08 11/3 再掲載
以前、友人から送られてきたマッカーサー将軍についての稿である。
占領軍司令官として絶大な権力をもったとき彼はなにを考え、どのように行動したのか。
洋の東西を問わず戦火を交えたもの同士が、恩讐を超え、悟りの中から生まれる信頼の心は、民族を超えた普遍的な理念と目標を立てる力となった。
長文の掲載ですが、送文のままに
厚木にて (マッカーサー記念館蔵)
“ ダグラス・マッカーサーについて ”
(ある雑誌の平成16年2月号より) 著者 タニグチ・セイチョウ氏
人には良いことをする者や、悪いことをする者など、色々ある。しかしどんな人でも皆「良心」を持っているから、反省したり、後悔したり、讃嘆したり、けなされたりするものだ。後で〝自伝〟を書いたりして、過去を回想する人もいる。こんな人は「有名人」だろうが、そう沢山いる訳でもない。書いても売れないからだ。
かつて日本人が大東亜戦争(太平洋戦争)をして敗北し、占領軍が進駐したとき、その総司令官だったダグラス・マッカーサー将軍は「有名人」の一人だが、彼の書いた『マッカーサー回想録』という本が津島一夫さんの訳で、朝日新聞社から出されていたことがあった。今はもう絶版になったようだが、大変参考になるところがある記録である。
同将軍は、占領中に現在の「日本国憲法」の草案を、日本政府に〝押しつけた〟と言って、国内では余り評判が良くないが、探してみると「良い点」も沢山あることがわかる。
彼が昭和天皇陛下と会見したときの話は余りにも有名で、私も当時新聞でも読んだし、その時のお写真での両者の態度の違いに驚いたものだ。その写真もこの『回想録』に載せられていて、140頁には「天皇との会見」と題して次のように記されている。
於 アメリカ大使館
『私が東京に着いて間もないころ、私の幕僚たちは、権力を示すため、天皇を総司令部に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申出をしりぞけた。「そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。いまの場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さの方が、われわれの目的にいちばんかなっている」というのが私の説明だった』
『実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた。モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向い合わせに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた。
天皇は落着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりおもてに現わしていた。天皇の通訳官以外は、全部退席させたあと、私たちは長い迎賓室の端にある暖炉の前にすわった。
私が米国製のタバコを差出すと、天皇は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかにも深いものであるかが、私にはよくわかっていた(続く)。』
ご会見当時の天皇陛下のご様子も、多分この通りであったろう。そこまで疑う必要がないからである。さてその次だが、
『私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。
私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。
全国各地へ
しかし、この不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべてのも決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁判にゆだねるためにおたずねした」
私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。(中略)』
この会見の様子を、将軍の妻と息子が、カーテンのかげから、そっと見ていたそうだ。そして最後の143頁に、
『天皇との初対面以降、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話合った。私はいつも、占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。』と、書いている。
私たちも、このような陛下の「捨身の愛」によって、何一つの反乱もなく、戦後の復興を成し遂げることが出来たのである。それに、引き替え、現在のイラクでの度重なるテロ行為は、そのような中心者を欠き、何処かへ逃げ隠れした国家の悲劇的混乱を、明白に対比していると言えるであろう。
進駐軍 (国防総省資料)
さらにもう一つ、戦後に制定された「日本国憲法」の問題だ。これはマ元帥が出した「草案」に基づいて作られたものだが、問題の第九条の「戦争放棄」の内容について、彼はこう書いている。丁度それは幣原首相のもとで、松本博士の「憲法問題調査委員会」が憲法改正案の起草に取りかかろうとしている時のことだ。(164頁以降より)昭和21年1月24日の正午に、訪問して来た幣原男爵はややためらいがちだったが、マ元帥が少しも遠慮するなと言うと、
『首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」の条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構の一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意思は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。
首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。
私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった。
現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時をいっしょに、時には向い合って戦った経験をもち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度まで高まっていた。』
このマ元帥の言葉も本物だろう。戦争の経験者が、必ずしも戦争を好むとは限らないし、「戦争反対」の将軍も日本にいたことがある。
『私がそういった趣旨のことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出る時には感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」といった。
新憲法の第二章第九条は次のように規定している。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
この条項はあちこちから攻撃され、ことにこの条項は人間のもつ基本的な性質に反するものだと冷笑する者がいたが、私はこれを弁護して憲法に織込むことをすすめた。私は、この条項はあらゆる思想の中で最も道義的なものだという確信をもっていたし、それに当時連合国が日本に求めていたものとぴったり一致することも知っていた。』
しかしこれだけでは未だ不十分だ。彼は続いてこうのべている。(166頁)
『ただし、第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげてはいない。だれでも、もっている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる。
第九条は、他国による侵略だけを対象にしたもので、私はそのことを、新憲法採択の際に言明し、その後、もし必要な場合には防衛隊として陸兵十個師団と、それに見合う海空兵力から成る部隊を作ることを提言した。私は日本国民に次のことをはっきり声明した。
「世界情勢の推移で、全人類が自由の防衛のため武器をとって立上がり、日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった場合には、日本もまた、自国の資源の許す限り最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の道義的理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権をもたないという解釈は、どうこじつけても出てこない。
この条項は、剣に敗れた国民が、剣を頼りとしない国際的道義心と正義感の終局的勝利を信じていることを、声高らかに宣言するものである。しかし、国際的な盗賊行為が地上をなめまわし、その貪欲さと暴力で、人類の自由をふみにじることが許される限り、憲法第九条の高遠な理想が、世界に受入れられることは容易ではなかろう。しかし、物事にすべてはじめがなければならないことは、鉄則である。』
どんな憲法でも法律でも、人間が作った作品だから、「完全円満」とは言えない。これは国家でも団体でも、地上にある一切のものは、何処かに不完全な所が発見されるから、「改正」も又必要になるときが来る。ことに国際情勢の変化が甚だしい時代には、その時が来るものだ。このことはマッカーサー将軍も、やがて生起した〝朝鮮戦争〟で、イヤと言うほど体験するのである。
朝鮮戦争
それは当時のソ連が武器を供給し、中共軍が北朝鮮軍とともに朝鮮半島北部になだれ込んで来たからだ。その頃の半島には、米軍はほとんど影が薄く、韓国軍も軽装備の軍隊で、三十八度線までに布陣していた。共産軍も前線には軽装備の軍を配置していたが、その背後には強力なソ連製の武器で装備した中国共産軍が控えていて、それらが突如鴨緑江を越えて南下してきたのである。
隙をつかれた軽装備の米軍と韓国軍は、たちまちソウルを占領され、さらに退却をかさねて、遂に釜山付近まで退却し、左右を共産軍に囲まれた。そこでマッカーサー将軍(元帥)は1950年9月30日に、本国から半島の三十八度線以北で軍事行動をとる許可を得た。9月20日ごろには半島中央部の仁川(ソウル付近)に敵前上陸を敢行し、その後元山にも上陸したのである。
こうして10月20日に米第八軍は平壌に攻め込み、同時に市の北40キロの地点に第百八十七連隊戦闘隊がパラシュート降下して包囲し殲滅した。トルーマン大統領からは称賛のメッセージが届いたと、『回想録』には書いてある。(264頁)しかし補給路が不安であり、鴨緑江のすぐ北側には「おどろくほどの大部隊の中共軍」が集結している兆候があった。
『しかし、それ以上に私が心配したのは、ワシントンが私の空軍のもつ能力に大きい制限を加えるような指令を、しきりに連発しはじめたことだった。まず私は、敵機が私の空軍の飛行機を攻撃した場合でも、その敵機を追いかけて攻撃することは禁じられた。』(265頁)
ついで元帥は鴨緑江ぞいの水力発電所を爆破することも禁じられた。この命令は北朝鮮の全発電所にまでも禁じられた。さらに東北方の羅津を爆撃することも禁じられた(多分本国では中共を刺激することを恐れたのだろう)。さらに新手の中共軍三個師団が前線に現れ、次第に増強しはじめた。やがてマ元帥は、このような命令を受けた。
『「中共軍の大部隊が事前の警告無く、朝鮮のどこででも公然と、あるいは内密に使用された場合には、貴官は指揮下部隊の行動に一応の成功の見込みある限り、行動を継続する。いずれにしても、中共領内の軍事目標に対して軍事行動を取る場合には、事前にワシントンの許可を得られたい」』
北朝鮮軍の敗北は決定的になったが、これでは中共軍が大部隊で、何の予告もなく鴨緑江を越えて侵攻することはできる。そこでマ元帥は鴨緑江にかかった鉄橋を全て爆撃することを提案した。しかしワシントンも国連も、これをしりぞけた。そこで彼は「司令官が自分の将兵の命を守り、部隊の安全を図るために、自分の持つ戦力を使うことを禁じられたのは、戦史上初めてだ」と思って、直ちに「極東の任務からの即時解任を求める電報を書きあげた」という。
だが部下達の「それでは全滅する」という強い要請もあって、この電報を破り捨てた。それから間もなく、夜陰に乗じて膨大な中共軍が北鮮地帯に入り込んできたのだ。この様なとき〝どうするか〟は、極めて難しい判断である。前進するか、じっとしているか、後退するかだ。中共軍は昭和25年11月6日から26日までの間に、二十万の新手の軍が河の橋を渡って北朝鮮に入り込んだ。11月27日には全兵力をあげて鴨緑江を渡って攻撃を始めた。こうして米軍と国連軍は圧倒的に不利となり、後退しはじめたのである。
マ元帥の度重なる〝前進論〟は否決され、当時の国連の意見や、米国内の世論の動向などによって、現在のような三十八度線を境にした南北朝鮮の二国対立状態が構成され、マッカーサー元帥は1951年4月11日をもって解任されたのである。
解任に際しての聴聞や弁明の機会もなかったが、日本の現在に見られるような「道路公団総裁に対する弁護士つき反論」の機会も与えられなかった。しかし、日本の国会は、マ元帥にたいして感謝決議をし、昭和天皇陛下は御自ら別れの挨拶に、元帥をご訪問され、悲しみのお言葉を述べられた(315頁)。さらに又、その前頁にはこう述べている。
『モスクワと北京は歓喜し、鐘が鳴らされてお休み気分がただよった。左翼はどこでもよろこびだった。しかし、極東はショックを受け、とまどいを感じていた。私は最高司令官としての地位があまりにも長く、いわば自由世界の象徴がとりはずされたことは、極東に対する防壁といったものに見なされていた。この象徴がとりはずされたことは、極東には理解し難いことであり、米国のやり方に対する信頼をぐらつかせるという現象を生んだ。』
しかしながらマッカーサー元帥に対してはその後、アメリカでの国会で、議会証言がおこなわれている。ともかく彼は将軍でありながら、平和の愛好者でもあった。そして同時に、いったん戦争になると、完全に勝利を収めるまで戦うという敢闘精神だったことは間違いない。もし彼の言う通りに、あの時にすぐに鴨緑江の橋を爆撃していたら、果たしてどうなっただろうか?
これは誰にも分からないが、少なくとも中共軍は、大量の軍隊を南下させることは出来なかった。その間に国連軍は北朝鮮全体に進出して、現在のような韓国と北鮮の対立状態や、北鮮による〝拉致事件〟も無かっただろう。さもなくば、アメリカ・国連軍と中共軍との全面戦争となったかもしれない。
こうなると、今の国連の状態とはちがった国連が出来たことだろう。又もしアメリカ軍が敗退して、日本だけの占領となれば、さらに大きく歴史が変革することになるはずだ。しかし当時の中共軍が、もし全朝鮮半島を攻撃すれば、その補給路の拡大によって、到底米軍の海空からの攻撃に耐えられず、敗退したであろう。ただ当時のアメリカ政府には、それだけの「決意」がなかったのである。
このように、世界の歴史は、人の心や、国家の意思如何によって、大いに変化するものである。一人の指導者、例えばトルーマン大統領の判断でも、世界歴史の未来にまで、大影響を与えるものであるから、人間が「真実の神」を信じ、物や私利私欲などに惑わされないような日頃の訓練が極めて大切なのである。
最後に『正論』12月号にのせられている「マッカーサー米議会証言録」について、平成15年11月3日の『産経新聞』には、次のように報道されていた。
『「マッカーサー米会議証言録」が興味深い。たとえば、かつて日本に君臨した元帥はトルーマン大統領によって予告も無く解任されたという。議会の聴聞会でブリッヂズ議員から「解任の知らせを最初どうやって受けたのか」と聞かれた元帥はこう答えた。「妻から聞いた。副官の一人が報道で聞き、ただちに妻に話し、妻が私に伝えた」。報道とはラジオ・ニュースのことだ。
「どのくらいあとに公式な連絡を受けたのか」(議員)、「30分か1時間だろう。よくわからない」(元帥)、「それは通例の手続きなのか」(議員)、「米陸軍では聞いたことはなく、先例もないはずだ」(元帥)。悔しさが伝わってくる。このとき元帥が解かれたのは連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のほかに国連軍最高司令官、米極東軍総司令官、同極東陸軍司令官などである。』
以 上 〔著 者:タニグチ セイチョウ氏〕
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます