まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

真の言論人と、堕した売文の輩と言論貴族  09 2 再

2024-06-13 01:38:38 | Weblog

 

ひと昔前の拙稿だが、読んでみると今と変わらない。

いや、ますますその傾向が進んでいる。

 

知識人といわれる人々が一見良好と思われる生活の安定や地位保全に陥り、俗に売文の輩,言論貴族と嘲笑されるようになったのは何故だろうか。

あるいは架空な話題や、物珍しい題材を高邁な文書に仕上げるモノ書き職人や文化人の発する言葉によって教育者の如く世の先導者に疑せられる様相は、一過性の社会風潮とはかたづけられない問題であり、集積された社会や心の深層を融解しかねない状況でもある。

よく、戦後教育やGHQ政策をその因として論じるが、 ゛民族の考え゛ を表現する場所やシステムの選択は、その因として論じる処の阿諛迎合性もしくは他因逃避に視点を置かざるを得まい。

その言論出版なりを貫く伝統とか国民意識の発露の場を、どのように培い集積したか、また、それを支える気骨,気概を、どのように養ったかの縦軸思考に心を留め置かなくてはならないだろう。

よく誇りとか矜持が持ち出されるが、人間の言論という職分を超えた表現を観るためには、平板の一過性の情報交差や裏付けと称される一面的錯覚論ではなく、経論,緯論の交差点として人物なり事象を観察しなければ全体鳥瞰は望むべくも無く、また深層の国力と言うべき ゛なりわい゛を観るという下座視の涵養も必要だろう。


            




以前、笹川良一翁が喝破したという『人間,食って、寝て、糞して…・』だが、科学的根拠とか、枝葉末節的な検索議論に疲れると ゛そんなもんだ゛と、妙に開き直ってしまったり,心のご破算から出発点に回帰してしまうことがある。
すると、書くことも、言うことも無駄のように思えるような、まるで深呼吸の峠から吐息に似た落ち着きと鎮まりが訪れる時がある。

いろいろあるが、「皆おなじ」と言うべきだが、それぞれの脳味噌の違いは ゛食い方,寝方,糞の仕方゛に興味や観察が向き、その「仕方」の滑稽さが異物を生み、想像という,あくまで観察者の「想像する人間像」から逸脱すると「事件」という代物が発生する。

そこには哀れで,滑稽な,珍奇且つ偉大な人間像が言葉と書物で表現され、ここでも高邁な論理で『食い方、寝方、糞の仕方』が論じられるが、明々徳を学旨とする「大学」までが格調ある糞真面目な論争を繰り広げている。
そこに風潮というものが作用するとグルメ,インテリア,健康が各論風発され、もちろん手段としての銭論もそうだが,一巡すると゛そんなもんだ゛に振り戻るようだ。

神の子のハルマゲドンは無いが、まさに地球と同様の「自転循環」の生業(なりわい)ではあるが、循環のスタートラインに入れ込んでいる者とっては『食う,寝る,糞する』以前に『人間は…』という冠が痛烈な道筋として圧し掛かる言葉であろう。



           
皇居 御休み処


よく「話題にこと欠き」とはいうが、稀代の言論人といわれ,その世界では重鎮といわれている新聞記者あがりの言論の徒が、その ゛こと欠き゛での聞くに耐え難いエピソードがある。
浮世の人間にへばり付いた付属性価値に地位,名誉,財力,学歴の有無があるが,あるに越した事は無いが、何ら人格を代表するものでないことは、゛敬するに名利に恬淡゛という言葉がある通り、特に評点を押さえる座標軸の厳守には重要な問題でもある。

とくに下座視と鳥瞰視を交互に観察し、生産性社会の栄枯盛衰を賢察したうえで推論なり゛言、平なる゛評論を述べる立場の「貪らざる」重要な部分である。

その言論の徒が陛下にお目にかかりたいと望んだときのことである。
それは、陛下に関する著作の出版にかけての行為であった。
知り合いの侍従にその希望を伝えると、個別の希望では叶うものではないが、たとえば散歩の途中で偶然ということなら゛ ということで、皇居内に点在する御休み処で待つ事になった。

゛陛下 何々が居ります゛と図ったように陛下にお伝えする侍従、そして言論の徒との会話になったが、ここで、゛言うに事欠き゛何を狼狽したか
「陛下、侍従のシャツは私の友人の会社のものです」
日頃,明治の気慨と反骨を売り物にしている放談人だが、応答辞令の稚拙さは立場の異なる相手の威厳を大衆迎合の錯覚した基準によって退き降ろそうとしている所作である。

余談だが、今では当たり前のようになったが、氏が講演を依頼されると、゛人数は,場所は、講演料は゛との前提がつくが、明治生まれの言論人にしては寂しい気もするが、それは筆者が感ずる単なる明治の人間像への愛顧なのだろうか。

よく゛何が正義か゛との問答があるが,正義に正対する人間の姿を活写にするには相当の勇気がいるようだ。
言論出版の表現される範囲での取り組みに興味を示し、言の寸借ならまだしも、流行モノの風に正義が浮遊している状況は、まさに現代知識人の様相に似て言論に見え隠れする゛覚悟゛の欠如を見る思いがする。

商業出版と釜の蓋であるクライアントとの関係のように、覗きこむ飯の量が読者に対して見せる勇気の按配では、正義やそれを堅守するために時には起る肉体的衝撃を回避するような筆質しか望めない。



                



同様に、変化する時々の世界に投げかける勇気の姿は、事象の相関ではなく、自らの信ずるものや、己を知るものとの絶対関係になくてはならない事であると同時に,平常の覚悟の涵養と行動環境の整備に在るといえる。

また,公私の間にある動機は下座鳥瞰の観察のもとに不特定多数の利他や歴史の縦軸に見る特徴ある、゛いとなみ゛に心の道筋を置かなくてはならない。
なぜなら「やらなくてはできない。やればできる」という勇気の発生は、自利と利他に逡巡する欲望の質を信ずるものとの絶対関係のなかで内観するということです。
もちろん立ち止まる事も,進む事もあります。行動学といわれる陽明学も,その到達点は「狂」です。
 

゛言い切りの美学゛として肉体的衝撃や、生活という゛釜の蓋゛の開け具合を云々しない、という考え方がある。
言い切りの、゛切り゛は覚悟ですが、自らは克服と考えるべきでしょう。
 こと、食い扶持と多いか少ないかを維持する地位や学歴,今では触覚の鈍感さが人間観察の域まで錯覚を起こしている、゛組織゛という厄介な荷などは、個人とか個性にいう意味不明な「個」という共通語によって哀れみと排他のコロニーになっていることが多い。

己そのものの半知半解を組織内スタンスで表現しようとしても、あるいはその ゛世界゛特有の語嚢で分かり合えたとしても、釜の蓋とロマンの相関は葛藤、怨嗟,嫉妬の解消には程遠く、本来,組織の一部分を構成すべき特徴を添えた人間力の発露など及ぶべくもない。 



               

          門田隆将こと門脇氏の著書



仲吊り広告を賑わす週刊誌のなかで独特の雰囲気を持つ雑誌に「週刊新潮」がある。
他の雑誌の促販紙面である女性ヌードや漫画もなく、それでいて毎週50万部を売るというが、独特の取材から数々のスクープ記事を連発させ剛筆週刊誌の名を欲しいままにしている。 

とくに少年犯罪に関する精細な特集は神戸事件の被害者、土師淳くんの父,守さんの手記や、京都「てるくはのる」事件の当時小学校2年中村俊希くんの両親、聖志 唯子ご夫妻の手記。 あるいは光市の母子殺人事件の本村洋さんの手記などは、地を這う取材と人間を扱うという真摯な姿勢や意を委ねる人情の交換がければ到底,著わすことができない内容である。

たとえば各地には、それぞれ独特の地に培った気風や恩讐もあるだろう。
あるいは培ったものに似つかわしくない価値を導入した戸惑いは、今までの生き様そのものを異物として忌諱し、地域固有の子育てや金銭消費価値を無理した姿で平準同化させている。 異なるものとの忌諱や対立感情は、些細な出来事を増幅させ、ついには事件の対象を、゛弱き人゛に向けられる。
しかし、事件そのものをスポットとしてスクープしても一過性の紙面飾りにしかならないだろう。


                
                     


ここでは些細なものを、゛蟻の一穴゛として捉え、地を這うような取材によって地域特性や生き様を理解し、より深層の問題意識を検証したうえで、事件そのものを多面的,根本的、あるいは、その影響を考慮しなければ近親の慟哭した手記には辿りつかないだろう。

また、不磨の法のごとく、さまざまな関係者の意図によって動く事のなかった少年法の改正に、一石を投じるきっかけでもあつた記者の視点は、伴食売文とは異なる目的意志の明確を示すものであった。

自ら取材して,自らの責任で記事を書く完結手法は,時として身の危険や家庭生活の妨害に遇う事もある。
ときには永年にわたり夫にも秘匿していた秘密があからさまになったとき、訴訟に晒される被害者と記者の姿もある。
ときには記者自身が、尾行,ゴミ箱漁り,中傷、脅迫,迫害など恐ろしい行為を受けることもあるが、怯む事のない強固な気概で,全てを克服している。

出版界では、彼らを新潮軍団と呼び、その特長ある取材方法と完結手法は他に追従を許さない内容とともに、毎号50万と言う購読者を持続している。
世上,名物編集者としてもてはやされて世情評論をしたり顔で話す御仁もいるが、困難を超え真実を体感直視した記者の一言には敵うものではない。



週刊新潮の新年合併号に興味深い記事を見た。
「世田谷一家惨殺事件 急展開か。捜査本部が隠す犯人と指紋が一致した男」である。
一読して息を呑んだ。そこには地を這うような捜査官たちの戦いが描かれていた。不覚にも,新聞やテレビで大報道しているこの事件の捜査が、これほど熾烈なものであることを知らなかった。

 見落としそうな靴の表面剥離片 鎖を切る際に付着した超微量の金属片から割り出した凶器の種類など、これらは数ヶ月かかって辿りついた、まさに鬼気迫る鑑識捜査員の成果だった。
記事には,これらの驚くべき事実が淡々と記述されていた。



                  


逆取材だがこの記事の執筆者である編集部次長の門脇護氏にその意を伺った。
「取材は対象があるからできる事です。ですから被害者の無念なおもいに心を置き、あるいは日夜、捜査している警察官の頭の下がる努力は、伝達を役割としている週刊誌の記者と謂えど、一時,一語が生涯忘却できない事柄としてのこるものです。 それは終生付き添う人生の回顧なのです

この記事のもう一つの意味は、誰にも報われる事のない捜査員たちの驚愕に値する真摯な姿を表すことでした。
お父さんは頑張っている。家族も犠牲になっても、諦めず結果を出したお父さんの使命感は、おおぜいの人々に役立っていると、警察官の家族にも知ってもらいたい。
素餐を貪る一部のキャリア官僚や組織利権に明け暮れる実態は,多くの国民が知るところですが、その醜悪を、超然独立した気概で尊い仕事をするお父さんを尊敬してもらいたい。
たしかに週刊誌は人の暗部を暴くあまり近親縁者の怨嗟を発生させてしまうこともあるが、被害者の心情,加害者の環境を忖度しながら,真実を伝えることの意義は小さくないはずです。その上に立つての責務は、記者それぞれの人生観に照らしていることは言うまでもありません」

誌面や中吊りでは分らない「週刊新潮」の気概とその職人集団の取材方法は、゛しょせん週刊誌゛とは思えないような読者への教訓でもある。


            

             羯南の生地 岩木山

あの「名山のもとに名士あり」と詠った明治の言論人陸(くが)羯南は、あるとき記者を批評してこう述べている。
それは教師と女給の色恋を゛教育の荒廃゛と大書きしたことに点いてである。

カツ南は「教師と謂えど薄給の身 ときには女子の尻を触ったところで、これを教育の荒廃などと大仰に書くとは何事た゛」と,叱責している。
また,司馬遼太郎は「羯南がいなければ俳句など電池の切れた懐中電灯のようなもの・・」と書いている。また「子規や如是閑のような特異な人材は、いまの入社試験では到底,採用にならなかったであろう」と付け加え、明治言論人の人物観を綴っている。

弘前市在府町の羯南宅の真向かいは、あの辛亥革命に献身した山田良政,孫文の臨終に立ち会った弟、純三郎の生家である。
カツ南の教導がなければ異国の革命に挺身する事もなかったろう。
また、山田兄弟や朝野の有志の活躍がなければ,孫文の革命も成就しなかっただろう。
羯南も山田の義父である菊地九郎が維新の疲弊に打ちひしがれた民衆に向かって
人間がおるじゃないか」と、人間力こそ最大の力だと喝破した覚悟と矜持に影響されたに違いない。
あの伊藤博文もたじろかせた羯南の言辞は、言論人の鑑として語り継がれている。

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輪ゴムで蟻を釣ると津軽を思い出した 10 9/7 再、

2024-06-10 03:24:07 | Weblog




乾いた土に穴を掘り、暑いさなかせっせと何かを運ぶ蟻の行列を見て、童心に戻って蟻と遊びたくなった。道具は輪ゴムである。ひも状にして一方の端をつまんで穴に差し込むと蟻が釣れる。たわいない遊びだが親に叱られて土間に座っていとき考えた遊びだった。
あの頃はナカナカやめられない遊び、いや蟻にとっては迷惑この上ない作業の邪魔だった。

近頃は齢のせいか釣られる蟻を自身に模写したり、世の有様に似せたりするが、ふと津軽のことを想起した。今年の津軽は毎日のようにスコールがあった。決まって弘前から黒石までの弘南鉄道に乗ると着く頃は雨だった。スコールと考えたのはすぐあがるからである。

なにか地軸が北米大陸に移動したかのように、それにつられて偏西風の帯が北上したような敷島の邦がことのほか暑い。
風雨は亜熱帯のように激しくなり、乾いた土地は草木が茶色に変色している。
人の服装も欧風に「着る」のではなく、米風に「はおる」ようになってきた。男は刹那さを通り越して楽天的となり、初秋の庵の黙考や竹風の音も昔の古臭い情緒となっている。

オンナとてうら若きは立て膝や胡座が巧みになり、正座などは大河ドラマでしか見られなくなった。扇情的な服装はか弱き男を圧倒しつつも淫靡な欲情はより男を弛緩させる。ことに暑さのせいか、南洋の政治風土に似て政治家は騒がしくも楽天的になってきた。それは問題意識や危機意識が希薄になることである。

ともあれ、性別が希薄になってきたのである。




              


          津軽平川 ヨシ人形



荀子の「衰亡の徴」にも、男がにやけてオンナのようになり見栄えの服装もオンナのようになり、オンナは烈しくなるといっている。そして世の中は落ち着きがなくなり騒がしくなる。まさに数千年前も人間はそうだった。そして滅んだ。

世俗は未だにゲームセンターと詐称しているパチンコの客の多数は、くわえタバコも見うけるオンナである。ちなみに治安官吏の食い扶持なのかパチンコトイレの数多の首吊りは白書には記されることはない。つまりデーターにも乗らないため政治問題にもならない棄民扱いである。種目は事故死、不審死ではあろうが、青森県弘前市の新開地城東のパチンコ店では多くの首吊りが毎年のようにトイレで行なわれているという。
ちなみに男は岩木、白神、八甲田、死に場所はいたるところにあると。
博打で身を崩すのは男かと思ったが、勝負はオンナのほうがはまりやすい。

これはシャッター通りと化した地方の繁華街ではよく聞く声を潜めた話しだ。そんなところには儲からないのか弁護士もいない。とくに生真面目な東北の人々は困っても縁者にすら語ることが無い。パチンコ屋の敷地なり近隣には必ずといっていいほど消費者金融のATMが用意されている。景気がよくて遊ぶのではない。林檎をはじめとする農作物の不作、店には客も来ない。とくに遊戯台を占めるのは中年のオンナが多い。
ちなみに筆者も時間合わせだったが、たかだか20分で二万円の換金があった。つまりその逆もあるということだ。これが博打場ではなくゲームセンターという簡便な法に守られている。まさに国営にある厳格な法律外の治外官営博打場である。


東京でもそうそう見かけることの無い多くの寺院が立ち並ぶ寺町は、競うように軒並み大伽藍と庫裏を改築している。不作と経済不況、若者は都会に向かい帰郷せず。さしずめ大名は役場の役人、大尽は寺院とパチンコといったところだが、市民は「しかたない」と。
タクシーの乗務員も高齢者が多い。なかには月の歩合が7、8万、それと年金だが、形式離婚して家賃2、3万のアパートを借りて家族は公的手当てを貰っているという。

郊外には売りたくても売れない住居が多い。蔵付古民家で林檎畑が付いて数百万はざらである。近頃は外国人が買占めに入っているともいう。

足かけ20年近くなる津軽だが、四季の彩りは今も変わりがない。また津軽の、゛らしさ
゛のあった頃の事碩も厳然として残っている。
変わったのは都会を模した無計画の町並みと似つかわしくない市民の生活だ。
あの時は駅を降りると岩木山が目の前にあった。旅の帰着を喜び弘前の生んだ多くの偉人を想起した。改札口がおもいを膨らませた。





                  






目の前を高層マンションが遮り岩木山はなくなった。雑居ビルにはサラ金がひしめき、数十台の駅前のタクシーは空車待ち、高層マンションの裏手は都会のコンサルタントにそそのかされたのか回遊遊歩道のようにくねっているが植栽は雑草が生え、人通りもない。一番の繁華街通りも古都には似合わないカラフルさを装っているが人はいない。

あの訪れるものを魅せた、゛らしさ゛はどこに行ったのだろうか。
昔は十三湖には安東水軍が当時は表日本だった日本海を大陸との交易に繁栄した。それ以前は古代遺跡もあった。まさに津軽は別物だった。
その、゛らしさ゛は明治に開花した。人の花が大きく開いた。
東北の俊英が集った東奥義塾、明治の言論人で正岡子規を世に出した陸羯南、珍田捨巳、中国渡って孫文に協力した山田兄弟、ブラジルに渡って後のブラジリアン柔術を広げた前田光世、満州皇帝溥儀の最も信頼する側近だった工藤忠、彼等は本州の北端津軽から普遍的意思をもって海外に向かい、日本人としての信頼を得た先覚者たちである。

津軽には普遍な価値を持つ人物をそだてる気風と土壌があった。
いま津軽では「食べられないから都会に出て、みな帰ってこない」そして、゛しかたない゛と。しかし、あの頃の俊英は帝大を出て津軽に帰ってきた。教師にもなり商売人にもなった。近在には多くの善き相談役としてのエリートがいた。彼等は津軽に厳存している多くの事績を守って伝えた。何よりも人物をつくる教育とは感動と感激をつうじた魂の倣いであることを知っていた。

明治次世代の中国研究の第一人者の佐藤慎一郎、津軽教育界の重鎮鈴木忠雄は明治の先覚者の事績を継承した津軽人である。また宗教家である赤平法導師の文化的提唱は津軽に欠くことのできない郷土の矜持を語り伝えている

筆者も吹雪や熱暑の期に敢えて訪れることにしている。もちろん桜も祭りも温泉もその潤いの種ともなるが、人の変わりなき様子を探すことも愉しみとなっている。
そのなかで息潜む人たちの呟きにある、゛しかたがない゛という原因が、ある座標に立つて俯瞰すると、人々の尊厳を毀損するものと、諦めにも似て阿諛迎合する人々の実相や、多くの善男善女の郷人が陥る無関心と嫉妬心の混在が見て取れるのである。

それらの一部はことさら整理するものでもなければ、大言壮語して人を誘導しても解決したり、あえて直さなくてもいい部分として理解するものもある。それは明治の先覚者の排出した頑なな掟や習慣の土壌は津軽ならずとも、その気風が必要なのだと思えるのである。





                 

               黒石



                
             黒石よされ





ただ直さなければならないのは人間の尊厳を毀損するものである。政治と行政にみる支配機構に携る人間の問題である。これらが覚醒すればたちどころに人々の意識は変化する。とくに地方における市民と官吏の関係は都会にはない溝の深さがある。
しかし、これさえも、゛しかたがない゛と諦めているのである。

昔は、自由だ、民主だ、平等だ、人権だ、と騒がなくても官吏には忠恕と公にたいする謙虚さがあった。いまは慇懃な衣を被った支配である。何処でもそうだが、゛子供は公務員に゛と多くのオンナは子供に勝負を掛ける。地方はそこに農協が加えられる。
だから誰も言わない。与党議員も官吏の言い訳役に終始し、野党は食い扶持を勘案しながら市民の苦情をつまみ喰いする。



明治の初頭、津軽は維新の混乱と不作で疲弊していた。誰もが、゛どうしようもない゛と諦めていた。菊池九郎は「人間がおるじゃないか」と喝破した。
幼少、菊池に可愛がられ長じて薫陶を受けた佐藤慎一郎は勉強会の参加の多少を憂いた筆者に「独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず」と、独立した一人の人間の重要さを諭してくれた。叔父の山田良政は革命の戦闘に殉じ、その弟純三郎は孫文側近として孫文末期の水を摂っている。
すべて独りの人間の言であり所作である。

政治も経済も人間が部分化している。そして情や公徳心も薄れているという。
しかし、゛しかたがない゛という言葉のなかには、゛仕方がある゛そして、゛誰か他人が゛という望みが満ちている。それは満を持した溢れる熱い心情だ。

つまり予算も補助金も、それに過度に縛られた市政に迎合する、゛しかたない゛が解き放たれれば津軽は激変する。津軽選挙といわれる陋習も変わるだろう。
それは軽々しい市民扇動運動でもなければ、勇ましい大立ち回りでもない。






                






日露戦争の勝敗の分かれ目は黒溝台の戦闘だった。それは津軽の若い兵士の奮闘だった。あの口うるさい爺さんたちの若かりし勇姿だった。お陰で日本人は青い目の金髪にならなくて済んだ。あの時は津軽兵士が最後の砦だった。寒かった、怖かった。だが負けたら津軽がなくなる。日本人もいなくなる。
手足は霧散し肉体は骸と化す極寒の戦闘に逃げずに立ち向かった。
縁もなく、怨みもないロシアの若者に向かって刃を振り上げた。ロシアの勇敢な兵士は最後の格闘で日本兵の目に指を突き刺し、津軽の兵士は首に噛み付いてそのまま双方絶命した。

寺町の奥に忠霊塔がそびえている。毎年、縁者や師の墓参とともに塔の二階にあるおびただしい無縁の骨壷が幾層の棚に安置してあるところで黙祷をする。日露戦役から太平洋戦争まで数百の骨壷が無縁として置き去りにしてある。訪れるものなく大きな香台はカビに変色して、塔の入り口もくもの巣が張っている。
8月15日は太平洋戦争後は国民にとって意味のある日となっている。敗戦、終戦、色々呼び名はある。塔の陰になったところには津軽の陸軍軍人の墓地があるが、ここにも訪れる人はいない。







                









なにも靖国の喧騒を真似ることでもないが、津軽の疲弊の一端が妙な格式や形式を司るものに奴隷のように従順な土地柄を生み、却って率先垂範するものの頭を押さえ込んでいるようだ。そう思うのも、近所の名刹といわれる寺院から鍵を借り、東京の来たれ者が毎年くもの巣を払い、香を焚き感謝の黙祷を捧げることが、清涼感に似た恩霊との同衾と、そこから導く誓いを独りの覚醒なり自省として己を内観する場だからだ。
大事な場所と思うなら簡単に入れはしない。そうでないから可能なのだ。

どうして足が向くのか。冬は雪を掻き分け塔に向かうのか。なぜならそこに津軽なり日本人が抱く、゛しかたがない゛という精神の転化に結びつく種があると思うからだ。

今更ながら「人間がおるじゃないか」と喝破した菊池九朗の一声が心に刺さる。

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佐藤慎一郎氏に観る 機密費という銭   2010 加筆再

2024-06-09 00:56:51 | Weblog

≪最近、以下の内容に極めて似た著作が出版された。濾過された情報の又聞きだが、実直な作者ゆえか、佐藤先生象の感受表現は改めて懐かく感じられた。もし先生にお会いして盃を交して著作にある記述を拝聴するならば、P44のような言動をするような風はないと認識するでしょう。また「おれ・・・(俺)」は、申が上から押されて下部が曲がった姿、つまり男性シンボルが押し曲げられた、いわゆる男の機能はないと、「日本人は面白い呼称をする」と云われたことを笑い話として語られた。

残置された書類はすべて焼却を切望していましたが、書類現物があることは不思議なこと。残っていたとしても触れた御仁は師の切望を知らぬはずはない。

真実を追うことが学問だと認識するのは勝手だが、切望の意を曲解なり隠匿することそのものを利とするのなら、どこかの国の大量破壊兵器隠匿如何として徒に知の有利さを弄ぶ愚は、師の「人師」としての風儀を汚すことだろう。≫

 

本文゜ 《酔譚の了解録音を参考加筆しました》

マスコミの解説委員や政治部長が機密費からお小遣いを貰っていたと話題になっている。

彼等にとっては問題なのだろう。ウンともスンとも言えないし書けない。陸羯南が聞いたら何といおうか。いや天聴(天皇の耳に届く)ならこれ程の社会悪は無いだろう。お耳を煩わせることだ。

たかだか瓦版、モノ書きの類のことだが、まさに走狗に入るとはこのことだろう。

国家観のあるうちはいいが、食い扶持、遊興、餞別の類になっては国民の信頼は得られない。とはいっても、゛国民の信頼゛ほどいい加減のものはないという前提もある。
つまり、嫉妬と怨嗟の対象だからだ。

こうなると、゛さもしい゛゛卑しい゛争論が発生するが、落ち着きの無い言いっ放しが大部分だ。

モノ書きの倣いだが、見たことを系列化するのが彼の職業における正当性であり、証拠や前提とする動機をとりあえず接続詞を多用して取り纏め、購読料を払っている不特定多数に伝えことを職業としているが、はたして食い扶持といえるのだろうか。珍奇、高邁に飾られた紙面は作り、書く者を文化人や知識人と称して盛り立てる世間の納得性もここでは問題視される。

日中国交前夜にマスコミが中国に入った。当時は香港からあとは鉄道だったが、香港からの旅費は中国政府持ち。視察と称する物見遊山は最終地北京に到着した。人民大会堂では周恩来首相の招宴があった。最後に風呂敷包みが届けられ「これを皆さんで・・」と告げられた。

中身は現金である。ブンヤどもは会議を開いた。どう処理したらいいか。国内の社内会議のような堂々巡りで埒が明かなかった。それでも彼等は大新聞の記者である。
そのとき毎日新聞の橘氏が毅然として「考えることではない。貰うべきものではない」と言い放った。

このことは当時の荒木文部大臣がエピソードとして語ったものである。場所は反共右翼が建てたビルの落成式である。こうも言っている「近頃は反共を謳って中共から金を貰ってビルを建てたものがいる」と。 むろん某政党も政党本部のために当時の額で3億円貰っている。

佐藤慎一郎氏が台湾の学術研究団に招かれ日本人の学者や研究者と訪台したときのこと、帰りにお土産が渡された。現金だった。

佐藤氏は賄賂を潤滑剤、人情を贈ると考えている彼等の慣習的な行為を非難はしない。問題は日本人の教育者や知識人の姿である。日本人として招かれた学者や、その後の台湾派と呼ばれている知識人達が当然の如く、あるいはコッソリと懐を開く姿に愕然とした。




             


クリーンハンドの法則は汚れた手を洗わないで握手をすると自らも汚れるということだ。
そのご佐藤氏はその訪問団からスポイルされている。つまり仲間ではないということだ。
狭い範囲の掟や習慣は法律の世界に優先することもある。とくに人情を加味されれば受けずとも理解することもある。しかもその訪問団の中では唯一20年以上中国で生活している佐藤氏はその意味するところを熟知している。
だから日本人が日本人として具現する姿を知っている。

知を働かせて意味も無い対価を受け取る。まるで物を売って対価を受け取るのと同じように手を差し出す。これでは言論の前提となる本(もと)が無いということだ。
「物知りのバカは無学のバカより始末が悪い」
「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」
あの満州崩壊のときの軍人、官吏、しかも、゛高級゛と冠する連中と同じ醜態が平和時の知識人外交に佐藤氏はみたのだ


格好付け、変わり者といわれようが佐藤氏は断固、断った。それは、孫文の側近として、戦後は国民党最高顧問として日中交誼に尽力した叔父山田純三郎の遺志でもあった。その原点は「真の日本人がいなくなった」という孫文の嘆息への頑なな回答でもあった。
その中でも外国語を専門とする親台派で有名な教授は机を開けて生徒にその収得金をこれ見よがしに見せて平然としていた。いまは通信社の役職になった生徒の秘述である。

そんなのが大陸非難、日本政府への政策提言などと、何をかいわんや、いや国賊的知識人である。果たして彼等は孫文が歎いた真の日本人の枯渇した姿の映し絵ではないかとも思える醜態である。あるいは田中派経世会の中国詣から置いてきぼりにされた他派閥や大言壮語した議員の台湾派としての口利きは、辛い台湾の立場を巧妙に操りながらも何の功も産むことは無かった。

そのさもしい連中は、児玉源太郎、後藤新平、明石元三郎、八田興一、六士の教育殉職者等の事績を踏みにじり、かつ功利的な国内派閥抗争を台湾人の目に晒し、みっともない小人政治家の姿として今なお現地では語り草となっている。
またそれらが台湾棄民、つまり気に食わないので国を棄て、蛍のように甘い水に籍を移動した騒がしい連中の日本に対する阿諛迎合の口舌に気分を高揚させている。
知識人の曲学阿世と政治家の国賊的態度は今もって「信」を元とするアジアの民衆から嘲笑され続けている



つまり、かれらは実態から遊離した空中戦に戯れているのである。
゛片腹が痛い゛まさに台湾問題は日本人にとって胸を張って大義を唱えられない状況であり、三国の反目や難渋に多くの煩いとなっている一端は日本人そのものにあるといってよい問題でもある。

それが機密費をも扱うのである。官吏に嘲られるのも一理ある。
働かずに貰う銭、それは等しく国民から徴収した汗の対価である。

知識人は口舌と文筆によって営みがある。商業出版の労働者としてその技芸や珍奇な論を高邁に飾り立てて著作料を生活の糧としている。

部数を気にして本屋のデコレーションまで口を挟み、通称「平積み」の多少と置き場所を気にする。
そんなのに限って人を映しに義や愛をつづり、読者を架空な世界に誘惑する。また論争と称して騒がしい罵詈雑言を繰り広げる






             




筆者の周りにもそのような輩が出没するが、総じて照れくさいのか清貧を装い、場を変えて酒色に興じる小人作家も散見する。彼等も商業出版の社用経費の使い方に長けている。
ネタ元である政治家、治安官吏とのバーターは客である読者というより、不特定の国民に対する背任がごく自然に行なわれている。

日露戦勝の立役者である明石元三郎は膨大な機密費を使いロシア国内の社会構造の転換まで行なったが、余った資金は精細な支出記録を添えて返却している。
今どきの、貰ったものは使い切りとは違う当時の日本人の姿であり、その真剣さと集中力、普段の努力と愛国心は、国家ら俸給をいただく軍官吏として当然な姿であった。

佐藤氏も永年にわたって総理報告を送っていた。はじめは何のためか解らなかった。
或る時、管轄の官吏が訪ねてきて中国問題への意見具申の懇嘱があった
いつも赤坂の料理屋で普段食したことの無い料理が出て聴取が行なわれた。後でわかったことだが中国は佐藤氏、米国は某、ソ連は某とあくまで秘密報告だった。印刷はしないで手書きの聴取で7部作成する。

それが分かったのは安岡さんのと一緒にいたところに福田総理が入ってきて、
「やぁ、佐藤先生いつも貴重なご報告恐縮です」といわれ、はじめて総理が読むものだと理解した。
香港に渡り、海岸で待っていると棄民が泳いでくる。そして中国人でさえ日本人と判別できない流暢な北京語で聴取する。温かい食べ物を一緒に食べる。
軍報や国内向け人民日報を読み解き検証し、次を推考する。国内法規を翻訳する

それが総理もみる秘密報告となる。
或る時、「そろそろ歳なので他の人に・・・、高名な中国研究者もおるし・・・」

聴者はいう。
いゃ、彼等は誰にでも理解できること、発表できることを言っている。中国人がこの問題をどう考えるかは推測でしかない。それでは政府の決断はできない。この問題は佐藤先生しかできない。世界の中のアジア、そして日中関係、かつ善隣関係への模索という前提が無ければ只の論文でしかない。それはその人たちの事情です」

それも日本及びアジアのためだ。だから渡航費と謝金だけしかいただかなかった。コレ(妻)は大変だった。拓大でも学長に教授を依頼されたとき二万円もらった。コレにこれでは生活ができないね・・といったら、烈火のごとく怒った。『あなたは学生が好きなんでしょう。そんなことで辞めたら学生は可哀想です。私はできますから続けてください』と叱られてしまった。



              

             モト夫人


この報告書も日本のため、国のためと思っている。日本人の伯父がなんで孫文の側近として中国の革命に行ったのか。それは西洋に抑圧されたアジアの人々を救うためには、先ず中国を近代化して日本と提携しアジアを興す、その一点だけだ。コレに金の問題ではないことを改めて教えてもらった」

外務省が機密費を流用し贅沢三昧した。大蔵省高官の銀行接待、官官接待、佐藤氏は「もう日本人はいなくなったのか」と筆者の面前で大粒の涙を流した。
何のために伯父達は頑張った(辛亥革命)のか・・・

困ったときの荻窪頼り

(荻窪団地に居住)中国国務院の高官や台湾高官も佐藤氏を頼って訪問する。池田、福田氏ら総理からの教授要請がある。しかも無名を貫き足跡をたどるも痕跡は少ない。
それを是として財貨や名位には目もくれない。だから異民族にも信頼があった。
なによりも熱意と人情があった。そして自身にあえて重責を課し厳しかった。

「先生、今日は出席者も少なく失礼しました」と筆者が恐縮すると、

「何をそんなことを気にしている。陽明は、゛独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず ゛といっている。一人でも真剣に聴くものが入れば人数の多少を拘らない。一人の人間によって社会は興きる。また一人によって滅ぶときもある。このような場を作る志はありがたい。また継続することだ。わたしはいつでも参りますよ」
物の多少に囚われない、真の自由を担保するのは己の精神だと。

機密費というあぶく銭は手をつける人間次第によって国家は滅ぶ。
あえて説明はいらぬことだ。

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朋友のリンク  郷学研修会のあの頃

2024-06-06 13:10:13 | Weblog

           郷学熱海研修会  安岡正明講頭

 

我が家からテレビを放逐して数年経つが、不思議がった方々のほかに疑念を持った人がいた。あのNHKである。アンテナの線は切断、PCは自宅にはない。そんな環境でも何度も来訪した。音のするものもない中で茶をすすり、新聞二紙を読む。読むといっても産経と東京の二紙は観照したり思索するにはホドが良い資料だ。いつごろからか新興宗教の日刊紙が投函されているが、これも世俗を読むには有効な資料だ。

ときおり昼食時の飲食店でテレビを視聴するが、お笑い娯楽となったニュースが流れ,晩餐?の居酒屋ではスポーツか娯楽が幅を利かせ光陰のように過ぎ去る世俗を映し出している。ことさらヤルセナイ人生とは思わないが、さまざまな視聴媒体がデモクラシー成立の部分構成だとおもうと、せめて一時でも離れたいと思うのは筆者だけではないらしい。

碩学はデモクラシー変じて、「デモ・クレージー」と揶揄したが、まんざらでもない。それも反射的習慣性にどう向かうかの問題だ。ただ、゛いいんじゃない゛の逃避なのか惰性なのか判別しない慣性には馴染まないようにしている。

   

              

 

             

               ブラジルの友人より    

 

さて筆者の当節勝手な備忘録だが、以下は朋友作成リンクの紹介です。

http://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/home

https://www.youtube.com/watch?v=UO0lQkpPk94

数年ぶりの再開だが反響が多かった。なぜだろうと不思議感があるが、その多くは老若問わず男子である。

 

 平成29年3月の郷学研修会は世田谷地区川部幹事の設営で、20日(月曜日)三軒茶屋にておこないます

講師は元空将の平田英俊氏を予定していてます。当ブログのコメント欄にお問い合わせ記載していただければ,幹事よりご連絡いたします。なお会場の都合により定員になりましたらご容赦ください。

 

 

以下は当ブログ内の関連稿です。

≪「郷学研修会」の再開  ≫

 

どうなるのか・・・と、首を傾げる憂慮は銀座のビヤホールからはじまった。

どうにかしよう・・・と、応えた。成算はなかったが、その職域から発した憂慮に尋常ならさざる問題がこの国に滞留していることが、ことの始まりだった。

しかも、おとなしくしていれば、どうにか今どきの成功価値に安逸した生活ができる人物の問題意識は、部分は明確だが、社会の大まかな状況には手を拱くしかなかった。

                 

                       平田英俊空将

人格とは何ら関係のない附属性価値を獲得する成功価値だが、手を拱かざるを得ない状況は、それを無意味だけでなく、ときにそれを所持する人物如何によって反有効性価値として社会の各部分に煩悶を発生させている状況がある。

 

人格を養う本(もと)は官製カリキュラムにはない。

また、部分カリキュラムなどのアカデミックな修学に求めるものではなく、まして、数値の比較評価に拘泥するものでもなく、あの陽明の「格別致知」のように、知に到り、身に浸透するような学びは各々の感性に委ね、あらゆる場面に訪れる事象への問題意識の喚起・探求こそ「本」の端緒なのだ。

 

しかし繁栄はときに成功価値を曲解させ、生産性を企図した人の養成は数値比較である、知った、覚えた、味気のない人間を大量に輩出ならぬ排出している。よくこの種の涵養に求められる古今東西の古典記述とて、発生地の人の織り成す社会環境や習慣的性癖などを遠目に眺め、字章を簡便な美辞麗句に装い、本来の意を曲解して来歴を修復している状況がある。「本」の微かで乏しい附属性価値は、地位、名誉、財力、学校歴となり、この前提は高給と安定担保が大よその成功価値となっている。しかも目的化している

また、浸透して血肉となり、己の特徴を以て利他に行動する「活かす学」などは、浮俗に誘因する欲望に抗しきれず、内に顧みる自省すら忌避して安易簡便なる学風に陥っている。

 

生きる要因や術(すべ)となる必要なものを、徒(いたずら)に抑制し偏狭に否定するものではない。だだ、ヤルベキことがヤリタイことになると、欲望は際限なく、コントロールを失くし、ときに公位に職を食む人間がその状態に陥ると、社会は調和と連帯を微かにさせて、まさに「どうなるのか・・・・」と、その進捗に戸惑いを覚えてしまう。

 その疑問は、数値選別に勝ち残り高位高官に昇った人物から発した疑問ならなおさらのこと、一考に値するものだった

土壇場になったら、あの社会保険庁の逃避構成員のようになるのか、前線で危険対峙する自衛官を横目に天下り生害賃金を思案する指揮官になるのか、詰まる所、政治家は行政官吏を管理コントロールできているのか、はたまた、自分の幼年期からみた世俗の変わりようとして、毎日のように報道される殺人、詐欺、公務員の不祥事、などあの頃には想像できない社会が出現している状況が、はたして求めた成功価値なのか、そんな疑問の根底は何なのだろうかと、切り口を求めてきた。

 

応えはこうだった。複雑な要因を以て構成され、かつ、さまざまな縁のなせることで、地球の表皮の部分に棲み分けられた、集う民族の変遷にある栄枯盛衰、とくに物的な集積と破壊、人的な争いと親和、とくに現実から遊離したような惨禍の回想など、人間の繰る社会の歪みなり劣化について切り口について、率先的な意思も枯渇したような人間そのものへの問題として提示してみた。

 

問題意識の正確な把握と基礎的知識が備わっているエリートは直ぐに理解し呼応した。

そして、自身が体験した政官の高位の部類に入る人たちの状況も添え、かつ彼が依るすべとした理工系エリートの思考習慣を超えて、まさに彼らにとって当てにもならない人間学的考察から人の習性や情緒なりを更新、是正することを共有する人々と、利他の貢献を企図してお節介なる集いを催すことになった。

 

当初は四、五人、現在は多士済々の十人余り、この座談会を数回行い、その名称を考える段になってなかなか名案は浮かばない。

そうしているうちに、このメンバーならそれぞれの分野のエキスパートゆえ、講話会を開いて、ささやかな相互学習をした経過で座談会の名称を考えることになった。

そこで、簡便な知恵だったが、既存の会で休会になっている小生の主宰していた「郷学研修会」を、有志を募った相互交流の場として再開する運びとなった。

 

                 

                  安岡氏

              

                 卜部氏  郷学にて

 

元々は、白山の安岡正篤宅での会話から、氏の督励がきっかけで、厚誼あった卜部侍従・安倍元内相・下中邦彦(平凡社)・佐藤慎一郎、各氏の発起をいただき、足掛け十年行っていた。会長は郷の篤志家、講頭は安岡正明氏、講師は漢学者、内外のジャーナリスト、政治家、匠、など多彩だか、選択は無名有名を問わず、督励意志を鑑みた人物を小生の専決で懇請させてもらった。会場は憲政記念館や渋沢別邸・都内の借室など、講話の趣によって選択していた。

                    

休会の理由は、その世界では高名だった督励発起の方々への妙な錯覚した世俗評価に集う人たちが増えたことだ。

ある意味、権力に近い、皇室権威に近い、というアンチョコ学問の堕落だが、とくに中央官庁の官吏や政治家の卵にその傾向があった。参加者は高校生や近在の老人、研究者の類もいたが、みな良識があり、いくら有名でも四方同席の自由と平等の観念が備わっていた。

 

その卵や官吏は狡猾な目的があった。当時は安岡正篤氏と交誼があれば、何かと便利だと思う輩がいて、ご長男が講頭(当時郷学研修所理事長)なら尚更のこと、一部の者の意図は、会がブランド化していく憂慮があった。

 

たかだか有志の学習会ゆえ、有名になろうとか拡大しようとも考えていなかった。そもそも郷学は錯覚した人物観によって埋もれ、微かになった人心を作興させ、郷(地域)の埋もれた無名な人物を扶助し現世にその価値を覚醒させようとする運動であり、その意識をもつ人物を養成しようとする集いだからだ。

要は己の習得した能力を自らの利に用せず、ささやかでも利他の貢献に結びつけることを目的としている相互研鑽でありムーブメントだからだ。

                  

                 岡本氏

あの席で、同席の岡本義雄氏は「日本精神の新たな作興」と烈言した。呼応して安岡氏は「錯覚した価値により中央が糜爛すると、地方の篤士による志が顕在するようになる。有為なる人物を発掘して郷を作興する場が重要となってくる

その意が、「郷学を興しなさい」と、偶然の機となって具現されたのが岡本氏命名の「郷学研修会」だった。

安岡氏から添えられた言葉が「無名は有力です」だった。

 

作興とか、郷学とか、無名は有力だ、とかは深い意味も解らず、その場ではまる呑みだった。

こんなものだろうと始まった時、講頭の安岡正明氏が「父が考えていたのは、このような許容量のあるたおやかな相互学修なのですと云われたが、あの烈言した岡本氏も気色鷹揚にして頷いていた。督励発起を戴いた御仁方も率先して講話を承諾し、様々な世界に起きる禍福に制度や組織にかかわらず、いかに基となる人間の問題が大切かを口唇の乾くのも忘れて語っていただいた。なかには、そのような集いならと、普段は高額な謝礼が必要な諸氏も篤志で講話を申し出る方もいた。

 

そして、妙な選民意識なのか流行りのブランド的な風評が漂ってきた

この風評なるものは抑えられないものだった。゛たおやかな許容゛が戸惑いとなった

「安岡ブランドというものがあるようですが、食い扶持や虚飾の屏風になっています

『父は、それを学問の堕落と云っていました』

宿泊研修で真っ暗な天井を眺めながらの寝床談議だったが、「本(もと)」が毀損されるようになれば・・・、それが、休会の理由である。

無名を旨とすると運営者は、とくにこのことに気を付けなければならない。

 

それが、時を経た今機の再開である。

いまは、あの当時の督励発起の方々はいない。

だが、その統(す)べを伝える内包されたものはある。つまり意志をつなぐコンテンツは前記の座談メンバーに充満している。「統(す)べを伝える」これが伝統なのか・・・

「郷学研修会」は、年初をめどに準備を進めている。

 

 

≪槇の会≫          

また、準備世話人の座談は、名称を「槇の会」として並行して継続することとなった。

「槇」のいわれは、悠仁親王殿下の御印の「高野槇」を拝借して、世俗の学びにない俯瞰した人間考学を旨とするための名称として、次代のために現世を語る集いにした。

イメージを与えて戴いたのは、参会されている松崎俊彌氏(皇室記者)の秋篠宮家の睦みと使命感についての話題に感応したことがその理由である。        

              

               松崎氏 台北にて

郷学研修会の督励発起人だった卜部皇太后御用掛の逸話も含め、どこか督励を戴いた他の縁者との関係も、今期の再会の後押しになっているような義縁も感じている。

 

一部画像は関係リンクより転載しています

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内憂外患とはいうが、先ずは「内患官倒」であろう   8 12 再

2024-06-05 06:12:10 | Weblog

前号では天安門の命がけのスローガンは民主化とそれを遮る官吏の「官倒」であった


「田園まさに荒れなんとする・・」と陶淵明は都を落ちた。
逸話では上級役人が視察に来るので正装して待つようにと下級官吏に命じられた折、陶淵明は気骨をもって憤慨している。言うに「食い扶持のために田舎役人に頭を下げるのはごめんだ・・」と、反発して郷里に戻っている。

その気風は自然詩情あふれ、今どきの定年待ちの年金田舎暮らしとは心根に天地の差があるが、反骨によくある誹りは免れない。かといって、゛いいんじゃん゛゛俺はオレ゛のいい加減さは無い。

詩情に流れるものは「経世済民」であり、あくまで民を済(救う)ことを目標としている。そのために縦割り官吏の似非権力に反抗したのである。その気高き孤高の精神は浮俗のに漂う多くの欲人を儘ならぬ形で誘引をもしている。

喩えだが、碩学安岡正篤氏にも周囲にその環境が少なからずあった。つまり拙速学歴を補うべく集う官吏、商売人、売文知識人の類である。

今どきの官僚の官官接待や民間業者の取り巻きに嬉々としている拙速学位に応じた者とは根本的に異なる矜持がみてとれる。ことさら隠遁のような精神を持つべきだとは言えないが、地位、名誉、財利に恬淡な人間への憧れが香りとなって時を違えても感嘆すべき詩情と、それを支える気概である。

隣国の官吏は科挙という難解な登用試験を経たものの特権階級である。つまり宮中に仕えるに生殖器を切除して宦官となり、その権限、賄賂については拙章「昇官発財」に詳しく記しているが、地方官吏についても、どの様に真面目な官吏でも三年務めれば黄金が貯まるという。まるで現在の外交官のように給与はまるまる預金、家も建ち、膨大な手当てと退職金、厚遇された年金と大臣など足元にも及ばない生涯所得を税から受けている。

そこに陶淵明のような気骨と問題意識を持っている官吏がいるだろうか。




                



あの日中友好交渉の折、田中総理は毛沢東主席から「もう喧嘩は終わりましたか・・」と慇懃に手渡されたのは屈原が載っている「楚辞」である。
『どうぞお読みください』ということである。





                

5月5日は端午の節句 屈原が世をはかなんで入水した日だ。

その屈原だが端午の節句の主人公である。ベキラに入水自殺した屈原が身体を魚に毀損されないようにと姉が竹筒にもち米を入れて川に投げ入れたことから粽(チマキ)習慣となったものだが、それくらい愛敬された官位ある人物である。
゛溺れたものには石を投げる゛゛墓を暴く゛という民が、と考えがちだが人情と誠には民族を問わず正当な評価を下す民族の佳き一面でもある。

なぜ投身したのか。

川の淵をさまよっている屈原にある漁夫が尋ねた。

『どうしてこの様な処に・・・』

屈原は応えていう。
『世の中全てが濁っている。己独りが澄んでいる。多くの人々が堕した世に酔っているなか、自分は醒めている。それゆえ遠ざけられた・・・』

『賢い人は世に逆らわず、拘らず、流れに乗って生きる。なぜ彼方も一緒に泥をかき混ぜ、波を立てないのでしょうか。人が酔っていれば少しくらい酔ってもいいでしょう。どうして深く悩み孤高に甘んじているのでしょうか』


屈原は諺を引いて応えた
『どうして清らかな精神を持つ身に汚らわしいものが受け入れられるのでしょう。いっそのこと、この湖水に身を投げて魚の餌になろうとも、この清い身を世俗の塵にまみれさせたくはない』

漁夫はこう言って立ち去った
『水が澄んだら冠の紐を洗えばいい、水が濁ったら足を洗えばいい』



               

    満州での邦人家族 佐藤慎一郎氏




肩の力を抜いて、切り口の違うところから観れば、そう悲観することは無いと漁夫は言うのだろう。では何故、毛沢東主席は田中総理に「楚辞」を送ったのだろうか。どこにも貼りつく膏薬論にもなるが、人によっては好転したり暗転する。

゛あまり四角四面の難しい外務官吏の言うことを聞いていてはできるものも出来ない。文字遊びは止めて大同に就こう・・゛

゛その内、狡猾な官吏に足元をすくわれないように・・゛

「智は大偽を生ず」
概ね知識は己を守るため、己さえ偽り、大義を唱えて利を貪るようになる。
それゆえ官吏、知識人は「臭九老」と毛は蔑んでいた。そして官吏は自然にそのようになって群れを構成し社会を蝕むといっている。

つまるところ「公」と「私」の間の問題である。

陶淵明も屈原も人を救う公意を詩情に託して時代に訴えた。

此のところ嫉妬と怨嗟の当てどころとして官吏が浮上してきた。
彼等の立場は国民ではあるが、それこそ国際呼称ではタックスイーター(税金食い)である。夢を喰う獏ではない。拙速だが名目学歴を有し地方では高額所得者として位置を占めている。その不作為に民が塗炭の苦しみを味わっても業務上過失毀損という罪を有していない。巧妙にも俸給外の手当てを随時頂戴しても背任にならない。天下りという渡り喰いをしても罪はなし。政策にピントが外れても咎はない。
横領をしても卑猥な行為をしても、民法に無い内規の訓戒、戒告、注意という狡智規範で済む。

屈原でなくても、゛皆、濁る゛
その意識もなく、食い扶持、退職金、年金、を思い計って声は挙がらない。
わが国はその周辺を含めて二千万人余いるという。それらが掟、習慣に護られて佳き変革を遮っている。



              
満州馬賊の頭目 白老大人 1989.5


美辞麗句は大偽のようだ。あの満州崩壊の折、電話線まで切って居留民を残地させ、内地に逃げ帰った高級軍人、高級官吏の歴史は我が民族の恥辱として満蒙の地に語り継げられている。中には陛下の勅任官もいる。敵中、敵艦に散った成人前の若者(少年)の矜持を、孝であり、忠であると煽った、同じ日本人の軍人官吏の醜態である。

華人は独りで強く、集団は纏まらないという。翻って日本人は独りは無く、群れになると強いという。そこには群れの人情は無いということでもある。
また、徒に法を煩雑なものとして、彼等はそれを駆使して利を貪る。

華人には「人情は国法に勝る」という心根がある。

高知の某高校の修学旅行が上海で事故に遭い、多くの生徒が亡くなった。その一報を聞くと官吏は棺桶を送る準備をした。先ずは緊急医療ための医師を派遣すべきと、新潮の門脇記者は訴えた。棺おけを用意するが、粽を撒く人情も無く、そこには詩情などはない。

それが我国の官吏の性癖でもある。

我国には名目学歴もあり責任もある官の逃げた歴史は確かにある。



以下、元のフビライをして「真の男子」と言わさしめた宋の忠臣、文天祥の
【正気の歌】 参照

《我国でも吉田松陰、水戸学の藤田東湖、軍神広瀬武夫などに忠臣の鑑として読み継がれている》
   

【本文】

この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。

それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。

人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。

政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、

時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。

例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。

秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。

断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。

食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。

ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、
ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。

またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。

この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。

それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。

地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。

君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。

ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。

釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。

牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。

ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。

そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。

ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。

何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。

何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。

そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。

茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。

賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。

風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。


フリー百科事典Wikipediaより参考

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 人間考学  「布仁興義」 その倣うべき姿  11 4/22

2024-06-03 11:30:50 | Weblog

筆者 拙刻





「仁を布いて義を興す」  よき心を自ら広げて、正しい心を喚起する

「布仁興義」東洋では政治の様態を問うときこの意を標識する
その標識は世間では法の掲げる標(しるし)として乱立しているが、いまはこのシルシが罰金徴収の題目となっている。

標(しるし)は、識(しき)にいう道理がなくては掲げるべきものではない。道徳心を喚起し己を自制する、あるいは想い起こさせる標でなくてはならない。

孟子の説く「四端」がある。ことの心(情)の端緒を収斂すると四つあると、それぞれ「惻隠、辞譲、羞悪、是非」として仁、義、礼、智を説いている。

仁は惻隠の情が心や行動の端緒となる、という。
他人の困窮を見たら察する、心を想うことが陰ながらの意識の発動であり、それが「仁」の姿だという。

ちなみに「礼」は心を譲る、「義」は羞悪をみたら本来の姿を想起する。

「智」良し悪しの分別、その心を育てることが学問なり教育だが、もともと誰でもある心(情)が欲望によって失くした (忌避、忘却、放心)心を取りもどし純なる己を再考する、それを成すべき学問だという。それは形に表れるものとは異なり、また心の説明責任などという類には馴染まないことでもある。

よく「我、何人ゾ」と、自分は何なのだろうと自分探しをすることが言われるが、学問修得の一面でもあり、多岐な行動を促がし発起、躍動、自省、あるいは自傷もあるが、詰まるところ「自分はどの位置にいるのか、ところで何なのだろう」という探求でもあろう。

自身が善いと考えたことを不特定多数を対象に布く、つまり口舌や行動で提供することによって、人々に義に表れる正しい行動が喚起される。その調和と連帯が家族、社会や国家であると多くの為政者が好んで揮毫している。

近頃の日本の政治家は「一隅を照らす」と流行り挨拶になっているが、そもそも政治家は一隅の光を連帯させて、万灯に構成し世の中(国家)を照らすことが責務である。
一隅の意は下座観である。世の中を多面的に俯瞰するために必要な部分ではあるが、部分の考察のみてではいつまで経っても全体俯瞰にたどり着かない。

つまり一党一派を支えても、国家は担えない為政者の蔓延である
その結果は判例主義の裁判官、前例執着の官吏の出現である

もともと官制学の暗記学やマニュアルを唯一の人間査定として生きてきたものにとっては、その考察の入れる箱は狭い。それゆえ一隅は重箱の隅と化し、灯火は似非貧者の一灯となり、名利食い扶持の擬似同感となっている。

これでは「布仁興義」にはならない。
人々は易きに倣う。当世政治家の仁は予算確保であり、義は美句スローガンでしかない。
それは社会を弛緩させる。つまり人が怠惰になり、愚かになる。逆に緊張ある社会は、たとえは悪いが、真の悪を生み、却って心の善を甦らせ羞悪に抗する義を喚起する。

緊張した社会は、言い方が悪い、態度が悪い、と政権を糾弾しない。弾が飛んできても無駄な議論で延々と会議などはしない。
そんな為政者に習い逆な立場におかれると、また同じことが繰り返される

現実の例えだが、福島原発の被災は近隣住民に避難を指示した。茨城県つくば市は行政がその避難者を同情で迎えなかったと騒がれた。国民は優しさが無いと非難した。
それは以前、茨城東海村の原発事故のとき福島県境では避難する茨城県民を同様な態度で軋轢を生んでいたことの意趣反しと考える意見もあった。
仁が乏しかったから義が起きなかった。


真の善政は「」という。
官を太らせ、国民に金を配るものではない。
孟子は、生まれながら誰にも教えられなくても、その四つの収斂された心(情)は保持している。しかし人間は心が放たれている(亡くしている)。
それは人のあるべき姿(人格)と何ら関係しない附属性価値の欲望に、過剰に翻弄され競い、恨み、悩みを発生させている。その価値とは永遠なる命と持て余す富であり、現代のその具は名誉、地位、学校歴となり、だれもそれを矯正できない。

つまり「」を遂行しようとする人物がなく、西洋の造物主が説く「人間は至高なる存在」を拝借して生命財産を侵すべからぬ価値として汲々と擁護している。
だから家畜を置き去りに避難を指示する。緊急時でも一顧ある余裕もない。あるのは責任が及ばない為に数値のみでの策であり、動植物と共生する継続社会の情緒の理解も無い。
人情は人の為のみにあるものではない、たかだか区切られた地表は人間の為にあるものではない。しかも人の役に立った家族のような動物を忌避する為政の策に情(こころ)は無い

生きていることは何のためか、財なり富は何のために用とするものか、ここに至誠の心で一隅を照らすご家族を紹介して本章の意の一助としたい。

感動や感激は見るものではなく、行為を倣うものだ





吉永君のよき理解者 麻生太郎氏


吉永拓哉さんの示す「布仁興義」

サンパウロ新聞福岡支局長 吉永拓哉氏の筆者への便りを掲載  23・4/23 

≪今年は10月に父親、弟、妹とアマゾンへ行ってきます。
アマゾン川中流域にあるパレンチンスで高拓移民入植80周年記念式典に出席する予定です。
あまり世間では知られていませんが、戦前、日本の国策で「アマゾンに第2の満洲を創る」という壮大な計画がありました。
そのため、政府は東京に高等拓殖学校(略して高拓)を創設し、我が国の優秀な家柄の子弟たち(高級官僚の息子など)を集め、子弟たちに「オノ一本でアマゾンの原始林を開拓する」訓練を行なったのです。
こうして実に300名ほどの高拓生たちがアマゾン奥地の原始林に送り込まれました。
高拓生たちは苦難の末、原始林を切り拓き、新種の麻の栽培に成功しました。
当時、麻はコーヒー袋の原料として重宝され、需要も多かったそうです。






 
          移民渡航


しかしその後、第2次世界大戦が勃発。そのため、高拓生たちの血と汗で築いた財産は、すべてブラジル政府に没収され、高拓生たちは本拠地を失い、散り散りになってしまいました。
それから数十年が経った1961年、私の父親が学生時代にアマゾンを放浪したときにふと手に取った高拓生の帳簿を見ると、かつての高拓生が「無に帰す」と記していました。

恵まれた家庭に育った若者たちがアマゾン開拓を志すも、夢破れ、最後は無に帰るという詩を拝見し、私の父親は「アマゾン移民との交流」を一生の人生テーマとしました。
ちなみに私の弟の名は、この「高拓移民」から字を取り、「吉永高拓」と名付けられました。

300人もいた高拓移民ですが、あれから80年経った現在は、生き残りが5人に満たないそうです。おそらく入植80周年が、高拓1世にとって、最後の周年式典になるでしょう。

こういった日本の歴史は、残念ながらほとんど世に知られていません。
今度の80周年式典もおそらく日本からは他に誰も行かないでしょう。
しかし、こういった先人がいるからこそ今日、日本人は世界から認められる民族となりえたのだと思います。私もブラジル邦字新聞記者としての使命を果たすべく、今年は高拓移民の取材で再びアマゾンへ行ってきます。≫

 

    

吉永氏はフジモリ元大統領が収監された監獄に一人で面会に尋ねています。隣は大統領候補のケイコさん

 

 

現在、彼は少年院退所者の更生援助を援けるために「セカンドチャンス」という活動をしています。

受け入れ運営者も吉永さんと同じ非行入所体験を持つ方々で、建設業関係社長さんなど多くのボランティアが支えています。

父から促されたブラジルですが、まさに彼のセカンドチャンスは、人のためのささやかな行動として若者に引き継がれいてます。

まさに、善い行いを広げて、人々に正しい行為を喚起する。それは彼の背中を魅せる伝え方でもある。

 

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あの時の日本人 笠木良明と石原莞爾  2009 再

2024-05-27 09:01:34 | Weblog

ある時期、筆者は年一回催される「笠木会」に毎年招かれていた。
参会者は元関東軍高級参謀片倉衷、古海忠之総務次長、五十嵐八郎吉林興亜塾長、佐藤慎一郎大同学院教授、ほか満州関係の関東軍、施政関係、満鉄調査部、政界では三原朝雄、岸信介あるいは児玉誉士夫、毛呂清テル、岩田幸夫氏等、関係者など毎回30名ほどが参加していた。


              

            佐藤慎一郎氏   五十嵐八郎氏


満州で成功した統制経済は勤勉な民族的特質と性癖を読み解いた岸氏を始めとする統制経済官吏の成果であり、社会主義とも模せられる経営でもあった。それは興銀による集中投資や国鉄の十河総裁などにみる高度成長経済の前段である経済の基礎的(ファンダメンタル)部分の構成指針にもなった。

また豊富な人材に加味する目的意識と集中力、緊張感の醸成については、オバマ大統領の選挙戦で謳ったような、民族の調和と連帯を掲げる人間力のある先導者が必要だった。その意味で呉越同船の参会者が語る「満州建国の精神的支柱」という笠木への敬称は、彼がその紐帯(結びめ)でもあった証でもあった。

満州の「五族協和」と「王道」はまさに内なる統治を経済とともに強固にするためには日本人に向く良策だった。なぜなら勤勉でお節介だった。そして、゛旅の恥は掻き捨て゛に反して、内地の柵(しがらみ)ない新天地でのフロンティア精神がその気質に加え、使命感、義務感のともなった行動として躍動した。


               
 
        満州の日本人  佐藤慎一郎氏とご家族


                


  大同学院佐藤教授の生徒  梁粛成立法院長 筆者 丘氏(実業家) 



国内における閉塞感、軍官吏の増長、議会の権能の欠如はある種の泥足紐付きではあったが、異民族との交流は明治以降、衰えたから見えた良質な利他意識への大らか甦りのようでもあった。笠木の人物を表すに面白いエピソードがある。

あるとき大川周明にの講演があった。多くの参会者は高名な大川の講演というだけで集まったものもいる。その情況をみた笠木は、「ポチじゃあるまいし」と席を立った。滝行したと語る来訪者には「滝行で会得できるなら、滝つぼの鯉は人間以上だなぁ」と。

四角四面な日本人には最適な戯言だが、笠木会はそれを髣髴とさせるに充分な雰囲気だった。満州国副総理張景恵、日本人を喩えて「もう二、三度戦争に負ければ丸くなるのだが・・」と。

 

      


一方、後年になって石原莞爾の唱えた東亜連盟を継承する会に招かれ毎年物故祭に参加してた。当時の縁者は少ないが歴史を継承する意味では貴重な会の姿である。

実は、笠木会でもあったことだが、関東軍と満鉄の調査部、自治指導部とは幾ばくかの軋轢があり妙に思っていたが、石原の内地召還後の関東軍の、゛軍官吏らしい゛横暴がそれを意味していたようだったが、それは極論かもしれないが王道と覇道という姿の軋轢だったようだ。

関東軍の石原,自治指導に挺身した青年の精神的支柱であった笠木の真意について肝胆照らす二人の姿を映すコラムを以下に掲載し、かつ協和を妨げるものは何か・・、有史以来はじめて異国の地に伏して日本及び日本人が異民族との協和を試行し挫折したのか、その経過を考えてみたい。


            

 石原から国民党可応欽将軍への書簡   弘前市 鈴木忠雄氏蔵





なお、「一草莽」さまの所在も分からず無断掲載することを所期の意を忖度していただき、勝手ながら御礼としたい。

「一草莽」さんの投稿より

投稿日時: 2006-6-23 10:53
No.39208:「アジア主義」と「日本主義」


『昭和六年十月の、とある一日、満洲奉天は妙心寺に、笠木良明をはじめとした三十五、六人の青年たちが集まっていた。勃発したばかりの満州事変に対する大雄峯会の態度を協議するためである。そこへ招かれて、事変の立役者、石原莞爾関東軍参謀がやってきた。板垣高級参謀も一緒だった。石原莞爾は、山形弁をまるだしに、むしろとつとつと語った。

ーわれわれが満州事変に決起したのは、民衆を搾取して悪政かぎりない張学良政府を打倒するためである。軍閥官僚どもを追い払ったあと、この地には日本の影響下に新しい独立国を創らなければならない。日本、支那、朝鮮、蒙古などの各民族はこの国に相集まり、それぞれの特性を発揮して「自由」「平等」に競争しあい、満蒙の豊かな資源の「合理的開発」につとめる。そうすれば、日本の景気行き詰まりも打開され、満蒙住民も潤うだろう。こうして、満蒙の地は「在満蒙各種民族」が融和し、生かしあい、たがいに栄える「楽土」となるのである。また、そうなるように、けんめいに努力を傾けたい、と。

大雄峯会の若い面々は、こういった説明を聞いて、しだいに興奮していった。だがいったい「どういう具合に民衆を組織し、如何なる理念をもって新社会を築きあげる」べきか、「甲論乙駁で誠に烈しい議論」がつづいた。

とうとう笠木良明が口をきった。-ここ満蒙こそは「大乗相応の地」だ、アジア復興(解放)というわれわれの念願を実現することのできるところだ。まず第一に、「過去一切の苛政、誤解、迷想、紛糾等」を洗い流し追放して、この地に「極楽土」を創ろう。石原さんの意見にはまったく賛成だ。住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない。

第二に、満蒙「極楽土」を砦とし、この根拠地から「興亜の大濤」をまきおこそう。インドやエジプトにまでも、この波を広げていこう。われわれは「東亜の光」となって「全世界を光被」するのだ。そうすれば、ついには「全人類間に真誠の大調和」を創り出すこともできるのだ、と。

こうして、陸大出のエリート軍人・石原莞爾と、東京帝大法科卒業の満鉄マン、古くからの「愛国運動者」、笠木良明は、満州事変→建国の過程で一種意気投合したのであった。
(甲斐政治「自治指導部、鉄嶺政府について」)』



この会合での石原莞爾と笠木良明の発言は、(満洲の)アジア主義を象徴するような発言であろうと思います。この中で笠木が「住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない」という発言をしていますが、私は「戦前のアジア主義にとって、アジアという地縁はさして大きな意味を持っていなかった」と考えています。
私は、「アジア主義のアジア」というのは、「アジア共同体のアジア」よりも、「アジア的王道政治(外交)のアジア」という側面の方が強かったのではないかと思います。それ故に、「住民が何処の国か」にこだわる地縁重視の姿勢が否定されたのだろうと思います。

笠木良明も、大川周明門下の『日本主義者』であったそうですが、『日本主義者』として日本の理想とする世界像(外交)を追い求め、辿り着いたのがアジア主義だったのでしょう。アジアという地縁にこだわっていた側面も確かにあったのでしょうが、たまたま「アジア」と呼ばれる地域の人々が欧米の植民地として抑圧され、日本人が理想とする世界像から容認できない状況にあったから、アジアの人々と大同団結して戦おうとしたのであり、もし逆に欧米の国々がアジアの植民地として抑圧されていたならば、「欧米主義」になって欧米の国々を救うためにアジアと戦ったのではないかと思います。

たまたま読んだ終戦直後に書かれた古本では、大川や笠木を「アジア主義者」ではなく「日本主義者」と表現していましたが、「アジア主義」を考える上では「日本主義」がキーになるような気がしています

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鈴木宗雄氏も綴る、佐藤慎一郎先生  お別れの言葉

2024-05-26 01:14:53 | Weblog

心より感謝し、理屈のない感涙を招いた師の言葉をお伝えいたします

好きでたまらないという生徒達に伝え、生徒も感応した。なかには戦慄(わなな)き落涙するものもいた。あの人情豊かな鈴木宗雄議員も先生への思いを随時に綴っている。

筆者も多くの碩学といわれる人物に遭遇するが、背筋に冷たいものが走ったのは佐藤先生をおいてはいない。

ただ、下座において、吾が身を以って伝えることは、俗事小事にまみえる小生にとって終生解けぬ難問でもある。時おり学徒に無学を晒しつつも師の追従模倣でしかない。

春、秋と津軽の墓前に参するも、照れくさくも恥ずかしい雄の児があるだけだ。

最後は病室を退く背に『後は頼みますよ・・』といわれたが、なぜか振り向けなかった。
同行の王荊山の遺子が覚ったように身を震わせた

悲しい、淋しいより、悔しかった。

それは、゛まだ早い゛、゛いつでもいる゛という甘えだったのか・・・




                





【心の講義】

最終講義の二、三十分間を借りて、思いつくままのお別れの言葉を云わしてもらいます。
私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、おさき真暗な時代でした。五・一五事件、二・ニ六事件、満洲事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。

私は、満洲国で、初めて人間の素晴しい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面をも見せつけられ慄然(りつぜん)としました。

 私も敗戦後、共産軍に捕らえられ、死刑の判決を受けること二回、二回とも中国人に助けられました.三回目は国民党に逮捕され、九分通りは死刑であるとの内示を受けていたのが、判決直前釈放されました。私は留置場の中で、または死刑執行場で、自分で自分の入るべき墓穴を掘りながら、本当の学問というものは、書物以外の所により多くあることを体験させられました。

「吾れ汝らほど書を読まず、然るが故に吾れ汝らほど愚かならず。」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」

という言葉の意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした。いかに素晴しい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。






               

       孫文側近 山田純三郎  先生の叔父




 では教育とは何だ。祖先から承け継いだ民族の生命をはぐくみ育てながら、次の代に伝えていくことだと信じます。教育とは、民族の生命の承継である。生命、それは魂と魂の暖い触れあいの中でしか育たない。愛情のないところに生命は育たぬ。誠意と献身のないところに生命の成長はない。

 男女の結合によって、子供が生まれる。生命の誕生である。親と子供は、同時に生まれるものです。親の無い子はなく、子のない親はない。親子関係は、西欧思想のように、「自」と「他」という二元的なものではない。親子の関係には、自他の区別がない。




                




無条件だ。あるものは愛情だけだ。

しかも打算のない愛情だ。真の愛情には終りがない。

これこそが人間存在の原点だ。

人間と人間関係の出発点だ。

私はとくに母親というものの姿から、純粋な人間愛に生きる、人間の本当の生き方を教えられた。

これこそが隣人愛につながり、社会愛・民族愛、そして人類愛にまでつながる根源である。

自分と他人とは別物ではない。自分と学生とは別物ではない。

学生の悦びを己の悦びとして悦ぶ。学生の苦悩を自らの苦悩として、共に苦しむ。自他の一体視だ。そうした暖いものこそが、人間の本質である。しかもこれこそが現代の社会に、最も欠けているものの一つである。

学生という生命体を育てるには、魂と魂の触れあいしかない。道元禅師は「自をして他に同ぜしめて、初めて他をして自に同ぜしむる道あり」と教えておられる。

また夏目漱石の「三四郎」とかいう本に、三四郎が東大の図書館から本を借りて来たら、落書がしてあった。
「ベルリンにおけるヘーゲルの講義は、舌の講義にあらず、心の講義なりき。哲学の講義は、ここに至って始めて聞くべし」とあった。





            
              新京





そうだ。 これだ。私にできることは、舌の講義ではない。心の講義だ。体ぜんたいで学生に、ぶっつかることだ。私は拓大に来て一六、七年間、実によく学生と遊んだ。飲んだ。歌った。語った。そして叱った。怒鳴った。励ました。

そのようにして私は私自身を語った。私は「口耳(こうじ)四寸の学」は教えなかった。耳から聞いて、四寸離れた口から出すような浅薄な学問は、教えなかったつもりである。「口耳(こうじ)の間は即ち四寸のみ。なんぞ以て七尺の躯を美とするに足らんや」(荀子)である。私は体ぜんたいで「吾れ」を語ったのです。

【食・色は人の性なり】

 私は初めて社会に出て、小学生の先生をした。三ヵ月目で首になった。若い女の先生と海岸へ遊びに行って首になったのです。駆け落ちしたのではありません。自動車で行ったまでのことです。二回目の就職先でもまた半年たらずで首になった。

 誰かの本に、こんな話があった。ある家に青年僧が下宿していた。実によく修業に励んでいた。宿の小母さんは、末頼もしく思っていた。小母さんには娘さんがあった。ある日娘が青年僧の食事を運ぼうとした時、母親は娘に、青年僧の気を引いてごらんと、けしかけた。娘は悦んで青年僧に抱きついてみた。青年僧は姿勢を正して

 「枯木(こぼく)寒厳(かんがん)によりて、三冬(冬の一番寒い時)暖気なし」と答えて、娘を冷たく突っ放した。

それを聞いた母親は、「この糞坊主が」と怒って、青年僧を追い出してしまったというのです。若い女性に抱きつかれても、冬の一番寒い時に、一木の枯木が寒ざむとした岩肌に生えてでもいるように、私には一向に感応はありませんよ、とでも云って入るのでしょう。こんな男は、人間じゃない。「停電」しているのだ。




             

      整理、整頓 倹約、津軽の教育




ところで、この佐藤先生なら、こうしたばあい、どういう反応を示したと思いますか。
佐藤先生は、待っていましたとばかり、「漏電」してしまったのです。

後始末は大変でした。とにかく私は、女には間違う。始末におえない先生だったのです。

「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒(いま)しむること色にあり」(論語)です。

 しかし私には一つの救いがあった。それは最初から最後まで、学生が好きだった。好きで好きでたまらんのだ。この拓大にも一人ぐらいは、徹底して学生と遊び通す先生がいてもよかろう。

 ところが、自分の未熟さ、能力、学問を考えると、それは恐ろしいことでもあった。そのため私は自分自身に厳しくした。

私は諸君に対して「私の講義を本当に学ぶ気持ちがあるなら、先生より先に教室に入って、心静かに待っておれ」と要求した。

この諸君に対する要求は、実は私自身に対する要求であった。与えられた貴重な時間だ。一秒たりとも、おろそかにはできないぞと、私自身にたいする誓いでもあった。そのため私は朝の始業時間よりは、三十分か四十分前には、必ず学校に到着しているように心がけた。

そして十七年間、この小さい小さい事をやり通した。

「初めあらざることなし、よく終りあること鮮(すくな)し」(詩経)。

何事でも初めのうちは、ともかくやるものだ。それを終りまで全うすることは、むずかしいものです。





           

        在学中の想い出に師を綴る
   


【私心を去れ】

 王陽明は「則天去(そくてんきょ)私(し)」天理にのっとり私を去る、と自戒しています。毛沢東は「則毛去(そくもうきょ)私(し)」を要求しています。つまり俺を模範として、お前らは私心を去って、俺のために尽くせと要求している。中国大陸の今日の混乱・闘争の根源は、毛沢東の私心にある。

 中国は何十回となく、革命をくり返してきた。しかし中国の独裁体制そのものを打倒することはできなかった。

つまり革命のない革命を、くり返して来ていたのです。

ところが中国近代革命の目標は、そのような独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上りの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとするところにある。毛沢東の独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上がりの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとする革命の力が育っているのです。

毛沢東という人は、かつて三国志の英雄曹操が「俺が天下の人に背(そむ)いたとしても、天下の人々が俺に背くようなことは許さぬ」とうそぶいたように、今では毛沢東一人を以て天下を治め、天下をもって毛沢東一人に奉仕させているのです。要するに毛沢東は、中国近代革命の本質を知らない男です。中国の真の革命はこれから始まるのです。


 とにかく王陽明も「山中の賊を破ることは易く、心中の賊を破ることは難し」と云っているように、私心を去ることはむずかしい。しかし私心を断たぬ限り、世の中は明るくならぬ。私心を去るということは、自己との永遠の闘いでしょう

 殷の湯王が自分の洗面器に「まことに日に新(あらた)に、日に日に新(あらた)に、また日に新なり」(大学)と彫(ほ)りつけておいて、毎朝洗顔する度に、自分の心の汚れ―私心をも洗い流して、毎日が生まれ変った新しい人間として、政治を執るように自戒し努力し續けたと云われています。


 私も自分を反省し、私心を棄てようと、私なりの努力と自戒を續けてきたのでしたが、人間ができずして、非常にかたくなな人間に変わった。しかし「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり」(孟子)です。私にはやろうとする気があった。愛情と誠意と献身のあるところ、万物は育つというのが、私の信念であり行動の基準でもありました。それが多少なりとも、自分の欠陥を補ってくれていると思います。



【国家衰亡の徴(しるし)】

そうした気持ち現在の拓大を見るばあい淋しい気持ちがしないでもない。拓大は長い間数多くの業績を残してきた。しかしながら現在の学生の中には、はつらつとした自己の生命力を自覚し、国際人としての教養を身につけ、使命感に生きようとする気魄に欠けている学生が多いように見受けられる。


現代の学生は感性的な欲望を追求することはいても知って、学問を以て自己の本質を見極めつつ、生きがいのある使命感に生き通そうとする気概が薄いようである。


人間の幸福を、人間の欲望を追求することに求めた近代文明が、その欲望をコントロールすることができずして、ついにその欲望に支配されている。不幸の根源は、そこにある。しかも現代の教育は、このような病理現象に対しては、あまりにも無力である。


日本の現状を正視してごらんなさい。
「天下は攘攘(じょうじょう)(集まるさま)として皆利の為に往き、天下は熙熙(きき)(喜び勇むさま)として皆利の為来たる」(六韜)

世の中は挙げて、利益・利益・利益。勢利のあるところに蟻の如くに群がっている日本人の姿を見なさい。

「上下交交(こもごも)利を征(と)れば、国危し」(孟子)

上の人も下の人も、正義を忘れて利益だけを追求するようになれば、その国は危うくなると教えています。今から二千三百年も前に死んだ荀子(じゅんし)が、「乱世の徴(しるし)」として、次のような「徴(しるし)」が現われてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。

「その服は組」-人々の服装がはですぎて、不調和となってくる。

「その容(かたち)は婦(ふ)」-男は女性のまねをしはじめ、その容貌態度は婦人のように、なまめかしく軟弱になってくる。拓大にもそんな亡国の民がおる。ところが国が亡ぶ時には、女までも堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男を好きになる。そして女はついに「両親を棄てて、その男の所へ走る」と荀子は書いている。

次は「その俗は淫」―その風俗は淫乱となってくる。

「その志は利」―人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。まさしく「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)です。利のためなら死んでも悔いがないのです。

身を以て天下に殉ずる日本人は、少なくなりました。

その次は「その行(おこない)は雑」―その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞きコーヒーを飲みながら、勉強している。一つのことに専念できなくなっている。

「その声楽(せいがく)は険」―音楽が下鄙てみだらとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態が分るのです。

荀子の言葉はまだ続くのですが、結局、「亡国に至りて而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」、これが本当の亡国だと警告しています。

現在の日本の国情と比べてごらん。まさしく「驕(おご)り亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)です。漁夫が屈原に「なぜあなたは世の中から遠ざけられたのか」と問われて、屈原は

「世を挙げてみな濁(こご)る、我れ独り清(す)む」

と答えて、ベキラの淵に身を投じて死んでいます。日本の現状も諸君が歌っているように、ベキラの淵に波騒ぐ状態です。しかし私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。



【魂の承継】

 私には父から貰った素晴しい財産がある。父は不自由な手で一幅の書を遺してくれました。
 「富貴も淫するあたわず、貧賤も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これこれを大丈夫と謂う。」
 孟子の言葉です。私はこれを父の遺言であると信じています。富貴は我れにおいて浮雲の如しです。

また母の実家の真向いは、陸羯南(くがかつなん)先生の家でした。陸先生は、とくに日本新聞を通じて、一世を指導した大思想家でした。先生は「挙世滔滔(とうとう)、勢い百川の東するが如きに当り、独り毅然(きぜん)として之れに逆(さから)うものは、千百人中すなわち一人のみ。甚しい哉。才の多くして而して気の寡(すくな)きことを」と、信じた道に命をかける人間が少なくなったことを叱咤(しった)しておられます。

 日本は国を挙げて、挙世滔滔として中国へ中国へと流れていった。私は日本を愛し、中国をも愛する。なぜ日本人は中国人を、かくまでも軽侮し殺さなければならないのか。

私は滔滔とした日本の巨大な流れを、阻止するすべを知らなかった。

私は北京大学の学生たちが、排日・侮日・抗日に起ち上る姿に感激した。私はなんらの躊躇することなく、彼らの抗日の波に飛びこみ、「打倒日本帝国主義」を叫んだ。

私の力は大海の水の一滴に過ぎなかった。完全に無力であった。しかし私には無力を知りつつも、そうせずにはおれないものがあった。

 弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦のときには満洲国熱河省次長(日計官吏の最高職)でした。八月十九日ソ連軍が承徳になだれこんで来た。岸谷さんは日本人居留民を集めて、

「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くして下さい」と別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウィスキーを飲みかわしながら、動こうともしない。人々は再三に亘って、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と促した。岸谷さんは「そんなに云ってくれるなら・・・」と起ち上って、奥の部屋のふすまを開けた。部屋ではお子さんと奥さんが死に赴く姿で端座していた。

・・・・・
 

さあ、私も諸君から「おれたちの清純な頭に、くだらん講義を詰めこむのは、やめてくれ」、そして「そこを退いてくれ」と云われんうちに、この辺で自ら去るのが賢明のようです。
 
そこで最後にもう一度言う。皆さん、大志を抱いて下さい。諸君は民族の生命を継承するのです。新しい歴史を創るのです。それに起ち向かうだけの気魄をもって下さい。生きがいのある使命感に生き通して下さい。がん張って下さい。

 私は拓大を去っても、私の心は諸君の上から離れることはないでしょう。
 皆さん、さようーなら。

               (昭和五十一年一月二十四日)

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あるインタビュー  08 1/27再

2024-05-21 23:07:04 | Weblog

 

 

 

━このお店を始められたのはどういうきっかけですか。


 僕はもともと建築が専門で、防音のショウルームでもつくろうと思ったんです。そこにピアノを置いて音楽を楽しめる場所にしたのが始まりです。店に来たお客さんを注意して見ているといろんなことに気が付きます。どんな人も世界の人口70億分の1の、人と異なるいいところをもっている。つまり個性と皆さんが言っているものです。

そういうことが分からないで、データ主義、あるいは官製学校歴(簡単に言うと中身のない学歴主義)の前提にある受験などで、思春期に当然、経験しなければならないことを順序良く体験していないと、手鏡を使って駅でいかがわしいことをしたり、お金をゲームのように扱ったりするようになってしまう。
そこで、今日はエスノペタゴジー、つまり土着的な教育についてお話したいと思います。

                 

            オスニー・ロル氏 ブラジルより

 

 

━エスノペタゴジー?

そう。勉強は何のためにするかというと、色・食・財を満足させ人生を謳歌するためという人が多いんじゃないかと思います。いい学校に入っていい会社に入れば、いい家を建てられて、きれいな奥さんがもらえるっていうことです。でも知識や技術や情報を取り入れた理屈で表現した情緒は薄いと感じる人はよくおりますね。
僕の言う学問は、守るべきものを護る、あるいは知識の積み重ねだけではなく、省くことも考えられる「活学」といわれるものです。  たとえば、今はなくしてしまった大切なもの、純粋なものを見て、それとわかるようになること。活学という学問は官製学校に対する、アンチアカデミックな教育学です。これがない人間教育というのは何の意味もありません。

国の作った制度と税を原資とした補助金、与えられた課題に疑問も抱かず、せっせと数値を獲得するために模範解答を記し、他人による無機質な選別によって人生さえ委ねてしまう官製の学歴ならぬ学校歴獲得に邁進する姿にこそ、問題意識を抱くことが必要ではないでしょうか。世の中のさまざまな煩いごとは人間の問題から発しています。ですから先の附属性価値獲得のような狭い目的意識を持つことなく、その現象を眺めるようなもう一つの境地、つまり無名に求めるのも必要な観点ではないでしょうか。

たとえば、江戸時代には、幼稚園の年頃の子どもから四書五経(中国の古典:論語や詩経など)の素読という勉強の仕方をずっとやってきたんです。いわゆる刷り込みのようですが、知識や技術の修得の前提となる本(もと)となる佳き習慣性を浸透させる学びのようなものです。四書五経というのは、音(オン)のよい文章だから、お経のように唱えることで、自然と身になってくる。刷り込まれたものは後になって、自分のなかによみがえってくるんです。 ことわざもそうですね。学校で教えない、年寄りからしか教わることができない知恵です。数値選別や利得に偏重するような学びの習慣性を基とした人間関係は社会そのものを劣化させますね。

煙突に2人の人が入って掃除をしました。出てきたとき、1人は真っ黒。1人は汚れていなかった。さて、顔を洗ったのはどっちでしょう?。真っ黒な人を見て、自分も真っ黒だと思った汚れてない方が洗ったんですよ。これはユダヤ民族の頓知(とんち)にあります。
テレビはこの方法で宣伝しています。今の人は宣伝に流されやすい。人の顔ばかり見て、自分の顔と勘違いしている。戦後の教育に欠けてしまったのは、よくよくこういうことをかみしめて理解するということですね。

明治維新をやった人達が学んだのは大学校ではありません。塾・藩校ですよ。
まげ結ってわらじを履いていた人たちが、維新から30数年後にはバルチック艦隊をやっつけるんだから、この国はなんだと思いますね。でもそこには海軍に秋山真之、陸軍には児玉源太郎という優れた参謀がいた。この2人はトリッキーなんです。直観力と頓知がすばらしい。これは文部省の作った官製学校歴の中では身につけることはできません。それこそ自己の内と外の体験や自然から感受して身に修めるものです。

世代を超え、それを活かして人から習うということですが、15年位前、東京都青少年問題協議会から依頼された原稿に、いずれ少子化の問題は起きてくるわけですから、廃校する学校の半分は老人が遊べる場所にして、子どもとの接点となる場所をつくりなさいと提言しました。子どもが一番バランスがいいのは年寄りと歩いている時なんです。速度も情緒もです。今だいぶ学校が開放されてきたようですが、役所は情緒を排除し、制度や時間、あるいは縦割りで人を管理しようとするから、現在でも実効性がいうのが薄いですね。これも人の問題です。

                          

  ハーピーハンコック氏とオスニー・メロ

 

━学校がお年寄りや障害のある人たちと日常的に交われる場所になると本当にいいですね。

自然の中で働いている漁師やお百姓さんは、時計の時間ではなくて自然の時に沿って働いていますよね。
僕は「漁師のつぶやき」という例え話をするのですが、いまどきのエリートが完璧な装備で海釣りに行った。案内する漁師は小学校しか出てないけれど、どこに魚が集まるかということを良く知っている。しかし、この日漁師は嵐の気配を感じて、沖に出ずに引き返そうという。漁師よりも天気予報を信頼している勉強家は、『そんなはずはない、金は払ったんだから船を沖へ向けろ』と携帯電話を片手に権利要求する。そこへドーンと嵐がやってくるという筋です。これは釣りの話だからいいようなものの、国家経営となったらどうですか。

本当に頭がいいというのは直観力があるということです。人間を観るときの直感力は観相学という学問にも通じていますが、「相」という字は、もとは木偏の上に目を置くというものです。高いところに登って見わたすと、360度見ることができるし、たどってきた過去の道を見ることもできるし、将来をも見通す「先見の明」です。首相・宰相というのは、本来そういう人のことをいうんですよ。

 

                       

                        「相」とは・・・・

                 

 

 

━直観力には、何か秘訣があるんですか。

 やっぱりムメイですよ。

━ムメイ?

 直接教えをいただいた中に、安岡正篤(まさひろ)という漢学者がいました。耳慣れないかもしれませんが頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)といって亡くなった人の徳をたたえる文章を添削していただいたときでした、

 先生の教えは『文章はうまい下手が問題ではない。君の真の気持ちが百年、二百年残ると思って書きなさい。もし百年たって、一人の人がそれを読んで、感銘を受けたらそのおかげで国が興きるかもしれない。国というのは一人によって興きるし、一人によって滅ぶ』ということです。

たとえば福祉を志している貴方の文章を見て、総理になる人が感銘をうけたら福祉政策はスムーズに行くじゃないですか。時代というのは変わるものだから、今に迎合した文章を書いて、大勢から褒めてもらうことは考えない方がいい。むしろ「無名」で人に添うことが大事なんだということです。

 地位、名誉、財力、学歴というのは大部分が人格とはなんら関係の無い附属性の価値です。附属性価値というのは、欲望に作用します。そういうものに支配されず、すなおに現象を感じ取れることが大事なんです。そういう人たちの存在こそが、まさに無名で社会に有力な深層の国力だとおもいます。

だから一度、経歴につながる苗字を抜いて名前だけで一人旅をしてごらん。社会の中の属性からはなれた自分として生きるというのは実にさわやかですよ。

 

                      

         秩父

 

 

━想像しただけで解放感があります。

コンゴ(ザイール)から来た青年が、来日まもなく私の店でコンボを叩いてくれたことがあります。コンゴは、ベルギー人の虐政はあり、内政も不安定という大変な国でした。そういう国から来た青年の叩き出すコンボの音を聞いていると、ライオンとかキリンが出てきそうな気配になった。つまり自然で素朴なんです。ニューヨークジャズにはドラッグの感じがあるよね。音楽も文章も、単に憧れで書くものと、身に沁みたものではぜんぜん違う。だから、いい文章や音に触れる、いい人間に触れるということが大切ですね。 

 

写真の一部は関係サイトより転載

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受刑者にサン付けで戸惑う 府中刑務所 12 7/5 あの頃

2024-05-15 08:33:28 | Weblog

八嶋龍仙作    青森県弘前市在




あの大国魂神社や競馬場で有名な府中市は東洋一といわける威容を誇る?刑務所でも有名な場所だ。三億円事件の舞台となった刑務所の塀に沿う道路は東芝府中工場が隣接し、その広大な敷地を囲う施設は、さほどの興味を持たなければ内部の様子など知る由もない。

昔、八王子や府中近辺は甲州と江戸の境目にあたり、神社の祭りにはそれぞれの勢力が角突き合い、露店の売り物だった鎌や鍬などを喧嘩道具にして亡くなったものも少なくなかった。

また神社の掲額に和算が記されているほど農閑期には学問も盛んだった。ちなみに芦ノ湖からの導水建設も和算である。つまり斜面を上下から掘り進んで合致する計算である。ちなみに近鉄の生駒山トンネルは近代工法で行ったが合致点ではずれが有ったという。西洋方程式と和算は計算方法も異なるが、その慣性に馴染んだ発想も違うのは当然のこと。

「法」も「矩」とか「則」と記されるが、内包するものはまったく異なるのは古今東西の歴史でも明らかではある。いまは「法」が成文(文章)され、それををマニュアルにして、判例裁判や食い扶持としている法匪の群れに新たな社会悪を視るのは筆者だけではあるまい。受験による人間選別にあるごとく、人間を人格や長い目で見た歴史的有効性など賞罰の置く所が変わる「秤」の均衡さえ保たれなくなっている。府中は郷士も多くあの近藤勇もこの地の出身だ。体制の警護も風が変われば勤皇の志士を討った国賊である。










津軽


おもえば18歳からの司法ボランティアでは更生保護に関わる多くの行政関係者との縁があった。
たとえば中学生が不幸にして犯罪を犯すとまずは警察、次は家庭裁判所、不処分もあれば、問題があると思われると練馬の鑑別所、そして家裁での少年審判、そして法務省保護局の各都道府県にある観察所において観察官のもとで保護観察が行われる。

少年院などの施設と異なり在宅観察は社会内処遇として地域の保護司、あるいはBBS(ビックブラザー・ビックシスターである兄と姉の更生援護活動)によってグループワークが行われ、また更生保護女性会による更生を助ける啓蒙活動が行われ、代表的なものとして「社会を明るくする運動」が全国的に行われている。

私事だが、社会内処遇に伴う社会資源としてボランティアの活用が謳われた頃、よく保護局の依頼でテレビやラジオの生番組にコメンテーターとして招かれたが、聴き様によっては硬い題材のせいか、法務省としては二十代の方が周知宣伝として都合がよかったのだろう。最近の周知ポスターには若い女優を使っているが、一般社会からすれば非行少年や成人犯罪者など意識の外という観念のなかで、まさに徒労さえ感ずる活動だった。

これら更生保護関係者によっておこなわれる社会内処遇という再犯防止や更生援助から、その活動を周知する意味での保護司の秘匿的立場から積極的な周知啓蒙へと変化するにしたがって、近頃では学校、自治体、地域への活動として広がりをみせている。

一方、治安警察から送検され裁判で刑期が確定した人の自由を拘束する施設についてはその実情は明かされることはあまりないようだ。また入所者の人権もあるが、時折起こる官側の不祥事に内部の制限内公開の圧力もある。それゆえ施設内の責任についても新たな矯正教育や出所後の生活設計の指導など、きめ細やかな作業が進められてきた。

とくに応報刑のように不倫したら死刑、泥棒は手を切るような事とは違い、施設内教育刑ゆえに、肉体的労苦も少ない殖産のための勤労など社会から隔離された処遇は、人の内面の転化を促す方法としては内省を期待するほかはないようだ。

よく、網走や旭川は寒い、逆に南方は暑い、しかも週に二回の入浴ではどちらがいいか、まして犯罪別で入所先が決定するために当然なことだが自由選択もなく、遠隔地での長期刑は特殊な覚悟と諦観が必要になってくる。
なかなか裁判が結審しない未決(無罪の場合もある)は東京では小菅の東京拘置所に収監されるが、なかには二年も裁判が始まらないこともあり、判決確定しても長期の場合は全国各地の刑務所に移送されて長期収監される。最近多くなったのは老齢者の入所だ。








最近、独り暮らしの高齢者の生活保護が多い。なかには従順ならざる人物や天涯孤独でアパートを借りたくても保証人もいない老人がいる。
行政の施設は規則が厳しく歳をとっても好き勝手なこともできないと忌避しても、保証人もいないので旅館に入るが、アパートなら月割り家賃だが旅館は日割り、自由だが月に数万高い。それでも規則的なことや人に頼むことを、゛頭を下げる゛ことと考えている。筆者も少なからず頑固だと自任しているが、人に頭を下げるのが嫌なのではなく、そんな自分が情けない自責があるようだ。それが社会にリンクするとつい苦言がこぼれる。

よく「ひかれ者の小唄」とか「女房に負けるものかとバカが云い」と浮話があるが、雄の子の性は時おり刑務所の塀の上を歩くことも叶わず、塀を眺めて思案する脆弱さがあるようだ。ときおり思慮分別を忘れ無邪気な童心に望みを託すが、齢が邪魔する。なにも長寿のみを将来の糧だとは思わないが、つい解らねモノに届かない惜しい気持ちが残るのもそのせいだろう。

とくに官吏からの褒章にも縁遠く、かつシャイともおもえる反抗が見てとれる彼らの姿は、遠き童心に回帰したくとも、社会も素直には仕組まれてはいない。「好き好んで」とはその心情なのだろう。






浮俗の楽しみ



管理棟から入ってはじめに視た舎は老人病院のようだった。70歳を超えている老人がペットを並べてまさに動けない重度の様子だ。しかも長期刑だという。それも年々増えているという。以前筆者が担当した方だが、難聴で思い込みが強く隣室で悪口を言っていると妄想し、ドアを蹴って破損。その保護観察だったが病気になり福祉事務所と連絡を取り入院。毎月の面接は病院でおこなった。それから幾人か私より年かさの方を担当したが、更生援護より身体を心配することの方に重点が置かれた。

それをいくら刑期のある犯罪者だとしてもペットで排便の始末を行い、ときに便を壁にこすりつけたり、投げられたりする刑務官だが、いくら職住環境を同じくするものとして、あるいは職責だとしても、それは職分として介護専門職のさらなる助力が必要なことだ。

ました府中は多い時で約3000名弱の収容である。さまざまな障害や病気もある。だが医師も足りない。もちろん医療介護士も不足している。あの大岡越前と赤ひげ療養所のようにはうまくはいかないらしい。

洗濯物の整理、印刷、皮製品、自動車部品、などの作業工場、体育館や運動場、まさに工場と呼ぶような厨房、風呂場、隅々まで案内していただいたが、一般の人ではなかなか対応できないであろう様相である。とくに目立ったのは外国人と老人である。もちろん鮮やかな唐様の刺青を彫った稼業の世界の人もいるが、黙々とミシンを踏んだり病棟のおしめを丁寧にに畳んでいる。社会では女性の作業のようにみられるが、男だけの世界では軍隊の艦隊勤務のようで自助が養われる。

よく刑務所に行くと読書家になるという。また難しい話題も容易に話せるようになるというが、読書もそうだが緊張感と集中力を維持するには不謹慎だが格好の場所のようにも見える。炎天下に鎌をとっての雑草取りは都会育ちには苦しい。老若のコミ二ュケーションも大変だがここでは否応もない。雑居といって六人部屋もあるが荷物は所定のボストンバックが一つ。独居も同様、布団の上げ下ろしと整理整頓が決まりだ。

当然のことだがむかしの侠客は部屋住みといって挨拶応答、箸の上げ下ろしや買い物の手順、長幼の順まで厳しく教えられ、刑務所生活でも模範となるものも多かった。いくら社会で高名な親分でもここでは平等である。とくに喜ぶのは外国人だという。









永い期間、社会の状況が分からない懲役を負っている高齢者は大親分が同室になっても分からない。その親分も侠客として分別のつく人格者だと、高齢の服役者には礼儀正しく世話を焼いたり話し相手になっているという。世間に出ても一流の紳士として尊敬される人物だが、世相の「暴・・」で人くぐりするには惜しい人物もいる。

その環境は強制的矯正といっても、一方ではその矯正とは別に内面から湧き上がるような転化を援けるようなこともある。いくら法に定められたことから逸脱しても、あるいは法に随って刑期を経たとしても、もしくは寡黙な作業で交流がなくても、同時期に舎に棲み分けられ、互いに縁の微かなる中でも生まれるであろう共感は、生死の緊張と自由の拘束なればこそ残像は焼きつくように刻まれ、出所後の社会でも時折想起されるのだろう。

それを、懐かしむ時間、己を知る機会、それが己の蘇りとして時と存在の「分」を知る瞬間でもあるのだ。
「男子、三日会わねば刮目する」のである。変われる自分と、周囲の変化をみるのだ。まさに強制や拘束を伴わない人生の転生であろう。

とくに男の義理と人情とやせ我慢といっても一般人にも棲みづらくなった世の中で、いろいろな性(しょう)のやんごとなき情根を抱えて生きなければ通らない人生に、刑務所で経た刻(とき)のひとこまは、四角四面となってしまった人の行いの良否に活きることだろう。

つまり、自身を省く(はぶく)ことによって他人の受け入れの容量が増え、それは単純な許容量ではなく、節とか筋でも表現される道理という道徳の理(ことわり)への探究であり、成文法が絶体視されるような、息詰まるような世の中においても人情と情緒を心の矜持として人の縁を重ねられる、そんな自省自得、あるいは真の素行自得の機会でもあろう。

たしかに科目は殺人、強盗、詐欺、薬物、性犯罪、窃盗常習など様々のようだ。また刑期も短期から無期も刑務所にはある。だだ、切り口の異なる、あるいは甘ったるい考察かもしれないが、単純作業のなかでも知恵と工夫がみてとれる。皮細工の精密な型押し、印刷のレイアウト、自動車の塗装など独特な技量がある。また府中のコッペパンは殊のほか美味しい。豆の煮物にサラダも絶品だ。なによりも見入ってしまったのは陶芸だ。一心不乱に粘土をかたどっている。





乱れはここからはじまる


あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵も徒人を石川島に集めて殖産事業をしている。職を与えて、教え、褒める、それを当時の権力者である武士の仕事として行っている。縁あって武士となり、農民となり商人となるが、はじめは身分の責任と忠恕があった武士は汚職腐敗で堕落し、その風潮は子供たちにも感染してブランド品であるかんざしや刀の鍔を自慢しあい、罪人までにはならないが無職の遊び人(徒人)が増えて風紀も乱れた。
平蔵は強権を以て捕えたが、ときおり石川島に渡って徒人を励ました、つまり権力の励ましである。なによりも働くことの大切さを伝えたかったのだ。

今は横文字の研修や応対手法が流行だが、鬼平の人情味ある行為は今でも通用する治安役人の 姿でもある。また、今は役所の縦割り弊害なのか1人の罪人に矯正局管轄下の刑務所、少年院、保護局管轄の観察や就労支援があるが、施設教育を受けての更生準備、生活再建に向けた支援をスムーズにおこなう手立てとして、法務省内での矯正と保護の有効的協働あるいは、思いきって一つの局にまとめることも考えるべきだろう。

鬼平の頃はみな学問はなかった。勉強したければ僧職になるか、商人は寺子屋に通って読み書きソロバンを習った。今どきのように理科、算数、社会、国語などはなかったが、人がウブで素直だったし騙すものも少なかった。いまはウブで素直だけでは生きてはいけない世知辛い世上だ。

府中刑務所は約2800人、その入所者ある部分は、世間の流れに追いつけない、理解できない、あるいはウブで素直なために相手にもされない妙な世間に鬱積した純情があったのかもしれない。
そして本当の自分を探しているようにも察しられた。

ふと、そんなことを考えながらの帰途に想いだしたのは18の頃を訪問した千葉の養護施設で無邪気に遊ぶ子供たちだった。多くはコインロッカーに捨てられた子供たちだった。
施設の帰りに渡された「おかあさんへ」と書かれた手紙だった。もちろん宛所のないものだがその臨場の戸惑いは解決のないままに数十年の齢を重ねている。

どこか、己の中でそのときに戻ったような動揺が府中刑務所にはあった。

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血が導くタルムードと厚黒学 09 3/13 あの頃

2024-05-10 02:31:24 | Weblog

一つは中東に棲むユダヤ民族に伝承されている処世の知恵として、他方は永い歴史を刻むなかで百家が説いた「論」を集積しつつも、「論」を噺の類にして、無尽なる欲望へのエネルギーをあからさまに人間関係の術としてリアルに「学」としたものである。

棲み別けられた自然や、政治環境の異なりはあるが、人と人が相対する接点における独特の術は歴史の時を違えて応答行動の姿として醸し出されている。わが国の「ことわざ」も対比させると面白い。

堅物の合間に手にとるロシュフーコや各種小話にも似たようなものがあるが、こと世界観、人間観ともなると、いま時を考察するのには面白い内容だ。




             




インターネットは世界を駆け巡るが、新旧取り混ぜた情報と称す真実、虚偽は時として民族性癖と交じり合って人々を群行群止させる。とくに覗き、脅しの類は、いたずらな恐怖心を添えてシャワーのように降りそそいでいる。

金融不安、疫病など、あたかも面前の恐怖のように映像と音声によって襲ってくる。商業マスコミに乗じた際限の無い欲望への喚起は生活最小限の利便性を多岐に重層して、夫々の資質にあった選別を難しくさせ、かつ情報資本の獲得比較の優劣を競う余りに無用な怨嗟や嫉妬を起こしている。

つまり人を信用の置けないものと仮定し、かつ複雑な要因で構成される国家というものさえ個々の利便性のなかに置くという、独特な民族性を持つものが動きやすい世界に入り込んできた。

たしかに切り口を変えれば国家に縛られない自由、人類平等と謳えばその意識もわからない訳ではないが、残念ながら曲がりなりにも国域(カテゴリー)に養った制度、慣習に庇護された多くの人々にとっては、まだまだ理解の淵には遠く、また彼等のしたたかにも見える世界観を認知すら出来ない戸惑いが昨今広がっている。

「平和だが何かおかしい」「幸せへの不安」と、吾が身を覆った一定の成功価値に問題意識をもつのは序の口で、抗する術(すべ)を見失いかけた国家の為政者に向かう人々の群は、羊飼いの犬に追われたように右往左往している。





                    






タルムード厚黒学を同質にとらえるものではないが、従前の国家が重積した歴史の残像にある共通的情緒と連帯意識では解くことが難しい点では共通した深層意識でもある。表層では交じり合い、財利の欲望もことさら異質性は認められないが、深層の企てなり謀はその発生と歴史的経過を客観的解明しようとしても、なかなか解りづらいものである。

民俗学、比較文化、地理学、歴史学など多岐に分派した学び方があるが、今は無き人間学、統合観察(プロデュース的)など、面前の応答辞令なり、オーラルヒストリーなどから感受する直感性や死生観などから読み解くことがなければ理解できないことであり、しかも実利に直結する緊張感と集中力がその実感を顕にする唯一の方法となる。

はたして組織の一員として、学域の範疇として、あるいはカルチャー知識など、多くのステータスを冠した情報によって、果たして彼等の言う智恵、はたまた利に向かって狡知にも転ずる美句、虚像に抗することができるのか、あるいは良知にも応用可能なのか疑問とするところである。

人が向かうところ、人の弱さと強さ、陥りやすい状況、表裏の柔軟な活用と正邪の転用などを熟知、いや刻み付けた彼等にとって、今どきの流行ブランドに志向したり、面前の利や動向に一喜一憂する意思亡き民は、最も好都合な群れでもあるだろう。

また彼等は自然界の循環に対する諦観と精霊の思想を秘奥に認めている。
単なる現世宗教やエコロジーではない。現世宗教は争いの具として、自然界は架空恐怖の具として利用されるべく茫洋且つ遠大な理想を対極に対峙させ、つねに調和と連帯なきカオスを温存しつつ、自らの座標の軸を中心に群れを回転せしめている。

ならば表層に現れた彼等の力である情報力 財利、あるいは財利に傀儡となった国家のフォーマルな軍事力と外交力に汲々としている地球の国群の民にとって「どうしたら・・」という同類に抗すべき問題を比較して考えるより、失くしてしまった直観力を甦えさせることが必要だ。






             






では「何が亡くなったか」「どうして衰えたか
彼等に問わずとも彼等はそれを示している。

・ ・・自然界の循環に対する諦観と精霊の思想を秘奥に認めている・・・

彼等の智の発生と活用の妙は民族性や巧みな口舌や謀だけではない。
地表に蠢く数多の生物のなかでの微小な人間を認め、しかも群れの一粒としての魂を養い、血を継続するために自然界の循環への諦観と精霊の存在を認めている。

同じ群れでも似て非なる群れなのだ。選民思想とはいうが含まれる意味は重く深い。
「そうあるべきだ」と学ぶことが必要だと問いかける。

血は知を集めることを経て智に転じ、血が継承される。
グローバルな世界国家は仕組みや方法の争論はあっても帰結する先は血の保守であることを思考するかのように導かせる。

血は「医学的に・・」「遺伝子が・・」と雑論は別にしてだが・・・

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外交における応答辞令

2024-05-06 09:47:45 | Weblog

岸田さんがバイデン大統領と、麻生氏がトランプ元大統領と会った。

何を話題にしたのかわからない。毎度のことと国民も諦めているが、売文の輩や商業新聞はお決まりの覗きと予想記事で紙面を埋めている。

問題はアメリカ国民が現と元に朝貢と迎合を繰り返す日本の媚態政治家を人物としてどのようにみているのか気になるところだ。

政治的背景や経済的事情はあるとしても、国民の代表として説明や営業、加え信頼確認のために米国民のみならず、遣いに出す日本国民の軽重すら測られる姿であろうか憂慮がある。

 

 

中国共産党の党学では歴史、古典の科目もある

いま日本では受験科目にも忌避され、企業でも採用には無用の能力として顧みられることが少なくなった。

それでも挨拶のネタや微かな教養の披歴として稲盛氏や安岡氏の言葉や文字を説明している。

習近平氏はその党学校の校長を歴任している。しかも下放という辺鄙に地方での労働教化も体験している。

それは、人物によってその情勢や時の流れが見て取れることであり、相手が政治指導者ならその国の力量や行く末まで読み取れる、一種の度量や器量の類だ。まさに頭の良いということは数値秀才ではなく「直観力」や先を見通す「逆賭」の力量だろう。

  「逆賭」・・・現状観察からあらかじめ起こり得ることを推考する。事前に手を打つ。

  「観る」・・・多面的、根本的、全体的、俯瞰

 もちろん、相手によって対応を変えたり、古典百家の逸話を駆使した応答も長けている民族のこと、我が国の売文の輩や言論貴族の珍奇な説に踊る政治家や企業人にはない、厚く深い智慧や洞察によって逢場作戯(場面や相手によって応答を戯れる)を、まさに愉しんでいる。つまり見極めた余裕である。「呑んでかかる」と思えばよい。

 

              

 

以前、佐藤首相と米国大統領の応答を記したことがある。

佐藤総理とて岸田総理同様、仮にも学び舎教育を受けた学歴持ちだが、こと相手が戦争の勝者、こちらは白人から野蛮で未開と云われ、時の流れで完膚なきまで叩かれ敗戦した国の宰相だある。それゆえ、臆する心があったのか道学の師である安岡正篤氏に対応の妙を請うた。

安岡正篤氏は簡略に騎士道と武士道の共通理念を説いた。相手は利権に目ざとい陣笠代議士ではない。地位の立場に相応した教養と、歴代大統領に比した矜持の現示を他国の指導者に表わす威儀もあった。

従来は短時間の表敬後、ホワイトハウスの庭で共同会見を行うのが通例である。まさか「何の用で来たの?」「ワシントンは素敵な街ですね」はないと思うが、相手によってはそれもあるのが首脳会談だ。

共産主義国家同士でもテーブルの下は足の蹴りあいもある。衛星国の子分のようにあしらうこともある。

「こちらは核がある。言うことを効かなければ大変なことになる」

『いや~、8憶いるので、半分失っても4億は残る』

半分冗談だのようだが、応答は鷹揚だが国を背負う胆力、気概がある応答だ。

笑って握手して協力を謳ってマスコミが化粧して喧伝しても、「どうなるか分かっているよな」は応答の内実である。

なかには,はじめから卑屈、迎合して歓心を買う政経の人間もいるが、もともと仁義道徳が亡失しなければ当選も金儲けもできない世界での一過性の成功者では、なかなか出来ない芸当のようであるが、国家の衰退や亡国には現れる人間の類である。

 

                

 

 

日中国交交渉は官僚で積み上げられ、周総理、田中総理によってまとめられた。二人で毛主席に報告した際、「もう喧嘩は終わりましたが、ケンカしなくては仲良くならないようです」と、大人が子供に諭すように語った。そして田中総理は「楚辞」をもらった。楚辞は「世はみな濁る、吾、独り清む」と嘆いてベキラの淵に身を投じた人物の逸話が書かれている。つまり最後には「身を投じる」ことの暗示のようにもみえる。

周は論語の一説「言、信を必す。行、果を必す」と揮毫を贈呈した。随行は歓喜し,記者もそれを発信した。

佐藤慎一郎氏は「遊ばれたね、あれは文字遊び。一国の総理やエリート官僚がコロリやられた。いずれ日本は下座になる、それがエリートなんだ」 それは占領時の軍人が高名な書家に揮毫依頼したときのこと、エリート軍官吏は書いてある内容はわからないが、有名書家の、つまり女性のブランド好きのようなもの。

ところが文中に「恥」が欠けていた。恥を知れということだ。嬉々として床の間にかけている軍官吏が高位高官に就いたエリートなのだ。ロシア文学好きの共産主義者や論語好きの媚中のようなものだろう。

論語に戻るが、周の揮毫は論語の一節にある「弟子が一等の人間はどのような人物をいうのでしょうか」と問うた部分の抜粋だ。

「言うことが信用できて、行うえば必ず結果がでる、このような人物はどうですか」

「まだまだ小者だよ」

「一等の人間とは」

「主人(皇帝なり元首)の遣いで異郷の地に行って、主人に恥をかかせない,義のある人物が一等な人物だ」

つまり、周の揮毫に書かれていた章は論語の重要な部分が欠落したものなのだ。

続く章は「硜々然として小人なるかな」、つまり言うことが信用できて、行うことに結果がでる、それは小者で、国や民族、要は元首や国民の思考や教養を矜持として他国に遣いに出なければ真の宰相とはならないと皮肉ったのだ。

だだ、これも遊びて、一杯食った、今度は知恵を絞って、一杯食わせると考えれば、これも人物としての懐に深さだろう。総理みずから国会で流行りごとのようになった細々とした説明や言い訳では会談も締まらない。貴重な時間の浪費でもある。まして改竄、隠蔽、先延ばしでは異国では通用しない。

彼の国は人治と云われるが、所詮、法を積層しても、部分を探求する官吏が優秀と云われても、軍備が整っていても、在れば有るに越したことはないような類で、個々の力量、深層の情緒が真の国力であることは熟知している。歪めるのは汚職腐敗で民が面従腹背になり放埓になることによる国内社会の衰亡だと考えている。

いや歴史の教訓として、弱さを見せれば外敵も内敵も浸食する歴史が学びとして重要視され、先ずは「人間観察」を要点として現在から将来を推考する、つまり人物の力量を見抜き応答する、かつ信用できる人間の存在こそ国の命運あると考えている。

周さんは上手くやった、と人民大会堂は万歳が響き渡った。万歳は「万砕」(ワンソイ」同じ音でもある。

鄧小平さんは、小平は「小瓶」黙って瓶を壁に投げつけた。

四つの近代化は「四化」だが「四話」、あれは出来もしない四つのお話しだと。

でも、批判されても分り切ったことだ。角さんも一杯食わされたと鷹揚だ。

高く買わされれば、「あんな良いものを安くしてもらって」といえば、売り手も隙がでる。日本人なら今後は買わないとなるが、彼の国は関係性が継続する。看板な「言、二値ナシ」とある。価格は間違いない、これが正価です。ところが看板の二つの値段はないが、三値や四値はある。そこには断絶や訴訟もない。前記した「逢場作戯」なのだ。悔しがれば、運が悪かった、今度がある、と。

いっとき市井で流行った本に「厚黒学」がある。要は面の皮が厚く、腹黒い生き方だが、まさに腑に落ちる心底を表した内容でもある。それならと香港で「賄賂学」はないかと探したが見当たらなかった。日本人は賄賂は悪で腐敗堕落の根との印象だが、昔から賄賂は「人情を贈る」と考える慣習があった。

それは「よろしくお願いします」「邪魔しないでください」の類で大らかな人情交換だった。コソコソした日本人と異なり額も大きい。数年前に摘発では、省幹部でも数100億、党幹部になると数千億にもなった。日本では政治家や官僚も小粒で狡猾なのか、その度胸は無い。だからなのか決断は鈍く、すべて打ち抜きで曖昧を旨としている。政治資金の流用も居酒屋やガソリンの領収証、最近では家族に還流して大臣を辞めた小者もいる。それでも東大出の元エリート官僚だ。これでは国を代表した外交など任せられないし、せいぜい握手と写真、少し小狡ければODAの援助利権が関の山だろう。

今回は岸田君は彼の国の民から観て小者のように映った。もしも装って隙を見せたなら、今度は大人のように振る舞って欲しい。孫文も「真の日本人がいなくなった」と、側近の日本人に嘆息している。

先ずは、狡猾な官吏、欲張り陣笠や曲学阿世な知識人に阿諛迎合せず、宿命を立命に転化する学びが欲しい。

メンツをつぶさず、一杯喰わせるような頓智があるなら、面白い漢となる。また、亜細亜は再興するはず。

それなら「宏池」を冠とした命名者安岡正篤氏も感服するはずだが。

< 現在の中国での状況と民情は、繁栄とともに政治指標も変化し民の習性や情操も変化している。ここで取り上げた逸話は人間の本性とする「色・食・財」の欲望に向かうとき、ときおり垣間見る民の智慧と観えることがある。政治の政策には応ずる民の対策と云われるものがそれである。とくに外交交渉での隘路として異なる姿を見せることでもある。たしかに独特の感覚と応答である。それは個々のメンツとも思えるものではあるが、環境や状況で瞬時に変化する。日本では立場の形式と本音として通底されている姿でもある>

 

   

 

 

以下、Yahoo!ニュース コラムより抜粋

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

 

岸田首相が習近平と会談できたのはG20が終わった翌日11月17日にタイに移動してからだった。単純に国の順番から言うと、国連のグテーレス事務総長を含めて15番目となる。

 もっとも、11月17日にタイのバンコクで開催されたAPECに参加する国と参加しない国(オランダ、南アフリカ、セネガル、アルゼンチン、スペイン、イタリア)があるので、必ずしも日本が関係国の中で15番目にしか位置付けられていないとは言えないものの、やはり図表を作成してみると、習近平が日本を相当低くしか位置付けていないという現実が、否定しがたい形で突きつけられる。

 少なくとも、同じ大統領あるいは首相がAPECにも参加しているのはフランスやオーストラリア、インドネシアなどで、タイで会っても良かっただろうが、優先的にインドネシアで会っているし、17日にタイに移動してからも、フィリピンやシンガポールの首脳よりも、日本は後回しになっている。

 日本が少しは優位に立っているのは「ブルネイ、ニュージーランド、パプアニューギニア、チリ」に対してのみだ。タイが最後になっているのは主催国だからだ。

 一方、視点を変えると、韓国の大統領とはかなり優先的に先に会っているのは、韓国は米韓との関係上、何としても中国側に引き付けておきたいという思惑があるからだろう。韓国の場合、APECには大統領に代わって首相が出席することになっているからという理屈は成り立つだろうが、韓国側のやり方もうまければ、韓国が6番目に位置しているのは、日本人として決して愉快な気持ちにはなれない人が多いのではないだろうか。

 中国は、こういう順番を非常に重視するという伝統があるので、その視点から見ても、韓国に比べて日本など、「どうせ放っておいても尻尾を振って近づいてくる」と高を括っている何よりの証拠だとしか見えないのである。

 

◆習近平の前でオドオドと焦る岸田首相

 そのイヤな予感は、初対面の場面で早速、現実のものとなった。

 11月17日午後8時46分、習近平が宿泊するホテルに岸田首相が表れた。バイデンのときと同じように習近平が対面舞台の真ん中にいて岸田首相が速足で歩いて近づいていく設定だ。最初に会った時の会話と動作が滑稽過ぎて、実際の対談がどうであったかはほぼ関係ないほどだ。

 以下、日中両国のネットに現れている数多くの動画に基づいて、「習近平&岸田」の対話や動作を記したい。( )内は中国語の和訳や筆者の説明で、会話の文字起こしに関しては筆者自身が聞き取れたものを記録した。

 

習近平:到了(あ、来た)。

岸田:・・・(走り寄っている最中)

習近平:你好啊(やあ、こんにちは)。(非常に軽いトーン)握手。

岸田:(ペコペコしながら)ええ、習主席と直接対話できましたことを大変うれしく思います。

習近平:那我们今天呢,坐下来谈一谈(じゃあ、今日はですね、座って話しますかね)。

岸田:・・・(大急ぎで日本語通訳の方を見るが、通訳が間に合わない。)

     (習近平、握手の手を離す。)

習近平:今天过来的还是昨天过来的?(今日いらしたんですか?それとも昨日いらしたんですか?)

岸田:・・・(通訳の方を振り向いている)

習近平:从巴厘岛(バリ島からさ)(回答が遅れてるので付け足す)

岸田:(しばらく沈黙。通訳の方を振り向く岸田首相に日本語通訳の声が届くと、ようやく)そうですね・・・、あのう・・・、え――っと、そのう・・・、本日、こちらに移動してきました。

    (「今日です」という一声が出なく、「あのう・・・、そのう・・・、えーーとぉ」を続けた後に、ようやく「本日」という言葉が出た。)

習近平:今天刚刚到的、我也是(ああ、今日、着いたばかりなんですね。私もです)。

    (ここで対面場面は終わることになっていたらしく、二人は対面舞台から去ろうとするのだが、岸田首相は間違えて習近平のあとに付いていき、習近平ら中国側の方向に向かおうとしたので、習近平がそれを遮り)

習近平:你们这边(あなたたちは、こっちですよ)

    (岸田首相ら日本側が向かうべき反対側の方向を、習近平が掌を上に向ける形で指す。「あ、どうも」と言ったのか否か、声は拾えてないが、頭を軽く下げながら習近平の後ろをアタフタと「日本側」の方向に戻る岸田首相の姿が映し出されたところで、画面は切れた。)

 

 バイデンとの出会いの場面も見ものだったが、岸田首相との対面場面は、それに輪をかけて「抱腹絶倒」と言っても過言ではなく、中文メディアは大喜びだ。

 日本人としては愕然とする。会談で何を話そうと、あとは推して知るべし。

 平然とゆったり構える習近平の前に、おどおどと緊張し、日本語も普通には出てこない岸田首相の小物ぶりが際立った。

 習近平はそんなに「偉い」のか?

 なぜ、ここまでビクつかなければならないのか?

 何を恐れているのか?

 だらしない!

 みっともない!

 せっかく国際社会的には有利な立ち位置にありながら、結局は「ご機嫌伺い外交」しかできない国のツケが露わになったのを見る思いだ。「言うだけ外交」、「戦略なき日本」の姿は、こういうところで顕著になる。今後、岸田首相が中国に関して、どのような勇ましいことを「言葉だけで」言っても、何も信用できない。

 日本はなぜこんな国になってしまったのか、暗然たる思いだ。

 

以上,参照として転記させていただきます

イメージは一部関係サイトより

 

 

 

 

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知識と技術は、識と術を弁えなくては痴戯(知技)同然

2024-04-26 18:08:06 | Weblog

      秩父 奥名栗





「識」とは道理であり、口舌を駆使することなく内心で会得することであり、「術」は手立てや技ともあるが、術智がなくては単なる企みに終始してしまうようだ。

よく知識人の堕落は国家をも衰亡させるという。ならば内心会得する道理とはどの様なものであり、会得した人間の姿や能力はどのようなものか考えてみたい。

「色聴」という文字がある。人と応対したとき顔色をみて真偽を観察する。あるいは容、象、体の表れで対象を観察する、それが色聴能力で表されることである。
「色」は女が座って上から人が覆いかぶさっている姿だが、なまめかしい形でもある。
それこそ様々な聴き方があるが、観人則(人物をみる座標)から独り鎮まりを以って聴いてみたい。

「辭(辞)聴」辞めるとき、下がるとき、「色聴」「気聴」「耳聴」「目聴」などがあるが、敢えて言葉に出したりしないで、゛察する゛、つまり直感力を養うということでもある。
安岡氏が「真に頭のいい人物は直観力が優れている」といっていたが、面白いことにアカデミックな知力を高めれば高めるほど、瞬時の判断や先見に欠かせない直観力が衰える。

その直観力だが、往々にして些細な習慣が瞬時に事象を読み解くことがある。
それは習い、倣われた習慣が座標軸となっていつの間にか涵養され、全ての考察の基盤のようになっている。「聴」も耳で聴くだけと思いがちだが、心耳という表現もある。



               
 
                          関連サイトより


あの田中総理が辞任の決意をした折、あれほど現世利益には無意味と煩わしくも思っていた漢学者安岡氏の言辞に心を鎮めている。
藤森官房副長官と二階堂氏の懇嘱で出来上がった文面に、「一夜、沛然として心耳を澄まし・・」と記されていた。
《心ならずもドシャ降りの雨のように国民から批判されているが、心静かに独居して心の秘奥にある心で一夜、その声を聴くと・・》

権力者は裸の王様と揶揄されるほど情報は偏するようだ。しかし、今まで聴くことがなかった異なる国民の声は、心の耳でなくては聴くことが出来ないものだった。田中氏は心の耳で聴き、国民は「辭聴」して田中氏の心の耳を察した。


あえて死者に鞭打たないと日本人気質をいうが、一旦、辭意を聴くと惻隠(陰ながら)の情を抱くのである。文や言葉で囃し立てるのは解らない人間に判って貰うスベでもあるし、もっともらしい考証をあげつらうが、辭を決断した心地を忖度する多くの国民は、敢えて石や礫を投げかけることはしない。ただ、今度は煩いのない政治を観たいと思うのである。

勘違いして声なき民とか無力で意思の無い国民と、いらぬお節介をする政治かも出てくるが、これらを耳で聴き、目で見るだけでなく、「色聴」や「気聴」という元々具わっている感性、つまり識のない知でなく、真の知識によって得心している人々によって国の維(中心基盤)は保たれている。



                    

             正直は整理整頓、簡素から


その識だが・・
江戸時代は政治は老中、その配下に勘定奉行とあったが庶民の金貸しは質屋、あるいは名主が融通をはかっていた。
あるとき名主の借用書を目にしたことがあったが、今と違って担保は田畑不動産ではなく、年貢米、借用者の労役、もしくは子女の年期奉公だった。また違えたときは、゛満座でお笑いください゛とあった。つまり大勢の前で笑ってください、ということだ。

また、博打の借金は貸主が胴元もしくは稼業人だったせいか、屋敷や商店の権利がやり取りされたが田畑だけは担保には取られなかった。それより金を駆使したり、金のために巳を滅すことは卑しいことという習慣性があった。そして何よりも人を観る手立てとして金が引用され、゛金貸しには嫁に出すな゛と巷間言われた時期があった。

一定の継続された歴史をもつ人々は不文律としての習慣性がある。それは、仕草が立ち振る舞いや行儀の姿となり、他人との物品やり取りや応答辞令が形式ではあるが、狭い範囲の郷の連帯や調和を司る、゛常識゛となった。当時の常識はあくまで情理を前提とした、゛情識゛、あるいは立場を譲り合う、゛譲識゛でもあった。

単なる知や情報が入らないころ、人々は諺なり訓話、格言を倣いとして生活をしていた。
たとえば「友」についても「三益友」といって、
直(正しい人)、諒(正しい人)、多聞(見聞の広い人

逆に損な友は「三損友」にある
便辟(ヘキ)(不正直)、善柔(にこやかだが不誠実)、弁佞(ネイ)(口で上手いことを言うが実意が無い)




              




損益の分岐とはあるが、はたして我が国の知識人は損なのか、益なのか。
彼等が知識人としての位置を保持し、曲がりなりにも食い扶持をはむなら民の益を考慮すべきだろう。民の益とは政治家、宗教家、教育者、官吏という権力を構成するものが人間の尊厳を毀損するときに、闘い護るべきことによってその存在がある。
古来から君主の三欲といわれる、求、禁、令についても益なるものは広め、損なる不誠実なるものは排除する姿勢が必要だ。

なにも不正直で貪りが慣れになっている人を囃し立てたり、権力の側用人になるべきではないし、それこそ知識人の堕落に観る国家衰亡の進捗である。

つまり、識のない知や、術のない芸は嘲りの対象にしかならない痴戯なのである。

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「五寒」に観る、国家衰亡を止める法則 08,12再

2024-04-25 18:15:06 | Weblog

 

 

 

 

清朝末の哲人、梁巨川(桂林出身)の「一読書人の節操」に編者である景嘉氏はこう記している。

「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか・・」と。

中国の歴史にみる栄枯盛衰は、夫々の機会ごとに人間の所作を記している。歴史に問われる臨場の真贋を四角四面に探索することもあれば、天空から眺める楽しみもある。それは合理的考察と思える学び、あるいはアカデミックと称する唯一の向学観念だけではは感受することのない 「腑におちる」覚り方でもある。

だが、近代の学制はそれらを集積しながら知識の応用とする上で有効な「人間学」として顧みることは無かった。とくに主義なるものが食い扶持方法まで支配すると知学修得が滞貨となり、利学に伴って詐学、錯学まがいの分野まで広がった。

 



                
                  桂林近郊

いや、そのものを思索したり観照したりするスベもなく、あるいは明治以降の官制学に見る科目、課題にも表れる事も無く、まるで捨てられたカリキュラムの如く忌諱され、あることも知らない状態が続いているようだ。

コラムに記した「五寒」「四患」あるいは荀子の「衰亡の徴」など、およそ官製の学び舎の授業には登場することはない。



               



知をステータスとした教師や知識人が従前よりメジャーといわれた「論語」を代表とする「経書」、つまり経文の如く普遍ではあるが、活学や肉体化、躍動突破といった実利応用であるべきものが乏しい単純知学に陥り、人の師と成るべき感動によって「伝書」とすべきものが、経師に陥り人の師としての「人師」が見当たらなくなった。

それは、すべからず食い扶持学に堕してしまった教師や売文の輩、言論貴族を代表として名を有とする(有名)知識人によって「人師」の在り様そのものが意味不明になってしまった為だと考える。

外国の顕彰に取り上げられた四人の老齢なる日本人は世俗においては皆、無名だった。

これとは逆に外国顕彰を欲しがる政治家、宗教家、文筆家が日本に散見する。
あるものは財を用とし、権や人脈を用とするものもいる。


                

     右上 佐藤慎一郎氏 前列右 頭山満氏 左 末永節氏



翻ってスメラギの威は所有することを拒み調和と連帯を使命としてその威を高めている。それは邦人に風を以て示す人格の具現であり、民族はそれを人の姿の倣いとして矜持を涵養してきた。

明治を語り、日本人を著すモノ書きは世界的有名な隣国の書評家に数多の願文を送っている。書評家は他の有名モノ書きから届けられた手紙の束を指し示して立場を誇示していたが、母国の特務工作員であるとはモノ書き連中は判らない。

知識人の堕落によって国が滅ぶことは歴史に多く標されている。
交渉人「説家」もその例だろう。           

それらはコラム「昇官発財」に多くを記した。
智は大偽を生じ、利は智を昏からしむ、それらは知識人に向けられている。
地位は下から二番目と蔑まれた「九儒」、毛沢東は口先、阿諛迎合の知識人を「臭九老」と蔑んでいる。

繁栄期には百家争鳴の如く知の職が騒がしいが、度を越した繁栄の後には知学の出番は無い。これからは宗職や警職、軍職が頭をもたげて来るだろう。

まさに政治のピント(焦点)がはずれ、カオスになったエネルギーは内から外に向かい、夫々の洞察は放埓した群れにまぎれ「人」の特徴が用を為さなくなり、それゆえリーダー像の描き方を欲望の到達度によって測るようになり、現世利益と対処に長けた女性の行動感性が研ぎ澄まされるようになる。



              



「五寒」に説く現象はそのような状態に警鐘を与えているのだ。

ならば戻る所を模索すべきだろう。
昨今騒がれている歴史検証の時点ではなく、人は童心に問い、社会は連帯と調和のために自制と倹約を促し、国家はそれが程よくプロデュースされていた期を顧みることだ。

そして無条件に身を献じて目標を指し示す人物を探して添うことだ。

複雑ではあるが、民族の長(おさ)や、人をみる「観人」の則なり座標を記す意味はそこにある。

 

 

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男子は大法螺を吹く気概をもて 10 6・16 再

2024-04-21 02:36:21 | Weblog


以前、台湾出身のモノ書きが、「孫文はペテン師だ」と記した。

孫文は両岸をはさむ中国も国父と敬している。近代化の父を正統の証として敬することはよくあることだが、民進党の陳総統も孫文の掲額に就任の誓詞を述べている。生前、死後を問わず民族の長(おさ)は両岸の政治為政者を違えても厳存している。

台湾は民主化で、゛言論は自由だ゛、というが、何でも言いっぱなしの日本に来て、たとえ形式であれ国父として推戴されている人物を罵倒する感覚は日本人にはない。

いや、一番忌み嫌われ、馴染まない心根でもある。

そのとき小生はこう応えて記した

「革命家の行為や言を肉体的衝撃の無い安逸な時代に、゛言い捨て゛をすることは彼の国の九儒、臭九老と蔑まれている知識人にある姿だ。まして革命家はペテン師で、謀略家、大風呂敷、法螺吹き、女性好き、でなくては表層の革命美句すら潤いのない物になってしまう。

松陰の路銀借用書はいたる所にあり、晋作も博文もいってみれば女好き、ペテン、大法螺など掃いて棄てるほどある。ことにハッタリはつきものだ。

ならば、そのペテン師という孫文の革命に挺身し命を懸けた明治の先覚者は愚か者か・・・
総じて祖国意識も無く異国の地に来て民族の先覚者を罵倒する人物が西欧の植民地を招来をさせた堕落知識人の姿ではないか・・」


ともあれモノ書き愚者のみる大法螺、ペテン師、ハッタリなのか、以下は小生に宛てられた書簡である。

「国おもえば国賊」とは山田純三郎の嘆息だった。
そして孫文の側近として辛亥革命に挺身した。

はたしてこの人物はいかなる姿を日本人に魅せてくれるのだろうか。





     

                   横田尚武
           

以下 横田氏より筆者への手紙

『日本の皆様

世界は今、知恵と団結心に恵まれた日本人の貢献を必要としています。

自然を愛し、自然と共生しようというスピリットを持ち、しかも辛抱強く、努力家であるという、その国民性はあらゆる地球環境問題に取り組む上で模範となるものです。

母なる大地への愛と慈しみをすべての人々にもう一度取り戻してもらうためにあなた方の言葉と実践は、とても大切な役割を果たすことでしょう。

あなた方の知恵と努力によって世界中の大地をよみがえらせて、この地球上の多くの民族に愛と調和と友情の風を強く送って欲しいのです。

私が「灰色の時代」と呼んでいる2013年から2043年にかけて自然環境は非常に悪化して行き、アマゾンのジャングルはこのままでは消滅して砂漠になってしまうでしょう。

しかし聡明な日本人の技術がこれを助けてくれます。

ブラジルと日本との結びつきはさらに強まり、兄弟と呼んでもいい関係になるでしょう。

そして経済のみならずエネルギー開発の環境対策で有意義なパートナーシップを結び、世界的に重要な貢献を果たすことになります。』




この言葉は「ジュセリーノ・未来予知ノート」という表題で出版された本の中で主人公が語りかけておるのですが、この文言を読んだ瞬間、「あっ、これは俺達日系人の農業者のことを言っている!」と、何かこう背筋がゾワーとするような感動を覚えました。





                

6月 ブラジルはコスモスの季節
             麻生総理も訪れた中沢氏の施設にて 中沢宏一氏
              


何故ならこの主人公は中沢社長の住む観光都市アチバイヤのすぐ隣にある日系人が多く住む農業都市、イタチーバで少年時代を過ごし、(彼の両親は現在も同所に住まれている)日系農業者の生活様式を知り尽くされているからこそ、この様な発言になったのだということが実感として受け止めることが出来たからです。

この主人公「ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルース氏は、かの有名なノストラダムスやエドガーケイシーを超えるとされ、その的中率は90%。世紀の預言者として日本においても彼に関する本を6冊も出版されています。
 私は何故、この書籍の冒頭にジュセリーノさんの言葉を持ってきたのでしょうか?

それは自分自身に対する励ましの言葉であり、我が身を鞭打つ叱咤の言葉でもあったからです。
 実は先日のFAXでお知らせしたように、息子から「もう大きな夢を追うのはやめてブラジルに帰り、農場に入って好きなことをしてのんびり暮らせ!」と言われ、中沢や蛸井からも「とにかく一度ブラジルに戻って、バイヤの土地を外人に売って、資金を作ってからまた出直したほうがいいんじゃないか?」と言われ心がぐらぐらと揺れ続けていた時、このジュセリーノさんの言葉に出合って、頭を一発ガーンとやられたようなショックを受けたのでした。

 私が「オレは俺の命に賭けてもこの営農団地を守ってみせるぞ!」と心中深く決したのは22年前の平成元年のことでした。

それから今日までに家族も、ほとんどの兄姉たちの縁も、財産も、地位も信用も台無しにしながらも、唯一私の心境を理解し、支えてくれた中沢、蛸井そして我社の役員の協力によってなんとか生きてきた私が今、全てをあきらめて引っ込んでしまうことは、それは自分自身の生き様の根源にもかかわる冒涜行為でもあり、彼等に対しての、そしてまた私という人間を信じてご支援、ご協力下さった日本の多くの方々に対する裏切り行為になるのだという事を気付かせて頂いたからです。

 『人はその人が生きた時点で自ら「出来ること」「すべきこと」がある。これを認識するかどうかで神にもなれば詐欺師にもなりえる』

これは評論家の曽野綾子さんの言葉ですが、私は危ういところで詐欺師になるところでした。何故なら、この世紀の大預言者が言われるように、私は確かにこの母なる大地への愛と慈しみを持ち、自然環境を良くするための技術と経験を持ち、それを多くの人々に伝える言葉と実践力を持っておりながら、その努力もせずに逃げようとしたのですから。

 私は、ここで改めて、たとえ今度のように一番安いうどんを茹でて、具がなにも入っていない味噌汁をぶっかけて喰い続けようと、俺は目的を達するまではブラジルに帰らないと心に誓いました。

 
孟子のこの言葉を胸にいつも反芻『天がある人に大任を授けようとする時は必ず身も心も苦しめ、窮乏の境遇において、なおかつその人のしようとすることに逆らうような試練を与えるものだ。それに耐え抜いた時、初めて天はその人に成功という果実を与える。』

しながらこれから歩いて行きたいと思っております。

 来年で私は70歳になります。唐の詩人、杜甫(とほ)が
『人生七十古来稀(まれ)なり』
と詠じた年になります。今でこそ人生80年といわれますが、それでもあと10年しかありません。なんとかして次の世代に私の夢を受け継がせねばならないのです。私にはゆっくりと休んで英気を養う余裕はもうないのです。

 古代中国の三国志に出てくる劉備玄徳が
『蒼天に向かって吹き続けて来た大ボラを遂に大地の上に実らせる時が来た!』
と叫んだその時が今、来ているのだという想いでいっぱいです。

貴台におかれましては、宜しく御指導、御鞭撻のほどをお願い申し上げます。
平成22年5月15日大安吉日

横田尚武拝

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