まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

 人間考学  「布仁興義」 その倣うべき姿  11 4/22

2024-06-03 11:30:50 | Weblog

筆者 拙刻





「仁を布いて義を興す」  よき心を自ら広げて、正しい心を喚起する

「布仁興義」東洋では政治の様態を問うときこの意を標識する
その標識は世間では法の掲げる標(しるし)として乱立しているが、いまはこのシルシが罰金徴収の題目となっている。

標(しるし)は、識(しき)にいう道理がなくては掲げるべきものではない。道徳心を喚起し己を自制する、あるいは想い起こさせる標でなくてはならない。

孟子の説く「四端」がある。ことの心(情)の端緒を収斂すると四つあると、それぞれ「惻隠、辞譲、羞悪、是非」として仁、義、礼、智を説いている。

仁は惻隠の情が心や行動の端緒となる、という。
他人の困窮を見たら察する、心を想うことが陰ながらの意識の発動であり、それが「仁」の姿だという。

ちなみに「礼」は心を譲る、「義」は羞悪をみたら本来の姿を想起する。

「智」良し悪しの分別、その心を育てることが学問なり教育だが、もともと誰でもある心(情)が欲望によって失くした (忌避、忘却、放心)心を取りもどし純なる己を再考する、それを成すべき学問だという。それは形に表れるものとは異なり、また心の説明責任などという類には馴染まないことでもある。

よく「我、何人ゾ」と、自分は何なのだろうと自分探しをすることが言われるが、学問修得の一面でもあり、多岐な行動を促がし発起、躍動、自省、あるいは自傷もあるが、詰まるところ「自分はどの位置にいるのか、ところで何なのだろう」という探求でもあろう。

自身が善いと考えたことを不特定多数を対象に布く、つまり口舌や行動で提供することによって、人々に義に表れる正しい行動が喚起される。その調和と連帯が家族、社会や国家であると多くの為政者が好んで揮毫している。

近頃の日本の政治家は「一隅を照らす」と流行り挨拶になっているが、そもそも政治家は一隅の光を連帯させて、万灯に構成し世の中(国家)を照らすことが責務である。
一隅の意は下座観である。世の中を多面的に俯瞰するために必要な部分ではあるが、部分の考察のみてではいつまで経っても全体俯瞰にたどり着かない。

つまり一党一派を支えても、国家は担えない為政者の蔓延である
その結果は判例主義の裁判官、前例執着の官吏の出現である

もともと官制学の暗記学やマニュアルを唯一の人間査定として生きてきたものにとっては、その考察の入れる箱は狭い。それゆえ一隅は重箱の隅と化し、灯火は似非貧者の一灯となり、名利食い扶持の擬似同感となっている。

これでは「布仁興義」にはならない。
人々は易きに倣う。当世政治家の仁は予算確保であり、義は美句スローガンでしかない。
それは社会を弛緩させる。つまり人が怠惰になり、愚かになる。逆に緊張ある社会は、たとえは悪いが、真の悪を生み、却って心の善を甦らせ羞悪に抗する義を喚起する。

緊張した社会は、言い方が悪い、態度が悪い、と政権を糾弾しない。弾が飛んできても無駄な議論で延々と会議などはしない。
そんな為政者に習い逆な立場におかれると、また同じことが繰り返される

現実の例えだが、福島原発の被災は近隣住民に避難を指示した。茨城県つくば市は行政がその避難者を同情で迎えなかったと騒がれた。国民は優しさが無いと非難した。
それは以前、茨城東海村の原発事故のとき福島県境では避難する茨城県民を同様な態度で軋轢を生んでいたことの意趣反しと考える意見もあった。
仁が乏しかったから義が起きなかった。


真の善政は「」という。
官を太らせ、国民に金を配るものではない。
孟子は、生まれながら誰にも教えられなくても、その四つの収斂された心(情)は保持している。しかし人間は心が放たれている(亡くしている)。
それは人のあるべき姿(人格)と何ら関係しない附属性価値の欲望に、過剰に翻弄され競い、恨み、悩みを発生させている。その価値とは永遠なる命と持て余す富であり、現代のその具は名誉、地位、学校歴となり、だれもそれを矯正できない。

つまり「」を遂行しようとする人物がなく、西洋の造物主が説く「人間は至高なる存在」を拝借して生命財産を侵すべからぬ価値として汲々と擁護している。
だから家畜を置き去りに避難を指示する。緊急時でも一顧ある余裕もない。あるのは責任が及ばない為に数値のみでの策であり、動植物と共生する継続社会の情緒の理解も無い。
人情は人の為のみにあるものではない、たかだか区切られた地表は人間の為にあるものではない。しかも人の役に立った家族のような動物を忌避する為政の策に情(こころ)は無い

生きていることは何のためか、財なり富は何のために用とするものか、ここに至誠の心で一隅を照らすご家族を紹介して本章の意の一助としたい。

感動や感激は見るものではなく、行為を倣うものだ





吉永君のよき理解者 麻生太郎氏


吉永拓哉さんの示す「布仁興義」

サンパウロ新聞福岡支局長 吉永拓哉氏の筆者への便りを掲載  23・4/23 

≪今年は10月に父親、弟、妹とアマゾンへ行ってきます。
アマゾン川中流域にあるパレンチンスで高拓移民入植80周年記念式典に出席する予定です。
あまり世間では知られていませんが、戦前、日本の国策で「アマゾンに第2の満洲を創る」という壮大な計画がありました。
そのため、政府は東京に高等拓殖学校(略して高拓)を創設し、我が国の優秀な家柄の子弟たち(高級官僚の息子など)を集め、子弟たちに「オノ一本でアマゾンの原始林を開拓する」訓練を行なったのです。
こうして実に300名ほどの高拓生たちがアマゾン奥地の原始林に送り込まれました。
高拓生たちは苦難の末、原始林を切り拓き、新種の麻の栽培に成功しました。
当時、麻はコーヒー袋の原料として重宝され、需要も多かったそうです。






 
          移民渡航


しかしその後、第2次世界大戦が勃発。そのため、高拓生たちの血と汗で築いた財産は、すべてブラジル政府に没収され、高拓生たちは本拠地を失い、散り散りになってしまいました。
それから数十年が経った1961年、私の父親が学生時代にアマゾンを放浪したときにふと手に取った高拓生の帳簿を見ると、かつての高拓生が「無に帰す」と記していました。

恵まれた家庭に育った若者たちがアマゾン開拓を志すも、夢破れ、最後は無に帰るという詩を拝見し、私の父親は「アマゾン移民との交流」を一生の人生テーマとしました。
ちなみに私の弟の名は、この「高拓移民」から字を取り、「吉永高拓」と名付けられました。

300人もいた高拓移民ですが、あれから80年経った現在は、生き残りが5人に満たないそうです。おそらく入植80周年が、高拓1世にとって、最後の周年式典になるでしょう。

こういった日本の歴史は、残念ながらほとんど世に知られていません。
今度の80周年式典もおそらく日本からは他に誰も行かないでしょう。
しかし、こういった先人がいるからこそ今日、日本人は世界から認められる民族となりえたのだと思います。私もブラジル邦字新聞記者としての使命を果たすべく、今年は高拓移民の取材で再びアマゾンへ行ってきます。≫

 

    

吉永氏はフジモリ元大統領が収監された監獄に一人で面会に尋ねています。隣は大統領候補のケイコさん

 

 

現在、彼は少年院退所者の更生援助を援けるために「セカンドチャンス」という活動をしています。

受け入れ運営者も吉永さんと同じ非行入所体験を持つ方々で、建設業関係社長さんなど多くのボランティアが支えています。

父から促されたブラジルですが、まさに彼のセカンドチャンスは、人のためのささやかな行動として若者に引き継がれいてます。

まさに、善い行いを広げて、人々に正しい行為を喚起する。それは彼の背中を魅せる伝え方でもある。

 

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