寺のもみじが色づく頃、毎年のことだが笠木先生の墓前に参って懐かしむことがある。
「安岡は先生の葬式のときに、いの一番に到着して墓前には中華月餅を供えてくれた。彼は先生とは袂を別けて権力についたように思うが、かれの目標は別のところにあった。学者としては珍しくも出る場面は政、経、軍に誘われているが、念ずるところはあったはずだ。」
「先生は児玉が内地で身を持て余しているのを見て、『君は外地へ行ったほうが能力を発揮できる。すぐにでも行きなさい』と児玉の異質な能力を見抜き促している。」
縁者も薄くなった笠木のために世田谷の豪徳寺に同志が墓を建立したとき、傍らには満蒙関係殉職者の墓と児玉が揮毫している。
「いゃ・・字を書くのは苦手でねぇ・」と、ようやく動かした筆である。
また豪徳寺では宮島大八(詠士)氏が主宰していた鎮海観音会が毎年行なわれ、笠木関係者も参加している。「書は東に行った」と中国から讃えられた書家であり思想家であった宮島の縁も多岐にわたり、代々この会は布施無しと住職に伝わっているほど盛大なものだった。本堂での観音経の読経は重厚で長く、毎回足がしびれる不謹慎を記憶している。
毎年一回の笠木会には満州高官、関東軍、笠木の提唱した自治指導部、あるいは満州体験の政治家、経済人が新橋の国際善隣会館に集った。
また、世田谷豪徳寺でも法要があったが、児玉の主宰する交風倶楽部の面々も参加している。
筆者は唯一の戦後生まれだが、可愛がられ、いたずらされ、叱咤され、縁を繋いでもらった。当時、新日本協議会の甲斐田氏、新勢力の毛呂氏、あるいは神兵隊の中村武彦氏、また師友会の安岡氏や多くの影響を戴いた佐藤慎一郎も笠木氏の道縁である。
この笠木会を陰で導いているのは終生笠木氏を看た五十嵐八郎氏であり、名幹事の木下氏である。五十嵐氏は神田神保町に事務所を設けて多くの運動家や引揚者の拠点というべき場所を提供している。前記にある面々も五十嵐氏の世話になっている。
剛毅な五十嵐氏は大よそ姓なり名を呼び捨てである。巷間、正統右翼の論客といわれた中村氏を、゛武さん゛とよび、よく筆者を同席させて昔話をしていた。岡村吾一さんとの縁は、筆者が通っていた銀座の東京温泉のサウナ室で何気なく話した笠木氏の縁から五十嵐氏との厚誼がわかり、ときおり精力のつく栄養剤を土産に歓談する仲だという。
児玉氏との逸話は別章に記したが、これも元は笠木氏の縁である。
戦前は笠木、大川周明、安岡が歩みをそろえたときがあったが、意を違えて袂を別けている。その事情を知っているものにとっては月餅をもって一番に駆けつけた安岡の純粋な情感は、様々にいきさつを超えて感謝をしている。
筆者がみて似ているところは、ぶっきらぼうだが、温かく、語ると厳しい。あるいはあの年嵩も違う選手に聞こえよがしに呟く野村監督のボヤキに似たものが多くのインフォーマルな逸話にある。器でも度でも目方が違うのである、いや量れないのである。
世情に博学な人物を評して、物という字に点を付けて「テンで物にならない」(点を付けたら物という字ではない)、単なる物知りだということだ。
あるとき大企業の社長が就任挨拶に訪れた際に、「辞めるときのことを考えておやりなさい」と、褒め激励されるものと想像していた社長に応えている。
笠木も大川周明の話を聴きに行ったが、みな高名な学者の話に聞き入っていると「オレはポチではない」と纏わりつく弟子と称するものを嘲笑している。
また、滝にうたれて修行したと自慢する人間には「滝にうたれて偉くなるなら、滝つぼの鯉はもっと偉い」と応えている。
つまり、「本立って道生ず」人間としての本(もと)のないものは、いくら学校歴や地位を貼り付けても役に立たない、その証拠に満州崩壊時の軍、官高官の醜態は、まさに、「儚き知の集積」でしかなかった。
安岡にも多くの弟子と称するものがいるが、本人は弟子を持ったことが無い。
また多くの高学(校)歴を有したものや、名利を金科とするものが訪れるが、心中は、゛幼児でも解ることが分からなくなっている。これが国家の指導階級か・・・゛と歎いていた。
゛政治家は人物としては二流にしかなれないものだ ゛とも。
確かに安岡は共感し、児玉は師と仰ぎ添った。笠木良明とはそんな日本人だ。
[敬称略]
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