まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

オリンピックは地球のドサ周り 2013 3/1あの頃

2024-08-06 19:04:53 | Weblog

 

あの頃も・・・

旧竹田宮、JOC会長がオリンピック招致に絡んだ贈収賄でフランスの捜査機関に聴取されたと伝わった。竹田宮家は高輪にあり、今はプリンスホテルの関連施設になっている広大な敷地だ。その西武の創業者は堤康次郎、あとを継いだのは次男義明氏だが、永年オリンピックに関係し、竹田氏も充て職であるJOC会長に就任したのも、皇室縁戚ブランドの為せることだと大方は承知している。

康次郎氏は空襲のさなか困窮した旧皇族の敷地を買いまくったことは伝記にもあるが、プリンスホテルの多くは皇族関係の土地が多い。長野五輪までは西武グループの影響が大きかった。その後の事業頓挫に加えて、長野五輪の会計を含む関係書類の廃棄など、今回同様の招致に絡む金銭贈与については、大方の国民は察していた。

都市博や万博など政治がらみの誘致には、必ずといっもよいくらいに、政官財、あるいは外国関係者を巻き込こんだ招致対価が噂される。

巷の祭りで言えば、屋台の仕切りや選別、みこしの順路つけ、警備や配りもの、揃いの衣装に食い物の仕出し先、舞台の設営、これを国家イベントに当てはめれば、駕籠かき(交通機関)、旅籠(ホテル)、侠客の仕切り(警備)、郷力(ボランティア)と当てはめれば、時代は変われど人の質は変わらない。それに、人が集まれば博打(公営ギャンブル、パチンコ)に遊里(接待や風俗)が加われば、いまと何ら変わることはない。

そこに、どさ廻りの曲芸や見世物、演芸に勧進相撲が入れば、勧進元は立派なプロデューサだが、カスリ(袖の下、上前をはねる)は役人や治安を預かる親分だが、それも上納と権利が存在する。観客や神輿担ぎはそんなことは承知の上で、曲芸師の演技や相撲の勝負にしばしの話題で持ちきりになる。

勧進元はそのカスリと名誉の権利をもらうために賂(わいろ)を渡すのは当然にことで、役人は袖の下は特別大きくあいている。

 

話は変わるが、支配者はつねに大衆を煽り、そそのかし、いつの間にかあらぬ方向に導くことに頭を巡らしている。ギリシャ、ローマ、大英帝国も温泉、グルメ、旅行、イベントを大衆の面前に揃えて選択の歓びと収穫を幸福感として植え付けた。

すこし手を変えて、フランスは人間は平等だとアリもしないことをそそのかして皇帝を断頭台に送り、自由と民主と人権、そして平等なるものを、さも有るものだして、これも植え付けた。突然、それも自由の意志だとして民族の紐帯(結び目)である、国父国母を抹殺した市民なるものは、言いたいことばかりで、言うべきことなく、混乱し、かつ面倒な議会制民主主義を編み出した。

ちなみにフランスにかぶれてその教育政治を持ってきたのが森有礼だ。士農工商がなくなったが官域をはじめ軍隊でも組織内階級は、人格の優劣はともかく、官制学校の数値選別でおかしな人物が高位を占めたゆえか、国民は惨禍に見舞われた。戦後も官域には残存し、無責任、文書改竄、忖度など不埒な行為を恥ずかしげもなく、しかも平然として素餐をむさぼる官吏も増殖している。むかし軍人、いま官吏と政治家と揶揄されているが、この教育制度と質は、明治天皇が察知した責任ある人物の劣化として「聖諭記」に記述されている。

 

いまでも親が亡くなった後の家族会議が各々の不信をも生み、混沌としていることを考えると、支配する側からすれば財貨に溺れて肉親さえ捨てる群盲の方が支配しやすいと考えたのだろう。独裁や共産は支配者からすればコストがかかる。いっそのこと自由と民主と人権と平等なら、それぞれが言いたいことを主張し合い「人情」など価値のないものだとして、それぞれが分派、分裂して、心地よいワンフレーズで集散も思いのままになると思ったのだろう。つまり主義は支配の方法と手段なのだ。

自由は孤独になり、民主は無責任、平等は無垢なる生育を止め、人権は関係を混迷と離散に導いた。だが経国はスローガンと目標を掲げなければ、民族や国家の権益は保持できないい。いつまでも融通無碍な「愛」を添加できない。それには驚きと興奮に愛と平等に包まれたイベントが必要になった。それもフランス以降にそれを模倣し、民族の紐帯を破壊し依るところを亡失した、地球の表皮に棲み分けられた人種・民族のバーチャルな連帯意識と、大切な思索から、「ちょっとよそ見」させるイベントを世界に広げるムーブメント(拡散運動)だ。

趣旨は「戦争のない、国境を超えた」から始まったが、ここで登場してもらったのが、自らが自由と民主と平等の美句に酔い、みずからが破壊した既存の権威保持者である紐帯の血統を勧進元のメンバーに座らせ、まさに床の間の石として利用した。懐かしがって愛顧を感ずるものや、感激して財を出すものも大勢出てきた。

イベント(興行」は人が集まらなくては金に成らない。ゆえにアマチュアから職業競技に転化した。興行を主催したい国は、開催利権となったオリンピック誘致のためにあらゆる狡知を働かせたが、つまるところメンツと金だった。「だった」ではなく、当然のことだ。それくらい関係者は金になる。

そのコンテンツ(内容・システム)を権利化したのがIOCであり下請けのJOCだが、世界の成金や貴族くずれが数多鎮座している、これも可笑しな様態だが、ここにもボスがいる。

それらは現代のイベント貴族といわれる人間達だが、競技の熱気と感動が屏風に建てられていては、なかなか文句も言えないし、マスコミも利権一族のようなもので、政治家や商売人を集めて児戯に等しい姿をさらしている。

その地球のドサ廻りだが、分かる御方もいらっしゃる。

 

 

   

イメージはブラジルの友人から

 

以下、13   3/1  稿

なぜ、皇室は逡巡したのか・・・

皇室を招致の顔として皇太子殿下の登場を懇請した石原都知事、ほかにも皇族を用いる案が多く出た。

ドサとは佐渡(サド)の島流しで、なかなか戻れないということらしいが、オリンピックの開催はギリシャのアテネからはじまった。現在は財政困窮ということで色々と問題があるが、いっそのことアテネに戻せば経済効果も上がり救済にもるだろう。だが、興行主は懐の按配を気にしている。
 その後の都市開催は国家伸張や国威高揚など、それぞれの事情で開催誘致が利用されている。ヒットラーのベルリン、北米大陸、アジアと夏冬オリンピックの開催地が地球の表皮を転々としている。

 まだ興行していないのはアフリカ、中東、南米の地域だが、国情問題もあるが要は形式に整った資金準備が主な要因になっている。五輪は5大陸の肌色の異なる民族の競技を謳うが、なぜか水や氷などの競技に黒人といわれるアフリカ系はいない。
あるいは、植民地宗主国のなごりなのかフランスやイギリスの選手にアフリカ系が多く参加している。もちろん奴隷制度があったアメリカにはアフリカ系の子孫がメダル確保に一役買っている。






根岸重一氏 作



 日本も朝鮮半島や台湾出身の選手が以前は参加していたが、サッカー、相撲、野球では帰化して日本名になった選手が国内試合に出場している。一昔前は王選手が学生の頃、国籍問題で難儀したが抜群な実績と人柄で野球界になくてはならない存在となった。金田選手の400勝、張本選手の3000本安打など、国内のみならず民族の英雄として厚遇される選手もいた。
そう考えればオリンピック憲章も納得できるが、国家が絡むとややこしくなるのは帰属国も選手の祖国も同じような複雑な問題になってしまうようだ。

 オリンピックはまさに熱狂と偏見を記録という共通数字によって諸民族を平準化しながら世界の各地を周っているが、アフリカ、中東をまわらないのは平準化に馴染まないのだろうか。

 江戸時代にも旅芸人が各地で小屋掛けをした。相撲もそうだが開催地には勧進元がいた。いまはやくざと括られたが、当時は十手まで預かる任侠の親方がいた。興行ゆえに近在の親分に声をかけて客を集め、特産品などを売る屋台店を揃え、博打うちは賭場も設営した。
 場所は寺や旅宿を借りたが、もちろん寺銭のあがりは寺に寄進もした。
 興行の呼びかけは「江戸で人気の○○一座」と、いまの地方興行にあるキャバレーや小劇場とやり方は同じだが、そこに述の立札やまき紙も瓦版屋から新聞社に替わった。

 東海道や中山道に代表される江戸からの五街道では参勤交代も大名興行のように道路や橋は整備され、道端のホームレスならず浮浪者や無宿人といわれる人たちは排除され、旅館は整備され、駕籠かき、馬子も親方の号令でしきたりを守った。つまり江戸下がりの旅芸興行や大名行列は郷の繁栄や整理に役立つ良機だった。

 ちなみに孔子に弟子が尋ねた「まちづくりに際して肝要なことは・・」
『外の人 来たる、内の人 説(よろこ)ぶ』
 たしかに外来は珍しいものを持ってくる。にぎやかで交易も盛んになる。
 だが、主体はまちの人がよろこぶことだ。今の喜びは小判が降ることだろうが、そんなものは、いずれ国の寺銭として巻き上げられるのは民も承知だ。

 江戸、いや地球の名高い興行として、各色の異邦人と旗が混じって飛んだり、跳ねたり、殴り合ったり、球を追いかけまわす一座の興行には、法外な呼び代と放映権という寺銭がかかる。隣の国では独裁政権のもと、すぐにでも起きるかのごとく戦争だと騒いでいるが、こちらは繁栄を屏風に闘いの興行である。






銀座の朝





 これで日本が元気になり社会は繁栄する、そして誇りを取り戻すと為政者は相続遺言を声高に叫ぶ。どこかでもミサイル、核は先代の遺言といって国民の団結を促している。
 そのために、君たちの税を使って興行を成功させると・・・・。
 どうも体裁のいい目標は成ったためしがない。
 阿諛迎合、好奇心はイザベラバード女史の日本人観だが、マッカーサーの別れに旗を打ち振り、涙を流すように国籍に偏重しない日本人は、アジアでも南米でも多くの信頼される足跡を残した。

 だが、物欲しげでさもしい態度にも映る小商人的な姿は、多くの蔑視を受けたことも歴史にはある。そして政治が経済的効果を謳い媚びへつらって興行を呼び寄せる姿は、たとえ招致されたとしても、どうも政治家の感覚はもとより、いずれかの将来に憂慮を起すようにみえる。それはへそ曲がりや天の邪鬼の逆賭かもしれないが、その兆候は心底に増殖する問題にも思える

 落ち着き、鎮まり、潜心の思索が乏しくなった世情だが、戦前の開催中止、戦後の高度成長の端での開催、そして今度の招致、それぞれに理由のある招致だが、以前は憲章メッセージが前面にあった。IOCも開催元も、そして選手もまともだった。今回は趣が違う。いや、目的がさもしくなっている。政治家や関係商人もそうだが、IOCの変質と委員の慇懃さが、双方似た者同士のように感じられるのが、いやらしい。

金をもったらどのように遣うか。地位があがったらどんな部下を任命するか、また、どのような友を周囲に選ぶか。わかりやすい人物の見方だ

 なにも人格となんら関係のない附属性価値である、職掌、地位、財力、学校歴、国家でいえば単に努力次第で上がる経済の数値評価や軍事力を表層国力とすることは、つねに国家の高邁な目標をその類いの数値に置き換える愚策の様なもので、本来の国力とは人々の深層にある情緒や、今どきの放埒ではない真の自由のあるべき素因を知り、守り毀損しない国家の役目を人々が知ることだ。それが調和と連帯の心を生み、はじめて他とともに理想を描くことができるのだ。

 何でも外から来るものに興味を示し、外と同じことをすることに安堵するのが民癖の利点ならば、せめて、異なることを恐れない自覚を以て今いちど学びなおしてもらいたい。






パチンコは遊戯か競技か博打か





「上下交々(こもごも)利をとれば国 危うし」

「小人、利に集い、利 薄ければ散ず」

「小人の学、利に進む」

そして、「利は智を昏からしむ」

あのギリシャ、ローマ、イギリスの栄華は民の弛緩で滅んだ
その指向は温泉、グルメ、旅行。イベントと共通している
せいぜい繁栄とか豊かさはその類の満足しか与えられない
また、一度わたした子供の小遣いと一緒で、毎年増えてくる

そして何世紀にわたって宴のあとのゴミ拾いにエネルギーを費やしている
我が国も津々浦々の自治体では官製イベントが盛んだが、整理と管理とゴミ拾いで多くの予算を費やしている

それも懲りずに都会の人気者を呼んだりして毎年のように同じことをしている。これを役人慣性というらしい。


為政者に民は倣う。せめて大人(たいじん)になって戴きたい。

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