ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

オキナワハクセンシオマネキ

2013年08月02日 | 動物:魚貝類

 潮を望む

 潮という字を広辞苑で引くと5つの意味があり、良く知られているのは「潮の満ち干」の潮、「潮の流れ」の潮、それから「潮時」の潮があり、これらは私も知っている。
 潮時とは好都合の時、良い機会ということで、「もう諦めろバカ、相手は妊娠しているんだぞ、ここいらが独身を卒業する潮時だぜ」なんていう風に使う。

 「望む」という言葉を広辞苑で引くと3つの意味があり、「遠くからながめやる」、「願う。欲する。期待する」、「仰ぐ。慕う」とある。1は一望、2は希望、3は望郷などといった熟語がある。「丘に登ると眼下に町が一望できた。ここも漁師町、帰りたいと希望している故郷の景色に良く似ていた。望郷の念がさらに増した」などと使う。

  表題の『潮を望む』そのものは広辞苑に無いが、「潮」と「望む」それぞれの意味を組み合わせていくつかの文が作れる。例えば「潮時を期待する」といったもの。「待てば海路の日和あり」みたいな意味になる。季節季節に天気と畑を眺めながら「種播きの潮時、収穫の潮時」を待っている。農夫の私にとってはそれが『潮を望む』の第一義。

 シオマネキを広辞苑で引いたら「潮招き」という漢字表記もあったが、別に「望潮」ともあった。望潮と書いてもシオマネキと読むようだ。潮の引いた砂浜で、シオマネキは大勢でハサミを挙げ、沖に向かってオイデオイデしている。「潮が満ちてくるのを願って」いるのであろう。彼らとってはそれが『潮を望む』の第一義だと思われる。

 
 オキナワハクセンシオマネキ(沖縄白線潮招き):甲殻類
 スナガニ科の甲殻類 琉球諸島以南、南太平洋に分布 方言名:カタチミガニグヮー
 名前の由来は『沖縄海中生物図鑑』に「甲は淡青色で白い横線が数本走る」とあり、白い線なのでハクセン(白線)なのであろう。オキナワは、日本では琉球列島以南に分布することからであろう。シオマネキは広辞苑にあり、「干潮時に大きな鋏を上下に動かすさまが潮を招くように見えるからいう」とのこと。ちなみに、シオマネキは望潮とも書く。
 方言名のカタチミガニグヮーも解りやすい。カタは片、チミは爪、ガニは蟹、グヮーは小と書いて「小さいもの、可愛らしいもの」を表す。片爪の小さな蟹となる。
 その爪、蟹を食用とする場合は爪でいいが、学問的には鋏(はさみ)と言う。雄の鋏が片方だけ大きく、その鋏を上下に大きく振る。ちなみに、雌は左右とも小さい。
 甲幅18ミリていどの小さなカニ。河口や内湾の比較的硬い砂泥地に生息。

 記:2013.7.21 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『沖縄釣魚図鑑』新垣柴太郎・吉野哲夫著、新星図書出版発行
 『水族館動物図鑑』(財)海洋博覧会記念公園管理財団監修・発行
 『磯の生き物』屋比久壮実著・発行、アクアコーラル企画編集部編集
 『沖縄海中生物図鑑』財団法人海中公園センター監修、新星図書出版発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『サンゴ礁の生き物』奥谷喬司編著、株式会社山と渓谷社発行


天啓の音楽、人間の音楽

2013年08月02日 | 通信-音楽・映画

 先週、「なんくるみー畑」の話を書いて、静岡のまり子さんのことを思い出して、久々に彼女のブログを覗いた。去年は4コママンガを多く載せているが、今年は1つの記事しかない。彼女はブログより先端をいくツイッターに移行しているみたいであった。
 まり子さんを思い出したついでに鈴木亜紀も思い出した。鈴木亜紀はシンガーソングライターピアノ弾きで、一時私が惚れた女性。で、彼女のHPも久々に覗いてみた。彼女もツイッターをやっているようだが、ブログはこれまでと変わりなく時々更新されている。これまでと変わりなく貧乏暮らしのようだが、お元気そうで何より。

  私が鈴木亜紀に惚れていた、というのはホント。彼女のどこに惚れたか?・・・彼女は見た目可愛いけれど美人というほどでは無い。深く長く話をしたことがないので彼女の性格が良いということも言えない。もっとも、私は見た目で女に惚れる男だと思っている。見た目はでも、美人かどうか、おっぱいが大きいかどうかなどでは無く。大雑把にいえば表情。表情は澄ました顔でも笑い顔でもその人の心を表現していると思う。なので、深く長く話をしたことがなくてもその人の性格に惚れるという可能性は十分にある。
 しかし、私が鈴木亜紀のどこに惚れたかはたぶん、ここであろうと判っている。彼女に惚れたのは彼女のライブを初めて聴いた時だ。私は見た目(可愛いけど)では無く、彼女の歌に惚れている。「こんな詩を書いて、こんな曲をつけて、こんな風に歌う人は間違いなくイイ女である。稀に見るイイ女である」と思ったのだ。で、惚れた。
          

  去年の秋、鈴木亜紀のライブが実家の近くのライブハウスであった。そのライブハウスの前を通りかかった時に私はそれを知った。が、だいぶ迷ったけれど、ライブには行かなかった。その年の夏に仕事が休職となり、収入源を失くした私は生活費削減中で、ライブを聴く金を惜しんだのであった。ちなみに、生活費削減は、30年以上続けてきた模合(モアイ:月1回の飲み会)を辞める、ビールが発泡酒になる、髪にも洗濯物にもリンスを使わない、総菜は3割引き~半額になってから買うなどといったもの。
 そういえば、6月にはEPOのライブもあった。EPOについては2007年8月のガジ丸通信に書いている。彼女の音楽の事を私は「まどろみ音楽」とし、「スグレモン」と評価している。そのEPOのライブ、しかも、EPOが沖縄に移住しての初ライブだ。沖縄に住んで生まれたEPOの音楽、とても興味を持ったが、やはり行かなかった。
          

  私は音楽を正式に勉強したわけでは無いので、学問的にあれこれ評価することはできない。私の言うことはまったく私の勝手な感性による、と言い訳して勝手なことを言うが、EPOの音楽は「天啓の音楽」、鈴木亜紀の音楽を「人間の音楽」と捉えている。
 「天啓の音楽」は精神が聴き、「人間の音楽」は心が聴く、と前置きしてさらに生意気なことを言わせて貰うと、私の感性によれば、「天啓の音楽」はモーツァルト、「人間の音楽」はベートーヴェンである。どちらの音楽も私は好きである。
 EPOのまどろみ音楽を聴いた時、彼女に「抱かれたい」気がした。鈴木亜紀のある1曲を聴いた時、彼女を「抱きしめたい」と思った。つまり、「抱かれたい」EPOは「天啓の音楽」で、「抱きしめたい」亜紀は「人間の音楽」となる。私の場合、だ。
          

 記:2013.8.2 島乃ガジ丸