先週、野暮と粋の話を書いたが、その続き。
先ずは言葉の説明(広辞苑による)から。「野暮」は「世情に通ぜず人情の機微をわきまえないこと。特に、遊里の事情に通じないこと」(全文)。
「粋」は「人情の表裏に通じ、特に遊里・遊興に関して精通していること」(第二義抜粋)のこと。つまり、「人情の機微」をわきまえていると粋、わきまえていないと野暮、あるいは、「遊里の事情」に通じていると粋、通じていないと野暮となる。
で、私は「人情の機微」においても、「遊里の事情」においても全くの野暮であると前回書いたが、これについては自他共に反論は無い。
「粋なオジサン」または「粋な爺さん」と呼ばれるような者に私はなりたいと思っているが、粋はたぶん、私のような生き方をしていては身に付かない。「人情の機微」についてはこれからの努力で何とか通じることができても、「遊里の事情」についてはもはや手遅れ。いまさらそれに通じるなんて、ほとんどその意欲も元気も無い。
無粋な私に比べ、大阪市長はきっと粋な人に違いない。遊里の事情、風俗の事情に詳しいと思われる。風俗を商売にする女はいつの世にでもどこにでもいる、それを利用したい男だっていつの世にもどこにでもいる、社会の裏とはそんなもの、なんてことをよく御存じなのであろう。「人情の表裏に通じ、遊里・遊興に精通している」に違いない。
「粋な人」の「な」を取り除いた「粋人」という言葉がある。「いきびと」では無く「すいじん」と読む。粋人には3つの意味があって、広辞苑によると以下、
1、風雅を好む人。
2、世態・人情に通じた人。さばけた人。通人。
3、花柳界・芸人社会などのことに通じ、行動がおのずからその道にかなっているような人。
とある。私がこの先努力して粋人になれるかどうか検証すると、「3」の意味でははとうてい無理、「2」は奮闘努力をすれば到達できるかもしれない。「1」は、これは多少の努力をすれば何とかなりそう。風雅にもいくつか意味があって、「みやびなこと」という意味ではとうてい無理だが、文芸という意味では、私は文章を書いている。このまま書き続けて行けば、いつか私の作文も文芸の域に達するかもしれない。
さて、夢の話はこれくらいにして、現実の話。
粋な人である大阪市長さんはまた、これは私もそうであると自負しているが、正直な人だと思う。若い男が風俗産業を必要としていることは事実だと思うし、沖縄在の若い兵士たちが下半身の欲求を持て余していることも当然の事と私も思う。彼らに必要とされて風俗産業が存在し、お姉さんたちも生活ができている、はずだ。
遊里の事を悪所とも言う。下半身の欲求を持て余していた若い頃、私も悪所に通ったことがある。2度だけある。たった2度の経験だが、結論としては「好きでも無い女の裸に触れてもちっとも楽しく無い」だった。女であれば誰でも良いという男もいるだろうが、しかし、私は言いたい。「恋せよ若い兵士達」、その喜びが数段上。
記:2013.6.21 島乃ガジ丸