どうしたらと嘆いても、自分そのものが解らない時節だ。
自分とは全体の一部分としての自覚だが、それを基とした思索と観照、そして精霊への畏敬を無意味なものとして考えられている現状では、ついつい依頼心のみが増幅してしまうようだ。多くは政治に求めるが毎度のこと信が乏しくなる。
それゆえに信あるところを探すが、大声で信じてくださいと言われるほど昨今の選挙は鼻白む思いがする。
ここで言わんとするところはアカデミックな政治論ではない。つまるところ何に感動し、倣いとして畏敬するか。そこから比して政治の信を観るのか。
どこに行こうが、゛寄らば大樹゛、当選しそうなところに貼り付け膏薬のように右往左往しているのが近ごろの選挙のようだ。いずれも命懸けで国の行く末を靖んじているという。
浮俗の不特定多数も然り、あの特有の津軽選挙のように落選したら取り巻きは、次の選挙の勝ち馬に乗らなければ、御上からの褒賞狙いの充て職も剥奪され、公共事業の入札からも排除される。下は村会議員から代議士まで親分子分の系列があり、職域でも組合がある。
思想も政策も親分のトレース(複写・腹話術)で、突き詰めれば地位と名誉がついてくる食い扶持獲得と、便宜供与の優越感だろう。また、そのように思わせる彼らの行状がある。
まともな情感をもった有権者なら、少しは楽ができそうな謳い文句にも食傷ぎみになったが、信じられる対象ではない候補者が任期中に大声で謳った公約なるものが叶うとは思ってはいない。ただ投票所に足を運ぶのも、人と異なることを否とする習慣性なのだろうが、帰りの居酒屋で当落予想では競馬と変らない。
大久保利通
創生期は明治だった。はじめて国民として呼称され、日乃本から日本国となった。当初は天皇の輔弼として元老院を設け有司(役人)専制だった。自由民権を謳いだすと交換として徴兵制度が創設され、ついでに西洋を真似た議会がつくられたが、もともと官僚社会主義の様態をもった国であった。それがこの国民にはよく馴染んだ。
その役人だが、問題になった一般財政の3倍もある特別会計が問題になった。追求したのは民主党の石井紘基議員だが、このまま進んだらソ連共産党やアルゼンチンにように国が融解してしまうと危機感をもったが質問の当日、刺殺された。同僚議員は誰一人意志継承するものも無く、検査院、国会すら検証できない国家の伏魔殿のように、いまなお残置されている。
彼らからすれば、議員は落ちればただの人、煩ければ、弱み材料を出せばマスコミが追いかける、役人のミスは大臣が頭を下げ、答弁は役人の二人羽織か腹話術、慇懃に服従するが操縦は狡猾だ。本質は官僚支配ゆえに、選挙は形式で、政権交代しても国民生活は何ら変わることはない。
昔は役人のことをオカミ(御上)と称していた、確かに勅任官(天皇任命)もいた。
これを依頼心ゆえとは切りすてられないが、課題を出されれば疑問も持たず懸命に答えを出そうとする試験と同様だとは言い過ぎだろうか。これを以て民族の性癖とは思いたくはないが、思索力が乏しくなると頭をもたげてくるのも妙なことでもある。
いっとき国家社会主義が若手官僚や軍人に流行った。満州はその官製資本主義の統制経済モデルとして曲がりなりにも発展した。現地の人々の陋習には馴染まなかったが、その残像は我が国の高度経済成長につながった。これも岸信介や国内の若手官僚の経国政策だ。
多くは資金を集中投資して基幹産業やインフラを作ることだったが、その相乗効果は後の予算の乗数的支出効果として常態化した。ピントの外れた政策に湯水のように支出してはいるが、数値効果は記述されても、現実には迷い、戸惑い、あたかもその迷いをすくい上げているかのように聞こえる政策も外れ効果しか出せないでいる。
それは政策ではなく対策なのであろう。敗戦はなおさらの事、気概も失せ目標も勝者のお仕着せ、まして阿諛迎合が政治や言論界にはびこっていては、他国から我を亡くした日本人と揶揄されることもあろう。
敗戦の頸木から抜け出せない売文の輩や言論貴族の繰り言が人心を多様化や個性の発揮と称して煽り、ときに欲張った大衆に担がれた政治家は、前記の官僚社会主義を操る鵺(ぬえ)のような狡猾官吏の手のひらで踊っている様相がある。
慇懃にも遣われているいるような税吏や治安官吏ですら、税務調査権と恣意的に運用できる選挙法によって、いずれ政治家も手も足も出ない状況が表れるだろう。
官吏は生涯賃金と人事昇官にことのほか興味があるというが、落ちたらタダの人と嘲笑される政治家ですら及びもしない世界がこの国には厳存している。
整理整頓
左方と称される者たちの食い扶持担保は弱者救済の美名だが、組織労働者や自治労、教員や教育および福祉関連の、これまた労働者と称される部分にその身分担保を求めている。一昔前は篤志家が寄付した保育園を乗っ取りが流行った。施設経営権と一園に500票といわれる幼児をダシにした支配権の占有だ。中小企業の組合による経営権簒奪も同様なことだ。
それが自由主義国家の優等生で繁栄した幸せな社会の行き着いたところだという。
なにもゴマメの歯ぎしりで愚かな批判を旨とするものではないが、このところ話題となっている選挙候補者のプレゼンテーションは、お詫びと反省、イケメンや有名人の応援、マスコミの恣意的そそのかし、口角泡を飛ばす関係者、プレゼンの舞台に投げかけられるのは怨嗟と諦観が漂っていることを察知している邦人も多くなった。
泣き、騒ぎ、握手して頭を下げる。精神的健常者のすることではない。
これがデモ・クラシー(民主主義)というなら、この期間はデモ・クレージーの様相がある。
全ては一強といわれる人物の飾り役者の一世一代の演技だろうが、どこかギャラ目当ての魂胆が透けて見えるのも浮俗の国力というものなのだろうか。
あの御方にご感想を拝聴したい気持ちになる。
真に申し訳ない慚愧の念がおきる昨今の民情である。
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