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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

銀の花穂の向こう

2010年12月03日 | 沖縄01自然風景季節

 銀の花穂の向こうに青い海が見える。カメラを構える私の後方に夕日がある。銀の花穂が微かにオレンジ色を帯びている。・・・という写真を撮りたくてこの半月、機会を窺っていたのだが、仕事が終わってからだと夕日に間に合わず、休みの日は天気が悪くて、ずっと撮れずにいた。黍刈りはもう始まっている。年明け2週間が勝負、どうなるやら。
 私の愛するシンガーソングライター鈴木亜紀の作品『海が見えるよ』の冒頭に、「海が見えるよ、知らない海が、見渡す限りの、金の稲穂の向こう」という歌詞がある。『海が見えるよ』は優れた情景詩であり、半農半漁の村の景色をくっきりと目に浮かばせてくれるのだが、それは日本であること、そこに暮らす人々のことまで想いを至らせるのだ。
 さて、銀の花穂とはサトウキビの穂のこと。沖縄には米の水田がほとんど無い。伊平屋島とか石垣島とかにあると聞いているが、沖縄本島に暮らしていると金の稲穂の景色を見ることはほとんど無い。鈴木亜紀の歌う日本の情景を、沖縄では感じることが難しいのである。ところがどっこい、沖縄には沖縄の情景、銀の花穂がある。銀の花穂は、他府県には無かろう。これはぜひ、ガジ丸HPで紹介しなければならないと思ったのだ。
 今週の水曜日、現場が東風平村(コチンダソン)にあった。そこから車で10分も走ると海が見える。そこは具志頭(グシカミ、以前は沖縄読みのグシチャンだった)という村になる。サトウキビ畑もあるだろう。ということで昼休み、海の見えるサトウキビ畑を探しに具志頭まで行った。それは、すぐに見つかった。車の屋根に乗り、写真を撮る。
 夕日で無いのは残念だが、銀の花穂の美しさは出ていると思う。
     

 記:ガジ丸 2004.12.31 →沖縄の生活目次
参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


そびえ立つ珊瑚の壁に挟まれて、水色の向こう、空を見上げた

2010年12月03日 | 沖縄01自然風景季節

 はるか遠い昔の夏休み、中学三年生の従妹が、遊び仲間(男女数人)と二泊三日のキャンプに行くことになった。この仲間たちは(従妹も含めて)いわゆるアシバー(遊び人、ウチナーグチで「遊び」はasibiと発音され、これが英語のようにerを語尾に付けてasiberとなって、~する人という意味になる。この場合は「遊ぶ人」では無く、「遊び人」となる)と世間からレッテルを貼られている不良少年少女たちだった。
 従妹の母親は、心配のあまり涙を流し、鼻汁を垂らし、大声をあげたり、すすり泣いたりと激しく取り乱れた。そして、当時近くに住んでいた私が呼ばれた。もはや正しい判断力を無くしていた彼女が、私の手を取って頭を下げた。私に、彼らの引率を依頼した。
 「何で俺が!」と私が思ったのも無理の無いことだった。なぜなら、不良少年少女たちの乱交パーティーを阻止できるほどの威厳も腕力も、私は備えていなかったし、明るく楽しい健全なキャンプに導くことができるほどの知識も知恵も経験も、私には不十分であった。それは当然のことであった。その時、私もまた未成年の、高校生だったのだ。
 いくら頭を下げられても、できない事はできない。と私は言いたかったのだが、結局は承諾した。伯母に泣いて頼まれたのでは断れなかった。というのは天使の理由で、正直に言うと悪魔のような下心もあった。実はキャンプに行く従妹の友人の中に、かわいい子が一人いたのだ。ひょっとするとその娘と、胸がときめくような、何かいいことがあるのではないかという淡い期待があったのだ。乱れたキャンプなら、いっしょに乱れさせてもらおうと、ほんの少しだが、思ったのだった。
 よく晴れた日だった。場所は沖縄本島北部の西海岸にある瀬良垣ビーチ、我々は、ビーチ内にある海水プール傍の空き地にテントを張った。夏休みではあったが、平日だったので、客はまばらだった。男子三人、女子四人の彼らは、学校サボったり、シンナーやったり、家出したり、万引きしたりの常習者であるとの噂であったが、その時の彼らは、酒もタバコもシンナーもボンドも持っていなかった。じゃれあってはいたが、いちゃつくようなことはなかった。"食う寝る遊ぶ"の"何をいつ何処で"というようなことは、私に相談した上で行動した。実に統率が取れていた。
 リーダーは女の子だった。俗に言う"スケ番"だった。いかにも喧嘩の強そうな体と顔つきをしていた。彼女が意見をまとめ、命令をした。男連中も、彼女に逆らうことはなかった。彼女の迫力には私も負けていた。かわいい女の子と何かいいことがあるかもしれないという私の淡い期待は、早々と諦めざるを得ないことになってしまった。

 なわけで、彼らといっしょに遊ぶ理由の無くなった私は、何をしようかと考えながら、一人離れて海岸端を歩いた。
 ほとんど人気の無い静かな浜辺に、二人の少年がいた。年長の少年と目が合った。私は黙って通り過ぎようとしたが、まっすぐこっちを見ていた少年が、私に声をかけた。
 「にぃにぃ(兄ちゃんという意)、舟を出すけど、いっしょに行かないねぇ」
 まだ声変わりのしていない、澄んだ声だった。小学校高学年か中一くらいであろう。もう一人は小4くらいで、顔が似ていたので、おそらく二人は兄弟であろうと思われた。
 沖に出て、潜って遊ぶと言う。私は、泳ぎに不安は無かったし、ヒマだったし、二人の顔があまりに人懐こそうで明るかったので、ついて行くことにした。
 3、4人乗り用の手漕ぎのボートだった。沖というのは大げさな言い方で、岸から4、50m離れた位のところで少年は漕ぐ手を止めた。そして、5インチブロック(建築用のコンクリートブロック)をロープに縛り付けただけの簡単な錨を海の中に投げ込んだ。
 5インチブロックを結んだロープは円形に束ねられて5、6mの長さはありそうだったが、その半分も使わない辺りで止まった。ブロックは海底深く沈んだわけでは無く、水深ほんの1mも無い場所に止まっていた。そこは珊瑚の上だった。見渡すと、珊瑚のかたまりが迷路の壁を作るかのように辺り一面縦横無尽に林立していた。ボートの底に座った視線から見えていた範囲でも珊瑚の多さには気付いていたが、立ち上がって、じっくりと観ると、今まで沖縄に生きていて何でこんなすごい景色を知らなかったんだろうという驚きを覚えた。声にはならなかったかもしれないが、「すげえー!」という感動。そこは、そびえ立つ珊瑚の群落の真っ只中だったのだ。
 珊瑚で無いところは深い。深いと言っても10mは無かったと思う。少年たちはそこに向かって飛び込んだ。彼らの装備は水中メガネだけで、フィンもシュノーケルも無し。それでも自由自在に泳ぐ。そうやって暫く、15分も経った頃だったか、二人そろって水面に顔を出した。兄の方が私に声をかける。
 「にぃにぃも潜ってみないねぇ。」
 私が肯くと
 「お前のメガネ、貸してあげれ。」と弟に言う。弟は水中メガネを外して私に手渡す。そのメガネを装着して、そして、私は海へ飛び込んだ。潜り方を知らないので適当にバタバタやっていたら、少年が寄って来て、
 「違うよ。潜る時はこうやるんだ。」と言って、体を折り曲げたかと思うとサッと頭から海の中へ入っていった。ずいぶん後になって知ったのだが、それはジャックナイフと呼ばれるもので、潜りの基本らしい。何度か練習すると私もできるようになった。
 まだ上手くは無いが、習いたてのジャックナイフで潜る。珊瑚の壁と壁の間は概ね2、3m、狭いところだと1mくらいの幅だったかもしれない。そこを泳ぐ。怖くてあまり深くは潜れなかったが、珊瑚に掴まりながら3mくらいの深さまでは行く。
 そびえ立つ珊瑚の壁に挟まれて、水色の向う、空を見上げた。そこには水面にいる少年とボートの影が映っていた。太陽がパラパラと揺れていた。周りの全ての景色が驚くほどきれいだった。「これが沖縄の海なんだ!」とその時思った。「あれこそがきっと沖縄の宝だったんだ!」と今になって思う。
 それから約10年後、友人たちに誘われてシュノーケリングに行く。場所はサンゴの景色に感動したあの時同じ瀬良垣ビーチ。幻想的な美しさと言っていいほどのあの海の中の景色はその時、嘘のように変っていた。行けども行けどもあの珊瑚の群落は無い。海底には白い珊瑚の死骸が目立つ。生きた珊瑚はポツンポツンと小さなかたまりがあるだけ。あまりにも無残な変り様だった。それ以来、私は潜っていない。
     

 何故、珊瑚が激減したかについては、本土並み、開発、金などが絡む話。いずれ別項で述べたいと思う。

 記:2004.11.12 ガジ丸 →沖縄の生活目次
 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行