まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

もう一人の自分の安心は、己を知る人の存在  2021再

2024-08-14 01:07:03 | Weblog

 

ときに己にも問いかけることもある内容ですが・・・・

 

武士(モノノフ)は己を知る者のために死ぬ、と聴く。

現代社会は、相手に知ってもらいたいと、なかには「見て!見て!」と、性別にかかわらず料理なり技芸を見せたがるが、人品や人柄とは何ら関係のない附属性ともいえる、たかだかの特技を誇ったり、身体表層を飾り、ときには偽装するような目に見える姿は、ここでは「己を知る」とは言わない。

 

もともと己を知らないままに生命を遂げるようだが、碩学安岡正篤氏の講堂の掲額には「我、何人(ワレ ナニビトゾ)」と記されていた。

ゴーギャンは南太平洋のタヒチに渡った。毛沢東は革命を通じて己を知った。孫文は中国近代革命の魁となり、西洋列強の植民地主義の膨張政策がみえた日本および日本人に「日本は東洋王道の干城となるか、西洋覇道の狗となるか慎重に考えるべきだ」と唱え、「真の日本人がいなくなった」と嘆息していた。

ゴーギャン、毛沢東、孫文、そして日本人も我を知らずに、まるで雲をつかむかのように目標を高めながら邁進した。

そして日本は我を知らぬまま、いや忘れたのか、惨禍を経験した。

             

            安岡正篤氏

筆者は孫文と明治の日本人の関係を研究しつつ現地で逗留し、彼の国の民情や民癖を知るためにその世界に浸った。それは異民族から「真の日本人はいなくなった」といわれる由縁を、どうしても知りたかったからだ。そのから内心に潜在するであろう、明け透けな己を感知したかった。

 

二十代は「明治に会え!」と今では教科書や研究本に記述されている古老と邂逅した。その後は財貨の繁栄に雀躍する日本人を眺めた。浸かると己が解らなくなりそうだった。まだ、三欲(異性、食、財)には闇雲に敏感だった頃だ。それは己を別の自分が眺める境地でもあった。

生意気にも溺れないと悟ったようだが、いっとき試しに浸ったみた。

今では遊戯といわれているが、パチンコやマージャンもしたが馴染まない。水の祭典に誘われて競艇に行ったが、舟券より観客や選手に興味があった。どうも遊びだというが金のやり取りが苦手らしい。食は銀座のビヤホールに三十年以上通って常連となったが、やはり幹事を頼まれたりしながら多くの泡友と知り合った。

 

         

             ライオンビヤホール

 

そのうち、変わり者の話を聴きたい数奇者がいた。売り込むことは先ず無いが、警察、自衛隊、大学、企業などに呼ばれるようになった。何度か茅ケ崎の政経塾にも行って長時間の正座講義もした。多くの生徒は吾を失くし目の前の些細な問題に汲々としていた。我を知らずして単なる暗記で、覚えた、知った、の類で数値選別された若者が問題意識もなく、それぞれの食い扶持の囲いに誘われ、閉じ込められていった。

そんな経験だが、自分でも何かに誘われ、押されるような不思議な縁だが、人は勝手にアナタの星だという。

星のせいか、いまだかって足代や話料は貰ったためしがないが、無学の馬鹿話でも聞く人がいるだけマシだと思っている。

 

    

            恥ずかしながら 少し歪み始めた童心/?  

 

おもえば二十代の頃は思索の思春期だったのだろう。

無名は有力」といわれれば誘われる集いでも肩書は無し、誇れる学校歴もなしだが、今でもいたるところ学び舎だと思っているせいもある。

吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず

物知りの馬鹿は無学のバカより始末が悪い

実感しているし、現実を見てもその通りだからかも知れない。

 

筆者の余話だが、性が江戸っ子なので野暮な生き方は好まない。

それでも、いくらかは女と食い物と金には、からっきし頼り無いと悟り嘆いている。

これも、゛しかたがない゛に属す浮世のハナシだが、それでもエンジンが高回転するときがある。そんな時は今まで感ずることのなかった己に驚くこともある。

他人事でも寝ずに考え、文も途切れることなく進むことがある。それが琴線だと分かる。

 

それが女性に向かうか、飲食や財か、はたまた虚栄なのか、要はロシュフーコの言う自己愛から発するものかはわからないが、まるで与太郎が求道者になったかのようになることがある。「他と異なることを恐れない」と、他人に語っていることだ。くわえて大学では「大学は落第してもいい。人生を落第しないように」と伝える。

そんな時「貪らざるをもって宝と為す」が頭を巡る。つまり、どこか無垢な内心に問いかける余裕の刻だ。そして「何事もホドだ」と聞こえてくる。

 

面白いことに、そんな人間でも解ろうとして考えてくれる人もいる。

こちらは未だに「ワレ、ナニビトゾ」と追いかけているが、それを知ろうと躍起になって考える。想像もあろう。

人と会うと、「目の前にいる人が一番」と思っているためか、誰でもどんな職や地位にあっても一期一会のつもりで関わるようにしている。

たとえ巷で見かけた老人でも声を掛けたくなる。寂しい欲情ではないが張り詰めた気を緩めるために闇の仕事と本人が言う人に遇っても好奇心が湧く。それは老若男女を問わず、「闇の仕事」という音感が面白くなる。お節介は表世界に出そうと思うだろうが、闇にいるからこそ潤いが増すのだ。

 

混濁して本当の姿が解らなくなっている。いまどきはカウンセリングや占いの餌食になるタイプだが、表は女子大の秀才で技芸にも長けている。なによりも父親の経営する塾の全国大会で優勝する女性だ。

父親の対応は厳しく、改札口ではタイムウォッチでも持っているかのように待ち、学習時間も厳格だ。それでも本人は優勝したときの新聞切り抜きを持ち歩いている。

ピアノも弾くが、あるとき「ピアニストになるかピアノプレーヤーになるか。ジュリアードに行けば、間違いなく早く弾けるがピアノプレーヤーでしかない。あなたはどっち?」

 

         

            ブラジルの友 オスニー・メロ

 

数学者は別として、単に数字計算に長けている人は情緒性が薄いといわれている。学校秀才は俳句や和歌は詠めないと、父祐介を評した鶴見俊介だが、彼女もJAZZやセッションは馴染まない。それでもトライし努力はするが適わない。

 

とても美麗で人気があった。

後ろ姿にウットリして男どもはピアノに聞き入るが、本人も視線を意識しているのが分かる。ある日、二人だけの時「自分は事故で顔を傷つけたために整形をしている」と語り、自分はいかに父親からされたことを涙ながらに説明した。

たしかに新聞の切り抜きの彼女とはまるで別人のように無垢で美しかった。

厳しい親、結婚、世間で演奏する、やむなき整形、でも現在は人に見られて演奏し、可愛いと褒められる。

 

 

        

         エカテリーナ・コロボア  文中と別人です

 

彼女のスタイルはブライダル向きの演奏だか、担当にも言い寄られることが多い。しかしこれを生育時の問題と絡めると、事が変質してしまうので聞くときには分別するようにしていた。

前の容姿と今の容姿だが、結婚以前の逃げ出したくなるような環境にあったために他の女性への羨望に近い自由と、劣ると思われた容姿が混在する情緒、それが言い寄る相手に優位さと不器用な戸惑いとして、どこに本心があるのかわからない自分への苦悶のようだった。ときに褒められて当然とする姿もあった。

 

なぜか、父親との関係を語るに涙、その言い寄った男をスローしていたため、男が諦めたのかほかの女性に気持ちを向けた時の悔し涙。好きになったらどのように接していいかわからない、だから応対が玩んでいるようにも映り、相手も悩み、本人もそれに優越を感じさえしていた後の、彼女にとっては計算の立たない場面だ。

気がつよそうな彼女にはいろいろな涙があった。その度、涙を流す。その相手はこちらだ。

 

ある夏、ステージではカリプソパンツに短いブラウスだった。演奏はテンポをとるために上半身を揺らすが、そのために半袖の脇から下着がのぞき、少し豊満な脇腹が目についた。

真面目な常連の客でも見て見ぬふりでチラチラ覗いている。

合間に「すこし気を配ったら・・・、」とわき腹を軽く押した。いまならセクハラだが本人はデブといわれたと勘違いした。機会も少なくなった。

何年かして出会ったらガリガリといわれるほど痩せて、身体容姿に優位性を感じていた彼女だが様変わりしていた。

 

あの時の言葉で素(もと)の彼女が表れた。それでも紹介した外国駐在の施設では、やはり米国人のスタッフに言い寄られたとか、高官とのプライベートデートに誘われたとか、妙な姿になっていったと、その施設の女性スタッフは耳打ちしてくれた。なかなか日本人プレーヤーは入れない施設のために彼女にとってはステータスなのだろう。でも。これも彼女の闇の世界だ。

 

女性は整形で容姿が変わると男関係に放蕩する場合があるという。

また、昔の姿を知っている人間には疎遠になっても、その人間が今の自分を知らなくても、たとえ闇でも遊惰の巷でも、別世界で虚像を見てくれる人、つまりそのような歓迎してくれる世界のほうが、居心地がいいのだろう。

渋谷の東電女史、有名人や富豪の囲い、たとえ酔客でもそれは別の自分を確認できる場所なのだと聞いたことがある

みな、それなりに「綺麗!」といわれることに慣れているが、美しさはない。

ちなみに男は人格とは何ら関係のない前記した附属性価値を誇るが、なかには衣装や車や家、姿はエクササイズや流行りのカツラなどで装うが、中身は反比例が多い。

 

    

      読者提供  まさに無垢

 

昨今は人との出会いでも、まずは地位や名誉や財力、学校歴などが評価となる。

だが、利口な彼女たちは人の明け透けな性欲や射幸心を眺めることに今の自分を見ている。

不器用な人は物欲もホドを知っている。男の様相も冷静に眺めるような、戯れに似た幼い母心も持っている。

 

哀れむべきは、すっぴんの童心を隠さなければならない環境にある。それに負けて隠し、飾らなければならないからこそ、沈黙の闇に妙な潤いさえ感じているようだ。

ねぇ見て見て!

本当の無垢な内心を探し、そこから今の自分を見ないで、怖いのか、恥ずかしいのか、他と比較したり優越を競っていては何もわからない

 

己を知る者のために死ぬ。キリストも愛は不特定多数への犠牲として自らを表した。

表のために裏を犠牲にする。闇に明かりを観ることもあろう。その逆もある。

他と異なることを恐れない

たかだか地球の表皮にうごめく人口は七十数億、誰一人同じ特徴をもった人間はいない。

縁があって生まれ、その無垢な特徴を知らずして他をうらやみ、競い、嫉妬する。

気骨も失せ、流れなければ生きられない。

 

素直に生きること。まともな男も女もそれを見ている。

それこそ、悩みや迷いの外だと思わざるを得ない。

 

一部イメージは関係サイトより転載しています

 

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