「憲法は国家の目標とする理念ゆえに・・・・」と、以前法政大学田中教授がサンデープロジェクトというテレビ番組で発言していた。いつも和服姿の教授として落ち着きと言葉の切れが江戸しぐさのように映る女性だった。
平成30年㋄28日の産経抄では平家物語の口語訳に丸谷才一氏が苦言を呈したことを例として現行憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して・・」について、鼻白む文章とこき下ろしている。くわえて、世界に侮られないために、時代にあったものを構える。それが国の責務だろうと書いている。
「様々な要因を以て構成されている国なるもの」と概念を述べる安岡正篤氏だが、産経の書く「国の責務」なるものは如何なるものなのか、明確には紙面に現れたことはない。数多の文筆業に切り口が異なる「国(くに)なる論」を載せているが、社論として明確なものはないようだ。戦後73年経つが、産業経済新聞はいつごろから其れを指摘し、継続していたのかわからないが、安倍くんになり、産経抄も石井氏からバトンタッチした頃からこの種のことに元気よく筆を運ぶようになったようだ。鼻白むほどの経国の肝要な文章なら売文の輩が忌避する肉体的衝撃を回避せず、孤高の筆を活字すればよかったのにと残念でならない。
平成の御世は高御座での陛下の誓詞ではじまった。
「憲法を遵守し・・・」国民はそれに倣ったが、改憲論者は声を押さえて意を潜めた。
とくに官制(製)学校歴を唯一の食い扶持看板とする群れは、護憲、改憲にかかわらず表層無関心を装いつつも群れの醸成に勤しみ、もしくは昔は政府を言論によってたじろがせた陸羯南とは似て非なる記者が陛下の誓詞を「鼻白む」と斬りすてている。
拙者は国家の法制と憲法の目標とする理念は上下を云々することでなく別物と思っている。たしかに負けてしまった国が勝者に阿諛迎合し、いやいや承諾した憲法(文面)なるものを気概として作り直すことを否定するものではない。だだ、同じ敗戦国のドイツは多く要求を拒絶していることを考えると、いかなる理由をもってしても国柄や滞留した民癖の内照を失くして変えたところで、いずれ次代に納まるとは思えない。
国父の誓詞を野暮で古臭い、いやそれ以上に鼻白むと考える売文の輩や言論貴族に時代の責を担えるとは思えない。それとも、国父も勝者に阿諛迎合したのだろうか。
「憲法はその国の顔・・」とも書かれているが、ならば田中教授の言にある目標理念として汲めば、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して・・」の一章は、「戦争を好む諸国民の不正と不信をつねに気を付け」とダイレクトに考えることを国民の積層された情緒性に訂正を喚起するのだろうか。
それは憲法の役割ではなく、かつ為政者の執り行う治政の援用文ではない。
ちなみに十七条の条文は権力を構成し、いずれ民の生活を毀損しかねない者たちに対して発布したものだが、当時は有司(官吏)の服務規程だった。
遅刻するな、法を恣意的に乱造するな、税の徴収は慎重に、いまでも省庁の朝礼唱和に通用するものだ。当時は豪族、宗教者(教育者)、官吏が対象だったが、今は江戸の瓦版変じて第四権力と揶揄されている新聞を代表としているマスコミにも当てはまることだ。
恣意的にも他人の言や古典を借用して論を謀ることなく、思うことの帰結を想像するべきだろう。いずれ形式的ではあっても陛下の認証によって発布されお読みになる文言ゆえ、口語、文語の技巧を問わず、衆を恃まず日本人らしい薫醸された不磨の文を提示していただきたい。
愛おしくも惜しい産経人よ。
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