
清規(成文法)と陋規(掟、習慣等)についての放談だが
好奇心の誘導なのか、相撲が八百長論議で騒がしい。
゛そもそも゛になるが、いつから国技と呼ぶようになったのだろうか。
また、数多のスポーツと称されるものと同様に、歪なコンプライアンス、つまり成文法の机上に乗せられるようになったのだろうか。
「我国の・・・」と振りかざす相撲だが、農耕神事から豪族、大名のタニマチ興行となり、近代では競馬などに冠されるように天皇杯が下賜され、形式的には法人化され国家のお墨付きを戴いている団体だが、だからといって全てが清規(成文法)に属する問題ではないと考える。
他のスポーツでもそうだが、猛特訓やシゴキが趣を変えればリンチ(私刑)になり虐めになる。それも先輩後輩や段階序列に処をかえれば、いつ加害者になるか判らない問題でもある。それを清規に当てはめると被害者が発生し、たとえ猛特訓でも受益者たるものの技や精神の昂揚喚起から生ずる感謝、感動は瞬時に犯罪として切り替わってしまう。技芸の自発習得は怪我も弁当(食い扶持)も己の問題としてあることは納得した修練においてはあるべき姿である。
もし相撲がスポーツなら指導料と食事代は支払うべき受益者負担である。
社団法人、スポーツ、国技に当てはめると、今どきはつねに法が付きまとう。
また、法なり則の狭間で歴史的には幾度と無く存亡の危機に立たされているのも相撲の世界である。
以前は農耕の祭事、神事として執り行われたが、それも格闘者の常で、終いには死闘となることもあったため、殴る、蹴る、突くを禁令とした熊本の吉田家の相撲作法および、横綱免許状の下賜という礼法をガイドラインとして、その陋規(狭い範囲の掟、習慣)が相撲界を司るものであった。あくまで狭い「界」のことである。
文明開化は肥満体にフンドシはみっともない、文明人らしくないと裸体禁止令など、それこそ文明人らしからぬ阿諛迎合拙速な奇法を発令したが、それも智恵の伊藤博文の気転で天覧相撲を催して危機を回避している。つまりミカドの威光を活かしているのである。
標題に「大相撲・・」と記したが、明治以降相撲興行は神社仏閣の勧進に関わらず、見世物興行的に各地で行なわれ、地元の名士、タニマチ、などが勧進元となり盛んに行なわれたが、東京を中心とした相撲興行は「大相撲」として各地の衰退とともに統合され、税制優遇処置ゆえ法人化され、先の吉田家が司った横綱免許交付権も協会に委譲されている。
ここで気が付くのは法(清規)の庇護、監督下になったのはつい最近のことで、それまでは陋規の範疇にあったのである。
そうでなければタニマチや地元名士、あるいは興行を仕切る侠客衆が興行成功の為に夫々の持ち場を形成する地域の調和が、優遇はあっても窮屈な清規の騒論に振り回されない、つまり敢えて御上や政道の外に位置することで相撲を継続してきたのではないかと思える。
もし、これが古来の神事、祭事に還り宗教法人ならばその危惧は無いだろう。
たかだか建前成文法であり、だからこそ争論観客までもが登場するのだろう。
御布施の如何で地獄か冥土、ミュージアムのような伽藍を立て本堂では落語にコンサート、かといって宗教゛道゛はとは問われない。あくまで掟、習慣の世界なのである。戒名は幾ら、お経料など全国一律ではなく都合に合わせた夫々の決りと話し合いで談合する世界である。
野球とて興行である。その世界には清規には馴染まない陋規が存在する。
法を執行する警察にも独特な掟や習慣がある。
つまり言い尽くされていることだが、人情は国の法より重いのである。
ちなみに明治初頭の裁判官は判決文の作成に苦慮した。初めての憲法であり、今のように判例が無いのである。承知のことだが憲法は権力者を制御することにある。
聖徳太子の十七条も、遅刻してはならない、無闇に賄賂を獲ってはならない、筆者の乱暴な言い方ではあるが、人間の尊厳を毀損するであろう官吏に向けた条項が並んでいる。
その後は幕府の発する法度は武家向けたもので、庶民は多くは読むことの出来ない御触書などだが、耳にするものは身近な大家、名主、医者の言葉伝えである掟、習慣の陋規であり、自家に口伝されている決め事、訓語などを連帯の調和として生活を営んでいる。
大相撲に戻るが、八百長とガチンコという妙な言葉が踊ってる。
八百長は談合と金銭のやり取り、ガチンコは真剣勝負、いまでは真面目力士の代名詞のようになっているが、坊主の経や神官の祝詞もそこのところは微妙であることを我国の情緒は悟っている。
どうも四角四面と曖昧さに振り分けられる性癖のようだが、いつか満州国の副総理張景恵の親戚がそのようなことを知らせてくれた。
「どうも日本人は四角四面でいけない。二三度戦争に負ければ少しは丸くなるんだが・・」
逆に庶民は懐かしがってこう言っている。
「偽満州はよかった・・官吏は清廉で勤勉だ。ただ賄賂が下まで流れてこないので困ったが・・」
たしかに盲目的に四角四面になると道義心の薄くなった上司の言は惨劇に直結する。また狭い範囲の掟や習慣は相撲界ならずとも、人が集えば自然に作られる。
ただ、公権力といわれる部分、つまり警察、税、の面前権力や官吏、政治家にみる特殊な陋規は、清規(此処では恣意的に作られた法律)を屏風にして隠れた行為、あるいは 与野党八百長の類が大手を振ってまかり通っている現状をどう見たらいいのだろうか。
とくに教職員や警察の食い扶持世襲は、陋規にある秘匿の掟が国家の清規さえも凌駕しつつ、教育、安全の美句を添えてバチルスのように増殖している。
大相撲への騒論と嗤いから何を導いたらいいのだろうか。
洋学で思い出したが、ドイツの物理学者ハイゼンベルグは、゛部分の算術的総和は全体を表さない゛と解いたと聴く。大相撲も世情の一部分である。
我々は事象を一面でなく多面的、枝葉末節ではなく根本的、しかも身近な日本人の変容を俯瞰して眺めたとき気がつく直感があるだろう。
曖昧だが、さもありなんと。
裸にマワシ、観衆に囲まれて相手を倒す、投げる、突き飛ばす、平手で顔面を叩く、そんな肉体的衝撃を試しに受けてみれば、腑に落ちることも有ろうかと思うのだ。
イメージはブラジル、オスニー・メロさんより
>「どうも日本人は四角四面でいけない。二三度戦争に負ければ少しは丸くなるんだが・・」
これは具体的にどういうことなのでしょうか?
柔軟性に欠け、また熱し易く冷め易いということなのでしょうか。
老子の『上善は水の如し』あるいは『柔弱謙下』という箴言や思想がもっと広まれば、丸くなるのでしょうか。
阿諛迎合的とは安岡先生も指摘していましたが、その意味では、満州あるいは戦後経済における統制経済は民癖に合っているようです。
どうも、自由と民主を好き勝手に字句解釈しても、単に連帯や調和がメルトダウン(融解)してしまうようで、国政責任者あるいは家族の長(おさ)におよぶ規制に囲わなければ放埓になってしまうために、一方からみれば窮屈かも知れませんが、一定の四画と四面が必然となるようです。
よく、大陸的といいますが道教的な実利がもとにあり、融通無碍な天然自然に棲む人々からすれば、彼等にとってはハナシの類である儒教の規範意識は、建前大義には抗論しませんが、頑なに移るようです。
余談ですが、数値とアンダーテーブルの混交を日本人は厄介なものとみますが、経済に留まらず色、食、財の欲求の手段としてリアルに、しかも自然に構えられるのも彼等の実利応用です。
さて、影響力はどちらのほうがありますか・・・