取材が終り、夕刻帰路についた。土曜日にこんなスケジュールで出張しているのも嫌なものだ。
この写真は慥か、好摩駅から新幹線に乗るため「いわて沼宮内駅」にきて、新幹線ホームへ向かうときに撮ったと思うが、間違っていたらごめんなさい。地元の方の木工作品を展示したものであろう。
この写真は慥か、好摩駅から新幹線に乗るため「いわて沼宮内駅」にきて、新幹線ホームへ向かうときに撮ったと思うが、間違っていたらごめんなさい。地元の方の木工作品を展示したものであろう。
啄木も賢治もよく見ていたはずの岩手山である。
「知られじな 絶えず心に かかるとも 岩手の山の 峰の白雪 (続古今和歌集)」という歌をはじめて知った。写真も雲がかかっているが、そんな古来からのこの山への思いを共有できる。
「知られじな 絶えず心に かかるとも 岩手の山の 峰の白雪 (続古今和歌集)」という歌をはじめて知った。写真も雲がかかっているが、そんな古来からのこの山への思いを共有できる。
金田一温泉の駅舎に図書コーナーがあって、眺めていると「宮沢賢治外伝」という本を見つけた。なかなか小生には役立ちそうな興味津々の本である。欲しくなって、昨日、アマゾンで入手することにした。1時間ぐらい銀河鉄道に揺られて好摩駅につく。石川啄木の出身地だ。賢治が盛岡中学の先輩であった啄木を敬愛していたというが、どうだったのかなあ。詩の資質はぜんぜん違っていたが。
泊まったのは仙養館。座敷わらしで知られる緑風荘ではない。一応、予約を入れようかと思ったが、出張で泊まるにしては比較的高いし、部屋が空いてなかった。送ってくれた鉄工所の人によれば、緑風荘はなかなか予約がとれないという。仙養館はガランとした古い旅館だった。90歳を越えていそうなおばあさんが玄関わきでテレビに見入っていた。料理はまずまずよく、湯もよく、値段も安いから文句をつける筋合いはない。
これは翌朝撮った写真。
金田一温泉のWikipediaには「以前は湯田温泉という名称であった。(田んぼから湯が沸いていたことに由来する) この温泉の起源については、1000年以上も前に蝦夷の酋長アテルイが湯浴みしたのが始まりとの説があるように、開湯年代を求めるのは難しい。一般的に開湯年代として紹介されるのは、1626年である。歴史のある名湯であって、江戸時代には盛岡南部藩の指定湯治場となり、『侍の湯』と呼ばれた。その時期から既に温泉街が形成されていたものと考えられる。ちなみに、金田一を姓にする金田一氏は、南部氏の祖南部光行の第4子の四戸氏から出たとされる」とある。
湯田の「田圃から湯がわいた」というのが分かる写真であろう。
金田一温泉のWikipediaには「以前は湯田温泉という名称であった。(田んぼから湯が沸いていたことに由来する) この温泉の起源については、1000年以上も前に蝦夷の酋長アテルイが湯浴みしたのが始まりとの説があるように、開湯年代を求めるのは難しい。一般的に開湯年代として紹介されるのは、1626年である。歴史のある名湯であって、江戸時代には盛岡南部藩の指定湯治場となり、『侍の湯』と呼ばれた。その時期から既に温泉街が形成されていたものと考えられる。ちなみに、金田一を姓にする金田一氏は、南部氏の祖南部光行の第4子の四戸氏から出たとされる」とある。
湯田の「田圃から湯がわいた」というのが分かる写真であろう。
2月29日と3月1日、岩手に出張した。二戸で新幹線をおり、いわて銀河鉄道に乗り換えて、金田一温泉で下車。ここにある鉄工所を取材した。取材が終って、近くの金田一温泉まで送ってもらった。駅で撮った「こいなかの湯」とは何ぞや?
この1月2日の台北は肌寒く曇っていたから視界が悪い。台湾は、中国との政治的な緊張というストレスを抱えた国でありながら、経済的にはその中国との関係を深めている。首都・台北の街は高層ビルも増えているが、まだまだ再開発の余地が多分にある。中国の大きな影に呑み込まれて衰退しないでほしい。
エレベーターに並ぼうとすると、係員からリュックをロッカーに預けろと指示される。なるほど奥にロッカーがある。暗証番号式だ。あとから並んだニッポン人は何を言われているのかわからずまごまごしていた。それにしても、これではロッカーの数が少ない気がした。混雑するときは、ロッカーの空きを待つ羽目になるのでは。