(写真を使いながら講演する中村喜和・一橋大学名誉教授。画面に映っているのはカナダの博物館にあるトルストイ像)
ロシア文化研究の権威である中村喜和・一橋大学名誉教授は9月28日、東京・世田谷区の昭和女子大学で開かれた日本トルストイ協会の総会で講演した。テーマは、ロシア正教の典礼改革に反対してカナダに移住したドゥホボール教徒と、ロシアの文豪・トルストイとの交流をめぐる物語で、会員ら数十人が熱心に聞き入っていた。
昭和女子大学は、レフ・トルストイの理想とする「愛と理解と調和」の教育に共感し、私塾「日本女子高等学院」を開講したのが始まり。2020年には学園創立100周年を迎えるため、昨年12月8日から17日まで光葉博物館でプレイベントとして、トルストイの玄孫(やしゃご)ナターリア・トルスタヤの絵画展を開催している。日本トルストイ協会は、トルストイの作品や実践活動を通じて自分自身や時代を見つめ直そうと設立され、年2回講演会(うち1回は兼総会)を開いている。
講師の中村名誉教授は、ロシア文化史、日露文化交流史が専門で、『聖なるロシアを求めて』(平凡社)や『ロシアの空の下』(風行社)など、多数の著書や訳書がある。1999年にはロシア科学アカデミーから「ロモノーソフ記念金メダル」を受賞している。
この日の講演のテーマは、中村教授がライフワークにしているロシア正教の分離派に関するもので、2001年に教授自身がカナダへ現地調査に出かけてその調査をもとに、写真を使いながら講演した。この問題の起源は、ロシア正教の総主教ニコンが1654年、宗教儀式の改革に手を付けたことに始まる。改革派は反対派を迫害したため、反対派は辺境の地に移住するなどしたが、その中の一部は海外に移住して自分たちの儀式を守り通した。今回のドゥホボール教徒は18世紀ごろ、ロシア南部に現れ、改革派にコーカサス地方に強制移住させられるなど、迫害を受けた。
トルストイとの出会いは1894年、教派の代表者ベリーギンがモスクワの監獄でトルストイと面談したことから始まった。ベリーギンはカナダへの移住を計画していて、そのための費用をトルストイに依頼した。教派の願いに共感したトルストイは移住費用を捻出するため、長編小説「復活」を執筆、その印税を寄付したとされる。
中村教授はカナダに住む友人を通じてバンクーバー周辺のドゥホボール教徒を紹介してもらい、約1週間滞在して彼らの生活ぶりや宗教活動などを調査した。教徒たちの祝日の儀式にも参加し、挨拶した。その模様は後日、現地の新聞記者の取材に応じて話をし、その記事が新聞に掲載されたという。ソ連時代末期には、教徒の間で祖国帰還運動が盛り上がり、代表がゴルバチョフ大統領に会い、祖国帰還を認可するよう要請し、大統領もそれを受け入れる予定だった。ところが、1991年のクーデター未遂事件で大統領がクリミア半島に軟禁され、帰還計画はご破算になったという。
中村教授は「年配の教徒はいまでもロシア語を話し、故郷への熱い想いを訴えていた。カナダへの移住から100年以上経っても故郷へ帰りたいという思いが非常に強いのに驚いた」と語っていた。我が国の学会でも、ロシア革命への分離派教徒の影響力を巡って論争が起きている。宗教が人生に与える影響をほとんど感じたことのない筆者にとって非常に興味のあるテーマで、講演を拝聴しながら色々考えさせられた。(この項終わり)
ロシア文化研究の権威である中村喜和・一橋大学名誉教授は9月28日、東京・世田谷区の昭和女子大学で開かれた日本トルストイ協会の総会で講演した。テーマは、ロシア正教の典礼改革に反対してカナダに移住したドゥホボール教徒と、ロシアの文豪・トルストイとの交流をめぐる物語で、会員ら数十人が熱心に聞き入っていた。
昭和女子大学は、レフ・トルストイの理想とする「愛と理解と調和」の教育に共感し、私塾「日本女子高等学院」を開講したのが始まり。2020年には学園創立100周年を迎えるため、昨年12月8日から17日まで光葉博物館でプレイベントとして、トルストイの玄孫(やしゃご)ナターリア・トルスタヤの絵画展を開催している。日本トルストイ協会は、トルストイの作品や実践活動を通じて自分自身や時代を見つめ直そうと設立され、年2回講演会(うち1回は兼総会)を開いている。
講師の中村名誉教授は、ロシア文化史、日露文化交流史が専門で、『聖なるロシアを求めて』(平凡社)や『ロシアの空の下』(風行社)など、多数の著書や訳書がある。1999年にはロシア科学アカデミーから「ロモノーソフ記念金メダル」を受賞している。
この日の講演のテーマは、中村教授がライフワークにしているロシア正教の分離派に関するもので、2001年に教授自身がカナダへ現地調査に出かけてその調査をもとに、写真を使いながら講演した。この問題の起源は、ロシア正教の総主教ニコンが1654年、宗教儀式の改革に手を付けたことに始まる。改革派は反対派を迫害したため、反対派は辺境の地に移住するなどしたが、その中の一部は海外に移住して自分たちの儀式を守り通した。今回のドゥホボール教徒は18世紀ごろ、ロシア南部に現れ、改革派にコーカサス地方に強制移住させられるなど、迫害を受けた。
トルストイとの出会いは1894年、教派の代表者ベリーギンがモスクワの監獄でトルストイと面談したことから始まった。ベリーギンはカナダへの移住を計画していて、そのための費用をトルストイに依頼した。教派の願いに共感したトルストイは移住費用を捻出するため、長編小説「復活」を執筆、その印税を寄付したとされる。
中村教授はカナダに住む友人を通じてバンクーバー周辺のドゥホボール教徒を紹介してもらい、約1週間滞在して彼らの生活ぶりや宗教活動などを調査した。教徒たちの祝日の儀式にも参加し、挨拶した。その模様は後日、現地の新聞記者の取材に応じて話をし、その記事が新聞に掲載されたという。ソ連時代末期には、教徒の間で祖国帰還運動が盛り上がり、代表がゴルバチョフ大統領に会い、祖国帰還を認可するよう要請し、大統領もそれを受け入れる予定だった。ところが、1991年のクーデター未遂事件で大統領がクリミア半島に軟禁され、帰還計画はご破算になったという。
中村教授は「年配の教徒はいまでもロシア語を話し、故郷への熱い想いを訴えていた。カナダへの移住から100年以上経っても故郷へ帰りたいという思いが非常に強いのに驚いた」と語っていた。我が国の学会でも、ロシア革命への分離派教徒の影響力を巡って論争が起きている。宗教が人生に与える影響をほとんど感じたことのない筆者にとって非常に興味のあるテーマで、講演を拝聴しながら色々考えさせられた。(この項終わり)