まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

孫文を唸らせた後藤新平の胆力と、゛らしさ゛ 

2024-07-15 15:49:09 | Weblog

  後藤新平  東京都知事(当時 府知事)

 

寳田時雄著「天下為公」より Kindle版

 山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。

「武器とお金を用立てて欲しい」

 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。

「借款というのは信用ある国と国が何なにを抵当としたうえで幾ら借りて、利子は幾らで何年で返すということだろう。きみたち青年の志すところは正しく、意気壮とするといっても誰も知りはしない。また清朝を倒すといったっていつ倒れることやらわからない」

「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」

「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」

「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」

 靴で床をトントンと踏んでいる。銀行の地下室に銀貨はある、という意味である。
 物わかりがいいと言おうか、繊細さと図太さを合わせ持ったような後藤の姿は、官吏を逸脱するというか、常軌を超越した人物である。また、人間の付属価値である地位や名誉、あるいは革命成功の不可にかかわらず、しかも正邪を表裏にもつ人間の欲望を恬淡な意識で読み取れる人物でもある。
 
 虚実を織り混ぜ、大河の濁流に現存する民族が希求しつつも、だからこそ、かすかではあるが読み取れる真の「人情」を孫文はみたのである。植民地として抑圧されたアジアの民衆が光明として仰いだ我が国の明治維新は、技術、知識を得る大前提としての「人間」の育成であったことを孫文は認めている。

 それは異なる民族の文化伝統に普遍な精神で受容できる人間の養成こそ再びアジアを興す礎となると考え、そのような人格による国の経営こそ孫文の唱えた“西洋の覇道”に優越する“東洋の王道”であった。
 晩年、孫文は純三郎にむかって

「後藤さんのような真の日本人がいなくなった」と、幾度となく話している。

 それは錯覚した知識や、語るだけの見識を越え、万物の「用」を活かす胆力の発揮を、真の人間力の効用として、またそれを日本人に認めていた孫文の愛顧でもあった。

※「請孫文再来」ブログにも併せて掲載されています


《それにしても民政長官として施政下にあった台湾銀行の金を奪ったら・・・との促しと、その場所は地価の金庫だと・・・いまどきの気風ではないものだ。やはり政治家は粗暴に映ることではなく、陰徳豪胆が日本人らしい》

コメント
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