香港
以下は屁理屈だと人はいう
人の人生経過はセミや蛇のように脱皮する。いや、しないものもいる。
何のことはない暗黒の大宇宙の一塊の誰が名付けた太陽系の親星に近い三番目、地球の表皮に四季のある稀有な地域の環境に順応したと思えば、それも然り。
天下思想という生き方のある中国では他人と接するときに「逢場作戯」という妙手がある。
「あなたの素晴らしい御高名はこの国でも有名です」
大げさとおもっても、普通の日本人なら舞い上ってしまう。これで外交は先手が打たれる。
その後に小声で、「ところであの人物は何という名前」
これは本当にあった話だ。
在中国三十年、北京語が流暢な佐藤慎一郎氏が高官と会った際の逸話だが、佐藤氏は北京語を分からないと思っていたのか、廊下で部下に尋ねていた話だ。
たしかに前段では気分悪くないが、その都度、人と逢う場面で己を偽ることは並大抵のことではない。だが、己を隠すことも守りの大きな武器となる。
若いころ高齢の方の話を聴くことが好きだった。両親が忙しかったためか爺さん子に育った。同世代とも普通に交わり先頭になって悪戯もした。ただ女性にだけは臆病だった。母親が厳しかったこともあるが、中高は男子校、野郎ばかりの世界だった。
銀座のみゆき族のはしりだった頃だが、当時はストライプのカラーシャツやマドラスチェックの半袖を着て薄茶色のクラフト袋を持つのが流行りだったが、地元へ帰ると不良にみられた。
厳格な校長だったが学園祭では高校で初めてエレキギターを許可してもらった。まだビートルズがデビューする前だ。プレスリーかベンチャーズが流行っていた。
それが二十歳代になって縁なのか明治生まれの老海(そう呼んだ)に漂った。
爺さん子が老海では活きてきた。それとオンナには興味が薄かった。年寄りのハナシの方が楽しかった。話は酒がお供でよく飲んだ。息子はうるさがって聞いてくれない話を孫のような筆者に口の乾くことも、刻も忘れて語ってくれた。あとで分かることだが、近代史の生き証人みたいな方ばかりで、現在でも語るに憚ることもある。
商業出版や新聞の編集者が訪ねてくるが、「書けば有名になる」と決まり文句。
「有名になったら好きな女とも歩けないし、立小便もできない」と断っている。
それでも、゛資料は?゛とさまざまな連絡があるが、頭に入っていると断り、ときおり変わり者を呼ぶ集いには、「誘われるうちが華」と、秘密の駄弁を漏らしている。
いろいろな場面を体験させてくれた 五十嵐八郎氏
酒だが、よく「酒を殺しているね」といわれる。酔いを抑えているのかもしれないが、老海で漂っていると仰天する内容に転覆しそうになる。また戦後生まれにとって始めはチンプンカンプンで意味がつかめなかったが、分かりかけてくると、とんでもない秘史だと分かり、酒に酔ってはいられない気分になる。それはいつの間にか強くなったのか習慣となった。
酒には酔うが、ヨッパラワナイ、仲間内ではつまらないようだが、彼らは酒で本音が互いに言えるといっている。酔っ払いをみる(観る)と、薄めのバーバリズム(野蛮性)が目覚めるのか、大声を上げたり、次はオンナのいるところ、と騒いでいるが、オンナの接待はもともと苦手だ。君子危うきに近寄らずだが、「聖人にも欲情あり」と故事にあるとおり、そのこと自体は正常な部類だとおもう。かえってかけがいのない異性として尊敬もしている。
自分でも不思議だと感じているが、時折キビシイときある。
誰とでも鷹揚に交流するが、己の何かに感ずると断捨離がおきる。数年行きつけの店だったがプツンと足が向かなくなる。親しい友も遮断する。目に見える頑固ではないので、女将にあえば「相変わらず若いね」と愛想もつくが、こちらからは連絡はしないが友から電話があれば変わらぬ応対もする。
内なる心は分かっているつもりだが、どうも表現が届かない。
きっと妙な欲なのだろうかとも思っている
たとえば「夢は?」と尋ねられると、「恥ずかしくて・・」といえない。
童の素直さが欠けてきたといわれればその通りだが、大人になって言えないこともある。
気恥ずかしいのだろうか。
あの頃は、金持ちとか,映画スターだとか、いや、それ以前はパイロットとか、それこそ夢想があった。そのために「勉強をしろ」といわれた途端、嫌いなことは覚えないためか、挫折する。
難しいことを学ぶと、それは宿命感に囚われると怠惰になると悟った。もっと学ぶと「立命」だと師は訓導してくれた。そのステージに立てば縁が広がり運も運ばれてくる、ともいう。
だが、現世価値でいう地位や名誉や学校歴や金にうつつを抜かすと、縁もなくなり運も乏しくなると、付け加えられた。
そして、あろうことか「無名で居なさい、それは何よりも有力てある」、と筆者の人なりを見透かしたように厳命された。
若僧を見抜く目があった 安岡正篤氏
それからは世間の常人とは異なった生き方になった。
己の活かし方といってもいいだろう。
そうなると他人も世の中も人と違った観察をするようになり、見方が変わったせいか意見を求められることも多くなってきた。
よく、「自分の頭のハエも追えないくせに」とあるが、意味としては自分のことを始末できてから後に、となるのが、「いつの間にか追えなくなる」のが、たどり着いた生き方になったようだ。世間とは逆な生き方をしたようにも近ごろ感じている。
ただ、「他と異なることを恐れない」ことを旨としているためか、逆進することはない。
己を知るために「内観」という方法がある。生を過去に下るとすべての縁は両親に当たる。それ以前は先祖だ。ところが現在より先に向かう羅針盤はない。
ただ、己を知らずに戸惑ったり、悩んだりすると他人に相談したりするが、己の生き方まで他人に相談したことはない。
人の相談事に真剣に考えたり、深い思索をすると己の生き方まで判る面白さがあることが解った。
老海でも「利他の増進のための学び」を促されたためか、習慣化されたようだ。
利他・・・・不特定多数への貢献
それゆえか、名利を図り私利にうつつを抜かす公的立場には厳しい対応をするようになった。
老海の先輩たちも、それを望んだのだろう。何故かと考えると、戦渦と敗戦は彼らの世代に起きたことであり、かつ留まる機会を逸して、いつの間にか戦争に陥った各界各位の公職者の人物として劣化、欠陥があったのではないかという慙愧の念だったのだろう。つまり、官制の学歴による立身出世主義への内省だったのだ。
佐藤慎一郎氏も満州の縁
老海の人たちは各分野で昭和史に名を刻み、戦後も有力な位置にある方が多々だが、それでも沈静して回顧するとより因が鮮明になるのだろう。
彼らは、語り始めると口が渇くのも忘れ,刻を忘れて語った。みなそうだった。
それは教科書や研究本には載ることのない臨場感ある真相が多かった。
理由は、公表するには世情が馴染まないが、妙な企図する人間ではない若者に遺したかったのだろう。
当時、そこは満州人脈の巣窟で政治、経済、思想の日本をリードする大立者の集まる場所としてよく書かれたところだ。
戦後の復興は満州で試行、成果を挙げた統制経済によるものだった。興銀を分配元として多くの大企業が育った。
十河信二の新幹線の発想、右翼思想の系統、政界は岸信介氏の系統だ。経済は満州の重工業を牽引した日産、その流れの結果が高度成長経済だ。
満州経済界の雄 王荊山の孫 戴麗華女史
香港IBM総経理 懇請された筆者は、なぜか副総経理
そんな処に投げ入れられ溺れそうになると誰かが手元に寄せてくれた。
人と変わっているとは言われるが、それで変わらない方がおかしい。
己を説明するのも、おっくうになる。
ゆえに他人には理解できない人間だと自分でも思っている。
講話を依頼されても、主催者は人物説明することに難渋している。
経歴は生きてきた年数しかない。それを知って講話が活きるなら行うが、それでは本当の自己紹介にはならない。単なる経歴紹介でしかない。
自己を知らずしての自己紹介では、知ったつもり,聴いたつもり、の認知でしかないと考えている。
ゆえに備忘録を綴って、その数多の拙考駄文ではあるが、部分認知ではなく、眺めてほしいと願っている。
オボロゲに浮かび、掴みづらいとは察するが、見ることではなく,観ることをお薦めしたい。
そして「お前はそんな人間なのか」と伝えてほしい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます