現在の住まいは一軒家風で、平屋の建物を半分に分け、半分が大家、半分が店子(私)となっている。隣に住む大家Tさんは60代後半の女性で1人住まい。人の良さそうな笑顔を見せ、親切で、お菓子や飲み物、手料理などをしばしば私に恵んでくれる。
Tさんはまた、植物が好きで、家の周りの土面にあれこれ植物を植えている。自分の部屋に面した庭や花壇にホームセンターから購入した草花を植えている。自分の部屋に面した庭や花壇だけでなく、私の部屋に面した庭や花壇にも草花を植える。庭の方は、私の都合(濡れ縁、目隠し簾設置など)により、庭の形を私好みにして以降は遠慮していただいているが、駐車場側の小さな花壇は今でもしばしば手を入れ、花を替えている。
その花壇がある上部の窓が道路側に面し、通行する人から、あるいは向かいの家から部屋の中が丸見えとなるので、そこにグリーンカーテンを設ける計画を引っ越し当初から考えており、ハウス用パイプでアーチを設け、ネットを張り、そこにツル植物を這わすという計画であった。3月にはその設計図もでき、4月に入って、いよいよ着工した。
大家さんは、深さ20センチほどしかないその花壇に草花の他、ハイビスカスやらキンカンやらツバキなどといった木本性の植物も植えていた。さらに、花壇の土を山盛りにして土が床下通気口を塞いでいた。通気口の前の土を除去し、その前にタイルを置いて通風を確保し、ハウスパイプの柱の基礎となるブロックが収まるよう花壇の大きさや形を少し変え、木本性の植物を鉢に移し、アーチを作り、アサガオの種を数個播いた。
アサガオの種を播いたのは4月2日、「大家さん、グリーンカーテン用としてここにアサガオを播いたので、しばらく触らないでください」と伝える。であったが4月13日、夕方家に帰ると花壇には土が盛られ、新しい草花が植えられてあった。アサガオは芽が出ていたのか確認していなかったが、その時見たらアサガオの芽は1つもなかった。私は大いにガッカリ。4月15日、大家さんに声を掛けられ「あなたのアサガオ、雑草と思って抜いてしまったかもしれない、播き直してね」とアサガオの種を頂く。「やはり、そうであったか」と私は残念。でも、大家さんは好意でやっていること、文句は言えない。
高さ15センチ(土は山盛りされ奥側の深さは20センチ程)、奥行き40センチ、長さ180センチ程の小さな花壇に、大家さんは異なる8種類の草花を植えてある。大家さんは種を播くなんてことをしない。既に花の咲いているポット入りの草花を植える。
私もそういったポット入り草花を買うことがあるが、しかし、たいていは種を播く。種を播いたら芽が出るかどうかの楽しみがあり、芽が出たら成長するかどうかの楽しみがあり、成長したら花が咲くかどうかの楽しみがある。最初から花の咲いたものを植えるとそれらの楽しみが無い。どこかの誰かが咲かせた花を見るだけの楽しみしかない。
介護施設のバイトをしている時、「Aが花壇に草花を植えるとしたら、種を播くか、既に咲いているポットのものを植えるか?」と可愛いA嬢に訊いた。彼女もまた、「苗を植える」と答えた。『察しない男、説明しない女』の中に「男は結果を、女は過程を重視する」というのがあったが、どうやら、花に関してはそうとも言えないようだ。
種を播いて、育て、作物を得るという楽しみを出来そこない農夫の私は感じている。それはまた、生きていることそのものが楽しいということに繋がらないだろうか。
記:2017.5.12 島乃ガジ丸
美味しい鉈
2015年11月に、声を掛けられ知合いになったTさん、元公務員で今は悠々自適の生活。悠々自適でもボンヤリはしていない、各種ボランティアに参加するなど社会活動を続けながら、自宅の傍に広い畑があり、その畑にはたくさんのコーヒーの木が植えられていて、収獲したコーヒー豆を業者に販売しているという農夫でもある。
同年12月、Tさんの畑を訪ねる。畑はコーヒーの木が中心だが、他にも様々な作物が植えられてあった。私が気になったのはタバコ、毒性の少ないキャッサバ、そして、Tさんに教えられるまでそうとは知らなかったナタマメ、ナタマメは莢を着けていた、でっかい莢だった。その日、キャッサバの茎とナタマメの莢を数個頂いて帰る。
ナタマメがどういうものか知る前に、それが福神漬けの材として使われているということは、近所の先輩農夫Nさんからも、友人のE子からも聞いていた。「あー、福神漬けに入っているあの蝶々みたいな形をしたものか」と、何年も、あるいは十何年も前に食べた福神漬けを思い出しながら、2人の話から想像できた。「蝶々みたいな」という私の喩えが妥当かどうか判らないが、豆だけではなく、莢ごとスライスして使われている。
莢ごと食せるのはおそらく未熟のものだと想像できる。何せ、Tさんから頂いた完熟の莢は余りにも堅くて、食い物になりそうな気配は微塵も無かった。ということで、Tさんから頂いたナタマメの莢は、種を取り出してポットに播いて苗を作ることにした。
年が明けて2016年の3月、近所の先輩農夫Nさんからもナタマメを頂いた。Tさんからナタマメを頂いた数日後、Nさんと会った時、その旨話すると、
「私もナタマメは持っているよ、完熟したら持ってくるよ」と言っていたのを、忘れずに持ってきてくれたのである。Tさんから頂いたナタマメの一部は既に苗になり、畑の裏側、原野との境界に植えられているが、豆はまだ少し残っていた。
Nさんのナタマメの莢もTさんのと同じく、余りにも堅くて、食い物になりそうな気配は微塵も無い。であるが、よく閃く私は、今回もまた閃いた。「煮豆だ」と。
Nさんのナタマメ、莢から豆を取り出し、少し残っていたTさんのナタマメと一緒に煮豆にした。1晩水に漬け、塩煮と甘煮の2種類の味付けで煮豆にした。
ちなみに、鉈を広辞苑で引くと「短く厚く、幅の広い刃物。薪などを割るのに用いる」とのこと。鉈と言うと「鉈を振るう」という言い回しもすぐに思い浮ぶ。「鉈を振るう」は「思い切った処理をする。多数の者を罷免したり、予算などを大幅に削ったりする場合にいう」(広辞苑)とのこと。バッサバサと切り捨てるイメージが浮かぶ。
さて、鉈などと恐ろしげな名前の豆であるが、煮豆にしたナタマメは、その大きさは豆の中では大きい方のウズラマメよりもさらに大きく、恐ろしげな名前にふさわしいものではあったが、大きいので食べ応えもあり、塩煮も甘煮も普通に美味しかった。
ナタマメ(鉈豆):果菜
マメ科の蔓性一年草 原産は熱帯アメリカ 方言名:不詳
名前の由来、資料がなく正確には不明だが、その莢を見れば一目瞭然、容易に想像はつく。長さ30センチ程にもなる大きな莢が鉈のような形をしている。
記:2017.5.6 ガジ丸 →沖縄の飲食目次
何年か前、確か、維新の会の提起だったと覚えているが「道州制の導入」というのが話題になっていた。維新の会の考え方や当時の代表の政治姿勢などについて、私は好みではなかったが、「道州制の導入」については諸手諸足を上げて賛成だった。
道州制がいかなるものかについては、アメリカの州制度のようなものであろうと勝手に想像していた。勝手に想像して諸手諸足を上げていたわけである。後期オジサンという年齢なのにそんなことではいけないと思い、今回少し調べてみた。
『現代用語の基礎知識』の中、地方自治という大きな括りの中に記載があった。それを読むと、道州制についてはだいぶ前から議論されており、具体的には、
「2006年2月の「道州制のあり方に関する答申」において全国を9、11、13の道州に分割する三つの区割り案を示している。」とある。ここまで読んで「あーそういえばそうだ、道州制の話はもっと前からあったような気がする。」と思い直す。1週間が2日で過ぎてしまうように感じている後期オジサンは、だいぶ前のことでも数年前と勘違いしてしまう。先日、友人の孫娘に久々に会って、「もう5年生だよ」と聞いて驚いたばかりだ。「オメェ、ついこのあいだ産まれたばかりじゃなかったっけ!」なんて。
先週土曜日(4月29日)、地道に平和運動を続けている宜野湾市民フォーラム木曜会が主催する「今、何をなすべきか」第三回市民シンポジウムの講演会及び討論会があり、辺野古新基地建設反対の立場である私は、第一回、第二回に続き今回も参加した。
今回第三回の主題は「住民保護条例の課題と展望」で、県が定める条例によって日米地位協定の理不尽な不平等を打ち破ることが出来るかどうかについて。
憲法学者である講師の小林武氏によればその可能性はあるらしいが、その主題を聞いた時すぐに私は道州制を連想した。沖縄が州であれば、その州がアメリカのような独立性の高い州であれば、不平等を打ち破る可能性はもっと大きかろうと思った。
そう思ったのは私だけではなくて、その日のシンポジウムの質疑応答の中で、参加者の1人から「沖縄が単独州であれば・・・」との質問が出された。そう質問した参加者は私のすぐ前に座っていた70代男性で、休憩時間に彼に「何年か前に話題になった道州制は今どうなっていますか?」訊いた。「残念ながら立ち消えになっている」とのこと。それを聞いて私も残念。それでも、水面下では進んでいるかもと希望は持ち続けたい。
そんなことがあって、道州制を調べてみようと思ったわけだが、
『現代用語の基礎知識』にはさらに、道州制についての問題点も書かれてある。「国と道州、市町村の権限や財源をめぐる問題、各道州間の財政力格差の調整、さらに権限を手放すことを迫られる中央省庁の抵抗などが予想される」とのこと。
道州制になって、沖縄州になったなら辺野古新基地もどうにかなるのではないかと私は思ったのだが、それは簡単なことではないようだ。「権限や財源をめぐる問題、各道州間の財政力格差の調整」などについては、中央集権思考の荒れ心臓総理の下ではがんじがらめの道州になりそうだが、アメリカがなんとか上手くやっているし、学者と志のある政治家が集まって知恵を出せば、独立性の高い道州制も可能だと思う。しかしながら、「中央省庁の抵抗」は、これが最も大きな壁だと思われる。権力を手放さないだろうな。
記:2017.5.5 島乃ガジ丸
高校生の好物
去年(2016年)12月に越してきた新居は、平屋の一軒家風の造りで、半分が大家さん、残り半分が店子という形になっている。大家さんは60代後半の独身女性。親切な人で、時々飲物やお菓子を恵んでくれる。時には手作りの料理も差し入れする。
今年3月、その大家さんから手作りのポーク玉子を頂いた。ポーク玉子とは料理名、というかメニュー名、食堂のお品書きに並んでいるものの1つ。ポークとはポークランチョンミートの略で、沖縄で一般にポークと言えば豚肉では無くこれを指す。玉子は玉子料理で、多くは塩味の玉子焼きだが、店によっては目玉焼きの場合もある。
ポークランチョンミートについては既に2004年8月11日付記事で紹介している。その中でも私は「味の濃い食い物があまり好きではなかった私は、ポークもたまに食いはするが、好物では無い。缶詰から出した塊をスライスした2、3切れで食傷する。」と書いてある。「味の濃い食い物があまり好きではなかった私」はその時まだ20代前半、オジサンとなってからはさらに味の濃いものが苦手になり、ポークランチョンミートを自分で焼いて食うなんてことはもう10年以上やっていないはずだ。
市販の弁当にも「ポーク玉子弁当」なるものがある。私はもちろん、その弁当を買ったことも食べたこともない。ただ、市販の弁当の他の種類、ゴーヤーチャンプルー、フーチャンプルーとかには小さく切られたポークが入っていることがある。そのポークは小さいので特に気にならず食べているが、ポークの塊はたぶん、10年は食べていない。
沖縄風玉子焼きも実は、後期オジサンとなった今の私は好物ではない。沖縄風玉子焼きとは塩味で、多めの油を用いフライパンで焼いた薄焼き。食えないことはないのだが腹に重たく感じる。自分で沖縄風玉子焼きを作って食うことも10年くらいやっていない。
沖縄風玉子焼は長く作っていないが、和風の厚焼き玉子は、もう2、3年はご無沙汰だが、たまに作る。高校生の頃は「何だこれ、お菓子みたいじゃないか、ご飯のおかずにはならねぇよ」と思っていた和風の出汁巻き玉子の方が今ではずっと好きである。
食堂のメニュー、または、弁当のメニューにもなっているポーク玉子、料理と言えるほどのものではない。ポークランチョンミートの缶詰を開け、中身を薄くスライスしてフライパンに油を敷いて焼き、沖縄風玉子焼きを添え、少しの野菜炒め、またはサラダを加え1皿とし、それにご飯とスープ(定食と書いていなくても付く)を添えるだけ。
高校の近くにある食堂にそのメニューはあったように記憶している。私はそれを食べた記憶がないので、もしかしたら無かったかもしれない。でも、同級生たちはポークランチョンミートが大好きで、私も好きだった。肉体に脂が必要な青春時代、脂たっぷりのポークも、油を含んだ沖縄風薄焼き玉子も高校生の好物だったと思う。
ここ4、5年、あるいはもう少し前くらいから私の台所でフライパンの活躍する機会は少ない。去年12月に越してきた新居、越して約5ヶ月になるが、フライパンが表に出たのは5~6回、平均月に1回程度。同じ頃から私の食卓でマヨネーズ、ケチャップ、ソースなども活躍する機会は減り、新居に越してからは、家にそれらは置いていない。私の消化器官が衰えているのであろう。枯れたオジサンになっているのであろう。
さて、大家さんから頂いたポーク玉子、私はポークも玉子も「せっかくの好意、全部食べなきゃ」と努力はしたのだが、やはり1回で全部は無理だった。その日の昼飯に半分、残り半分は夜、酒の肴にして消費。枯れたオジサンは益々枯れて行くのだろう。
ポークランチョンミート、ポークは豚肉、ミートは肉という意であることは分かるが、ランチョンって何だ?と調べると「昼食」(広辞苑)のことらしい。別に「軽い」という意もあり、「豚肉の軽い肉」ということになる。確かにランチョンミートは肉そのものではなく、澱粉質のようなものが混ぜられていて「軽めの肉」にはなっている。が、あれこれスパイスや脂、塩も混入されていて、味は濃い。なので、私は苦手。
ポークランチョンミートは『沖縄大百科事典』にも載っていて、「デンマーク産のポーク缶詰の名称、県内で消費される食肉加工品のなかでは最も多い」とある。スパムとかチューリップとかの銘柄はたぶんデンマーク産。ホーメル、コープなど県産品もある。
記:2017.4.29 ガジ丸 →沖縄の飲食目次
沖縄のオバサン
沖縄のローカルラジオ番組である「民謡でちゅううがなびら」が好きで、高校生の頃から聴いている。今は平日の午後4時からの開始だが、数年前までは平日の午後3時からの開始だった。平日の午後3時なので高校生の頃だと春休みとか夏休みとかに聴いていたのだと思われる。浪人生(宅郎だった)になると聴ける機会は多くあった。
私は、沖縄民謡が好きというよりも興味があった。沖縄に根付く音楽、今でも新しい民謡がどんどん生まれている音楽、土着の気分に合う何かがあるはずだ。民謡番組の「民謡でちゅううがなびら」は民謡が多く流れる。ところが私は、「民謡が大好き」というわけではないので、民謡が流れている時間、熱心に耳を傾けていたのではない。私が熱心に耳を傾けていたのは民謡が流れていない時間、出演者たちのユンタクの時間だった。
高校、浪人の頃は出演者が誰だったか覚えていないが、大学を卒業して沖縄に帰ってからは、配送の運転手をしていたこともあってラジオを聴ける環境にあり、「民謡でちゅううがなびら」もよく聴いていて、出演者も上原直彦、八木政男、北島角子であったと覚えている。ただ、八木政男、北島角子は子供の頃から知っている。2人とも俳優。
子供の頃、テレビで沖縄芝居を放送する番組があった。確か、「水曜郷土劇場」とかいう番組名だった。はっきり覚えてはいないが、八木政男も北島角子も時々その番組に出演していたのではないかと思う。最近観たDVD(図書館から借りたもの)では『丘の一本松』に2人共出演していた。そのDVDは舞台演劇を撮影したもので制作年月日は不詳だが、おそらく、画面の北島は60歳超えていて、見事なオバー(お婆さん)役を演じている。私が小学生の頃なら、北島は30代半ばだ。その頃の印象はよく覚えていないが、北島角子は私にとってずっとオバサンだった。見事な沖縄のオバサンであった。
会社をリストラされて農夫になった2012年夏からは「民謡でちゅううがなびら」をほぼ毎日聴いている。放送時間が午後3時から午後4時へとなったのはその後だと記憶している。そして、去年のたぶん今頃から、「民謡でちゅううがなびら」に北島角子の声が出なくなった。「歳が歳だけに体のことを考えての引退かな」と思った。そして、
1月ほど前の今年(2017年)4月10日、午後4時、私はその日、介護施設のバイトで、デイサービスにいるご老人達を宿泊施設へ送り届けるため車で待機中、車で待機中はいつもラジオを点けている。午後4時になると「民謡でちゅううがなびら」に周波数を合わせる。一緒に乗るご老人方の多くも民謡が大好きだ。「民謡でちゅううがなびら」はいつものテーマソングで始まったが、その後の出演者の声はいつものようではなかった。メインの上原氏から「北島角子さんが亡くなった」旨の報告があった。
北島角子が私にとって身近な人だったなら「煩ぇオバサンだ」と、自由大好き私はきっと思うだろうが、それと共に、その凛とした姿勢と言葉に「面白ぇオバサン」だとも思ったに違いない。もしかしたら仲良しになったかもしれない。私にとってはいかにも沖縄の元気なオバサンというイメージのまま4月9日他界。享年85歳とのこと。合掌。
記:2017.5.5 ガジ丸 →沖縄の生活目次