クリーンハンドの法則という言い方がある
賄賂を貰うような汚職について、一度でも手を汚してしてしまうと、余程のことがない限り汚れは付いて回る、つまり何かにつけても弱みとなって言葉や行動が色眼で見られてしまうということである。
神様でもあるまいし、と同類に慰められても、あるいは貰った当人しか知らないことでも、どうも居心地が悪い気分になり、言葉も行動も遠慮がちになる。
「お前だって・・」と言われれば、「それとこれとは状況が違う・・」「一回ぐらいは・」と反発しても空々しく、日頃の貫禄など吹き飛んでしまう。なにも物のやりとりだけではない。煩雑で道徳域まで入り込んでいる法にかかれば、立ち小便、吸い殻のポイ捨て、行列の割り込み、あるいは何処かの妻持ち、旦那持ちと人情ごとまで邪推されたりするだけの風評で立ちいかなくなることもある。
それも競争相手を引きずり落としたり、単なる嫉妬心から謀を企てるトリックになると、うかうか甘い言葉にものれないような世知辛い世の中になる。
以前、政治家が巧妙な裏切りにあったとき、「あれは毒まんじゅうを食らった・・」と激高していたことがある。原因は、同じ村(派閥)の長年の仲間を閣僚のカラ手形で裏切ったときのことだった。この手のまんじゅうは時限爆弾のようなものもあれば、徐々に利いてくるものもあるが、中国の賄賂(人情を贈る)とは異なり、相手の魂胆を見透かして誘いをかける謀(はかりごと)のような類で、なかには陰湿な計略もある。
あの時は竹下派経世会の衰徴し、当時の幹部が医師会から小切手を貰ったことが露見して世間を騒がしたが村岡議員がスケープゴ―ドにされた。そのとき村(派閥)の仲間割れに言い放ったのが「毒まんじゅうを喰わされた」だった。
それも慎重な相手にはそれなりの手順もあるが、往々にして日本の政治家や官吏、サラリーマンの類は「仲間の証」あるいは「上下の分別」として、あえて毒まんじゅうを、しかも喜んで喰うのである。官吏が便宜を図る利権のお手盛りなどはその最たるもので、これも日本社会の習慣的性癖として毒まんじゅうの免疫性を支えている。つまり、喰っても当らない人間が大勢いるのだ。
この場合は、喰わないものは仲間外れだ。まずはそれに馴染むことから始まるが、問題は正義と公平を司る治安や税官吏、政治家に免疫が多いと国民はそれを倣い終いには、毒まんじゅう国家?になってしまうことが憂慮にある。
裏金、裏手当、便宜供与、官官接待、任官当時は正義感溢れ国家を支えると意気込んだ若者だったとは言うが、みな饅頭を喰っていれば染まるのは必然だ。若いころ…とは言うが、もともと心底が安定職食い扶持を描き、一族の期待を背負って任官した青年も仲間外れになっては喰っていけない。それを「しかたがない・・」というらしいが、それが日本の能力あるエリートと外国では見ている。
なぜなら、それらは喰うだけでなく、毒を毒と思わなくなり「染まる」のだ。官吏が政治家に「これは国家の一大事」と喰わせ、政治家は美辞麗句、ときには嘘八百を堂々と公言し、教師は人類愛と平和人権を餌箱に入れ子供に喰いつばませている。どれも反対できないハナシだが、古今東西成ったためしがない。あったのは走狗に入る知識人の言にみるだけだ。
その点、単純なのは政治家の毒まんじゅうだ。聴くも見るも滑稽さが付きまとう。そう思っていた輩でも、騙された、引っかかったと広言されても可哀そうには思わないのが国民だ。一方、引っ掛けた方も決して利口には思えないが、だいたいが抗論もせず知らん顔をしている。まんじゅうに毒を仕込んだほうが一人前の政治家に思え、喰わされた方が愚かでオッチョコチョイの欲張りにみえるのも、この世界の面白さだ。
閣僚の候補に入れる、公認をするなどから、地方議員の利権のおこぼれや視察旅行の水増しで子遣いの捻出など、国家を護り人々の生活向上をわざわざ拡声器で誓った口の渇く間もなく、いともコロリと引っかかる。しかも体裁のよい理屈をつけながらでも撒き餌に集う雑魚のように集うのもこの群れの特徴だ。
この場合のまんじゅうは「俺も喰いたい」と思っているが仲間を裏切ることはない。それは蛍のように「こっちの水は甘いよ」と、まんじゅうに誘われて群れの決まりごとを破り離れることだ。近ごろは野党が合従連衡すると今までの野党が政権のうまみをと実態を知り、かつ官吏の手のひらに乗ると旧来の群れが離脱しても与党に残るような議員も出てきた。これもよく効くまんじゅうのお陰だろう。
加えてこの群れを手なずけ飼い馴らす上手(うわて)もいる。
それらは宿便のように隅々まで導管に寄生し、滋養を吸い取っている。
「一官、九族に繁栄する」「昇官発財」
隣国のみならず、多くの国家は貪りの官吏の群れによって滅亡している。
あの野田君が唱えていたという・・・、シロ蟻だ。
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