の着替えをさせたり、滑ったり転んだりするのを見て笑う。まだ六区のドタバタ喜劇の方が、品がある。
わざと池に落とした帽子を裸になって取りに行かせたり、向こう岸まで泳げと囃したてた中学生の事件も多いが、それと何ら変わることはない。

いくら遊惰な浮俗でも人前で演技として見る番組が増えたが、この傾向を金もうけの手段とする一方もあれば、他方、惰性ながらテレビをつければ否応なしに飛び組む風潮に嫌気がさしてきているという。近ごろのテレビは・・・・、の類だ。
かといって、視なければいいのだが生活慣性となっているためか、音と絵の変化が傍にあるだけで安心する現代人の姿もある。

どこか、子供をとりまく状況と逃避すらできない世俗の感性は、問題意識の喚起として良く似ている状況だ。安物の番組は企業の景気にもあるというが、雛壇で騒ぐ番組にそうそう宣伝費を出すことも憚るだろう。だからと言って低俗に合わせた低能の番組を生産しても、決して積み重ねることのできる情緒の涵養にはならない。

あのたけしさんのお母さんの逸話や生まれ育った足立区の憧憬は、別物への脱出を描かせた。貧乏や子沢山、親父の機嫌、母の剛毅、今では語るみのとなっているが当時はまだいい方だ。これを苦労とは言わない。
だだ、食い物も着成りも行儀良くては暮らせない。あるのは野暮か粋だが金を持たせればすぐに判る。いくら稼いでも実直な苦労人の親がボロを着ていればロールスロイスは乗らない。親は子供に魅せたのだ。いわんやそんな世界では見栄をはってもたかが知れている。せいぜい座りのよい床の間の蛙石だ






ゲームセンターの開店を待つ生徒  弘前



だからと言って待遇を良くすればその気分(遊惰慣性)が整うとは限らない。もともとそれを売り物にして成功価値を企図して、あえて照れがあるのか成金を装っているが、その浮俗の影響力は、真面目から不真面目に転化させることもできる力がある。とくに今はそうだ。
それらに勲章や教授資格や食い扶持担保や生涯賃金を保障したら、演技は変わるのだろうか。粋と野暮と書いたが、野暮が頑張って粋がるから野暮になるのだ。
粋はとこかでかた(形・型)をとることがある。辛抱ややせ我慢だが、エエカッコシイとは違う。

標題だが、子供の苛めなどの教育問題は教師の給料を良くして待遇を上げれば良くなると、たけしさんは言う。

田中角栄総理も教科書を無償配布にしたら教科書を大切にしなくなったと嘆く。

教育は大切だからと教師の給与を特別優遇したら、尊敬され慕われた教師が、教員、労働者と自称する様になった。ついでにゆとり教育で銀行、公務員と一緒に週休二日にして、なお且つ研究日と称して、終いには、たけしさんの頃に習った教師の勤務時間から比べれば半分近くになった

むかし話だが、結婚式の主賓は担任教師、医師、駐在のお巡りさんなどだった。

今は余程のことがなければ招待されない方たちだ。

故事に「経師 遭い易く、人師 偶い難し」とある。

経師は教科書の説明、人師は人間の師となる人物だ。昔でもなかなか偶い難い人物だった。

登校拒否 数十万人。親が悪い、学校が悪い、だが卒業したら人ごとのように忘れる。

授業担当時間を少なくして、給料を上げれば解決すると思うのだろうか。

果たして数値選別で学校歴があれば人格者が増え社会も整い国が豊かになるのだろうか。

教員の待遇は、あくまで公務員に就労環境と手取り賃金の問題だが、その成果に利する予測展望もなく、待遇のみを問題視する屋上論議に、眼前の問題解決もなく、さほど変わることのないであろう将来を想像するのである。



芸能人と似ているのは二世が多いことだ。目のうるさいところは遠慮しているが、教員の子は教員、公務員の子は公務員。しかも試験もせず臨時採用から本採用も地方では多い。
もちろん政治家、警察官などはその範となる。いま騒いでいる安保法案ではないが、国内では安定賃金、身分保障、生涯賃金の保障、国費を過負担した年金など、その連中には国民とは別枠の生活安全保障が整っている




広州の子供たち




台湾台北 生徒が運営(自治会)する朝礼の国歌斉唱と国旗掲揚式



そこで、たけしさんは定員不足と労働条件の改善に教員の賃金を上げることを解決の一助としている。要求に一理はある。金を出せば優秀な選手が集まるプロの興行だが、高校野球やサッカーがどれだけ毒されたか・・・。

映画キャストでもギャラを多く出せば善い演技が出来るとは限らない。まして監督が有名なら一族郎党を安いギャラで集めてもチケットは売れる。
虚構を売り物にして食い扶持を得る世界は、別世界なのだ。とくにバーチャルリアリティー(虚構現実)を視聴覚に打ち込む世界によってどのように世俗が変化したかを分らないはずはない。


金、地位、名誉、学校歴、それらは人格とは何ら関係のない附属性価値だ。
その虚飾された価値観や成功価値を嘲け笑い、喝采を得て食い扶持を得ることに現世芸を認めるなら、あえて附属価値を金銭の多寡によって変化が起きるだろうと思うことは、そもそも「人として成る」ことを諦めているかのようで寂しい限りだ

小人、利に集い、利、薄ければ散ず

小人の学、利にすすむ」

そんな世界にいると、ときおり麻痺することもあるようだ。
人の気(人気)とは儚いものだ。


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秘録 邦おもえば、国賊   08 再

2024-08-28 00:34:56 | Weblog

            秩父の瑞穂

 


長文恐縮ですが


明治以降の武装集団である軍及び軍官吏の姿に、国の綱維が融解してしまう危惧を推考し、立場ゆえ言葉も少なく、かつ憂慮する人々がいた

あの大西郷をして「こんな国にするつもりは無かった」と言わしめた維新の姿は、その後の国家経営にある教育や外交、あるいは武家社会の人格陶冶にみる武士道とは異なる戦闘集団の武断的志向の残滓を抱えた武装集団の専横が際立ってきた。

文武両道といわれるが、その文にいう文官も名目的学校歴にみる立身出世型官吏の増殖と相まって、議会の権能すら有名無実な状態に堕し、そこに棲む伴食議員の群れがその風潮を進捗させ、国家を方向を誤らせている。


これを憂慮する人々がいた。

しかし、彼等は肉体的衝撃を厭わぬ勇に乏しかった。

力のある者に抗するのは謀と、対抗者たる他国の力を借用するしかない、またそのように考えるための道筋が彼等の交流範囲にあった。


             


上海の東亜同文書院は近衛、尾崎に多くの異邦の人脈があった。また彼等は欧米の支配階級ともその縁は深いものがあった。

内外に夫々の事情ある。また様々な検証があろうが、不学無術、無名の拙者が体感し推考した観方ではあるが、読者賢者に供するものである。

あの時は軍官吏の専横があった。また愚直な官吏の事なかれも有った。
曲がりなりにも議会を敬するものがなくなると、軍、警、官吏のコントロールは欠如し、名利、食い扶持に囚われた、かつ守られた一群が国家社会を蝕むようになるのは阿諛迎合を性癖とした観のある邦人の倣いになっている。

いまも変りのない循環のようなものに観えるのは筆者だけだろうか。



             
           整理整頓、質素、倹約の民是





参考拙稿  筆者備忘録 「あくまで推測だが・・・」


近衛文麿、細川護貞、西園寺公一、安岡正篤、吉田茂、尾崎秀実、昭和史を彩る事柄に著名人として名を残している人物や、それを取り巻く夫々の立場にあった人間が、はからずも、いや偶然にも意を一つにして振り払おうとしたもののなかに、国家を覆った暗雲があった。

それは武士の生死をともなう緊張感が太平の繁栄とともに訪れる怠惰で形骸化、あるいは既得権としてしか意味の為さなくなったように、明治以降の王政復古とともに再生した公家文化と陋習が、創生された国家、国民という合理的統治との齟齬をきたしていたからでもある。
 
それは牛の丸呑みの反芻のように、口元が妙に落ち着かない面容に噛み切れないものをわけも解らず喰ってしまった困惑のようでもあり、口舌や成文の表現力では到底説明しきれない奇形な様相でもあった。またその後の時世の成立や経過においても説明不可能なために、より外来の優性を比較借用してよりその指向を高めてしまったようにも見て取れる。

公家、教育者、外交官、ジャーナリスト、あるいは色分けしなければ済まないものからすれば、陸軍、海軍、皇道派、統制派の人間模様も含め、しかも出自、経歴までも論証の具になっているが、到底理解の淵に届くことのないようなところにある彼らの国家融解の危機でもあった。

国家の統合と継承は、綱維という歴史を貫く大綱に絡む事象でもある。たかだか人間の所作ではあるが、なんらかの連結の鎖を精神の安堵とするならば、それさえも循環する歴史の中では選択不可能な部分の訪れの期でもあった。
つまり、歴史と現状を観察したとき、彼らの遺伝子的ともいえる観点は、世俗の学制のみの薄知に基づく観察眼しかない庶世の国民とは異なり、歴史の「維」を俯瞰した切り口による考察から導き出された意識がある。


軍は竜眼の袖に隠れ、にあるようなモノノフ(武士)とは異なる意識を持った明治以降の下級武士と民兵のように、公家と称せられる人間特有の手法に拠った御上隠しと、まるで神託のごとく天皇の意思を壟断(ろうだん)した側近と、弄ばれたような統制軍官僚の愚鈍さは武士の極みには似て非なる粗略さがあった。











あの西郷に「こんな国にするつもりはなかった・・」と言わしめたような拙速創製の国家と、表裏に矛盾を発生させた日本人の変質を危惧した鬱積だった。

それは、遠くは聖徳太子が憲法と冠位を制定したころの、蘇我、物部ら世襲豪族による権力の専横によって、今では伝統という言葉に括られているような、遡ればカミゴトに由来する太綱というべき歴史の継続が侵害される危機感に似ている。

これは、あまりにも大きな権力を持つ人間の行き着く先にある亡国を、異なった座標で押しとどめ、あるいは敗戦後の国家の在りようを鎮考したものであった。
それは、明治維新以降の教育制度のボタンの掛け違いというべき、指導階級エリートの速成によって積み残したカリキュラムにあった人間学の再復を求めたものでした。

明治天皇は帝国大学の教科内容によって訪れるだろう将来の結果を、まるで予言するかのように痛烈に諭している。天皇だからこそ先見可能な直感でもあった。(聖諭記)

既得権力と化した組織勢力は、富国強兵というスローガンをもってかき消すように邁進し、しかも、天皇の直感は活かされることはなく、平成の現代まで続いている。つまり集い、群れになると権力を構成し、人間の尊厳を毀損する危惧だ。
聖徳太子の憲法も同様な危惧だ。それは軍だけではなく、官吏、知識人、宗教家、経済人もその類になるだろう。


一方の切り口は外部勢力の意図、あるいはアジアの西洋植民地からの解放という意図もあろうが、内の要因を外部リンクによって解消しようとして既存勢力との軋轢があった、との見方もあるが、ここでは、まず内なる憂慮への内省として考えるべきであり、ことさら自虐的観察と切り捨てることは内外の自他の現存を前提とする国家の自立、あるいは地球表皮における民族の棲み分けすら意味のないものにしてしまうだろう。

>「直にして礼なくば、すなわち絞なり」
いくら理由が整っていたも礼(他との調和)がなれけば、自らの行動の自由を失くす、ということだ。


その暗雲は、目的のために作られた組織が、目的創出の根底にあった公意から離れ、まるで竜眼の袖に隠れるようにして増殖したためにおきた忌まわしい風のようなものであった。
軍は竜眼の袖に隠れ・・・云々といわれたような、軍を取り巻く権益構造と止め処もない国家伸張意識、あるいは誇張された大義に抗することのできない官僚の意識構造と既得権益にしがみつき肉体的衝撃を回避するための錯覚した知識人や高位にあるものたちの学問思考にもその因があった。
もちろん政策決定機関である議会機能の崩壊及び議員の現状追認、傍観的看過もその類であろう。 つまり、異民族孫文にも言わしめた真の日本人の喪失であった。

その深層の企ては歴史の真実としては無かったことのように、数人かの登場人物による別の事件にスポットを当てることによって、その秘めた意思は覆い隠された、いや余りにも多い犠牲とエネルギーの浪費によって巻き起こされた戦争遂行への大義名分は、より「別の事件」の秘匿性を深めざるを得なかったといって過言ではない。


          


その別の事件とは国際謀略団による事件とも言われているゾルゲ事件との関連性を深めた尾崎、西園寺の動きと、近衛、尾崎等によるロシアの仲介による停戦交渉をコミンテルンによるアジア構想と意図的連動させた一方の流れである。
しかし、冷戦構造にあった考証は総てコミンテルンの仕業であり、しかもどれ一つとっても確証はなく、腰の引けた既存の文献内考証であり、新事実を発見、もしくは外来から伝われば、現地考証を成文にのみ委ねた枝葉修正学に陥っているのが現状である。

冒頭にある彼らの意図は、利用するつもりで逆に利用された構図であり、ロシアによる仲介が米英との戦いに有効であり、かつ日本を覆う自浄力が衰えた忌まわしい軍部からの主導権の奪取という、それらの立場にありがちな純情でありつつも狡猾な構図を描いたのである。

実験国家ソビエトは崩壊するべくして終焉した。19世紀から20世紀にかけて多くの王政は民主の名の下に倒され、ある国は共和制、共産主義に衣替えはするが、中国の孫文とて民衆の混乱を抑えるために三民主義を掲げつつも領袖による専制を描かざるを得なかった。

夫々は思想の大義はともかく、大謀に隠された意図はあった。王政を倒すといえことはどのような意図があったのか、民主と自由のみなのか。付け加えればアジアの混乱と近隣との軋轢に意図されたものは何か。意思の共有という連帯連鎖を地域分割や自由解放という宣伝によって解く理由は何なのか。

軋轢は不信と反目を継続させ、善隣友好や平和外交などうら寂しい裏面構造を滞留させている。
コミンテルンの指示や援助として定着しているゾルゲ関連や中国における不可思議な誘引事件は、その構図の大きさと深さによって、よりその深層の企てを覆い隠している。
現状追認しかできなくなった国内指導部の脆弱さと、偽装事実を積み重ねる謀略は資金を添えて謀略中枢をコントロールした。
あのイラクとクエートを分断したイギリスの諜報機関M16のローレンスのようにアジアを舞台に黒子の様に跳梁している。しかも友邦アメリカまで手玉にとって誘引している。

その企ては自らの置かれていた地位や、巷間使われるようになったノーブレスオブリュージュといった高位に存在することの責務が根底にあった。
明治以降、いやそれ以前から男子の気概の表現としてあつた立身出世とは異なる流れに属する学問、もしくは生まれながらの氏姓が涵養し保持していた国家存立の本綱(モトツナ)に必須、かつ秘奥に存在する学問によって国家像を描いたものであり、それは、ごく少数の人間から導き出された意思であり、良くも悪くも明治から蓄積された負の部分の排除による国家の再生を考えていた。
また、鎮まりをもって歴史を俯瞰し、日本及び日本人を内観できる人々の考察であったに違いない

あの西郷ですら、このような国を描いたのではない、と言わしめた執政受任者の人間性と、曲がりなりにも士農工商で培ってきた日本人の特性や情緒を捻じ曲げた理解に置くような成功価値や、擬似支配勢力の狭隘な既得権意識は、軍、官僚にも蔓延した止め処もない暗雲となっていった。
もちろん封建といわれた武士社会も江戸の末尾には、武士(モノノフ)の気概が薄れて、姿形だけの怠惰な既得権者に成り下がり、外的変化に対応できなくなったことは、後の維新を呼び起こしていることに見ることができる。

だか、人間の分限を弁えた習慣や掟に内在していた自己制御と相応する生活守護に慣れ親しんだ庶民にとっては、維新のありよう云々より、穏やかなときの流れに懐古するには、そう時を要することがなかったことは、国家、国民の創生した明治の集権に馴染めないものがあった。
それは亡くしてしまったことへの哀れであり、そのために招くであろう国家の衰亡を予感する人間の憂慮でもあった。

国家なり社会に盛衰の姿があるとすれば、まさに幕末と太平洋戦争の敗戦は人間力の衰退と、歴史の残像にある資産の食い潰しのようにも考えることができる。
譬えそのことが産業革命以降に勃興した資源問題、あるいはそれ以前の植民地の支配を既得権として継続させようとする巧妙な戦略的謀略に飲み込まれたとしても、また西欧を知り、富国強兵政策の選択が当時のごく普通の近代国家の在りようだとしても、明治初頭の人的資質の変容は、さまに知識、見識、胆識にある人的資源の枯渇であり、歴史が培った資産の存在を認知しない行動であった。

しかも、混乱の後、結果として訪れた戦後の国家形態は「負」を排除するとともに、「正」もひと括りにして融解してしまう誤算があった。






石原莞爾氏直筆 弘前養生会蔵




この企ては専軍権力者からすれば反逆者であり、当時の国情からすれば国賊であろう。
それは大謀によって大綱の方向を直す作業であるが、一方、国際謀略との必然的接触による錯誤を誘い、歴史そのものから抹殺しなければならない企てとして忘却されようとしている問題でもある。

この暗雲の停滞を憂うる人たちは、往々にして現実問題の解決を謳い権力を行使する議会人及び調整役に成り下がった宰相とは異なり、また国家の護るべきものの見方が異なる思考の人間である。

筆者は縁ある市井の哲人から一幅の書を見せられたことがある。そこには
『春宵、夢を破って空襲を報ず 
殺到敵機 鬼ヨウの如し 
劫火洞然 君、嘆ずる勿れ 
塵餘却って 祲氛(シンプン)の絶するをみる』と撰書されていた。
《カタカナ、ひらかなは条幅が所在不明のため記憶をたどる》
 

注目は結行ある塵餘だが国家の塵(チリ)を去るということである。前行の劫火洞然はすべてを焼き尽くすことであるが、それによって国家に巣食う塵をはらって祲氛(忌まわしい気)が絶えてしまう、だから君、嘆くではない。という意味である。

 市井の哲人岡本義雄は述べる
 20年の春、文京区白山町の町会長も務めたこともある安岡正篤氏を早朝訪ね、こう嘆願した。「聖戦ということだが、町では大勢の人が空襲で死んでゆく、先生は偉い人と聞いているがどうにかならないものか。このままでは国が亡くなってしまう」
 当時、安岡氏は大東亜省の顧問であり、政財界でも氏を慕う人多く、それゆえ戦争遂行の任にある軍、官僚に少なからず影響力を持っていた。

岡本の述懐は続く
「止むに止まれぬ訪問だった。だから突然だった。先生は無名な私の言葉を聞き入れ、大東亜省から差し向けられた車を40分近く、来客中!といって待たせた。数日して書生から届けられたのがこの漢詩と巻紙に記された手紙だった。それから先生を師として終生続いている。今でも人助けがあると名刺に「憂国の士、差し向ける」と書いて、どこそこへ行きなさいと導いてくれる。先生が旅行で留守にするときは、前もって電話で直接連絡を戴く。どこへ行って何日に帰ってくると。いつも日本人としての学問と精神の継続を語ってくれた」

 民主を掲げている現在、国家権力が守るべきものは、『国民の生命と財産』といわれているが、現実問題に対処する政策の分かりやすい大義名分としては有効だが、こと靖国問題、憲法問題、あるいは外交問題における首脳同士の応答辞令になると、はなはだ軽薄な話題に終始してしまうことも、この大義の奥に踏み込めない、あるいは存在すら認知できない部分に多くの要因があるようだ。

『国民の生命と財産』は何のためにあるのか。
なぜ、生命と財産を守ることが為政者の命題なのか。
豊かな各種財があり、それを以って生きる糧とする理屈は、人間の織り成す文明の栄枯盛衰を鏡としない戦後教育の姿ではあるが、あまりにも軽薄な国家像のように観える。
民主は、守るものも守られるものも同一である。
守られることの権利と守る義務も同一である。

ならば生命と財産は何のために要するのか、生命は長命を願い、財産はプロパガンダに翻弄された豊かといわれる生活のための消費の用に置かれるのか。
政治家の言葉足らずもあるが、それで用が足りると考える国民の政治意識は、民主政治の劣性である、゛とりひき゛゛欲望の充足゛を交換条件として定着させている。

国家としての政治形態は客観的には社会主義、共産主義、独裁主義、民主主義があるが、民主主義以外は近代政治形態の実験期間であった二十世紀を経ての衰亡、あるいは機能不全のレッテルを貼られ、それらを選択、もしくは他から定義付けられた国家は武力強圧によって敗退している。良くも悪くも民主主義という統治方法によって駆逐されている。

それは、あの人民解放軍を率いて地主階級から農民に農地を移管するという、主たる耕作利用人に解放という名目で民衆の支持を得ている。それはあくまで土地の私有ではなく、管理者である党権力の統治形態のスローガンであったことは人民公社の政策経過によって見ることができる。あくまでスローガンの選択肢は支配者の都合の範疇にあるようだ。

第一次大戦後のヨーロッパの農業国家も同様であった。国家、商業に貸し出すことから、そのユーザーを土地耕作者である農民におき、今でいう消費者金融のごとく金利事業に邁進した金貸しの一団はドイツ国家をも席巻する勢いであった。
まさにヒットラーの登場する土壌はあった。総統になった彼は何の債権か、僅か3週間で借金を棒引きにしたという。高金利にあえぐ国民は喝采を挙げ独裁政権を支持したという。(金沢明造氏談)
それはある意味でヨーロッパを席巻していた国際金融資本との戦いでもあった。

すべて、そもそも国が存立する意義は何なのか、為政者の役割とはどんなものなのだろうか。そのスローガンにある生命財産を守るのが宰相をリーダーとする政治権力者なら、殺伐とした無機質な権力に対し、国民が組成した多面的有機的な人間の情緒との調和の触媒として存在するものが必要になってくる。










それは無形への祷りではないだろうか。精神も心もそうだろう。(対象は精霊・神等)
為政者の政策を有効ならしめるものは、信なくば立たず、信への依頼であろう。
そこには根源的というべきリーダー論や統治者としての政策論が発生すると同時に、一方は紙に書いた規範とは異なる口伝、習慣伝、陋規(一定の範囲の掟)があり、それらが複合して国家として成らしめている。

内外問わず栄枯盛衰に表れた戦争の後、そして鎮まりをもった時、その根源的リーダー論の蘇りや歴史に循環回帰に導かれた、そもそも国家としての在りようを覚えた意思が再復することがある。

憂国、再興の選択肢は、一方の退去を謀によって促し、復古に描かれている深層の国力である万古の知恵の登場を企てたのであろう。それは日本という国家を、国家としてなさしめる存在の崩壊を危惧したものである。

足利将軍から養子に迎えられた初代幽斎から12代目の当主、元細川元首相を息子に持つ細川護貞氏は岳父に近衛文麿、仲人に終戦時の内大臣木戸幸一という縁もあったが、戦時下の観察として日本を軍と官僚の行き着くところと、苦渋を込めて述べている。細川や冒頭に挙げた人たちが企てのため連携を持ったものではないが、もの言わず分かり合える人たちであったこと、また底流として意思が存在したことは明らかである。

あるいは深窓のエリートのごとく、泥水を啜り、極寒、極暑にも淡々と感謝さえ添えて勤労に励む深層の哲人とは異なり、体裁と形式に同衾した共通価値ともおもえるが、それも不可欠な立場だからこそ導かれた考察の危機意識として、歴史や現世の人心をも危惧した俯瞰性のある率直な行動でもあった。

また、それらの人たちはスメラギの道に近い位置に存在していた。、
それは肉体的衝撃の届かない位置での企てであったがために、大が小を倒すには他力による謀略しかないと認めた末のことではあった。また、大謀であるからこそ、見えないものであり、まさに大謀は図らずでもあった。











しかし、彼らもそれを上回る大謀に利用され翻弄された。それは近衛の死によって覆い隠された。いや、床の間の石のように操った側近の大謀隠蔽であっても近衛は石の役割として受容しただろう。
近衛の意図を具現しようと奔走したのは尾崎秀実である。近衛の父によってつくられた上海の東亜同文書院の関係者や、松本、樺山との連携は、尾崎をして理想国家建設の夢を米英ではなく、大同思想に似た共産思想の本家ソビエトへの期待と通牒はしごく容易なことであった。

尾崎は本願を懐にして満鉄調査部に席をおき、蒋介石国民党軍事委員会国際問題研究所との接触、北進を南進に転換させ英米と衝突させて早期和平に結ぶ意図が、逆にゾルゲの意図にあった日本軍ソ満国境から南転、ソ連精鋭部隊は陥落直前であったモスクワ戦線に転進、謀略によって描いた歴史の事実はそのとおりになった。

国際問題研究所の資金は王立国際問題研究所 英国諜報機関M16のパイル中佐を通じて拠出されている。もちろん北進から南進に転ずることも、あるいは真珠湾攻撃の3週間前から配置、司令官名まで筒抜けだった。
尾崎のあまりに純粋な精神は、意図する結果にはなったが総て利用される結果となった。
尾崎の意図は安岡の漢詩にある国内の「塵」の排除にあった。近衛もそうだったろう。

ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するにある。トップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。

盧溝橋、通州、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のための蒋介石打倒の国内闘争に利用されたのである。国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は、形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。

そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そしてルーズベルトには伝わっている。


満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。











尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉綿綿亭に投宿して懇談している。(陪席は新潟県令)
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか、大きな謀略構図は悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を一足飛びに異なる方向に着地させた。

尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。

渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。

登場人物、関わりのあった人々は愛国者であった。それが結果として稚拙な謀だとしても恥ずべきことはない。被害者はアジアの民であった。総てその渦のなかにある。ただ考えられることは、戦後安岡が心血を注いだ国維に基づく真のエリートの育成は、結果として辿り着いた安岡の運動だった。俗世の浮情を憂い、地位、名誉、財力を忌諱して郷学作興に賭けた熱情は歴史の栄枯盛衰を教訓とした実学でもある。

しかも、無名でなければ有力に成りえず、と導く考えは、地球史、世界史を俯瞰する多面的、根源的歴史観であり、かつ、そのことを理解するには人間の尊厳と営みに対して自らを下座に置く沈潜の勇気が何よりも重要な学問だと促している。
空襲下、あの市井に潜む無名な岡本に応対する安岡の真摯な姿勢を歓迎したい。

あの企ては間違っていなかった。謀と言うには余りにも実直な行為だった。まさに、「邦おもえば国賊」の境地であった。そして彼らは鳴らした警鐘は未だ途切れることなく聴こえてくるようだ。

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「Hong Kong」 より 満洲人脈との邂逅

2024-08-25 02:05:43 | Weblog



「Hong Kong」より抜粋


新橋駅の土橋側、整形美容で有名な十仁病院の並びに国際善隣ビルがある。8階建ての古びた建物だが、大家である国際善隣協会が上層階、階下は事務所テナントである。協会は満蒙援護と中国との善隣友好を掲げ、その資産は満州国の在外資産、つまり内地日本にあったものを戦後のドサクサで取得したとか、しないとか。


これには秘話がある。戦後の満州は国民党の勢力圏にあった。領袖である蒋介石は辛亥革命の先輩である山田純三郎に対外財産、つまり内地資産の処理を山田に委ねていた。その一つがあの堀端にある幸徳会館た。それがどのような経過をたどったのか三井の所有になっている。

         

酔譚に佐藤慎一郎氏が語るに
「満州国の財産は日本国内にもあった、土や建物も債券や物資もあった。みなどさくさで掠め取られたが、これにはワケがあって、満州国の日本公使が書類を偽造して三井に売りとばした。弱みがあったのだろうが、それが露見した時,公使は叔父の家の玄関で、『許してください』と土下座していた。余程の弱みを握られていたのだろう。

蒋介石も総て満州国の財産の処理は革命の大先輩の叔父に任せていたので、叔父の心中を察して平然としていた」たしかに相当の財産が国内にあったのだろう。もちろん満州にも日本の財産は莫大にあった。
      

この件では元満鉄調査部、自治指導の要として精神的支柱であった笠木良明と吉林興亜塾の五十嵐八郎が当時の三井の番頭江戸英雄を訪ねている。そのときの用心棒が谷中にある全生庵の大森曹玄であったと五十嵐は回顧している。

余談だが三井、血盟団の四元義隆、大森、中曽根と繋がる人脈は総理在任中の全生庵での四元との座禅、イランの三井プロジェクトであったバンダルホメイニ油田の人質救出への中曽根特使とさまざまな場面にその姿を見せている。

国際善隣会館は日産コンツェルンの鮎川義介の協賛だというが、戦後の満州人脈といわれた岸信介を筆頭とした統制官僚、満州国官吏、満鉄調査部、自治指導部、関東軍、あるいは満州ゴロと呼ばれた、いわゆる満州帰りが呉越同船して交流の場としていた。今は8階に移ったが、当時7階にあったサロンは満州の中枢が移動していたかのような壮観さであった。
岸のほかに、根本龍太郎、三原朝男、星野直樹、古海忠之等の官僚、関東軍参謀片倉衷、あるいは児玉誉士夫、岩田幸夫、中村武彦等、戦前戦後の一時期を構成した各界の傑物が顔を出している。

また様々な懐古なのか、あるいは経済実利も含んで満州当時の職域、官域、思想活動の会が頻繁に開催され、そのなかの一つに満州建国精神的支柱であった笠木良明を偲ぶ命日に合わせて笠木会が開催される。参加者の顔ぶれは官、軍、満鉄、学域(建国大学、大同学院)、あるいは国士と称される民族派、右翼とさまざまである。

後になって稲葉修、砂田重民氏らと環太平洋協会(ASEAN協会)を作った時、インドネシア革命に挺身した中島新三郎(新橋インドネシアラヤ)、金子某(歩け歩け協会)とも親交をもった。

新潟村上選挙区の三面川の川主だった稲葉氏に案内されて瀬波温泉にも行った。





上海



義父の代理で出席したのが始まりだったが、当然の如く戦後生まれは私ひとりである。毎回全国から30人ほど参集するが、時の流れで年々その数は少なくなってくる。可愛がってくれた、気概を繋ごうということなのか、各界の長老から様々な会を案内され、はじめの顔つなぎだと同伴してくれた。

書家であり大立者であった宮島大八の鎮海観音会、終戦時の内務大臣安倍源基や法務総裁木村篤太郎の新日本協議会、毛呂清輝の新勢力、安岡正篤の師友会、愛国党の赤尾敏氏など多くの諸団体の指導者や神道関係者との縁を拓いた、というよりか彼らの威力に強引に誘われた、というのが奇縁の実情だった。

彼らからすれば孫である。24、5の若憎がポツンと老海に置かれるのである。慣れてくると必ずといったよいほど彼ら特有の戯れがある。若憎に意見を求めるのである。すると参会者の老人が、
「この若者のために我々は何ができるか、それは、年寄りは、早く死ぬことだ」と、いまどきの年寄りにはない気骨である。

そうこうしているうちに顔馴染みができると、新たな縁でまた別の会に強引に誘われる。また秘話が語られる。それは歴史の一級資料であり、戦前の教養と明治の気骨が溢れるものであった。

なにしろ、どこに行っても老境の知人が多くなり、その醸し出す独特の雰囲気は他の参会者に威圧さえ与えるのか、遠巻きに輪ができる。そのなかで、若僧が ゛いじられる゛のである。会場を歩けば道が開き、車には先に勧められ、ときに万座で挨拶さえさせられる。
不思議なことに、これも世俗の倣いかと面白がる余裕もできた。

加えて、人生の大先輩であり、昭和史の生き証人である彼らとは特別な黙契ができた。発表された書き物や著名な研究者を嘲笑うように、当事者としての彼らの言の葉に関する秘匿だ。
ある大物が語れば、一方は後刻に「ああは言っているが、実際はこうだ。現にこの目で見ているし、触れてもいる。あの報告は嘘だ」と、この調子で突然、唇歯の間から漏れる。

それは、決して口外してはならない、いやどちらが先に亡くなっても秘匿しなくてはならない内容だ。その類が数多ある。つまり秘史という部類だ。
いずれ、こちらも老境に入ったら唇歯の間から漏れるだろうが、ときおり便利なブログで備忘録として記すが、この世情の騒がしさでは落ち着いて繋ぐ世代も微かだ。幸いにも説明責任とやらに晒される立場を忌避する無名を任じているためか、目垢の付かない真相として預からせてもらっている。
     
        




佐藤慎一郎  五十嵐八郎

佐藤は孫文の側近、山田純三郎の甥


笠木会は幹事の木下と五十嵐八郎の、゛仕切り゛によって毎年行われるが、五十嵐は笠木良明の終生を看取った側近である。
国民会議の創設に尽力した中村武彦(神兵隊事件に連座した戦後正統右翼論客の第一人者)を、「武さん」と呼び、吉林の興亜塾々長、戦後は北海道の赤平で炭鉱を経営し、児玉誉士夫氏は、゛イーさん゛と呼ぶ仲である。神田に事務所もち、ときの右翼、民族派の多くは食客として世話になっている。

聴くところによると、相撲あがりの大谷米次郎は岸のいうことならなんでも信用した。いっときドラム缶数本に金を持っていたが、岸に使い道を相談。皇籍にあった御仁の赤坂の土地を買ってホテルを建てた。それがホテルニューオータニだ。

その岸と品川のパシフィックホテルで呑んだとき、岸は焼酎のトマトジュース割を、これは身体によいと勧められたが、当時は洋酒、ビール、酒、割ってもソーダか水だ。まして焼酎にトマトなどは思いもつかない。さすがに岸らしいと妙に感心したものだ。

五十嵐本人も、これからはエネルギーだと北海道の赤平に炭鉱を買った。
ところが素人なもので、ひょうたん炭層を買ってしまった。なか細りの炭層だ。
いろいろ苦労したが、児玉の関係で北炭の萩原氏に協力を得てどうにか軌道に乗せたという。

面白い逸話がある。児玉と二人連れで湯布院に旅行に行ったときの事、二人が何者か知らない旅館の主人が、あまりぞんざいに扱うものだから、帰京して糞を木箱に入れて、糞食らえと送ったところ、宿の主人は、゛結構なものを頂戴して・・・゛と丁寧な返事が来た。

 あるいは、児玉夫妻と旅行に行った折、宿に着くと直ぐに児玉は外出してしばらくして戻ってきた。女房は怪訝な顔をして
「どこに行って来たの」
「いや、腹こなしの散歩だ」
夕食後、イーさんに散歩に行こうと言う。財布は奥さんに預けているが、付いていくと女が二人。財布はもう一つある。散歩は女の目星をつけてきたのだ。総てそんな具合だった。

また二人で歩いていると前から金を無心しそうな人間が来ると、これ見よがしに、゛ィーさん金貸して゛という。持っているはずなのに人から借りて相手に渡している。聞くと、゛児玉は人から金を借りた゛と思わせれば、もう無心はしない゛と。
五十嵐氏は言う、゛児玉はペテンが利いた゛と。ロッキードのときも東京医大に見舞いに行くと、゛イーさん、俺がゴム印(ピーナッツ領収書)を押すと思うか゛と。
あれは、゛使われた゛と五十嵐は回顧する





こんなこともあった。笠木がなくなったとき、いの一番に来たのが安岡だったという。思想的に派を分けたが安岡の人情には感心した。たしか中華月餅を持参した。十河信二らと遺芳録を作ったが、その時は笹川良一が当時の金で百万円を出した。いろいろあるが、みな大した人物だ。笠木先生の大きさだろう。
あの大川周明の会合に呼ばれたとき、みな迎合していたが、「俺はポチではない」と捨て台詞で席をけった。意味も分からず黙って聞いている弟子どもに愛想をつかしたんだ。

また、滝に打たれて修行した自慢しているものが来た。
「滝に打たれて得心するなら滝つぼの鯉にはかなわない」と、笑い飛ばした。
そんな笠木だから、みな丸腰で満州の荒野に散らばって農業や行政の教化に邁進したんだ。関東軍と相容れなかった自治指導部には青雲の志を持った青年が参集した。その中には満人,漢人、朝鮮人もいたが、みな目的をもって学び、戦後でも旧交を保持している。精神的支柱だった笠木良明と慕う仲間たち、そんな満州が有ったということを遺したいと、五十嵐は言う。

その五十嵐から相撲の誘いで国技館の砂かぶりに座った。イーさんは何かというと誘ってくれた。豪徳寺の鎮海観音会、これは宮島大八氏の主催だった。戦前はベタ金の陸海軍が大勢来ていた。朝鮮の鎮海湾の観音様の法要だ。
盗んだのではない,李朝朝鮮では仏教がことのほか迫害した。李退渓の朱子学とは相入れなかったからだ。多くは対馬や日本本土に持ってきた。大事に安置してある。

国技館の砂かぶりの隣には言葉の少ない身の丈のある女性がいる
「誰・・」
五十嵐は
「戴麗華さん、トッパンムーアの宮沢に世話になっている。善隣協会の会員だ」
それが麗華との縁の始まりだった。もちろん中国人だ。
宮沢とは満州の俊英が集まった大同学院出身でトッパンムーアという電算機関係の伝票やカードなど資材を作っている会社の社長だ。
その後、麗華とはあの世界史を揺るがした天安門事件の臨場体験を共にした縁がある。

つづく

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聖徳太子の心配事は当たったか  09 3/06 再

2024-08-21 01:18:15 | Weblog

 「

     「紐帯の結びの重し」 皇居内お休み処

20年前の稿だが、あの当時と変わらない政情である。

当時は、こと勿れ、ヒラメのような政官の徒だったが、今回は首取り、椅子取りの下剋上の様相である。

2024年岸田首相の再選の道を閉ざされると、今までにない多くの議員が手を挙げた。だが、ことここに至っても立候補の声明までは無い。若者はビジョン、政策が大事と広言するが、一国の総理が無念のうちに退任する原因は支援の数ではなく、政策、ビジョンの前提にある「信」が国民から得られない事による挫折とみるべきだ。

候補者は、ヤリタイことでなく、信を取り戻すヤルベキことを思い起こしてほしい。

見た目、口達者、愛嬌、は大衆には好まれるが、歴史上、数多の国に現れる衰亡期の姿だ。

 

 

以下旧稿

このところ中央地方を問わず金と異性と失言などの問題で毎日のように紙面を騒がしている。そこへきて重要議案に口角泡を飛ばして争論に励んでいるようだが、定数や待遇については口を封じて与野党同衾している。国民は野暮な旅芝居を見ているようだが、ときおり女形ならぬ行儀の悪い男のような女性議員の登場で回り舞台は観客は惑わされる。

安岡正篤氏は書斎の雑談でつぶやいた。「今どきの政治家は人物二流でしかなれないようだ」あれから四半世紀、二流から三流、そして埒外が増殖している。金をごまかし、平気でうそをつき、不倫もする。選んだあんたが悪い・・!と嘲られるが、もともと党の旧字は中が黒だった。つまり黒をかんむり(賞)すると古人は揶揄する。白黒といえば黒は悪人だ。善党はないが悪党はある。その悪党が多く集えばどうなるかは自明である

 

           




旧稿ですが・・・

政治家の献金と検察キャリアの調査活動費。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169233.htm


法も道義も後付け理屈にしたところで、露わになればドッチが悪いといえば、どっちもどっちだ。

一方は税金を使った公共事業の儲けのカスリを献金したものだが、片方は検察の活動経費?をキャリアの遊興費にあてがったもので、双方国民の税金かはたまた罰金の類であろうが、共に暖かい寝袋に潜り込んでいるようなものだ。

しかも、生まれ育ちも、卑しさ、サモシサも何のその、両親の叱咤激励のなか、脇目も振らず暗記に勤しみ、晴れて公務員、議員で言えば特別公務員になったお陰で潜り込めるコソ泥の世界である。

双方、機を見て敏なのは習性だが、これに嫉妬と小判の匂いが纏わりつくと終生不治の病気になり、官吏や陣笠予備軍に遺伝するのである。


以前、「国家に四患あり、四患生じて国家なし」と後漢の宰相旬悦の言を記したことがある。

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/d/20071120

「偽り」「私ごと」「放埓」「贅沢」これが官僚と政治家に蔓延したら国家は立ち行かなくなる。つまり、どんな政策予算でも国民に行き渡らなくなる、よって此の事を解決することを宰相を請けることの第一義としたい、と旬悦は皇帝に諫言している。

安倍、福田、麻生の各総理も根本はそれで足元をすくわれたのである。
偽り情報、恣意的な不作為、組織に溶け込む無責任、そして倹約なき贅沢である。

仮の議会制民主主義の頭領が其の類でコロコロ変ってはいるが、社会はともかく国家は重しのお陰でどうにか落ち着いている。
だだ、余りにも敬する対象が国民から嘲笑され、はたまた罵倒されると、近頃では゛重し゛までもが国民の興味のなかで秤の均衡を毀損され始めている。

゛重し゛敷島に棲むものの紐帯として連帯と調和を司り、地位も要らず、名も宣伝することなく、財も欲せず寡黙に耐えている。


            


安岡氏は「徴収と治安を司るものの姿で国民は変化する。それゆえ国民は重々観察し、公平さと正義を貫くべき司を誠の秤を備えて考えるべきだろう」と語る。

取りも直さず徴収は税や保険であるが,国税を始めとする官吏や社会保険庁の有り様、あるいは治安を司る警察、検察の裏金、執拗なる罰金システム、刑の軽重など、国民に信頼を持たれるものでなければ政治も機能しない。

国民も自身の咎に都合のよい「法」を持ち出し、三百代言にも化することもある弁護士のもと、これまた法の運用官たる官吏のサジ加減が恣意的になり、隣国の古諺にある「禁ずる処、利有り(生ず)」の姿を「組織地位と知識」が保全している。

四角四面が日本人の性癖だと満州の古老が述べていたが、曖昧、ホド、も「四患」にある、偽、私、放、奢にまみえる彼等の狡知は、社会悪をこえて国賊の烙印を押すべきことでもあろう。



              




紐帯にある゛重し゛は何を祷るのだろうか。
律令の頃、聖徳太子は憲法に祷りを込めた。

十七条は天皇を輔弼し、人間(民)の尊厳を毀損する官吏の在り様を解り易く「憲」と「法」で記している。

十七か条のうち其の大部分を官吏の道義的応答と、律し方を「憲法」として顕している。つまり、人間の尊厳を毀損するのは権力であり、その運用官吏の姿を以て民情は変化し、国の盛運も決まるとのメッセージである。


権力を構成するであろう部類は、政治家、官吏、宗教家、教育者、現代は金融家であろう。これらの欲望のコントロールこそ、国家のすべき治世の要であり、其の為にはと各条に人々の調和と連帯のための自制と教育的規が勧められている。

政治が教育を利用したり、宗教組織が検察司法の権力を壟断したり、官吏が政を軽んじたり、金融家が政策を混乱させたり、すべて国民生活の混乱、ひいては人間の尊厳を毀損する謀の権力悪である。

「紐帯の重し」は単純明快な政(まつりごと)の則を座標として国情の秤を守護している。

標題に掲げた、゛人の有り様゛は騒擾を助長する各種権力の言に拠らず、また第四権力になった営利マスコミに惑わされず、自身の生存継続を遡って、太子の則にある簡単明快な、いまでは諫言にも聴こえるかも知れないが、まずは則に倣うべきことだろう。



             

           鎮まりを守る    鎮守の杜


以下、権力、組織と脆弱な自制心を観るには最適な銘記でもある。


第一条

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

第二条

あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条

王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。


第四条

政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。


第五条

官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。


第六条

悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。


第七条

人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。


第八条

真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。


第十条

心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。


第十一条

官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。


第十二条

国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。


第十三条

いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。


第十四条

官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。


第十五条

私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。


第十六条

人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。


第十七条

ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

[出典]金治勇『聖徳太子のこころ』、大蔵出版、1986年

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「人間考学」 人の心の進む方向を知る 2014 12 再

2024-08-20 00:03:30 | Weblog

 

それはコンビューターの2000年問題が起きる以前、今から16年前のことだった

純朴で稚拙な童のころに目にした西洋の章を想起した

その結果は民族固有の暦(カレンダー)を亡きものとして西洋歴に収斂される企てだと、後で知った。

人々の成功価値は数値による財貨に向けられ、そのグランドも降り注ぐ「情報」という案内(インフォメーション)に先導され、ハーメルンの笛吹の逸話や羊飼いの群れのように、笛や一頭の牧羊犬に従順となってきた。

掲げられた「民主と自由」によって人々は仮装した自由を疑いもなく受け入れ、嬉々として民族の連帯を解きながら個別から孤独への道に迷い込んた。
国家は融解し固有の情緒も崩壊した。戻るべき所もなく、唯一偶像視する財貨の欲望に狂騒し、為政者の執る政治すら無意味なものとした。

それは、気がつかないように、いや気がつくことさえ許さないほど思索は衰え、かつ徐々に浸透し、終には自己さえ亡失している。

まさに誘拐されたような世界が訪れたようだ。

そして、奴隷化の促しのように人々は群行群止して茫洋とした世界に誘い込まれている

だだ、幸いにもこの国には、感知と覚りを識る多くの人々の情緒が残っていることに救いがある



       




 【戊 寅 の 独 り 言】  参考資料 1998年 戌寅年の新年に送付

いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。



「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、

代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 

そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。

そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 

そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、

ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、

われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだ

 

偽書とも言われるが、余りにもたどり着いた現況の根源的問題点ではないだろうか。

果たして数多の候補者の大言壮語するビジョン、政策とは何なのだろうか。
         
                            戊寅   睦月   吉日

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日本型 官僚社会主義の呪縛  そのⅡ 2018・4

2024-08-19 03:19:50 | Weblog

    広州

 

 

平成30年 我が国の政官界の実態は、隣国の官吏に同化するように極似してきた。それは欲望の同化であろう。

政、官、経、加えて報道界もつづく。総ては虚を実と装い、本(もと)の無い知は大偽のために用いて、隠し、恫喝さえする。

俯瞰して眺めてみると、旧時代の人間科学ともいえる隣国の事象データーにことごとく符合するものがある。

それは本姓として是認された世界なのか。それとも人間の自傷行為のような欲望なのか。

清濁は併せ呑むと聞くが、欲望から自噴した毒は止め処なく社会を覆っている。

あえて、寒山寺の拾得和尚のように愚者をあざけ哂うつもりはないが、行き着くところくらいはオセッカイしてみたい。

 

    

 

昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

 

 己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。

私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・

・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・

                           (文中より)

佐藤 慎一郎 先生 

寶田 時雄  対談清話より    平成5年作製       

                     

 《昇官発財》とは

 学問の目的は「財」にあり。

 学問するところ地位があり。

 地位あるところ権力と財を発す。

 

   

     

 

そのⅡ 本文

(1)貪らざるを以て寶(タカラ)と為す

   

春秋時代、宋の宰相に子カンという人がいた。廉潔を以て聞えた人であったという。ある人が、この子カンに玉(ギョク)を献上しようとした時、子カンは

私は貪らないことを寶としている。あなたは玉を寶としている。もしあなたが献上しようとしている玉を貰ったら、私は貪らないという寶を失ってしまうし、またもしあなたが献上しようとしている玉を私に献上してしまえば、あなたにも宝は無くなってしまう。結局、二人とも宝を失ってしまうことになるから、お断りする」と言って之を退けたという(左氏、襄、十五)

 

(2)廉にして化有り

 

 戦国時代、斉の第三十一代宣王(前456~前405年)の時、田稜(テンショク)という宰相がいた。その時、彼は下役の者から莫大な賄賂を貰い、その金を母に贈った。

 

ところが彼の母は、その金の出所を問い詰め、

不義の金は受け取ることはできない。不孝の子は我が子ではない」

と云って、これを拒んだ。

 

 田稜宰相は、心から恥じ。そのことを宣王に言上し、断罪を願い出た。宣王は、田宰相の母の清廉なのに感動し、母には賞金を賜い、田宰相の罪は許した。

  「穫母廉にして化有り」(列女伝、母儀伝)

田稜の母は清廉で、ついに息子の田稜宰相を感化したという言葉が残っている。

 

(3)子牛を留む

 

後漢の第十四代献帝(1 8 9~220年)の時、時苗という人が安徽省寿春県の県令となった。時苗は若い時から清廉な人であった。時苗が転勤する時、

「私がこの県に来た時には牛を連れてやって来たが、その牛が、此処で、一匹の小牛を生んだ。この小牛は、この土地のものである。だから、私はこの小牛は、此処にこのまま留めて置いて去る」

といって転勤していった。(三国志 魏志 常林伝 注)

 

       

       天安門  筆者 

 

(4)「清白宰相」(清廉潔白な宰相)

 

 北宋時代の進士で杜衍(トエン)いう人がいた。第四代仁宗(1o22~1o63年)のとき、多くの弊害を改革した名宰相である。

 

 彼が宰相の時も、贈答品や贈物などを、彼の家に届けに来る者が一人もいなかった。それで、その時の人々は、彼のことを

  「清白宰相」(清廉潔白な宰相)と称したという。

 

笣苴(ホウショ)(贈答品、賄賂)、貨殖(金儲けをするような品物)、敢えて門に到らず」(渕鑑類函)と記されている

 

(5)両袖清風

 

明代には、地方官が参内して拝謁する時、その地方の特産物を、時の権力者や皇帝に贈るのが慣例であった。

 明の第三代永楽帝(圭402~1424年)の時の進士、干謙が、巡撫(主として軍務を掌る)に任ぜられた時、その悪弊を断つべく、一物も持たずして入京した。

 

そして自分が、北京に持って来たものは

 「面袖清風」(干謙、入京詩)

だけだ、という詩を作ったという。それ以来、清廉な官吏を形容するのに「両袖清風」と云うようになった。

 

 銅臭紛々の官界

 

 後漢の第十一代桓帝(146~1 6 7年)、第十二代霊帝(168~189年)時代の童謡に

 「寒素清白も濁れること泥の如し」とある。

貧しい生活をしていても、代々操を保っている家のことを「寒素」といい、また代々清廉潔白を保っている家のことを「清白」といって、昔はこれを表彰してきたが、後漢の桓帝、霊帝の時代には、それが乱れてしまった。これを歎いた童謡である と云う(諸桟敷次著、「中国古典名言事典」、500買)

「五寒」参考

 

いくつかの事例を拾ってみることにしよう。

(1) 人みな銅臭を悪む

  

 後漢の第十二代霊帝の頃には、銭を以て官爵を貿うことは、公然行われていた

 郡守(郡を治める役)、九豪(九人の大臣の中の一人)を歴任した崔烈という人も、銭500万を出して、司徒(丞相)という高官を買っている。漢代では丞相のことを`「大司徒」と称し、大司馬(軍事をつかさどる)、大司空(法務の長)とともに、三公に列せられるほどの高位高官であった。そのようなポストを金で買ったというのである。

その時、その崔烈の息子が、父に対して、

 「人、みなその銅臭を悪む

 世間の人々は、あなたのことを、銅臭(金銭のにおい)が紛々としていると云って、みないみ嫌っていますよと、云ったと記録されている。

 

(2) 金が裁く裁判

    

中国では大昔から

 「千金は死せず、百金は刑せられず」(周、尉繚子)

 千金を出せば、当然死刑の者でも死刑にならないし、百金出せば、当然刑せられるべき者でも刑は受けない。すべて金次第であると云われてきている。

 

漢の諺に、「廷尉(裁判を掌る官)の獄、平らからなること砥の如し。銭有れば生き、銭無ければ死す」  □

又魯褒(ロホウ)(晋南陽の人)の銭神論に、「死も生か使む可く、生も殺さ使む可し」(清、通俗論)とある。

砥石の面のように公平な裁判でさえ、金銭の力は人間の生命を左右するだけの力をもっていると云うのである。

 

(3) 銭で動く官吏登用試験

   

 唐の第六代、玄宗の天宝時代(742~756年)の進士で、礼部侍郎(礼節の次官)の職にあった張謂という人があった。彼の詩に

 「世人交わりを結ぶに黄金を須(もち)う。黄金多からざれば、交わり深からず。たとえ然諾暫くは相許すも、終には是れ悠々行路の心」と云うのがある。

 

(4) 同じ《、唐の第七代粛宗(756~762年)時代に、皇帝を諌める「諌議大夫」に抜擢された高適という人がある。彼は気節の高い人で、文字通りに皇帝に直言したため、君側の高官たちは、彼を正視することができず、みな横目で見たという。その彼に

 「世入交わりを結ぶを解せざるは、ただ黄金を重んじ、人を重んぜざればなり

という詩がある。それは、金銭第一、人間不在の当時の世相を、諷したものであろう。

 

同じく、唐の人の書いた本に、

  「当今の選、銭に非ざれば、行われず」(朝野合載)とある。

 唐の鄭アンいう人が吏部侍郎(吏部の次官)となって、文官の採用とか、勲等の階級をきめたりする役目を荷っていた。

 その鄭アンが官吏登用の面接試験に立ち会った時、受験者の一入が自分の靴ひもに“百銭”をつなぎとめていたので、問い詰めてみると、“この頃の試験は、銭を使わなければ、どうにも、うまくいきませんからね”と答えたという。《明大の替玉事件、日本の選挙は銭挙》

 

 

      

         馬賊の頭目  1989 筆者談

 

(5) 金で買売される官位

  

生来読まず半言の書。ただ黄金をもって身の貴きを買う

(末、黄堅編、「古文真宝」)

 生まれてからこのかた、一言半句の書も読んだこともない。ただ金銭をもって高位高官を買うだけだという。 

清朝時代でも、金銭を出して文武官員となった人のことを「損納出身」と公然と云っていた。政府に納めた金額に応じて官職を買ったり、一品以下従九品に至る品級を買うことは制度として保障されていたのである。  「例 補欠献金」

 

そればかりではない。官吏として当然やらねばならない任務にしても、金銭を「損納」することによって、公然と免除されることが規定されている。民を愚弄すること、甚しいというほかはない。

 

清朝は亡ぼされたのではない。自ら亡んだのである

 

(6) 中飽

 

中飽の「飽」とは、腹一杯に食べるということである。中飽とは中間に立つ者の腹が脹れるという意味である。具体的に云うと

 「凡そ公款は、上は国に帰さず、下は民に帰さず、中間の手を経た人が之を侵呑(公金をごまかして着服する)したばあい之を中仙と言う、」(六部成語補遺)

 この中飽という言葉は、韓非子(?~前233年)がすでに使っているが、ここでは清朝時代の中飽状況をお伝えしておこう。

 

 「其の地方官たるや、総督と巡撫は司道に取る。司道は府州県官に取り、府州県官は則ち人民より掊克(ほうこく)(苛税を課して搾取する)す。是を以て、人民の負担いよいよ重し。その官に輸納(納税)し、以て地方及び中央の公費に供するものは、僅か一分に過ぎず。その餘は則ち尽く官吏の手中に帰し、以てその私嚢(自分のふところ)を豊かにす。名付けて中飽と曰う」(清国行政法汎論)と記録されている。

 

 総督とは地方長官で、直隷総督一人、両江総督一入。巡撫とは天下を巡行して軍民を安撫する役。司道とは、布政司(清末には総督、巡撫に直属していた。一省の民政を管掌)、按察使(按察使を以て一省の司法長官とす)塩運司(塩に関する事務を掌る)、糧道(運送事務を掌る)のごとである。

 要するに中飽とは、政府の倉庫は空になり、万民は餓えに苦しむが、その中間における姦吏たちの財布は一杯になるということである.

 

飽暖必らず淫欲を生ず」   

腹一杯食べ暖かに着ている者には、淫心が起り、必ずロクなことはない。

ところが「官清衛役痩」      

上官が清廉であれば、役所の小役入たちは痩せてしまうと云う俗言もある

 

 

        

         

        佐藤先生ご家族  新京

 

 

(7)賄賂は公然と行なわれていた

 

後漢に楊震という非常に博学な人で、関西の孔子とまで称された人がいた。

王密という人が楊震の所へ来て、金十斤を出して、暮夜だから誰にも分からないからと云って贈ろうとした。

楊震は「天知る、地知る、我知る、子知る」(後漢書、楊奥伝)

それなのに、どうして知る者が無いなどと言えるだろうかと言って、披を戒めた。王密は非常に恥じ入って去ったという。

 

なかなか味のある、さっぱりした一宵の清話である。

 

ところが実際の中国社会では、賄賂は、世間憚らず公然と行なわれていたようである

 

官児不打送礼的」(官吏は贈物を持って来る者は叩かない)という俗諺は、今日でもそのまま生き続けている。

 ・

 大体下役の者が賄賂を送り。上役がこれを受取る。大抵の場合は、みな密かに行なっている。ところが日が経つにつれて、大胆となり、入に知られることなど怖れもせず、公然と之れを行なっている。

 法令を掌る役、人などが、色々探聞して、官吏の非行を指摘して懲戒を要請する公文書は、その罪を称して、「賄賂公行」と公然と書いている、と説明している(六部成赳)

 

閣官便佞(ベンネイ)の徒、内外こもごも結び、転じて相引進し、賄賂公行、賞罰無く、綱紀ホウ乱す」(南史、陳、張貴紀伝)という記録がある。

 

 宦官や口先ばかり巧みで実のない連中が、内外互いに結託し、さらに転じて互いに引き立てあい、賄賂は世間を憚ることなく公然と行なわれるようになり、賞罰は無く、国家の綱紀は乱れ切っていた。

 

南北朝時代、陳の後主 第五代(582~589年)の紀張麗華は、十歳の時選ばれて宮殿に入った。その性は聡恵(才智のすぐれたこと)で、多くの官署の悛入たちが奏上に来た時には、後主は何時も華麗を膝に抱いたまま一緒に事を決していた。遂には扱主の寵をたのんで、権力を弄び、綱紀を斎乱した。

 

陳の禎明(587~589)の末、隋兵が台城(江蘇省江寧県北)を陥(おとし)入れた時、後主は張、孔二入の妃と共に井戸の中に陰れたが、ついに捕えられて斬に処されている。

 

 とにかく、宮廷や政府に勧めている者は、互いにかばいあいながら、“昇官発財”だけを考えているのだから、どうにもならない。

同悪相すくいあって、自ら天を絶つ連中の巣窟が、宮廷であり、官庁であるようだ

 

私たちは

 「悪小なるを以て、之を為すことなかれ

と学んでいるのに、彼ら役人どもは、たがいに競いあって

 「悪小なるを以て、之を為さざること勿れ」と励んでいるようである。

 

 現在の中国大度の一般社会や官界を見ても、賄賂をうけて法を枉(ま)げたり、私腹を肥やしている実状は、目に余るものが多いようである。

 例えば、日本に留学に来ている留学生に、聞いてみればすぐわかる。賄賂を出さずに来ている者が居るとしたら、それは大幹部の子女であろう。

 

つづく

 

 

 

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再読を請う 宰相に観る「四患」と民癖  再編

2024-08-17 16:21:11 | Weblog

         満州新京での家族 提供 佐藤慎一郎氏

 

自民党の総裁選挙は立法府の党派の問題である。

多くの議員を集めた政党が党の総裁を選出し、行政府の総理(首相)となり、中央政府を統率監理する。当然の理解整理だが、以下に記す弛緩(綱紀がゆるむ)や怠惰、腐敗、は、政策目標の停滞だけでなく、国なるものの構成者であるべき国民の意識まで変質させてしまう憂慮がある。

2024年、数多の候補者が名乗りを上げる総裁選に耳目が集まっている。

よく『誰がなっても変わらない・・』と聞くが、今の情況で゛なりたい゛と思っている候補者の為すべき必須の問題意識に、どこかピント外れに思えるのは何だろうかと、腑に落ちない部分を拙くも記してみたい。

要は熱狂と偏見の世情が落ち着いて後、浮上する根源的要因を逆賭してみると、先ずは綱紀粛正から信の回復であると考える。

「逆賭」・・・将来起きるであろうことを想定して、今、手を打つ。

 

 児玉源太郎の観人則(人物をみる眼)

当時の官界では特異な人物だった後藤新平を台湾民生長官に任命した

 

 後藤新平

着任するとまず行ったことは、安逸に弛緩堕落した植民地官僚(多くは邦人)を900余を罷免して、無名の若手俊英官吏や技術者を招聘している。

「先ずは人物として、人を観て、人を育て、その人物に資材を任せれば超数的効果がでる」と。

 



以下 旧稿2017年の稿

《国家に四患あり》偽、私、放、奢 (五漢の荀悦)

荀悦は宰相を委任されたとき

『官界(役人)にこの患いが蔓延していては、いくら良い政策でも民に届かない、この状況では四患を除かない限り、誰が受任しても政治はかなわない』

指摘した国家を蝕む、悪しき官吏の患い

  「※」は現代例

」他人や自ずからの良心を偽る  
   逆は「正」

   ※改竄、隠ぺい、廃棄、偽証

」公(パブリック)が無く、私(プライベート)心のみになる
   逆は「公(おおやけ)」 例 「天下為公」孫文

   ※特殊法人、意図した天下り、昇官へのヒラメ意識

」心が放たれて混乱する。自身を制御できない。
   逆は「自省、自制」 放埓の「埓」は柵(法)の意

   ※事なかれ、法の乱立(禁ずるところ利を生ず) 法を作れば罰金など恣意的に徴収できる

」生活が贅沢になり奢る。堕落する
   逆は倹約『一利を興すは一害を除くに如かず』元の宰相耶律楚材

   ※身分保障と担保 生涯賃金の企図
 


国家の役人、政治家に、この四つ患いが生じたら、いくら素晴らしい政策でも国民に届かない。

まして税が彼らの既得権益に滞留し国民を潤おさない、それゆえ荀悦は幾らシステムや制度があっても腐敗堕落した人間が統治機構に存在する以上、政治は成り立たないといっている。

これに頼って既存の法や判例の整合性に拘泥し、質問書や大臣答弁書まで役人頼りでは、寄席の二人羽織や腹話術になってしまう。

役人の不始末に頭を下げる大臣(立法府の議員でもある)これも些少なお手盛りや便宜供与で詭弁を語らせられる議員であるが、四患の部類であろう。 これでは官僚社会主義の手駒のようであり、あの土下座して、泣いても『お願います』とは誰の為なのか分かるような気もする。

しかも世界一といわれる議員の厚遇と身分保障は官域の隠し屏風としての御褒美と思えなくもない。

悪いことの倣いは伝播するもので、津々浦々のシッター街と化した疲弊に国民は慣れ、不埒な陣笠候補の大言壮語に熱狂している。

「人を騙して雄弁家という」昔からの言い伝えだが、黙した匹夫(ひっぷ・大衆)にも責任はある。

昔は陸軍、今は掴みどころのない官域と揶揄されるが、あの開戦時、繁華街は普段のように賑わっていた。御上がはじめて戦争だ、負けるはずはないと。今と同じ改竄、隠ぺいの大本営発表に狂喜した。敗戦すると、めずらしくも手早い作業で資料を償却、津々浦々の役所では煙が立ち上った。国民に見られてはいけない国の歴史の証拠物である。

「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」

記文は国の歴史を鑑とする経国の証であり、民族が後世に遺す行為の綴りであるという隣国の誓言だが、軍官吏、文官等の無定見、無教養は土壇場で露呈する。

また、そのような者たちは土壇場で逃避する癖がある。

いまは効率化の名のもとに民営を促し、独立行政法人として検査、監査の及ばない姿で国家財産を分離して素餐を貪っている。

撤退を転進とした詭弁を弄して逃げた歴史もあった。

満州国崩壊土壇場では、ソ連が首都新京から数百キロ離れた国境に差し掛かったとき、夜陰に紛れて電話線まで切って官舎から高級軍人、軍官吏は逃走した。煽り立て国境地帯に入植した開拓団を護ることなく内地に遁走して役人や政治家になったものもいる。

この国は土壇場で逃げる歴史がある。年少の特攻隊や南方の玉砕や餓死をも賛美しつつも、安閑として長生を願う人たちも存在する。

時空を超え、環境が変わったが、現代の煩悶を考えると、さもあらんと腑に落ちることもある。

                                                                      


小泉純一郎さんのあの頃    通称 横須賀どぶ板通り




この四つの人間の陥る精神的病弊は欲望のコントロールを喚起する宣伝(プロパガンダ)もあるが、人に規範を示す、政治家、官吏、宗教家、教師という権力を構成する人たちの堕落がその要因であることが多い。

しかも彼らは人間の尊厳を護るという政治の大命題を担う者たちである。
それが、徒に人権、平和、生命と財産などと唱えても、人の信と連帯の織り成す中での尊厳を認め合う姿には程遠い姿であり、かえって欲望の交差点における議会争論の種になっているのが実態である。

かつ、この「四患」が表れたらどんな立派な政策でも浸透しなくなる。
つまり、混乱と亡国である。また錯覚した民主、自由がそれを進捗させる




       

           昔は米軍の払い下げといわれたが・・・




国や社会がその連帯や復元力を衰えさせると権力行使に大きな支障を生ずることがある。
とくに徴税や軍役といった国家成立の基礎的要件まで崩れると、他国の侵入や異なる思想勢力の影響を受けやすくなることは、歴史の栄枯盛衰を説くまでもない。
賢者は「税と警察の運用と執行姿勢で民情が変ると」述べているほど、民は身近な公権力の姿を唯一の政治観察として見ている。

その多くは公平、正義、民主といった求心的なアピールと、為政者やそれを取り巻く人間の発する問題とが多くの齟齬を起こしたときに、その政策全般の無謬性に疑問をみるからだ。

その無謬性の崩れる最たるものとして、衰亡末期の表層に現れる責任回避や、新規政権に擦り寄るための情報漏洩、あるいは最後の一仕事とばかり蓄財に励む汚職や便宜供与など、風向きを察知した人間の行為は古今東西それほど変りはない。




                




あの正義と民主を掲げて世界の軍事や経済を牛耳っているかにみえる米国も例外ではない。
よく「アメリカの正義は健在」と、事あるごとにその威信の回復力と、慈愛に満ちたメッセージが大国の魅力として、またシステムとして多くの国々の羨望を集めている。

その動きは近年、世界の軍事警察を謳い、自由と民主を掲げ消費資本管理主義の領域拡大に勤しんでいる。しかし余りにも強大な軍事力は、処刑方法を楽しむ権力者のごとく、圧倒的な力によって、゛負ける喧嘩はなし゛の様相と、それを安逸として繁栄を貪る社会の弛緩は、まず権力とその周辺に現れてくる。
これは弛(ゆるみ)の一端である。

≪2004/10に米国下院倫理委員会は共和党のトム・ディレイト院内総務を7日譴責処分にしている。

疑惑はエネルギー関連会社から2万5000ドルの献金を受け、直後にゴルフなどの接待を受け、審議中の関連法案に便宜を与えたという。選挙区割りについても政府機関に不当な圧力をかけた疑惑もある≫



≪ブッシュ大統領が太平洋司令官に指名し、直後撤回したマーチン空軍大将も空中給油機リース契約に絡んで、女性職員を総額320億ドルの契約先であるボーイング社の副社長に就任させ、家族もその恩恵に与っているという≫

≪国防総省政策担当のライス次官の中東担当直属部下は、機密扱いだった対イラン政策の文章をワシントンの親イスラエル団体に渡していた疑惑。アジア問題では国務省元次官補代理が国交のない台湾を無断で訪問して女性工作員と接触して関係文書の提供をしている≫

浜の真砂ではないが、先進国、世界の警察といわれる米国をしてこの有様だが、我が国のテクノクラートと称される人間にとっては語るも意味のない内政問題でもあろう。 とくに官吏はこの手の話を嫌うものだ。栄枯盛衰から人間を観察するという学問に不慣れなために、官制学校歴マニュアルの思考を、ごく平準で科学的ロジックとして吾身を覆うようになっているからだ。そこには民情と公権力を自己制御や修正の有無を観察する座標もない。






           京都 東福寺


政治家福田赳夫はその孤高の決断における自らの範として、漢学者安岡正篤氏を挙げ、自らを弟子と称して指導を仰いでいる。福田が総理として心したものは安岡氏から伝えられた任怨分謗(ニンエン ブンボウ)という文字である。

任怨とは人の恨みを素直に受け入れる、分謗は人からの謗りを他に転嫁しない。その揮毫は家宝のように大切にしているという。権力闘争の真っ只中で風雅を漂わせているような福田の清涼さに、我国の輔弼たる宰相にふさわしい矜持をみることがあった。

翻ってみるに前記の米国の内政における人物の放埓や、我が国の政治に観られる径行は、両国の指導者に類似するスィンク・アクションの間に必要な礼としての調和が、直情性格によって混迷しているようだ。

直にして礼なくば、即ち絞なり」とは隣国の故事例にある章だが、正しいという思い込みは反論を退け、まるで遮眼帯をつけた馬のごとく猛進する。その成否はともかく自らの選択肢や政治政策を締め付けてしまう恐れがあると説く。
怠惰な民情と新鮮さを亡くした公権力は等しく国民の認めるところだが、一方ではその根本に立ち向かう有能な遂行者を自滅させてしまう危険性がある。
(わが国にはそれに符合する総理、政治家もいた)

よく「六錯」といって、錯覚に囚われる弊害を説いているが、

暴を以って勇となす」「詐をもって智となす」「怯をもって守となす」「奢をもって福となす」「怒りをもって威ありとなす」「争をもって気ありとなす」

まさに錯覚だが、政治指導者の根本教養として、また観人則として必須の修学ではある




               

               安岡邸にて



宰相におきかえて、この暴、詐、怯、奢、怒、争、が大義の美名に置き換えられたとしたら、勇、智、守、福、威、気、の備わった名宰相になってしまう。この間には戦禍復興の迷走や走狗に入る知識人の登用など既成事実の後追いもあるが、これは座標の迷走を変化に対応する「決断」として評価する錯覚した見方でもある。

もし、鎮まりの精神に「任怨分謗」という陰の覚悟があるのなら、表層の騒がしさはない。しかもマスコミの到着を待って参拝するパフォーマンスは鎮護の国の輔弼とは到底思えない。不特定多数の浮俗の欲望に追従するかのような現世利益に基づく政策争論もその任の範疇だが、六錯のいう観人則の錯覚による人間力の劣化は、総ての前提を意味のないものにしてしまう危険性があるだろう。

【以上は宰相の観人則(人物の見方)と、それらに構成されている組織の心構えではある】

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選挙は議員失業対策のプレゼンの如く  あの頃も

2024-08-15 09:39:00 | Weblog

 

 どうしたらと嘆いても、自分そのものが解らない時節だ。

自分とは全体の一部分としての自覚だが、それを基とした思索と観照、そして精霊への畏敬を無意味なものとして考えられている現状では、ついつい依頼心のみが増幅してしまうようだ。多くは政治に求めるが毎度のこと信が乏しくなる。

それゆえに信あるところを探すが、大声で信じてくださいと言われるほど昨今の選挙は鼻白む思いがする。

ここで言わんとするところはアカデミックな政治論ではない。つまるところ何に感動し、倣いとして畏敬するか。そこから比して政治の信を観るのか。

 

                 

 

 

どこに行こうが、゛寄らば大樹゛、当選しそうなところに貼り付け膏薬のように右往左往しているのが近ごろの選挙のようだ。いずれも命懸けで国の行く末を靖んじているという。

 

浮俗の不特定多数も然り、あの特有の津軽選挙のように落選したら取り巻きは、次の選挙の勝ち馬に乗らなければ、御上からの褒賞狙いの充て職も剥奪され、公共事業の入札からも排除される。下は村会議員から代議士まで親分子分の系列があり、職域でも組合がある。

 

思想も政策も親分のトレース(複写・腹話術)で、突き詰めれば地位と名誉がついてくる食い扶持獲得と、便宜供与の優越感だろう。また、そのように思わせる彼らの行状がある。

 

まともな情感をもった有権者なら、少しは楽ができそうな謳い文句にも食傷ぎみになったが、信じられる対象ではない候補者が任期中に大声で謳った公約なるものが叶うとは思ってはいない。ただ投票所に足を運ぶのも、人と異なることを否とする習慣性なのだろうが、帰りの居酒屋で当落予想では競馬と変らない。

 

                                   

                                大久保利通

創生期は明治だった。はじめて国民として呼称され、日乃本から日本国となった。当初は天皇の輔弼として元老院を設け有司(役人)専制だった。自由民権を謳いだすと交換として徴兵制度が創設され、ついでに西洋を真似た議会がつくられたが、もともと官僚社会主義の様態をもった国であった。それがこの国民にはよく馴染んだ。

その役人だが、問題になった一般財政の3倍もある特別会計が問題になった。追求したのは民主党の石井紘基議員だが、このまま進んだらソ連共産党やアルゼンチンにように国が融解してしまうと危機感をもったが質問の当日、刺殺された。同僚議員は誰一人意志継承するものも無く、検査院、国会すら検証できない国家の伏魔殿のように、いまなお残置されている。

彼らからすれば、議員は落ちればただの人、煩ければ、弱み材料を出せばマスコミが追いかける、役人のミスは大臣が頭を下げ、答弁は役人の二人羽織か腹話術、慇懃に服従するが操縦は狡猾だ。本質は官僚支配ゆえに、選挙は形式で、政権交代しても国民生活は何ら変わることはない。

昔は役人のことをオカミ(御上)と称していた、確かに勅任官(天皇任命)もいた。

これを依頼心ゆえとは切りすてられないが、課題を出されれば疑問も持たず懸命に答えを出そうとする試験と同様だとは言い過ぎだろうか。これを以て民族の性癖とは思いたくはないが、思索力が乏しくなると頭をもたげてくるのも妙なことでもある。

 

いっとき国家社会主義が若手官僚や軍人に流行った。満州はその官製資本主義の統制経済モデルとして曲がりなりにも発展した。現地の人々の陋習には馴染まなかったが、その残像は我が国の高度経済成長につながった。これも岸信介や国内の若手官僚の経国政策だ。

 

多くは資金を集中投資して基幹産業やインフラを作ることだったが、その相乗効果は後の予算の乗数的支出効果として常態化した。ピントの外れた政策に湯水のように支出してはいるが、数値効果は記述されても、現実には迷い、戸惑い、あたかもその迷いをすくい上げているかのように聞こえる政策も外れ効果しか出せないでいる。

それは政策ではなく対策なのであろう。敗戦はなおさらの事、気概も失せ目標も勝者のお仕着せ、まして阿諛迎合が政治や言論界にはびこっていては、他国から我を亡くした日本人と揶揄されることもあろう。

 敗戦の頸木から抜け出せない売文の輩や言論貴族の繰り言が人心を多様化や個性の発揮と称して煽り、ときに欲張った大衆に担がれた政治家は、前記の官僚社会主義を操る鵺(ぬえ)のような狡猾官吏の手のひらで踊っている様相がある。

慇懃にも遣われているいるような税吏や治安官吏ですら、税務調査権と恣意的に運用できる選挙法によって、いずれ政治家も手も足も出ない状況が表れるだろう。

官吏は生涯賃金と人事昇官にことのほか興味があるというが、落ちたらタダの人と嘲笑される政治家ですら及びもしない世界がこの国には厳存している。

 

          整理整頓

 

左方と称される者たちの食い扶持担保は弱者救済の美名だが、組織労働者や自治労、教員や教育および福祉関連の、これまた労働者と称される部分にその身分担保を求めている。一昔前は篤志家が寄付した保育園を乗っ取りが流行った。施設経営権と一園に500票といわれる幼児をダシにした支配権の占有だ。中小企業の組合による経営権簒奪も同様なことだ。

 

それが自由主義国家の優等生で繁栄した幸せな社会の行き着いたところだという。

なにもゴマメの歯ぎしりで愚かな批判を旨とするものではないが、このところ話題となっている選挙候補者のプレゼンテーションは、お詫びと反省、イケメンや有名人の応援、マスコミの恣意的そそのかし、口角泡を飛ばす関係者、プレゼンの舞台に投げかけられるのは怨嗟と諦観が漂っていることを察知している邦人も多くなった。

 

泣き、騒ぎ、握手して頭を下げる。精神的健常者のすることではない。

これがデモ・クラシー(民主主義)というなら、この期間はデモ・クレージーの様相がある。

全ては一強といわれる人物の飾り役者の一世一代の演技だろうが、どこかギャラ目当ての魂胆が透けて見えるのも浮俗の国力というものなのだろうか。

      

        

 

あの御方にご感想を拝聴したい気持ちになる。

真に申し訳ない慚愧の念がおきる昨今の民情である。

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もう一人の自分の安心は、己を知る人の存在  2021再

2024-08-14 01:07:03 | Weblog

 

ときに己にも問いかけることもある内容ですが・・・・

 

武士(モノノフ)は己を知る者のために死ぬ、と聴く。

現代社会は、相手に知ってもらいたいと、なかには「見て!見て!」と、性別にかかわらず料理なり技芸を見せたがるが、人品や人柄とは何ら関係のない附属性ともいえる、たかだかの特技を誇ったり、身体表層を飾り、ときには偽装するような目に見える姿は、ここでは「己を知る」とは言わない。

 

もともと己を知らないままに生命を遂げるようだが、碩学安岡正篤氏の講堂の掲額には「我、何人(ワレ ナニビトゾ)」と記されていた。

ゴーギャンは南太平洋のタヒチに渡った。毛沢東は革命を通じて己を知った。孫文は中国近代革命の魁となり、西洋列強の植民地主義の膨張政策がみえた日本および日本人に「日本は東洋王道の干城となるか、西洋覇道の狗となるか慎重に考えるべきだ」と唱え、「真の日本人がいなくなった」と嘆息していた。

ゴーギャン、毛沢東、孫文、そして日本人も我を知らずに、まるで雲をつかむかのように目標を高めながら邁進した。

そして日本は我を知らぬまま、いや忘れたのか、惨禍を経験した。

             

            安岡正篤氏

筆者は孫文と明治の日本人の関係を研究しつつ現地で逗留し、彼の国の民情や民癖を知るためにその世界に浸った。それは異民族から「真の日本人はいなくなった」といわれる由縁を、どうしても知りたかったからだ。そのから内心に潜在するであろう、明け透けな己を感知したかった。

 

二十代は「明治に会え!」と今では教科書や研究本に記述されている古老と邂逅した。その後は財貨の繁栄に雀躍する日本人を眺めた。浸かると己が解らなくなりそうだった。まだ、三欲(異性、食、財)には闇雲に敏感だった頃だ。それは己を別の自分が眺める境地でもあった。

生意気にも溺れないと悟ったようだが、いっとき試しに浸ったみた。

今では遊戯といわれているが、パチンコやマージャンもしたが馴染まない。水の祭典に誘われて競艇に行ったが、舟券より観客や選手に興味があった。どうも遊びだというが金のやり取りが苦手らしい。食は銀座のビヤホールに三十年以上通って常連となったが、やはり幹事を頼まれたりしながら多くの泡友と知り合った。

 

         

             ライオンビヤホール

 

そのうち、変わり者の話を聴きたい数奇者がいた。売り込むことは先ず無いが、警察、自衛隊、大学、企業などに呼ばれるようになった。何度か茅ケ崎の政経塾にも行って長時間の正座講義もした。多くの生徒は吾を失くし目の前の些細な問題に汲々としていた。我を知らずして単なる暗記で、覚えた、知った、の類で数値選別された若者が問題意識もなく、それぞれの食い扶持の囲いに誘われ、閉じ込められていった。

そんな経験だが、自分でも何かに誘われ、押されるような不思議な縁だが、人は勝手にアナタの星だという。

星のせいか、いまだかって足代や話料は貰ったためしがないが、無学の馬鹿話でも聞く人がいるだけマシだと思っている。

 

    

            恥ずかしながら 少し歪み始めた童心/?  

 

おもえば二十代の頃は思索の思春期だったのだろう。

無名は有力」といわれれば誘われる集いでも肩書は無し、誇れる学校歴もなしだが、今でもいたるところ学び舎だと思っているせいもある。

吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず

物知りの馬鹿は無学のバカより始末が悪い

実感しているし、現実を見てもその通りだからかも知れない。

 

筆者の余話だが、性が江戸っ子なので野暮な生き方は好まない。

それでも、いくらかは女と食い物と金には、からっきし頼り無いと悟り嘆いている。

これも、゛しかたがない゛に属す浮世のハナシだが、それでもエンジンが高回転するときがある。そんな時は今まで感ずることのなかった己に驚くこともある。

他人事でも寝ずに考え、文も途切れることなく進むことがある。それが琴線だと分かる。

 

それが女性に向かうか、飲食や財か、はたまた虚栄なのか、要はロシュフーコの言う自己愛から発するものかはわからないが、まるで与太郎が求道者になったかのようになることがある。「他と異なることを恐れない」と、他人に語っていることだ。くわえて大学では「大学は落第してもいい。人生を落第しないように」と伝える。

そんな時「貪らざるをもって宝と為す」が頭を巡る。つまり、どこか無垢な内心に問いかける余裕の刻だ。そして「何事もホドだ」と聞こえてくる。

 

面白いことに、そんな人間でも解ろうとして考えてくれる人もいる。

こちらは未だに「ワレ、ナニビトゾ」と追いかけているが、それを知ろうと躍起になって考える。想像もあろう。

人と会うと、「目の前にいる人が一番」と思っているためか、誰でもどんな職や地位にあっても一期一会のつもりで関わるようにしている。

たとえ巷で見かけた老人でも声を掛けたくなる。寂しい欲情ではないが張り詰めた気を緩めるために闇の仕事と本人が言う人に遇っても好奇心が湧く。それは老若男女を問わず、「闇の仕事」という音感が面白くなる。お節介は表世界に出そうと思うだろうが、闇にいるからこそ潤いが増すのだ。

 

混濁して本当の姿が解らなくなっている。いまどきはカウンセリングや占いの餌食になるタイプだが、表は女子大の秀才で技芸にも長けている。なによりも父親の経営する塾の全国大会で優勝する女性だ。

父親の対応は厳しく、改札口ではタイムウォッチでも持っているかのように待ち、学習時間も厳格だ。それでも本人は優勝したときの新聞切り抜きを持ち歩いている。

ピアノも弾くが、あるとき「ピアニストになるかピアノプレーヤーになるか。ジュリアードに行けば、間違いなく早く弾けるがピアノプレーヤーでしかない。あなたはどっち?」

 

         

            ブラジルの友 オスニー・メロ

 

数学者は別として、単に数字計算に長けている人は情緒性が薄いといわれている。学校秀才は俳句や和歌は詠めないと、父祐介を評した鶴見俊介だが、彼女もJAZZやセッションは馴染まない。それでもトライし努力はするが適わない。

 

とても美麗で人気があった。

後ろ姿にウットリして男どもはピアノに聞き入るが、本人も視線を意識しているのが分かる。ある日、二人だけの時「自分は事故で顔を傷つけたために整形をしている」と語り、自分はいかに父親からされたことを涙ながらに説明した。

たしかに新聞の切り抜きの彼女とはまるで別人のように無垢で美しかった。

厳しい親、結婚、世間で演奏する、やむなき整形、でも現在は人に見られて演奏し、可愛いと褒められる。

 

 

        

         エカテリーナ・コロボア  文中と別人です

 

彼女のスタイルはブライダル向きの演奏だか、担当にも言い寄られることが多い。しかしこれを生育時の問題と絡めると、事が変質してしまうので聞くときには分別するようにしていた。

前の容姿と今の容姿だが、結婚以前の逃げ出したくなるような環境にあったために他の女性への羨望に近い自由と、劣ると思われた容姿が混在する情緒、それが言い寄る相手に優位さと不器用な戸惑いとして、どこに本心があるのかわからない自分への苦悶のようだった。ときに褒められて当然とする姿もあった。

 

なぜか、父親との関係を語るに涙、その言い寄った男をスローしていたため、男が諦めたのかほかの女性に気持ちを向けた時の悔し涙。好きになったらどのように接していいかわからない、だから応対が玩んでいるようにも映り、相手も悩み、本人もそれに優越を感じさえしていた後の、彼女にとっては計算の立たない場面だ。

気がつよそうな彼女にはいろいろな涙があった。その度、涙を流す。その相手はこちらだ。

 

ある夏、ステージではカリプソパンツに短いブラウスだった。演奏はテンポをとるために上半身を揺らすが、そのために半袖の脇から下着がのぞき、少し豊満な脇腹が目についた。

真面目な常連の客でも見て見ぬふりでチラチラ覗いている。

合間に「すこし気を配ったら・・・、」とわき腹を軽く押した。いまならセクハラだが本人はデブといわれたと勘違いした。機会も少なくなった。

何年かして出会ったらガリガリといわれるほど痩せて、身体容姿に優位性を感じていた彼女だが様変わりしていた。

 

あの時の言葉で素(もと)の彼女が表れた。それでも紹介した外国駐在の施設では、やはり米国人のスタッフに言い寄られたとか、高官とのプライベートデートに誘われたとか、妙な姿になっていったと、その施設の女性スタッフは耳打ちしてくれた。なかなか日本人プレーヤーは入れない施設のために彼女にとってはステータスなのだろう。でも。これも彼女の闇の世界だ。

 

女性は整形で容姿が変わると男関係に放蕩する場合があるという。

また、昔の姿を知っている人間には疎遠になっても、その人間が今の自分を知らなくても、たとえ闇でも遊惰の巷でも、別世界で虚像を見てくれる人、つまりそのような歓迎してくれる世界のほうが、居心地がいいのだろう。

渋谷の東電女史、有名人や富豪の囲い、たとえ酔客でもそれは別の自分を確認できる場所なのだと聞いたことがある

みな、それなりに「綺麗!」といわれることに慣れているが、美しさはない。

ちなみに男は人格とは何ら関係のない前記した附属性価値を誇るが、なかには衣装や車や家、姿はエクササイズや流行りのカツラなどで装うが、中身は反比例が多い。

 

    

      読者提供  まさに無垢

 

昨今は人との出会いでも、まずは地位や名誉や財力、学校歴などが評価となる。

だが、利口な彼女たちは人の明け透けな性欲や射幸心を眺めることに今の自分を見ている。

不器用な人は物欲もホドを知っている。男の様相も冷静に眺めるような、戯れに似た幼い母心も持っている。

 

哀れむべきは、すっぴんの童心を隠さなければならない環境にある。それに負けて隠し、飾らなければならないからこそ、沈黙の闇に妙な潤いさえ感じているようだ。

ねぇ見て見て!

本当の無垢な内心を探し、そこから今の自分を見ないで、怖いのか、恥ずかしいのか、他と比較したり優越を競っていては何もわからない

 

己を知る者のために死ぬ。キリストも愛は不特定多数への犠牲として自らを表した。

表のために裏を犠牲にする。闇に明かりを観ることもあろう。その逆もある。

他と異なることを恐れない

たかだか地球の表皮にうごめく人口は七十数億、誰一人同じ特徴をもった人間はいない。

縁があって生まれ、その無垢な特徴を知らずして他をうらやみ、競い、嫉妬する。

気骨も失せ、流れなければ生きられない。

 

素直に生きること。まともな男も女もそれを見ている。

それこそ、悩みや迷いの外だと思わざるを得ない。

 

一部イメージは関係サイトより転載しています

 

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政治・行政・教育 要は綱紀粛正からだ 2018 10 あの頃も

2024-08-10 16:14:09 | Weblog

 

       

 

 

文字と詭弁の「乗数効果」、そして後藤は「超数的能率

 

いっとき管直人君がこれでやられた。

ただアカデミックな言葉は知らなかっただけで、政治家の離合集散における乗数効果はお手のものである。

100万投資すれば1000万の経済効果かあるというが、オリンピックは政官財の汚職、腐敗、弛緩を生んだ。

 

小人、利に集い、利薄ければ散ず

小者は利の臭いに目ざとく、利(力)が衰えれば離れる

 

考えれば選挙制度なども政権側の継続的維持のために図った仕組みだが、浮気性の国民はその仕組みさえ別の要因でひっくり返す。年金とスキャンダルだ。

突き詰めれば大きな勢力による専制、つまり同じ党でも思惑がバラバラで纏まりがつかなくなり外交や税制すら決められなく、終には候補者の選任を党が行うという、国民にとっては推戴の選択すらなくなった小選挙区制による議員の生存与奪権の党一極集中化にもなった。

 

向かうところは憲法改正ではあろうが、仕組みは宜しくとも人間が成っていなければ食い扶持や便宜供与ですぐにひっくり返る代物だ。それくらい卑しくもなっている。

 

官吏とて、゛今のままがいい゛と、無理もせず傍観している。これもしたたかだ。

 

怠惰や堕落の兆候も世上に表れたとたんに「乗数効果」のように、100が500効果となって、ここでは蔓延効果がはびこっている。天下りによる組織権益の増殖などは、まさに乗数効果である。

 

彼らのその位置をまんまと占めた結果、法によるガードは国民に向かっている。同じ理屈の土俵に乗った議員などは情報の栓を閉められればギブアップである。

 

 

あの大阪の橋下君は維新を唱える。

いまの法の在り様を是正して新法をつくり対抗しようとしている。

あのレーニンも、「その行動は法に違反する・・」と忠告されたとき、「革命は現在の法を無とする、つまり無法が革命だ・・」と既存の法体系にこだわりない行動を推進した。

 

翻って維新は「」を新たにすることだ。「維」は国家の縦軸の様なもので、現在観の横線はスパイラルのように縦軸に絡みついている。

この連綿と続いている縦軸を折ったり、入れ替えることが革命である。橋下君の維新は、縦軸に絡みついた人の模様、つまり怠惰堕落に陥った既得権をはぎ取り、すっきりした「維」を明確に表して、新たな縦軸に寄り添い、守り,護られる覆いを作ろうとする新風運動でもあると思うのだが、これも勢力が拡大すれば軌道を外れ綱紀は緩む

 

台湾でも蒋介石、維国総統が「新生活運動」を行っている。公務員の綱紀粛正、国民の道徳喚起を柱とした整風運動だ。「風」は趣、装い、香、などだが、異郷に我が身を浸してみると社会の情勢、人の姿、落ち着きなど異なりを以て感じたり察したりすることがある。単に雰囲気としての印象はあっても、それを支える表層の経済や政治の姿とは別に、往々にしてそれを司る官吏の意識で国情は変化するものだ

 

たとえば官吏の賄賂だ。高官や政治家が汚職を働けば国民はそれら倣い、また国家に怨嗟の気持ちをもち愛国心などはお題目になるが、官吏の汚職は社会の喧騒を招き、公徳心すら毀損する。しかも人々が信じられない世界が表れるようになる。

 

汚職といっても大金ではない。せいぜい税関や郵便局、役所、それと警察官だ。

それらの国は、国民も分かっている。その点「人情を贈る」ぐらいの気持ちだろう。

物でなければ、「風」を忌まわしくさせるのは怠惰である。手続きの遅延や滞貨である。

 

 

 

翻って我が国はどうだろう。賄賂はないが罰金の種別の多さと法の煩雑さは諸外国でもずば抜けている。街には制服警察官が溢れ各々交通切符を抱えている。昔は家族駐在があったが、こんなことをしたら防犯や非行防止の協力さえ得られない。街での精励勤務の姿の現示はいいが、罰金徴収の勤務評定はいかがなものだろうか。

企図するは「禁ずるところ利あり」安全や防犯を旗に掲げ、法を作ればいくらでもノルマ付きの罰金は増大する。立法役の議員は解釈次第で違反になる網目の細かい公職選挙法を盾に安易に立法に賛成する。

 

狡猾な官吏は坂道に隠れてスピード違反の切符を切っている。これでは坂道を作ったり、車が増えれば罰金の乗数効果があるということだ。筆者の懇意なある警視庁幹部も捕捉され「こんなところで・・」と嘆息していた。そもそも坂道で捕捉するのは日本だけではあるが数値は上がる。まず欧米ではアンフエアーな行為だ。

 

なにも交通安全、法令順守に掉さすつもりはないが、面前権力の姿として一番目立つその立場からすれば「風」の乱れを考慮すべきことだ。

税にもいえる。赤字解消と首長が騒げば、我が身を切らず、サラ金の取りたてのように税官吏が法の平等を屏風にして恫喝する。

事情は忖度することなく「差し押さえするよ」、しかもその金利は延滞税と称して14%で経費にもならない。

これも税収や罰金徴収が順調なら上司からも数値を責められず、国民は安心して暮らせる。

政策がよくて経済にまともな乗数効果が発揮できればのことだが・・・

 

この二大面前権力は「江戸の仇は長崎で・・」のように国民は逆らうことができない。

これが、我が国の「風」だ。大人しく、押し黙り、我慢をする、そんな印象は当然だ。

 

 

 

さて元気な時もあった。

後藤新平は『一に人、二に人、三に人、その人が金を効果的に使えば「超数的能率」はかならず上がる。つまり国運は上がり人心は安定する』と言った。

金が人を駆使するものでなく、人が金を産み、活かし、それが数字を超えた能率を高める、と言っている。

「乗数効果」と「超数的能率」、前は数値計算、後の方は人の資質如何で増大する。

つまり、官吏の能力によって数値は想定外に超えることができるということだ。

人品骨柄を問わざるを得ない環境に堕した、それは人間の質といってもいい。

明治はことのほかリーダーは人物眼を要求された。それは地位、名誉、財力、学校歴という人格となんら関係性の無い附属性価値を避け、目的を共有し、使命、責任を全うできる人物の登用をまず国政の要諦にしたのだ。もちろん経済界、教育界もそれら倣う。

 

それは「人間考学」から生ずる英知の欠落でもあった。

 

そもそも「人間考学」は、教える者もいなければ、学んでも金にも安定担保にもならないと考えられているが、ブロイラーはつよく善い卵は必要ない。ただ大量に見栄えのいい卵が必要なだけだ。

 

認知しているかどうかわからないが、名古屋の河村市長も橋下君も国家の下座観から推考している。余談だが公務員上級試験に「空間推理」「数的推理」「判断推理」がある。

だが、狭い度量、目的意識の欠如、はたまた偏執、変態の類は計ることなく数値評価のみが支配する。もちろん公徳心や愛郷心などはかえつて邪魔で無意味な感情だろう。

 

とくに、経国に必須な「先見」や「逆賭」、あるいは「地球俯瞰」、「歴史事象の賢察」など、ゼネラリストとしての養成が欠落している。ただ海外研修や官官交流、渡り職でお茶を濁している。

 

だが、安定職と食い扶持のタックス・イ―タ―任官試験ゆえに、通ったら忘れる類だが、後藤の言う、「一に人、二に人・・・」の類は微塵もない。

公徳心や使命感、責任感の乗数効果も、相乗効果すらない。

 

どの社会もそうだが、部分分担に調和と連結が無ければ総和は図れない。

天に唾する拙い考察だが、ここでは後藤新平の慧眼と逆賭に今を観るようだ。

 

人物如何で超数的能率の効果は国家の盛衰を示す

 

だれでも分かっていることだが・・・・

 

 

 

 

 

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189連勝 アニマルといわれた男への手紙 2007 再

2024-08-08 14:51:26 | Weblog

 

友人が拙宅に同伴した渡辺さん、当時は中国レスリングのコーチ招請があった頃だ。

189連勝、オリンピック金メダル。それでもずい分と昔のことだった。

今どきのスポーツ選手と違って、当時は目の前に賞金やCM収入も無かった。

純朴さと忍耐力、世間慣れもなく、ゆえに騙されることもあった。

だが、流行りごとのように、騒いでいた人たちは、飽きると散る。

※故事「小人、利に集い、利薄ければ散ず」

幾度か連絡を頂いた。

そんな頃の手紙だった。

 

 

 

渡辺長武さんへ

69連勝だった横綱双葉山は敗れたとき、外遊中だった安岡正篤氏に打電している。

「我、いまだ木鶏にいたらず」

それは、騒がず、うろたえず、無闇に競わず、といった境地になかなかなれません、と報告しています。

勝った負けた、あるいは言い負かした、叱った、と言ってもすべて自分の至らなさだと双葉山は悟ったのです。

木で造った鶏のように落ち着いて、それでいて人が尊敬し、時には畏れられる人物にならなければならない。

おろかな人を責めるより、また、そうならないような人格と、落ち着きを養うことの修めが足りなかったと、その至らなさを「我 いまだ木鶏にた至らず」と打電しました。

名横綱として相撲界に名を残した双葉山の精神修養は、もう一歩、高いところにおいていました。
                    
                                   頓 首

 

イメージはosny meroさん・関連画像サイトより転載

 

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国家の応答辞令 あの頃も 2018

2024-08-07 16:16:15 | Weblog

 

平成23年12月17日 津軽弘前城




「三億失っても、五億は残る」


金の話ではない

人の数の話だ

きっとこんな会話だったと推察する

「いつでも(言うことを聴かなければ)核を打ちこめる・・」

「なに、三億死んでも五億は残る」

これは余りにも有名なスターリンと毛沢東のエピソードである。

これは地図中の大きさと人口の数が「力」となった例で、しかも「生命と財産を・・・」と謳う我国の指導者には到底まねのできない応答でもある。

外交は先ず言葉の切り合いから始まる。その先は戦争である。

小国日本は日露戦争の軍費を調達するに国債を売った。引き受けてはユダヤ人の資本家である。ロシア国内のユダヤ人保護という大義があったが、もし負けて国債が紙切れになったら資本家も困る。普通は担保を取る。土地をとっても民衆もついでに付いてくる。
食わせるのに大変だから、関税権を担保にする。税の権利を取られたら国家の独立は成り立たない。「税」が無くなるということは戦車も大砲もいらない、いまは交渉という名の恐喝まがいでその国は自由になる。

よく交渉後、指導者が笑みを浮かべて握手する。もちろんマスコミセレモニーだが、これが大国と小国だと現場は恫喝と迎合で収まる。
佐藤総理も沖縄返還の端緒になった大統領との会談のエピソードだが、場所は執務室である。

この場合は大統領は執務机に足を上げるが、これは親密さと無礼が混じる。映画でもそうだがアメリカ人はよく机に足を上げる。ならば郷に倣って佐藤総理が足を上げるわけにもいかない。畏まるしかない。しかも当時の日米の力加減は差にもならない。

せいぜい10分か20分しか会話も持たない。帝大から官僚、そして兄に引き立てられて総理になった人物でも、否、だからこそ郷里の英傑高杉晋作のように馬関戦争で負けたくせに、堂々と渡り合う度胸と頓智は浮かばない。

そこで渡米前に安岡正篤氏から応答辞令の妙を訊いている。
要は、日本の武士道と西洋の騎士道を例にして、勝者が敗者を労わる矜持の在り様だ。

これが効果を表すかどうか、佐藤氏は鵜呑みで理解したが、真意は半解だった。
安岡氏は国家民族の指導者である総理と大統領の応答の質を諭したのである。
その元となるものは武士,騎士に備えるべき「道」の問題を互いの共通項としなければ、単なる勝者の大国,敗者の小国の、高慢とひくつ迎合に終始してしまうと危惧したのだ。
とくに、米英鬼畜がギブミーチョコレートにたちどころに転化する順応性と阿諛迎合性は外交交渉において嘲りを受ける問題だ

その成果は沖縄返還だが、施政権の返還であって沖縄の返還ではないようだ。
つまり占領したが住民がそこにいる。民政には金もかかる。行政権は還すが治外法権と広大な基地はそのままである。それが限界だった。

国家の目標や理念もなく、また自浄作用も乏しく、銭を蓄えて、揉み手で迎合する当世では、逆にあのマッカーサーのように外圧を期待する軟弱な外交官も出てくる。
ワシントンのシンクタンク、ブルッキング研究所で大使や訪米政治家に意見を聞くことがあるが、意見が無いという。つまり自身の哲学や国家に対する使命感すらなく、どこどこの国が・・・、と、まるで相手次第といった無責任な応答しかないという。
教科書エリートか伴食議員とおもえばそれだが、国民は訳も分からず難儀する。










原発について欧米ジャーナリストが口をそろえる
作業員は世界一だ。しかし上のものはどうしようもない。この国のエリート教育は失敗した。おかしいと気が付いていないのか、分かっていても直そうとしないのか、この繁栄はどんな意味があるのだろう

それが国会で騒論を繰り広げ、外交官吏は自国を刺激するよう交渉相手に裏で促す、それを成果として己の生涯賃金を陰で計算する。堕落、弛緩ということがあるが、狂っているとみる。

むろん、毛沢東とスターリンのような応答もできない。
歴史家はしたり顔で過去を解説するが、外交は当事者の応答辞令が多くの要因をなす。それを組織に都合や、文言の理解齟齬、風の吹きまわしなどを部分の理由にしても、総じて智慧が働かず形式ばった責任回避を、狡知を以って言い訳する当事者の詭弁にすぎない。

政治家も官吏も「人命財産」というが、「国家」を背負う気概がない。もちろん民も上に倣う。

筆者の知人ブラジル移民の某氏は、出発前に母親に促されて仏壇に座した。
目の前には母が嫁入りに持参した懐刀があった。
この懐刀は身を守るものではない。もし、男子として恥かしいことをしたら自身を突きなさい。苦しくて帰りたくなったら船上から海に身を投げなさい
そう云って我が子を送り出している。
たしかに下々の庶民は優れている。

もちろん、現地では尊敬され大成功を収めた。それは不毛の大地といわれたセラードを開拓し、いまでは豊饒の大地としてブラジルの興隆を支えている。

地位や名誉、学校歴は身を飾り守るものではない。ときに矜持を汚すことがあったら、その人格とは何ら関係もない附属性価値は刃となって吾が身を突くはずだ。
それさえも出来ないような官徒、政徒を国家の遣いに出してはならない。

国家の矜持である命の礼とはそのようなものだ。

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オリンピックは地球のドサ周り 2013 3/1あの頃

2024-08-06 19:04:53 | Weblog

 

あの頃も・・・

旧竹田宮、JOC会長がオリンピック招致に絡んだ贈収賄でフランスの捜査機関に聴取されたと伝わった。竹田宮家は高輪にあり、今はプリンスホテルの関連施設になっている広大な敷地だ。その西武の創業者は堤康次郎、あとを継いだのは次男義明氏だが、永年オリンピックに関係し、竹田氏も充て職であるJOC会長に就任したのも、皇室縁戚ブランドの為せることだと大方は承知している。

康次郎氏は空襲のさなか困窮した旧皇族の敷地を買いまくったことは伝記にもあるが、プリンスホテルの多くは皇族関係の土地が多い。長野五輪までは西武グループの影響が大きかった。その後の事業頓挫に加えて、長野五輪の会計を含む関係書類の廃棄など、今回同様の招致に絡む金銭贈与については、大方の国民は察していた。

都市博や万博など政治がらみの誘致には、必ずといっもよいくらいに、政官財、あるいは外国関係者を巻き込こんだ招致対価が噂される。

巷の祭りで言えば、屋台の仕切りや選別、みこしの順路つけ、警備や配りもの、揃いの衣装に食い物の仕出し先、舞台の設営、これを国家イベントに当てはめれば、駕籠かき(交通機関)、旅籠(ホテル)、侠客の仕切り(警備)、郷力(ボランティア)と当てはめれば、時代は変われど人の質は変わらない。それに、人が集まれば博打(公営ギャンブル、パチンコ)に遊里(接待や風俗)が加われば、いまと何ら変わることはない。

そこに、どさ廻りの曲芸や見世物、演芸に勧進相撲が入れば、勧進元は立派なプロデューサだが、カスリ(袖の下、上前をはねる)は役人や治安を預かる親分だが、それも上納と権利が存在する。観客や神輿担ぎはそんなことは承知の上で、曲芸師の演技や相撲の勝負にしばしの話題で持ちきりになる。

勧進元はそのカスリと名誉の権利をもらうために賂(わいろ)を渡すのは当然にことで、役人は袖の下は特別大きくあいている。

 

話は変わるが、支配者はつねに大衆を煽り、そそのかし、いつの間にかあらぬ方向に導くことに頭を巡らしている。ギリシャ、ローマ、大英帝国も温泉、グルメ、旅行、イベントを大衆の面前に揃えて選択の歓びと収穫を幸福感として植え付けた。

すこし手を変えて、フランスは人間は平等だとアリもしないことをそそのかして皇帝を断頭台に送り、自由と民主と人権、そして平等なるものを、さも有るものだして、これも植え付けた。突然、それも自由の意志だとして民族の紐帯(結び目)である、国父国母を抹殺した市民なるものは、言いたいことばかりで、言うべきことなく、混乱し、かつ面倒な議会制民主主義を編み出した。

ちなみにフランスにかぶれてその教育政治を持ってきたのが森有礼だ。士農工商がなくなったが官域をはじめ軍隊でも組織内階級は、人格の優劣はともかく、官制学校の数値選別でおかしな人物が高位を占めたゆえか、国民は惨禍に見舞われた。戦後も官域には残存し、無責任、文書改竄、忖度など不埒な行為を恥ずかしげもなく、しかも平然として素餐をむさぼる官吏も増殖している。むかし軍人、いま官吏と政治家と揶揄されているが、この教育制度と質は、明治天皇が察知した責任ある人物の劣化として「聖諭記」に記述されている。

 

いまでも親が亡くなった後の家族会議が各々の不信をも生み、混沌としていることを考えると、支配する側からすれば財貨に溺れて肉親さえ捨てる群盲の方が支配しやすいと考えたのだろう。独裁や共産は支配者からすればコストがかかる。いっそのこと自由と民主と人権と平等なら、それぞれが言いたいことを主張し合い「人情」など価値のないものだとして、それぞれが分派、分裂して、心地よいワンフレーズで集散も思いのままになると思ったのだろう。つまり主義は支配の方法と手段なのだ。

自由は孤独になり、民主は無責任、平等は無垢なる生育を止め、人権は関係を混迷と離散に導いた。だが経国はスローガンと目標を掲げなければ、民族や国家の権益は保持できないい。いつまでも融通無碍な「愛」を添加できない。それには驚きと興奮に愛と平等に包まれたイベントが必要になった。それもフランス以降にそれを模倣し、民族の紐帯を破壊し依るところを亡失した、地球の表皮に棲み分けられた人種・民族のバーチャルな連帯意識と、大切な思索から、「ちょっとよそ見」させるイベントを世界に広げるムーブメント(拡散運動)だ。

趣旨は「戦争のない、国境を超えた」から始まったが、ここで登場してもらったのが、自らが自由と民主と平等の美句に酔い、みずからが破壊した既存の権威保持者である紐帯の血統を勧進元のメンバーに座らせ、まさに床の間の石として利用した。懐かしがって愛顧を感ずるものや、感激して財を出すものも大勢出てきた。

イベント(興行」は人が集まらなくては金に成らない。ゆえにアマチュアから職業競技に転化した。興行を主催したい国は、開催利権となったオリンピック誘致のためにあらゆる狡知を働かせたが、つまるところメンツと金だった。「だった」ではなく、当然のことだ。それくらい関係者は金になる。

そのコンテンツ(内容・システム)を権利化したのがIOCであり下請けのJOCだが、世界の成金や貴族くずれが数多鎮座している、これも可笑しな様態だが、ここにもボスがいる。

それらは現代のイベント貴族といわれる人間達だが、競技の熱気と感動が屏風に建てられていては、なかなか文句も言えないし、マスコミも利権一族のようなもので、政治家や商売人を集めて児戯に等しい姿をさらしている。

その地球のドサ廻りだが、分かる御方もいらっしゃる。

 

 

   

イメージはブラジルの友人から

 

以下、13   3/1  稿

なぜ、皇室は逡巡したのか・・・

皇室を招致の顔として皇太子殿下の登場を懇請した石原都知事、ほかにも皇族を用いる案が多く出た。

ドサとは佐渡(サド)の島流しで、なかなか戻れないということらしいが、オリンピックの開催はギリシャのアテネからはじまった。現在は財政困窮ということで色々と問題があるが、いっそのことアテネに戻せば経済効果も上がり救済にもるだろう。だが、興行主は懐の按配を気にしている。
 その後の都市開催は国家伸張や国威高揚など、それぞれの事情で開催誘致が利用されている。ヒットラーのベルリン、北米大陸、アジアと夏冬オリンピックの開催地が地球の表皮を転々としている。

 まだ興行していないのはアフリカ、中東、南米の地域だが、国情問題もあるが要は形式に整った資金準備が主な要因になっている。五輪は5大陸の肌色の異なる民族の競技を謳うが、なぜか水や氷などの競技に黒人といわれるアフリカ系はいない。
あるいは、植民地宗主国のなごりなのかフランスやイギリスの選手にアフリカ系が多く参加している。もちろん奴隷制度があったアメリカにはアフリカ系の子孫がメダル確保に一役買っている。






根岸重一氏 作



 日本も朝鮮半島や台湾出身の選手が以前は参加していたが、サッカー、相撲、野球では帰化して日本名になった選手が国内試合に出場している。一昔前は王選手が学生の頃、国籍問題で難儀したが抜群な実績と人柄で野球界になくてはならない存在となった。金田選手の400勝、張本選手の3000本安打など、国内のみならず民族の英雄として厚遇される選手もいた。
そう考えればオリンピック憲章も納得できるが、国家が絡むとややこしくなるのは帰属国も選手の祖国も同じような複雑な問題になってしまうようだ。

 オリンピックはまさに熱狂と偏見を記録という共通数字によって諸民族を平準化しながら世界の各地を周っているが、アフリカ、中東をまわらないのは平準化に馴染まないのだろうか。

 江戸時代にも旅芸人が各地で小屋掛けをした。相撲もそうだが開催地には勧進元がいた。いまはやくざと括られたが、当時は十手まで預かる任侠の親方がいた。興行ゆえに近在の親分に声をかけて客を集め、特産品などを売る屋台店を揃え、博打うちは賭場も設営した。
 場所は寺や旅宿を借りたが、もちろん寺銭のあがりは寺に寄進もした。
 興行の呼びかけは「江戸で人気の○○一座」と、いまの地方興行にあるキャバレーや小劇場とやり方は同じだが、そこに述の立札やまき紙も瓦版屋から新聞社に替わった。

 東海道や中山道に代表される江戸からの五街道では参勤交代も大名興行のように道路や橋は整備され、道端のホームレスならず浮浪者や無宿人といわれる人たちは排除され、旅館は整備され、駕籠かき、馬子も親方の号令でしきたりを守った。つまり江戸下がりの旅芸興行や大名行列は郷の繁栄や整理に役立つ良機だった。

 ちなみに孔子に弟子が尋ねた「まちづくりに際して肝要なことは・・」
『外の人 来たる、内の人 説(よろこ)ぶ』
 たしかに外来は珍しいものを持ってくる。にぎやかで交易も盛んになる。
 だが、主体はまちの人がよろこぶことだ。今の喜びは小判が降ることだろうが、そんなものは、いずれ国の寺銭として巻き上げられるのは民も承知だ。

 江戸、いや地球の名高い興行として、各色の異邦人と旗が混じって飛んだり、跳ねたり、殴り合ったり、球を追いかけまわす一座の興行には、法外な呼び代と放映権という寺銭がかかる。隣の国では独裁政権のもと、すぐにでも起きるかのごとく戦争だと騒いでいるが、こちらは繁栄を屏風に闘いの興行である。






銀座の朝





 これで日本が元気になり社会は繁栄する、そして誇りを取り戻すと為政者は相続遺言を声高に叫ぶ。どこかでもミサイル、核は先代の遺言といって国民の団結を促している。
 そのために、君たちの税を使って興行を成功させると・・・・。
 どうも体裁のいい目標は成ったためしがない。
 阿諛迎合、好奇心はイザベラバード女史の日本人観だが、マッカーサーの別れに旗を打ち振り、涙を流すように国籍に偏重しない日本人は、アジアでも南米でも多くの信頼される足跡を残した。

 だが、物欲しげでさもしい態度にも映る小商人的な姿は、多くの蔑視を受けたことも歴史にはある。そして政治が経済的効果を謳い媚びへつらって興行を呼び寄せる姿は、たとえ招致されたとしても、どうも政治家の感覚はもとより、いずれかの将来に憂慮を起すようにみえる。それはへそ曲がりや天の邪鬼の逆賭かもしれないが、その兆候は心底に増殖する問題にも思える

 落ち着き、鎮まり、潜心の思索が乏しくなった世情だが、戦前の開催中止、戦後の高度成長の端での開催、そして今度の招致、それぞれに理由のある招致だが、以前は憲章メッセージが前面にあった。IOCも開催元も、そして選手もまともだった。今回は趣が違う。いや、目的がさもしくなっている。政治家や関係商人もそうだが、IOCの変質と委員の慇懃さが、双方似た者同士のように感じられるのが、いやらしい。

金をもったらどのように遣うか。地位があがったらどんな部下を任命するか、また、どのような友を周囲に選ぶか。わかりやすい人物の見方だ

 なにも人格となんら関係のない附属性価値である、職掌、地位、財力、学校歴、国家でいえば単に努力次第で上がる経済の数値評価や軍事力を表層国力とすることは、つねに国家の高邁な目標をその類いの数値に置き換える愚策の様なもので、本来の国力とは人々の深層にある情緒や、今どきの放埒ではない真の自由のあるべき素因を知り、守り毀損しない国家の役目を人々が知ることだ。それが調和と連帯の心を生み、はじめて他とともに理想を描くことができるのだ。

 何でも外から来るものに興味を示し、外と同じことをすることに安堵するのが民癖の利点ならば、せめて、異なることを恐れない自覚を以て今いちど学びなおしてもらいたい。






パチンコは遊戯か競技か博打か





「上下交々(こもごも)利をとれば国 危うし」

「小人、利に集い、利 薄ければ散ず」

「小人の学、利に進む」

そして、「利は智を昏からしむ」

あのギリシャ、ローマ、イギリスの栄華は民の弛緩で滅んだ
その指向は温泉、グルメ、旅行。イベントと共通している
せいぜい繁栄とか豊かさはその類の満足しか与えられない
また、一度わたした子供の小遣いと一緒で、毎年増えてくる

そして何世紀にわたって宴のあとのゴミ拾いにエネルギーを費やしている
我が国も津々浦々の自治体では官製イベントが盛んだが、整理と管理とゴミ拾いで多くの予算を費やしている

それも懲りずに都会の人気者を呼んだりして毎年のように同じことをしている。これを役人慣性というらしい。


為政者に民は倣う。せめて大人(たいじん)になって戴きたい。

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受刑者にサン付けで戸惑う 府中刑務所 12 7/5 あの頃

2024-08-05 14:49:15 | Weblog

       府中刑務所




あの大国魂神社や競馬場で有名な府中市は東洋一といわける威容を誇る?刑務所でも有名な場所だ。三億円事件の舞台となった刑務所の塀に沿う道路は東芝府中工場が隣接し、その広大な敷地を囲う施設は、さほどの興味を持たなければ内部の様子など知る由もない。

昔、八王子や府中近辺は甲州と江戸の境目にあたり、神社の祭りにはそれぞれの勢力が角突き合い、露店の売り物だった鎌や鍬などを喧嘩道具にして亡くなったものも少なくなかった。

また神社の掲額に和算が記されているほど農閑期には学問も盛んだった。ちなみに芦ノ湖からの導水建設も和算である。つまり斜面を上下から掘り進んで合致する計算である。ちなみに近鉄の生駒山トンネルは近代工法で行ったが合致点ではずれが有ったという。西洋方程式と和算は計算方法も異なるが、その慣性に馴染んだ発想も違うのは当然のこと。

「法」も「矩」とか「則」と記されるが、内包するものはまったく異なるのは古今東西の歴史でも明らかではある。いまは「法」が成文(文章)され、それををマニュアルにして、判例裁判や食い扶持としている法匪の群れに新たな社会悪を視るのは筆者だけではあるまい。受験による人間選別にあるごとく、人間を人格や長い目で見た歴史的有効性など賞罰の置く所が変わる「秤」の均衡さえ保たれなくなっている。府中は郷士も多くあの近藤勇もこの地の出身だ。体制の警護も風が変われば勤皇の志士を討った国賊である。





          台湾桃園の少年院訪問  

  台北小年鑑護署 (鑑別所)



おもえば18歳からの司法ボランティアでは更生保護に関わる多くの行政関係者との縁があった。
たとえば中学生が不幸にして犯罪を犯すとまずは警察、次は家庭裁判所、不処分もあれば、問題があると思われると練馬の鑑別所、そして家裁での少年審判、そして法務省保護局の各都道府県にある観察所において観察官のもとで保護観察が行われる。

少年院などの施設と異なり在宅観察は社会内処遇として地域の保護司、あるいはBBS(ビックブラザー・ビックシスターである兄と姉の更生援護活動)によってグループワークが行われ、また更生保護女性会による更生を助ける啓蒙活動が行われ、代表的なものとして「社会を明るくする運動」が全国的に行われている。

私事だが、社会内処遇に伴う社会資源としてボランティアの活用が謳われた頃、よく保護局の依頼でテレビやラジオの生番組にコメンテーターとして招かれたが、聴き様によっては硬い題材のせいか、法務省としては二十代の方が周知宣伝として都合がよかったのだろう。最近の周知ポスターには若い女優を使っているが、一般社会からすれば非行少年や成人犯罪者など意識の外という観念のなかで、まさに徒労さえ感ずる活動だった。

これら更生保護関係者によっておこなわれる社会内処遇という再犯防止や更生援助から、その活動を周知する意味での保護司の秘匿的立場から積極的な周知啓蒙へと変化するにしたがって、近頃では学校、自治体、地域への活動として広がりをみせている。

一方、治安警察から送検され裁判で刑期が確定した人の自由を拘束する施設についてはその実情は明かされることはあまりないようだ。また入所者の人権もあるが、時折起こる官側の不祥事に内部の制限内公開の圧力もある。それゆえ施設内の責任についても新たな矯正教育や出所後の生活設計の指導など、きめ細やかな作業が進められてきた。

とくに応報刑のように不倫したら死刑、泥棒は手を切るような事とは違い、施設内教育刑ゆえに、肉体的労苦も少ない殖産のための勤労など社会から隔離された処遇は、人の内面の転化を促す方法としては内省を期待するほかはないようだ。

よく、網走や旭川は寒い、逆に南方は暑い、しかも週に二回の入浴ではどちらがいいか、まして犯罪別で入所先が決定するために当然なことだが自由選択もなく、遠隔地での長期刑は特殊な覚悟と諦観が必要になってくる。
なかなか裁判が結審しない未決(無罪の場合もある)は東京では小菅の東京拘置所に収監されるが、なかには二年も裁判が始まらないこともあり、判決確定しても長期の場合は全国各地の刑務所に移送されて長期収監される。最近多くなったのは老齢者の入所だ。




     

地方刑務官から局長へ 稀有な経歴を持つ  



最近、独り暮らしの高齢者の生活保護が多い。なかには従順ならざる人物や天涯孤独でアパートを借りたくても保証人もいない老人がいる。
行政の施設は規則が厳しく歳をとっても好き勝手なこともできないと忌避しても、保証人もいないので旅館に入るが、アパートなら月割り家賃だが旅館は日割り、自由だが月に数万高い。それでも規則的なことや人に頼むことを、゛頭を下げる゛ことと考えている。筆者も少なからず頑固だと自任しているが、人に頭を下げるのが嫌なのではなく、そんな自分が情けない自責があるようだ。それが社会にリンクするとつい苦言がこぼれる。

よく「ひかれ者の小唄」とか「女房に負けるものかとバカが云い」と浮話があるが、雄の子の性は時おり刑務所の塀の上を歩くことも叶わず、塀を眺めて思案する脆弱さがあるようだ。ときおり思慮分別を忘れ無邪気な童心に望みを託すが、齢が邪魔する。なにも長寿のみを将来の糧だとは思わないが、つい解らねモノに届かない惜しい気持ちが残るのもそのせいだろう。

とくに官吏からの褒章にも縁遠く、かつシャイともおもえる反抗が見てとれる彼らの姿は、遠き童心に回帰したくとも、社会も素直には仕組まれてはいない。「好き好んで」とはその心情なのだろう。





           
           浮俗の楽しみ



管理棟から入ってはじめに視た舎は老人病院のようだった。70歳を超えている老人がペットを並べてまさに動けない重度の様子だ。しかも長期刑だという。それも年々増えているという。以前筆者が担当した方だが、難聴で思い込みが強く隣室で悪口を言っていると妄想し、ドアを蹴って破損。その保護観察だったが病気になり福祉事務所と連絡を取り入院。毎月の面接は病院でおこなった。それから幾人か私より年かさの方を担当したが、更生援護より身体を心配することの方に重点が置かれた。

それをいくら刑期のある犯罪者だとしてもペットで排便の始末を行い、ときに便を壁にこすりつけたり、投げられたりする刑務官だが、いくら職住環境を同じくするものとして、あるいは職責だとしても、それは職分として介護専門職のさらなる助力が必要なことだ。

ました府中は多い時で約3000名弱の収容である。さまざまな障害や病気もある。だが医師も足りない。もちろん医療介護士も不足している。あの大岡越前と赤ひげ療養所のようにはうまくはいかないらしい。

洗濯物の整理、印刷、皮製品、自動車部品、などの作業工場、体育館や運動場、まさに工場と呼ぶような厨房、風呂場、隅々まで案内していただいたが、一般の人ではなかなか対応できないであろう様相である。とくに目立ったのは外国人と老人である。もちろん鮮やかな唐様の刺青を彫った稼業の世界の人もいるが、黙々とミシンを踏んだり病棟のおしめを丁寧にに畳んでいる。社会では女性の作業のようにみられるが、男だけの世界では軍隊の艦隊勤務のようで自助が養われる。

よく刑務所に行くと読書家になるという。また難しい話題も容易に話せるようになるというが、読書もそうだが緊張感と集中力を維持するには不謹慎だが格好の場所のようにも見える。炎天下に鎌をとっての雑草取りは都会育ちには苦しい。老若のコミ二ュケーションも大変だがここでは否応もない。雑居といって六人部屋もあるが荷物は所定のボストンバックが一つ。独居も同様、布団の上げ下ろしと整理整頓が決まりだ。

当然のことだがむかしの侠客は部屋住みといって挨拶応答、箸の上げ下ろしや買い物の手順、長幼の順まで厳しく教えられ、刑務所生活でも模範となるものも多かった。いくら社会で高名な親分でもここでは平等である。とくに喜ぶのは外国人だという。




           台湾台北看守所(刑務所)  

              小学校の自治運営   



永い期間、社会の状況が分からない懲役を負っている高齢者は大親分が同室になっても分からない。その親分も侠客として分別のつく人格者だと、高齢の服役者には礼儀正しく世話を焼いたり話し相手になっているという。世間に出ても一流の紳士として尊敬される人物だが、世相の「暴・・」で人くぐりするには惜しい人物もいる。

その環境は強制的矯正といっても、一方ではその矯正とは別に内面から湧き上がるような転化を援けるようなこともある。いくら法に定められたことから逸脱しても、あるいは法に随って刑期を経たとしても、もしくは寡黙な作業で交流がなくても、同時期に舎に棲み分けられ、互いに縁の微かなる中でも生まれるであろう共感は、生死の緊張と自由の拘束なればこそ残像は焼きつくように刻まれ、出所後の社会でも時折想起されるのだろう。

それを、懐かしむ時間、己を知る機会、それが己の蘇りとして時と存在の「分」を知る瞬間でもあるのだ。
「男子、三日会わねば刮目する」のである。変われる自分と、周囲の変化をみるのだ。まさに強制や拘束を伴わない人生の転生であろう。

とくに男の義理と人情とやせ我慢といっても一般人にも棲みづらくなった世の中で、いろいろな性(しょう)のやんごとなき情根を抱えて生きなければ通らない人生に、刑務所で経た刻(とき)のひとこまは、四角四面となってしまった人の行いの良否に活きることだろう。

つまり、自身を省く(はぶく)ことによって他人の受け入れの容量が増え、それは単純な許容量ではなく、節とか筋でも表現される道理という道徳の理(ことわり)への探究であり、成文法が絶体視されるような、息詰まるような世の中においても人情と情緒を心の矜持として人の縁を重ねられる、そんな自省自得、あるいは真の素行自得の機会でもあろう。

たしかに科目は殺人、強盗、詐欺、薬物、性犯罪、窃盗常習など様々のようだ。また刑期も短期から無期も刑務所にはある。だだ、切り口の異なる、あるいは甘ったるい考察かもしれないが、単純作業のなかでも知恵と工夫がみてとれる。皮細工の精密な型押し、印刷のレイアウト、自動車の塗装など独特な技量がある。また府中のコッペパンは殊のほか美味しい。豆の煮物にサラダも絶品だ。なによりも見入ってしまったのは陶芸だ。一心不乱に粘土をかたどっている。




        
  政治の乱れ、犯罪多発、人情の枯渇は、内なる国防の危機と伝えます   

                          航空自衛隊幹部講話(三沢)筆者


あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵も徒人を石川島に集めて殖産事業をしている。職を与えて、教え、褒める、それを当時の権力者である武士の仕事として行っている。縁あって武士となり、農民となり商人となるが、はじめは身分の責任と忠恕があった武士は汚職腐敗で堕落し、その風潮は子供たちにも感染してブランド品であるかんざしや刀の鍔を自慢しあい、罪人までにはならないが無職の遊び人(徒人)が増えて風紀も乱れた。
平蔵は強権を以て捕えたが、ときおり石川島に渡って徒人を励ました、つまり権力の励ましである。なによりも働くことの大切さを伝えたかったのだ。

今は横文字の研修や応対手法が流行だが、鬼平の人情味ある行為は今でも通用する治安役人の 姿でもある。また、今は役所の縦割り弊害なのか1人の罪人に矯正局管轄下の刑務所、少年院、保護局管轄の観察や就労支援があるが、施設教育を受けての更生準備、生活再建に向けた支援をスムーズにおこなう手立てとして、法務省内での矯正と保護の有効的協働あるいは、思いきって一つの局にまとめることも考えるべきだろう。

鬼平の頃はみな学問はなかった。勉強したければ僧職になるか、商人は寺子屋に通って読み書きソロバンを習った。今どきのように理科、算数、社会、国語などはなかったが、人がウブで素直だったし騙すものも少なかった。いまはウブで素直だけでは生きてはいけない世知辛い世上だ。

府中刑務所は約2800人、その入所者ある部分は、世間の流れに追いつけない、理解できない、あるいはウブで素直なために相手にもされない妙な世間に鬱積した純情があったのかもしれない。
そして本当の自分を探しているようにも察しられた。

ふと、そんなことを考えながらの帰途に想いだしたのは18の頃を訪問した千葉の養護施設で無邪気に遊ぶ子供たちだった。多くはコインロッカーに捨てられた子供たちだった。
施設の帰りに渡された「おかあさんへ」と書かれた手紙だった。もちろん宛所のないものだがその臨場の戸惑いは解決のないままに数十年の齢を重ねている。

どこか、己の中でそのときに戻ったような動揺が府中刑務所にはあった。

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