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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

毎週妻が浮気します

2007年03月09日 | 通信-社会・生活

 このあいだ、ワイドショーかなんかで耳にしたニュースに「Hする相手と、その他の付き合いをする相手を別々にしている若い女が増えている」というのがあった。「あー、何てこと!」と私は感嘆する。「私が若い頃にそういった若い女がいっぱいいれば、私はもっと、もっとずっと幸せだったに違いない。」と思うのである。
 「抱きたい女」と、「一緒にいたい女」が別々だと感じている男は、きっと世間にはたくさんいるはずである。私はそれがために苦悩してきた。それがために結果として、結婚できずにいると言っても過言(その他の理由が大きいかもしれないが)では無い。

 「抱きたい女」スカーレットは、「一緒にいたい男」アシュレーに惚れていたが、アシュレーは「一緒にいたい女」メラニーと結婚する。で、スカーレットは「抱かれたい男」レッド・バトラーと結婚する。アシュレーとメラニーは幸せに暮らしたが、スカーレットとレッドは後に離婚する。・・・なんて話だっけ、『風と共に去りぬ』は。

 前提として、私が「抱かれたい男」では無く、「一緒にいたい男」とする。どちらかというと、その逆の方が嬉しいのだが、「どちらにも当てはまらない」と判定されると、とても悲しくなるので、少し見栄を張って、そういう前提としておく。
 という私が結婚した相手は、私としては「一緒にいたい女」であり、なおかつ「抱きたい女」でもあったのだが、彼女から見る私は「抱かれたい男」では無く、「一緒にいたい男」であった。彼女はまた、世間の男から見れば「抱きたい女」であった。
 なので、彼女はモテル。彼女は、私には抱かれたいと思わないので、抱かれたい男と毎週会っている。で、私は言う。「毎週妻が浮気します」

 そんな結婚生活が続いたある日、毎週浮気している妻が言う。
 「ねぇ、あなた。私、妊娠したみたい。」
 「えっ、できたのか、ホントか?病院行ったか?」
 「うん、今日行ってきた。三ヶ月だって。」
 「そりゃあ嬉しいな。大事にしろよ。ところで、誰の子供だろう?」
 「三ヶ月前ならきっとAさんかBさんね。ちょうど代わった頃よ。」
 「うーん、Aさんなら体格いいし、スポーツマンタイプだな。Bさんならどうかな、文学者とか芸術家タイプかな。どちらにしろ楽しみだな。」

 私にすれば、妻が「抱きたい女」でもあるので、その妻と全く何も無いというのは淋しい。なので、結婚した相手とは二十代は月に一回、三十代は二ヶ月に一回、四十代は半年に一回はHする義務があると法律で決めていただく。
 「今日は女房と月1回の日だ。会社を早引きして、早く帰って、何か美味しいもの作ってあげよう。ワインも買わなくちゃ、バラの花束も買っておかなきゃあ。」などと、その日は夫婦にとって、とても大切な、楽しい日となる。幸せである。

 「ねぇ、だけど、あなたの子供の可能性もあるわよ。」
 「うん、そうだったらさらに嬉しいなあ。俺に似て、見た目はともかく、心優しい子供が生まれるだろうなあ。」
 なんていう会話をしつつ、我々は幸せな結婚生活を送るのであった。

 テレビドラマを全く観ない私だが、タイトルくらいは知っている。今、フジテレビでやっているドラマのパート2があるとしたら、そのタイトルは『毎週妻が浮気します』になるかもしれない。パート3があるとしたら、『今月妻と浮気します』になる。
         

 記:2007.3.9 ガジ丸


感謝の祈り『久高島オデッセイ』

2007年03月02日 | 通信-音楽・映画

 先週土曜日(2月24日)、『久高島オデッセイ』という記録映画を観に行った。上映している映画館は毎度御馴染みの、私の大好きな桜坂劇場。桜坂劇場だからこその地味な映画。利益が出るかどうかだけで上映を判断する大手のシネコンにはできないこと。
  『久高島オデッセイ』は地味ではあったが、深い映画であった。特に劇的な出来事があるわけではない。久高島の日常を淡々と映しただけ。
 「久高島と言えば、イザイホー」との書き出しで、イザイホーの大雑把なことを既に沖縄の雑談『  映画を紹介するちらしには「(大重監督は)人間として生きることの本質を悟り、「生きる」とは”食うこと”、”排泄すること”、”希望を持つこと”に集約されると気づき始めた。」とあった。これは、この文章を書いた人がおそらく、言いたいことの多くを端折っているのだと思う。”食うこと”、”排泄すること”が「生きること」については私の感覚と同じなのだが、もう一つ揚げるとすれば、”希望を持つこと”を、少なくとも私は選択しない。映画を観た限りでは、もう一つは”祈ること”になると思う。

 今、これを書いているのは『久高島オデッセイ』を観に行ったその日の2月24日。映画を観て、トークショーを聴いて、デパートに行って、日本酒と肴(真ダコの刺身など)を買って、バスに乗って、車窓から差し込む陽差し(暑かったぜ)に汗をかいて、家に着いたのは午後2時半。一服して、窓から差し込む陽差しに「暑いぜ!」とブツブツ言いながらキーボードを叩いている。部屋の気温は26度。
 部屋の気温は26度だが、陽差しの下はもっと暑い。桜坂劇場からデパートへ向かう途中の国際通り、行き交う人々の多くは上着を脱いでいた。観光客らしき若い女性のグループが、「暑いねー」、「夏みたい」と会話していた。ウチナーンチュの私はしかし、「お嬢さんたち、それは甘いぜ。沖縄の夏はこんなもんじゃないぜ。沖縄の夏の太陽はこんなに優しくはないぜ」と心の中で言う。この日の陽差しは「春みたい」なのである。

 いやいや、春でも夏でも、あるいは秋でも冬でもいいのである。春や夏や秋や冬が存在していることへ感謝せねばなるまい。地球温暖化は大きな問題だが、将来の不安の種にもなっているが、地球はまだ多くの生命に満ち溢れている。私個人が存在していることにも感謝はするが、それは砂漠の砂の1粒のようなもの。空が存在し、空気があり水があり、太陽があり月があり、山があり海があり、草木があり動物たちがいる。そういったもの全ての存在に感謝せねばなるまい。久高島の人々の祈りは、「森羅万象が存在していることへの感謝の祈り」なのではないかと、私は映画を観て、感じたのであった。

 なお、久高島ほど頻繁では無いが、神への祈りは沖縄島の日常にもある。私の母は月に2度、仏壇とヒノカン(火の神)へ供え物をし、何やら祈っている。街のあちらこちらにはウガンジュ(御願所)もある。それらのことについては、いずれまた別項で。
          
          

 記:2007.2.24 ガジ丸