平成23年12月17日 津軽弘前城
「三億失っても、五億は残る」
金の話ではない
人の数の話だ
きっとこんな会話だったと推察する
「いつでも(言うことを聴かなければ)核を打ちこめる・・」
「なに、三億死んでも五億は残る」
これは余りにも有名なスターリンと毛沢東のエピソードである。
これは地図中の大きさと人口の数が「力」となった例で、しかも「生命と財産を・・・」と謳う我国の指導者には到底まねのできない応答でもある。
外交は先ず言葉の切り合いから始まる。その先は戦争である。
小国日本は日露戦争の軍費を調達するに国債を売った。引き受けてはユダヤ人の資本家である。ロシア国内のユダヤ人保護という大義があったが、もし負けて国債が紙切れになったら資本家も困る。普通は担保を取る。土地をとっても民衆もついでに付いてくる。
食わせるのに大変だから、関税権を担保にする。税の権利を取られたら国家の独立は成り立たない。「税」が無くなるということは戦車も大砲もいらない、いまは交渉という名の恐喝まがいでその国は自由になる。
よく交渉後、指導者が笑みを浮かべて握手する。もちろんマスコミセレモニーだが、これが大国と小国だと現場は恫喝と迎合で収まる。
佐藤総理も沖縄返還の端緒になった大統領との会談のエピソードだが、場所は執務室である。
この場合は大統領は執務机に足を上げるが、これは親密さと無礼が混じる。映画でもそうだがアメリカ人はよく机に足を上げる。ならば郷に倣って佐藤総理が足を上げるわけにもいかない。畏まるしかない。しかも当時の日米の力加減は差にもならない。
せいぜい10分か20分しか会話も持たない。帝大から官僚、そして兄に引き立てられて総理になった人物でも、否、だからこそ郷里の英傑高杉晋作のように馬関戦争で負けたくせに、堂々と渡り合う度胸と頓智は浮かばない。
そこで渡米前に安岡正篤氏から応答辞令の妙を訊いている。
要は、日本の武士道と西洋の騎士道を例にして、勝者が敗者を労わる矜持の在り様だ。
これが効果を表すかどうか、佐藤氏は鵜呑みで理解したが、真意は半解だった。
安岡氏は国家民族の指導者である総理と大統領の応答の質を諭したのである。
その元となるものは武士,騎士に備えるべき「道」の問題を互いの共通項としなければ、単なる勝者の大国,敗者の小国の、高慢とひくつ迎合に終始してしまうと危惧したのだ。
とくに、米英鬼畜がギブミーチョコレートにたちどころに転化する順応性と阿諛迎合性は外交交渉において嘲りを受ける問題だ。
その成果は沖縄返還だが、施政権の返還であって沖縄の返還ではないようだ。
つまり占領したが住民がそこにいる。民政には金もかかる。行政権は還すが治外法権と広大な基地はそのままである。それが限界だった。
国家の目標や理念もなく、また自浄作用も乏しく、銭を蓄えて、揉み手で迎合する当世では、逆にあのマッカーサーのように外圧を期待する軟弱な外交官も出てくる。
ワシントンのシンクタンク、ブルッキング研究所で大使や訪米政治家に意見を聞くことがあるが、意見が無いという。つまり自身の哲学や国家に対する使命感すらなく、どこどこの国が・・・、と、まるで相手次第といった無責任な応答しかないという。
教科書エリートか伴食議員とおもえばそれだが、国民は訳も分からず難儀する。
原発について欧米ジャーナリストが口をそろえる
『作業員は世界一だ。しかし上のものはどうしようもない。この国のエリート教育は失敗した。おかしいと気が付いていないのか、分かっていても直そうとしないのか、この繁栄はどんな意味があるのだろう』
それが国会で騒論を繰り広げ、外交官吏は自国を刺激するよう交渉相手に裏で促す、それを成果として己の生涯賃金を陰で計算する。堕落、弛緩ということがあるが、狂っているとみる。
むろん、毛沢東とスターリンのような応答もできない。
歴史家はしたり顔で過去を解説するが、外交は当事者の応答辞令が多くの要因をなす。それを組織に都合や、文言の理解齟齬、風の吹きまわしなどを部分の理由にしても、総じて智慧が働かず形式ばった責任回避を、狡知を以って言い訳する当事者の詭弁にすぎない。
政治家も官吏も「人命財産」というが、「国家」を背負う気概がない。もちろん民も上に倣う。
筆者の知人ブラジル移民の某氏は、出発前に母親に促されて仏壇に座した。
目の前には母が嫁入りに持参した懐刀があった。
「この懐刀は身を守るものではない。もし、男子として恥かしいことをしたら自身を突きなさい。苦しくて帰りたくなったら船上から海に身を投げなさい」
そう云って我が子を送り出している。
たしかに下々の庶民は優れている。
もちろん、現地では尊敬され大成功を収めた。それは不毛の大地といわれたセラードを開拓し、いまでは豊饒の大地としてブラジルの興隆を支えている。
地位や名誉、学校歴は身を飾り守るものではない。ときに矜持を汚すことがあったら、その人格とは何ら関係もない附属性価値は刃となって吾が身を突くはずだ。
それさえも出来ないような官徒、政徒を国家の遣いに出してはならない。
国家の矜持である命の礼とはそのようなものだ。