まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

政治・行政・教育 要は綱紀粛正からだ 2018 10 あの頃も

2024-08-10 16:14:09 | Weblog

 

       

 

 

文字と詭弁の「乗数効果」、そして後藤は「超数的能率

 

いっとき管直人君がこれでやられた。

ただアカデミックな言葉は知らなかっただけで、政治家の離合集散における乗数効果はお手のものである。

100万投資すれば1000万の経済効果かあるというが、オリンピックは政官財の汚職、腐敗、弛緩を生んだ。

 

小人、利に集い、利薄ければ散ず

小者は利の臭いに目ざとく、利(力)が衰えれば離れる

 

考えれば選挙制度なども政権側の継続的維持のために図った仕組みだが、浮気性の国民はその仕組みさえ別の要因でひっくり返す。年金とスキャンダルだ。

突き詰めれば大きな勢力による専制、つまり同じ党でも思惑がバラバラで纏まりがつかなくなり外交や税制すら決められなく、終には候補者の選任を党が行うという、国民にとっては推戴の選択すらなくなった小選挙区制による議員の生存与奪権の党一極集中化にもなった。

 

向かうところは憲法改正ではあろうが、仕組みは宜しくとも人間が成っていなければ食い扶持や便宜供与ですぐにひっくり返る代物だ。それくらい卑しくもなっている。

 

官吏とて、゛今のままがいい゛と、無理もせず傍観している。これもしたたかだ。

 

怠惰や堕落の兆候も世上に表れたとたんに「乗数効果」のように、100が500効果となって、ここでは蔓延効果がはびこっている。天下りによる組織権益の増殖などは、まさに乗数効果である。

 

彼らのその位置をまんまと占めた結果、法によるガードは国民に向かっている。同じ理屈の土俵に乗った議員などは情報の栓を閉められればギブアップである。

 

 

あの大阪の橋下君は維新を唱える。

いまの法の在り様を是正して新法をつくり対抗しようとしている。

あのレーニンも、「その行動は法に違反する・・」と忠告されたとき、「革命は現在の法を無とする、つまり無法が革命だ・・」と既存の法体系にこだわりない行動を推進した。

 

翻って維新は「」を新たにすることだ。「維」は国家の縦軸の様なもので、現在観の横線はスパイラルのように縦軸に絡みついている。

この連綿と続いている縦軸を折ったり、入れ替えることが革命である。橋下君の維新は、縦軸に絡みついた人の模様、つまり怠惰堕落に陥った既得権をはぎ取り、すっきりした「維」を明確に表して、新たな縦軸に寄り添い、守り,護られる覆いを作ろうとする新風運動でもあると思うのだが、これも勢力が拡大すれば軌道を外れ綱紀は緩む

 

台湾でも蒋介石、維国総統が「新生活運動」を行っている。公務員の綱紀粛正、国民の道徳喚起を柱とした整風運動だ。「風」は趣、装い、香、などだが、異郷に我が身を浸してみると社会の情勢、人の姿、落ち着きなど異なりを以て感じたり察したりすることがある。単に雰囲気としての印象はあっても、それを支える表層の経済や政治の姿とは別に、往々にしてそれを司る官吏の意識で国情は変化するものだ

 

たとえば官吏の賄賂だ。高官や政治家が汚職を働けば国民はそれら倣い、また国家に怨嗟の気持ちをもち愛国心などはお題目になるが、官吏の汚職は社会の喧騒を招き、公徳心すら毀損する。しかも人々が信じられない世界が表れるようになる。

 

汚職といっても大金ではない。せいぜい税関や郵便局、役所、それと警察官だ。

それらの国は、国民も分かっている。その点「人情を贈る」ぐらいの気持ちだろう。

物でなければ、「風」を忌まわしくさせるのは怠惰である。手続きの遅延や滞貨である。

 

 

 

翻って我が国はどうだろう。賄賂はないが罰金の種別の多さと法の煩雑さは諸外国でもずば抜けている。街には制服警察官が溢れ各々交通切符を抱えている。昔は家族駐在があったが、こんなことをしたら防犯や非行防止の協力さえ得られない。街での精励勤務の姿の現示はいいが、罰金徴収の勤務評定はいかがなものだろうか。

企図するは「禁ずるところ利あり」安全や防犯を旗に掲げ、法を作ればいくらでもノルマ付きの罰金は増大する。立法役の議員は解釈次第で違反になる網目の細かい公職選挙法を盾に安易に立法に賛成する。

 

狡猾な官吏は坂道に隠れてスピード違反の切符を切っている。これでは坂道を作ったり、車が増えれば罰金の乗数効果があるということだ。筆者の懇意なある警視庁幹部も捕捉され「こんなところで・・」と嘆息していた。そもそも坂道で捕捉するのは日本だけではあるが数値は上がる。まず欧米ではアンフエアーな行為だ。

 

なにも交通安全、法令順守に掉さすつもりはないが、面前権力の姿として一番目立つその立場からすれば「風」の乱れを考慮すべきことだ。

税にもいえる。赤字解消と首長が騒げば、我が身を切らず、サラ金の取りたてのように税官吏が法の平等を屏風にして恫喝する。

事情は忖度することなく「差し押さえするよ」、しかもその金利は延滞税と称して14%で経費にもならない。

これも税収や罰金徴収が順調なら上司からも数値を責められず、国民は安心して暮らせる。

政策がよくて経済にまともな乗数効果が発揮できればのことだが・・・

 

この二大面前権力は「江戸の仇は長崎で・・」のように国民は逆らうことができない。

これが、我が国の「風」だ。大人しく、押し黙り、我慢をする、そんな印象は当然だ。

 

 

 

さて元気な時もあった。

後藤新平は『一に人、二に人、三に人、その人が金を効果的に使えば「超数的能率」はかならず上がる。つまり国運は上がり人心は安定する』と言った。

金が人を駆使するものでなく、人が金を産み、活かし、それが数字を超えた能率を高める、と言っている。

「乗数効果」と「超数的能率」、前は数値計算、後の方は人の資質如何で増大する。

つまり、官吏の能力によって数値は想定外に超えることができるということだ。

人品骨柄を問わざるを得ない環境に堕した、それは人間の質といってもいい。

明治はことのほかリーダーは人物眼を要求された。それは地位、名誉、財力、学校歴という人格となんら関係性の無い附属性価値を避け、目的を共有し、使命、責任を全うできる人物の登用をまず国政の要諦にしたのだ。もちろん経済界、教育界もそれら倣う。

 

それは「人間考学」から生ずる英知の欠落でもあった。

 

そもそも「人間考学」は、教える者もいなければ、学んでも金にも安定担保にもならないと考えられているが、ブロイラーはつよく善い卵は必要ない。ただ大量に見栄えのいい卵が必要なだけだ。

 

認知しているかどうかわからないが、名古屋の河村市長も橋下君も国家の下座観から推考している。余談だが公務員上級試験に「空間推理」「数的推理」「判断推理」がある。

だが、狭い度量、目的意識の欠如、はたまた偏執、変態の類は計ることなく数値評価のみが支配する。もちろん公徳心や愛郷心などはかえつて邪魔で無意味な感情だろう。

 

とくに、経国に必須な「先見」や「逆賭」、あるいは「地球俯瞰」、「歴史事象の賢察」など、ゼネラリストとしての養成が欠落している。ただ海外研修や官官交流、渡り職でお茶を濁している。

 

だが、安定職と食い扶持のタックス・イ―タ―任官試験ゆえに、通ったら忘れる類だが、後藤の言う、「一に人、二に人・・・」の類は微塵もない。

公徳心や使命感、責任感の乗数効果も、相乗効果すらない。

 

どの社会もそうだが、部分分担に調和と連結が無ければ総和は図れない。

天に唾する拙い考察だが、ここでは後藤新平の慧眼と逆賭に今を観るようだ。

 

人物如何で超数的能率の効果は国家の盛衰を示す

 

だれでも分かっていることだが・・・・

 

 

 

 

 

コメント
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