25年ほども前になるが、大学を卒業して沖縄に帰った頃、宜野湾市嘉数に友人のTが住んでいた。新婚のそのアパートにたびたびお邪魔して、そこからすぐ近くに嘉数高台公園という名の公園があることを知った。公園の前を車で通ったことも何度かあり、そこの看板に『京都の塔』と書かれてあることも知る。○○の塔と都道府県名の名の付いた慰霊塔は、そのほとんどが糸満市の摩文仁の丘にある。で、「何でこんなとこに」とその頃から不思議に思っていた。にも関わらず、そこを訪ねることは無かった。
沖縄戦の資料を読んで、嘉数高台が激戦地だったということを知り、そこが家から近いということもあって、「沖縄戦の戦跡巡り」の一番目とし、先月、初訪問した。
米軍は、3月26日に慶良間列島に、4月1日には沖縄島に上陸する。沖縄島の上陸地点は読谷村から北谷町にかけての海岸。そこから北進と南進に分かれる。沖縄島北部には日本軍は少なく、大きな抵抗も無く、20日にはほぼ制圧する。
ところが、日本軍の主力がある南部では大きな抵抗に会う。その最初の激戦地が嘉数高台となった。4月5、6日に緒戦、10日に第二次攻撃、4月19日に総攻撃、そして、24日になって、嘉数高台は米軍の手に落ちる。
激戦地となった場所は標高70mの西嘉数高地、標高92mの東嘉数高地の北西から南西に走る約1キロの稜線で、そこは守備側に有利な自然の要塞であったようだ。ために、米軍は手こずり、日米共に多くの戦死者を出したとのこと。
嘉数高台は公園として整備され、今は市民の憩いの場となっているが、そこには京都の塔、嘉数の塔、青丘之塔、実際使われたトーチカなどの戦跡が残されている。
慰霊の塔の多くが摩文仁の丘にあるが、嘉数高台の守備隊には京都出身者が多かったため、この地に京都の塔がある。その碑文には「沖縄住民の運命をともにされたことはまことに哀惜に堪えない」と、沖縄住民の犠牲を慮る一文も添えられてある。
嘉数の塔は、犠牲となった嘉数地区の住民の慰霊塔。当時、嘉数地区には695人の一般市民がいて、その内の374人が犠牲となった。過半数である。
青丘之塔は、沖縄戦で犠牲となった韓民族出身者の慰霊塔。軍人、軍属として強制連行された人々である。その数、386人と記述されている。強制連行された人数が明記されているのは全国の数多くある慰霊塔の中でも珍しいとのこと。また、強制連行された軍属の中には慰安婦も入っているとのこと。
記:ガジ丸 2008.8.9 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行