梅雨前に祇園ねぶたと由来知る 頓休
青森ねぶたのHP中の「ねぶたの歴史」には、以下のような記述があった。
――青森ねぶた祭は、七夕様の灯籠流しの変形であろう。七夕まつりは七月七日の夜に、けがれを川や海に流す禊の行事だが、ねぶた祭も同様に七日目にはねぶた人形を川や海へ流す習わしがある。
日本海沿岸各地に伝わるこれらの祭りは共通点が多い。昔、京の都の文化は日本海を伝わって、津軽へ運ばれたという。
京都祇園まつりの宵山は、山、鉾に提灯を飾るもので、珠洲の「キリコ」、魚津の「たてもん」に似ている。また、提灯の配列は秋田の「竿燈」の下げ方と同じ、など北上するにつれて祇園まつりの飾り山が簡略されている。しかし、その運行方法は囃し方、曳き方、車方など同様である。果たしてこれらの祭りは「祇園まつり」が源流なのであろうか・・・。
今から約二七〇~二九〇年前、享保年間の頃に、油川町付近で弘前のねぶた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊った記録がある。現在のような歌舞伎などを題材にした灯籠(ねぶた)が登場したのは、平民芸術が爛熟期を迎えた文化年間であろう。その様子を江戸の風流人滑稽舎語仏が「奥ノしをり」に書いているという。郷土史家の松野武雄さんが、昭和41年8月の東奥日報に書いている。
《天保十三年(一八四三)秋田の能代で七夕祭りを見た。それは〝ねむたながし〟と称して人形を出している。高さ3丈ぐらい(約十m)大きさ三間(約6m)四方の神功皇后三韓統一や加藤清正朝鮮遠征の人形で、ロウソクをともして、地車でひいている。人びとはカネ、太鼓、ホラガイではやしたて踊り騒いでいた。まことに珍しいことで、これは津軽の弘前や黒石、それに青盛(青森)のあたりにもあるとのことである。》
秋田県能代市のねぶたは、現在では名古屋城を模したという城型で、大きさは青森ねぶたと変わらず、ほぼ同型のものが七~八台出て市街を練り歩く。
青森ねぶた祭の特色の一つに、はねとの大乱舞がある。昔はおどりこ(踊子)といった。いつの頃から〝はねと〟と呼ぶようになったかは定かでない。しかし青森ねぶたに踊りがついていたことは、安永年間「一七七二~一七八一」の記録に残されている。
今純三画伯がまとめた青森県画譜(東奥日報・昭和8年発行48年再刊)に、昭和三年の青森ねぶたの様子が画かれている。(下図参照)
当時すでに車で引くものもあったが、大半は担ぎねぶただったようである。一人がねぶたを担ぎ上げ、四方から支えている。
「昔はどこの小路を見ても、ねぶたがゆれていたもんだス。言いかえればどんな小路ッコへども入って行けだ。町の隅ッコから隅ッコまで祭り気分で、今のように特定のコースを時間まで決められて、見せるためにやるんではなくて、真に楽しかったスナ」 当時のねぶた師の長老、北川啓三さん(故人)はそう語った。
話は前後するが、明治時代に入って青森ねぶたは一層大型化した。明治三年の浜町のねぶたは、高さ十一間のもので百人で担いだという。約二十mもあるねぶたをどうして担いだものか、とにかく四kmも離れた横内から見えたと記録されている。
しかし、明治新政府から任命された青森県令(今の知事)菱田重喜は、地方の旧習を悪習ときめつけ、ねぶたを始め盆踊りなどまかりならんと、明治六年、禁止令を出した。
明治十五年に解禁されたが、ねぶた祭が九年間も姿を消した時があったのである。
大正の末期から昭和の初めにかけて仮装(ばけと)が大流行した。青森県にとっては、凶作、金融恐慌、労働運動の目ざめ、そして生活の洋風化が著しい時代であった。不安をちゃかしたり、社会を批判する姿勢が、ばけと(化け人)の数を多くしたのだろうか。
祭りは、青森市が戦災を受けた昭和二十年には中止されたが、翌二十一年には油川や旭町で出された。進駐軍に気がねしながらの運行だったという。
青森ねぶたが、現在のように大型化したのは戦後である。その歩みは、観光化という大きな流れに乗り、どんどん巨大化してきた。
青森ねぶたのHP中の「ねぶたの歴史」には、以下のような記述があった。
――青森ねぶた祭は、七夕様の灯籠流しの変形であろう。七夕まつりは七月七日の夜に、けがれを川や海に流す禊の行事だが、ねぶた祭も同様に七日目にはねぶた人形を川や海へ流す習わしがある。
日本海沿岸各地に伝わるこれらの祭りは共通点が多い。昔、京の都の文化は日本海を伝わって、津軽へ運ばれたという。
京都祇園まつりの宵山は、山、鉾に提灯を飾るもので、珠洲の「キリコ」、魚津の「たてもん」に似ている。また、提灯の配列は秋田の「竿燈」の下げ方と同じ、など北上するにつれて祇園まつりの飾り山が簡略されている。しかし、その運行方法は囃し方、曳き方、車方など同様である。果たしてこれらの祭りは「祇園まつり」が源流なのであろうか・・・。
今から約二七〇~二九〇年前、享保年間の頃に、油川町付近で弘前のねぶた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊った記録がある。現在のような歌舞伎などを題材にした灯籠(ねぶた)が登場したのは、平民芸術が爛熟期を迎えた文化年間であろう。その様子を江戸の風流人滑稽舎語仏が「奥ノしをり」に書いているという。郷土史家の松野武雄さんが、昭和41年8月の東奥日報に書いている。
《天保十三年(一八四三)秋田の能代で七夕祭りを見た。それは〝ねむたながし〟と称して人形を出している。高さ3丈ぐらい(約十m)大きさ三間(約6m)四方の神功皇后三韓統一や加藤清正朝鮮遠征の人形で、ロウソクをともして、地車でひいている。人びとはカネ、太鼓、ホラガイではやしたて踊り騒いでいた。まことに珍しいことで、これは津軽の弘前や黒石、それに青盛(青森)のあたりにもあるとのことである。》
秋田県能代市のねぶたは、現在では名古屋城を模したという城型で、大きさは青森ねぶたと変わらず、ほぼ同型のものが七~八台出て市街を練り歩く。
青森ねぶた祭の特色の一つに、はねとの大乱舞がある。昔はおどりこ(踊子)といった。いつの頃から〝はねと〟と呼ぶようになったかは定かでない。しかし青森ねぶたに踊りがついていたことは、安永年間「一七七二~一七八一」の記録に残されている。
今純三画伯がまとめた青森県画譜(東奥日報・昭和8年発行48年再刊)に、昭和三年の青森ねぶたの様子が画かれている。(下図参照)
当時すでに車で引くものもあったが、大半は担ぎねぶただったようである。一人がねぶたを担ぎ上げ、四方から支えている。
「昔はどこの小路を見ても、ねぶたがゆれていたもんだス。言いかえればどんな小路ッコへども入って行けだ。町の隅ッコから隅ッコまで祭り気分で、今のように特定のコースを時間まで決められて、見せるためにやるんではなくて、真に楽しかったスナ」 当時のねぶた師の長老、北川啓三さん(故人)はそう語った。
話は前後するが、明治時代に入って青森ねぶたは一層大型化した。明治三年の浜町のねぶたは、高さ十一間のもので百人で担いだという。約二十mもあるねぶたをどうして担いだものか、とにかく四kmも離れた横内から見えたと記録されている。
しかし、明治新政府から任命された青森県令(今の知事)菱田重喜は、地方の旧習を悪習ときめつけ、ねぶたを始め盆踊りなどまかりならんと、明治六年、禁止令を出した。
明治十五年に解禁されたが、ねぶた祭が九年間も姿を消した時があったのである。
大正の末期から昭和の初めにかけて仮装(ばけと)が大流行した。青森県にとっては、凶作、金融恐慌、労働運動の目ざめ、そして生活の洋風化が著しい時代であった。不安をちゃかしたり、社会を批判する姿勢が、ばけと(化け人)の数を多くしたのだろうか。
祭りは、青森市が戦災を受けた昭和二十年には中止されたが、翌二十一年には油川や旭町で出された。進駐軍に気がねしながらの運行だったという。
青森ねぶたが、現在のように大型化したのは戦後である。その歩みは、観光化という大きな流れに乗り、どんどん巨大化してきた。