まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

鈴木宗雄氏も綴る、佐藤慎一郎先生  お別れの言葉

2024-05-26 01:14:53 | Weblog

心より感謝し、理屈のない感涙を招いた師の言葉をお伝えいたします

好きでたまらないという生徒達に伝え、生徒も感応した。なかには戦慄(わなな)き落涙するものもいた。あの人情豊かな鈴木宗雄議員も先生への思いを随時に綴っている。

筆者も多くの碩学といわれる人物に遭遇するが、背筋に冷たいものが走ったのは佐藤先生をおいてはいない。

ただ、下座において、吾が身を以って伝えることは、俗事小事にまみえる小生にとって終生解けぬ難問でもある。時おり学徒に無学を晒しつつも師の追従模倣でしかない。

春、秋と津軽の墓前に参するも、照れくさくも恥ずかしい雄の児があるだけだ。

最後は病室を退く背に『後は頼みますよ・・』といわれたが、なぜか振り向けなかった。
同行の王荊山の遺子が覚ったように身を震わせた

悲しい、淋しいより、悔しかった。

それは、゛まだ早い゛、゛いつでもいる゛という甘えだったのか・・・




                





【心の講義】

最終講義の二、三十分間を借りて、思いつくままのお別れの言葉を云わしてもらいます。
私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、おさき真暗な時代でした。五・一五事件、二・ニ六事件、満洲事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。

私は、満洲国で、初めて人間の素晴しい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面をも見せつけられ慄然(りつぜん)としました。

 私も敗戦後、共産軍に捕らえられ、死刑の判決を受けること二回、二回とも中国人に助けられました.三回目は国民党に逮捕され、九分通りは死刑であるとの内示を受けていたのが、判決直前釈放されました。私は留置場の中で、または死刑執行場で、自分で自分の入るべき墓穴を掘りながら、本当の学問というものは、書物以外の所により多くあることを体験させられました。

「吾れ汝らほど書を読まず、然るが故に吾れ汝らほど愚かならず。」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」

という言葉の意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした。いかに素晴しい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。






               

       孫文側近 山田純三郎  先生の叔父




 では教育とは何だ。祖先から承け継いだ民族の生命をはぐくみ育てながら、次の代に伝えていくことだと信じます。教育とは、民族の生命の承継である。生命、それは魂と魂の暖い触れあいの中でしか育たない。愛情のないところに生命は育たぬ。誠意と献身のないところに生命の成長はない。

 男女の結合によって、子供が生まれる。生命の誕生である。親と子供は、同時に生まれるものです。親の無い子はなく、子のない親はない。親子関係は、西欧思想のように、「自」と「他」という二元的なものではない。親子の関係には、自他の区別がない。




                




無条件だ。あるものは愛情だけだ。

しかも打算のない愛情だ。真の愛情には終りがない。

これこそが人間存在の原点だ。

人間と人間関係の出発点だ。

私はとくに母親というものの姿から、純粋な人間愛に生きる、人間の本当の生き方を教えられた。

これこそが隣人愛につながり、社会愛・民族愛、そして人類愛にまでつながる根源である。

自分と他人とは別物ではない。自分と学生とは別物ではない。

学生の悦びを己の悦びとして悦ぶ。学生の苦悩を自らの苦悩として、共に苦しむ。自他の一体視だ。そうした暖いものこそが、人間の本質である。しかもこれこそが現代の社会に、最も欠けているものの一つである。

学生という生命体を育てるには、魂と魂の触れあいしかない。道元禅師は「自をして他に同ぜしめて、初めて他をして自に同ぜしむる道あり」と教えておられる。

また夏目漱石の「三四郎」とかいう本に、三四郎が東大の図書館から本を借りて来たら、落書がしてあった。
「ベルリンにおけるヘーゲルの講義は、舌の講義にあらず、心の講義なりき。哲学の講義は、ここに至って始めて聞くべし」とあった。





            
              新京





そうだ。 これだ。私にできることは、舌の講義ではない。心の講義だ。体ぜんたいで学生に、ぶっつかることだ。私は拓大に来て一六、七年間、実によく学生と遊んだ。飲んだ。歌った。語った。そして叱った。怒鳴った。励ました。

そのようにして私は私自身を語った。私は「口耳(こうじ)四寸の学」は教えなかった。耳から聞いて、四寸離れた口から出すような浅薄な学問は、教えなかったつもりである。「口耳(こうじ)の間は即ち四寸のみ。なんぞ以て七尺の躯を美とするに足らんや」(荀子)である。私は体ぜんたいで「吾れ」を語ったのです。

【食・色は人の性なり】

 私は初めて社会に出て、小学生の先生をした。三ヵ月目で首になった。若い女の先生と海岸へ遊びに行って首になったのです。駆け落ちしたのではありません。自動車で行ったまでのことです。二回目の就職先でもまた半年たらずで首になった。

 誰かの本に、こんな話があった。ある家に青年僧が下宿していた。実によく修業に励んでいた。宿の小母さんは、末頼もしく思っていた。小母さんには娘さんがあった。ある日娘が青年僧の食事を運ぼうとした時、母親は娘に、青年僧の気を引いてごらんと、けしかけた。娘は悦んで青年僧に抱きついてみた。青年僧は姿勢を正して

 「枯木(こぼく)寒厳(かんがん)によりて、三冬(冬の一番寒い時)暖気なし」と答えて、娘を冷たく突っ放した。

それを聞いた母親は、「この糞坊主が」と怒って、青年僧を追い出してしまったというのです。若い女性に抱きつかれても、冬の一番寒い時に、一木の枯木が寒ざむとした岩肌に生えてでもいるように、私には一向に感応はありませんよ、とでも云って入るのでしょう。こんな男は、人間じゃない。「停電」しているのだ。




             

      整理、整頓 倹約、津軽の教育




ところで、この佐藤先生なら、こうしたばあい、どういう反応を示したと思いますか。
佐藤先生は、待っていましたとばかり、「漏電」してしまったのです。

後始末は大変でした。とにかく私は、女には間違う。始末におえない先生だったのです。

「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒(いま)しむること色にあり」(論語)です。

 しかし私には一つの救いがあった。それは最初から最後まで、学生が好きだった。好きで好きでたまらんのだ。この拓大にも一人ぐらいは、徹底して学生と遊び通す先生がいてもよかろう。

 ところが、自分の未熟さ、能力、学問を考えると、それは恐ろしいことでもあった。そのため私は自分自身に厳しくした。

私は諸君に対して「私の講義を本当に学ぶ気持ちがあるなら、先生より先に教室に入って、心静かに待っておれ」と要求した。

この諸君に対する要求は、実は私自身に対する要求であった。与えられた貴重な時間だ。一秒たりとも、おろそかにはできないぞと、私自身にたいする誓いでもあった。そのため私は朝の始業時間よりは、三十分か四十分前には、必ず学校に到着しているように心がけた。

そして十七年間、この小さい小さい事をやり通した。

「初めあらざることなし、よく終りあること鮮(すくな)し」(詩経)。

何事でも初めのうちは、ともかくやるものだ。それを終りまで全うすることは、むずかしいものです。





           

        在学中の想い出に師を綴る
   


【私心を去れ】

 王陽明は「則天去(そくてんきょ)私(し)」天理にのっとり私を去る、と自戒しています。毛沢東は「則毛去(そくもうきょ)私(し)」を要求しています。つまり俺を模範として、お前らは私心を去って、俺のために尽くせと要求している。中国大陸の今日の混乱・闘争の根源は、毛沢東の私心にある。

 中国は何十回となく、革命をくり返してきた。しかし中国の独裁体制そのものを打倒することはできなかった。

つまり革命のない革命を、くり返して来ていたのです。

ところが中国近代革命の目標は、そのような独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上りの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとするところにある。毛沢東の独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上がりの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとする革命の力が育っているのです。

毛沢東という人は、かつて三国志の英雄曹操が「俺が天下の人に背(そむ)いたとしても、天下の人々が俺に背くようなことは許さぬ」とうそぶいたように、今では毛沢東一人を以て天下を治め、天下をもって毛沢東一人に奉仕させているのです。要するに毛沢東は、中国近代革命の本質を知らない男です。中国の真の革命はこれから始まるのです。


 とにかく王陽明も「山中の賊を破ることは易く、心中の賊を破ることは難し」と云っているように、私心を去ることはむずかしい。しかし私心を断たぬ限り、世の中は明るくならぬ。私心を去るということは、自己との永遠の闘いでしょう

 殷の湯王が自分の洗面器に「まことに日に新(あらた)に、日に日に新(あらた)に、また日に新なり」(大学)と彫(ほ)りつけておいて、毎朝洗顔する度に、自分の心の汚れ―私心をも洗い流して、毎日が生まれ変った新しい人間として、政治を執るように自戒し努力し續けたと云われています。


 私も自分を反省し、私心を棄てようと、私なりの努力と自戒を續けてきたのでしたが、人間ができずして、非常にかたくなな人間に変わった。しかし「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり」(孟子)です。私にはやろうとする気があった。愛情と誠意と献身のあるところ、万物は育つというのが、私の信念であり行動の基準でもありました。それが多少なりとも、自分の欠陥を補ってくれていると思います。



【国家衰亡の徴(しるし)】

そうした気持ち現在の拓大を見るばあい淋しい気持ちがしないでもない。拓大は長い間数多くの業績を残してきた。しかしながら現在の学生の中には、はつらつとした自己の生命力を自覚し、国際人としての教養を身につけ、使命感に生きようとする気魄に欠けている学生が多いように見受けられる。


現代の学生は感性的な欲望を追求することはいても知って、学問を以て自己の本質を見極めつつ、生きがいのある使命感に生き通そうとする気概が薄いようである。


人間の幸福を、人間の欲望を追求することに求めた近代文明が、その欲望をコントロールすることができずして、ついにその欲望に支配されている。不幸の根源は、そこにある。しかも現代の教育は、このような病理現象に対しては、あまりにも無力である。


日本の現状を正視してごらんなさい。
「天下は攘攘(じょうじょう)(集まるさま)として皆利の為に往き、天下は熙熙(きき)(喜び勇むさま)として皆利の為来たる」(六韜)

世の中は挙げて、利益・利益・利益。勢利のあるところに蟻の如くに群がっている日本人の姿を見なさい。

「上下交交(こもごも)利を征(と)れば、国危し」(孟子)

上の人も下の人も、正義を忘れて利益だけを追求するようになれば、その国は危うくなると教えています。今から二千三百年も前に死んだ荀子(じゅんし)が、「乱世の徴(しるし)」として、次のような「徴(しるし)」が現われてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。

「その服は組」-人々の服装がはですぎて、不調和となってくる。

「その容(かたち)は婦(ふ)」-男は女性のまねをしはじめ、その容貌態度は婦人のように、なまめかしく軟弱になってくる。拓大にもそんな亡国の民がおる。ところが国が亡ぶ時には、女までも堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男を好きになる。そして女はついに「両親を棄てて、その男の所へ走る」と荀子は書いている。

次は「その俗は淫」―その風俗は淫乱となってくる。

「その志は利」―人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。まさしく「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)です。利のためなら死んでも悔いがないのです。

身を以て天下に殉ずる日本人は、少なくなりました。

その次は「その行(おこない)は雑」―その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞きコーヒーを飲みながら、勉強している。一つのことに専念できなくなっている。

「その声楽(せいがく)は険」―音楽が下鄙てみだらとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態が分るのです。

荀子の言葉はまだ続くのですが、結局、「亡国に至りて而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」、これが本当の亡国だと警告しています。

現在の日本の国情と比べてごらん。まさしく「驕(おご)り亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)です。漁夫が屈原に「なぜあなたは世の中から遠ざけられたのか」と問われて、屈原は

「世を挙げてみな濁(こご)る、我れ独り清(す)む」

と答えて、ベキラの淵に身を投じて死んでいます。日本の現状も諸君が歌っているように、ベキラの淵に波騒ぐ状態です。しかし私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。



【魂の承継】

 私には父から貰った素晴しい財産がある。父は不自由な手で一幅の書を遺してくれました。
 「富貴も淫するあたわず、貧賤も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これこれを大丈夫と謂う。」
 孟子の言葉です。私はこれを父の遺言であると信じています。富貴は我れにおいて浮雲の如しです。

また母の実家の真向いは、陸羯南(くがかつなん)先生の家でした。陸先生は、とくに日本新聞を通じて、一世を指導した大思想家でした。先生は「挙世滔滔(とうとう)、勢い百川の東するが如きに当り、独り毅然(きぜん)として之れに逆(さから)うものは、千百人中すなわち一人のみ。甚しい哉。才の多くして而して気の寡(すくな)きことを」と、信じた道に命をかける人間が少なくなったことを叱咤(しった)しておられます。

 日本は国を挙げて、挙世滔滔として中国へ中国へと流れていった。私は日本を愛し、中国をも愛する。なぜ日本人は中国人を、かくまでも軽侮し殺さなければならないのか。

私は滔滔とした日本の巨大な流れを、阻止するすべを知らなかった。

私は北京大学の学生たちが、排日・侮日・抗日に起ち上る姿に感激した。私はなんらの躊躇することなく、彼らの抗日の波に飛びこみ、「打倒日本帝国主義」を叫んだ。

私の力は大海の水の一滴に過ぎなかった。完全に無力であった。しかし私には無力を知りつつも、そうせずにはおれないものがあった。

 弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦のときには満洲国熱河省次長(日計官吏の最高職)でした。八月十九日ソ連軍が承徳になだれこんで来た。岸谷さんは日本人居留民を集めて、

「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くして下さい」と別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウィスキーを飲みかわしながら、動こうともしない。人々は再三に亘って、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と促した。岸谷さんは「そんなに云ってくれるなら・・・」と起ち上って、奥の部屋のふすまを開けた。部屋ではお子さんと奥さんが死に赴く姿で端座していた。

・・・・・
 

さあ、私も諸君から「おれたちの清純な頭に、くだらん講義を詰めこむのは、やめてくれ」、そして「そこを退いてくれ」と云われんうちに、この辺で自ら去るのが賢明のようです。
 
そこで最後にもう一度言う。皆さん、大志を抱いて下さい。諸君は民族の生命を継承するのです。新しい歴史を創るのです。それに起ち向かうだけの気魄をもって下さい。生きがいのある使命感に生き通して下さい。がん張って下さい。

 私は拓大を去っても、私の心は諸君の上から離れることはないでしょう。
 皆さん、さようーなら。

               (昭和五十一年一月二十四日)

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