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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

戦争をしないために、家族と国をごっちゃにしてはいけない。

2009年08月17日 00時04分09秒 | 思考試行
終戦記念日を迎えて、NHKは、力作をどんどん放送している。原爆被爆者の人々の声も紹介している。それに触発されて書く。

小泉氏が、郵政で三分の二の議席を獲得したときから、憲法9条をかえようとする動きが活発となり、その手続き法がついに作られてしまった。政治家は、どうしても、戦争ができない国から、できる国に変えたがっている。

戦争のできる一人前の国になりたい、という望みを政治家連が持っている。海外の国々との関係で悔しいことも多いのだろう。自民党も、民主党も多くの議員がそう考えているようである。

だが、戦争になれば、一般庶民は、ひどい目にあう。自分の家族が、自分の目の前でひどい目にあっていたら、貴方はどうするのか、国も同じだ。という論法がよく聞かれる。なるほど、なんて思ったら、戦争をやりたい連中の思惑にピッタリはまる。

だが、国と家族は違う。家族はどんなことをしても、守るだろう。だが、国はどう考えればいいのだろうか。国には、地球規模で考えるならば、絶対のものではない。地球規模で、相互に、協力しあうものであって、戦う単位ではない。そのように、認識を変えていかなくてはならない。戦う主体にしてはならない。

戦争を絶対にしない、という立場から、地球規模の問題に立ち向かう。そうでなければ、いまや、人類の存続は不可能である。人類存続のためには、いろんな条件が必要になってくるだろうが、その最初の一歩である。

国や民族のために、あるいは、宗教のために、戦ってはならないのである。それらは、全部戦う対象物ではないのである。家族や、見知らぬ人であっても、具体的に理不尽な目にあっていたら、これには直ちに、対処するけれども。


ドラマを認める人、いっさい認めないという人

2009年08月16日 09時43分32秒 | 思考試行
小説やドラマなど、フィクションをまったく認めない人が、ときどきいる。時間どおりの生活、目標を決めて、きっちりとやりこなしていく、という感じの人に多いように思う。

ノンフィクションは、見るというこういう人達は、小生に言わせると足りないものがある。それは、人生の機微の理解力に欠けている気がすることである。自信があるともいえるが、知らないから大胆になれるということもあるかもしれない。

ドラマをみて、共感するという行為自体を理解できないのだから、人の気も知らないで・・・、ということはあるように思う。考えるのは、自分のことばかり、かもしれない。

たしかに、実用的ではない。実生活において、小説やドラマに打ち込んでいては、生活が成り立たない側面も明らかにある。だが、これをオミットして、平気というか、捨象することは、人間文化の大きな側面に触れないというわけで、大きなヌケが生ずるように思う。

仕事に関して、信頼がもてるということはあるかもしれない。あるいは、生活のなかで、ドラマや小説に近いことがあって、人生の真髄に触れて悟りきっている可能性もある。

だが、一般に若くして、そんな風に言うのは、かなり傲慢とみていいかもしれない。そんなに、人生を甘くみていいの、という気持ちもある。

新聞に、小説は実学である、という意見の文章が掲載されているのを見たことがある。この方は、小説から多くのことを学んだと言っている。小生は、そんなに、読書家ではないが、たしかに、単純に面白いだけではなく、必ず、得るものがあると思う。

作者が、なにを意図して書いたのか、いろんな動機があって、作品自体も、いいもの、それほどでもないもの、もあるけれども、簡単には体験できないこと、認識の世界の広狭など、明かに、人生のなかで、深さ、広がりを与えてくれる役割があると思う。

これを、言下に切って捨てて、平然としている人物は、小生は信用できない気がする。その仕事ぶりにも、疑問をもってしまう。

小説やドラマの役割をみとめつつ、なかなか、小説やドラマに触れられないと嘆いている人がいるとすれば、この人は、その意味を理解しているのであり、上記の「切捨て」とは違うので区別しなければならない。

それと、こういう人物は、大抵は真面目な、堅物であったりする。見込みがないのかといえば、そうではない。なにかの機会に、そういうものに触れて、感動すればヘンシンも可能で、その場合は、より深いもの、激しいものになるかもしれない。

こういう人達を唸らせ、感動させることが小説やドラマに携わる人びとの願いだったりするかもしれない。あるいは、倉本さんが、自分が書いているのではなく、書かされている気がすると、昨夜の、オーラの泉で述べておられたが、そういうカミサンがいるとすれば、格好の目標物であるかもしれない。

忘れるか、根に持つか

2009年08月15日 08時53分57秒 | 思考試行
今日は、終戦記念日である。日本が64年前の今日に降伏した。二度の原爆投下をうけ、東京、大阪、全国各地が大空襲をうけ、沖縄では四分の一の人びとが殺された。それでも、徹底抗戦を主張する人間が戦争終結を決める会議の場にいた。

国民は真実を知らされず、正確な情報は得るべくもなかったが、天皇の初の肉声放送に、敗戦を認め、大筋で混乱なく、武装解除し、無条件降伏をしたのである。

その後、国民の一部にゲリラ組織ができて、エンエン報復のテロが・・・、なんてことはなかった。それは、完膚なきまでにダメージをうけたこともあるだろうが、戦争の実態を知り、事態を理解して、「切り替え」ができたことが大きいと思う。

アメリカの統治がうまくいったこともあるが、その背景には、どこでもできたかと言えば、その後の歴史の展開が事実を示している。

もはや、地球は狭く、そして、こういうインターネットで、瞬時に情報が世界に発信されて、共通のものにできる時代を迎えている。王侯貴族だけが、情報を知る、というのではない。むしろ、そんな連中こそ、情報弱者となる可能性さえ生まれてきている。

庶民の痛みを、平気とするような連中は、贅沢の限りを尽くしていても、それをなんとも思わない。そういう感覚が如何に不健全であるかについて、知らない。

事があって、それをどう捉え、それからどう進むのか。それは、その後の展開を大きく変えていく。忘れた顔をしているが、根に持つような風にはしていないが、実は忘れずに、根に持ちながら、「切りかえ」ているだけかもしれないが、それは、表面的には似ているけれども、別物である。

方向をかえて、根に持っている傾向もある。日本の場合、どうなのか。少なくとも、切り替えはしてきた。世界に視野を広げて、切り替え文化を、広げるのもいいのではないか。

家族と国は、別物である。イッショにすんな。

2009年08月14日 07時23分26秒 | 思考試行
国の防衛をいうのに、よく家族が目の前でひどい目にあわされようとしているとき、どうするのか、という話がでる。それと同じで・・・、という風に議論をすすめたがる。

何を言うか。家族と国は、一緒ではない。家族を守るためには、全力をつくす。これは当たり前だ。国とはなんだ。いろんな要素がある。カネモチもいる。人を人とも思わないで、ハケン、ヒセイキロウドウシャを、食い物にする人でなしもいる。これに肩入れした大金持ちたち、それにくっつく政治家、官僚、こういうヤカラもいるし、怪しげな闇の世界で蠢く悪い奴らもいる。仕組みもある。

それがどうしてイッショなのか。家族のためなら、命を投げ出しても惜しくはない。これは健全である。だが、国がそんな対象ではない。そこに、マヤカシがある。そんなことをいうヤツは、本当に国をよくしていこうというヤツではない。

政治は、やはり、支配と被支配、王侯と庶民の戦いである。騙しや、買収や、何でも使って、権力をとる。庶民は、自分達の力を何で表現するのか。事実を知り、仕組みを知り、騙しのテクニックにのらず、自分の頭で考えるようにならなければいけない。

でなければ、いつまでも、本当には幸せにはなれない。公明党の「成功」をみて、幸福実現党が登場した。手を変え品を変えて、ヘンテコなのが出てくる。これも支配者側からみて、都合のいい考え方である。

しっかりしようぜ。みなさん。

もうけの手口、口実の使い方

2009年08月13日 07時20分17秒 | 思考試行
正義か不正義か。ものごとの進め方において、何事かの企みがあって、その方向へもっていくために、さまざまな工作をする実態がある。

芝居になっている忠臣蔵で、浅野さんが、吉良さんにいじめられるのは、典型的な例だが、現代においても、退職をせまるのに、直接にせまるのではなく、周辺部の状況から、そうせざるを得ないようにしていく陰湿な手段を講ずる場合がある。

ルール変更ないしは、解釈を厳しくし、従来は慣行となっていたことをとりやめ、処分対象にしていくという手段も講じられている。

損保業界では、口座振替等のキャッシュレスを推進し、間接人員を減らすための方策を打ち出してきている。ビジネス効率をあげて、資本の儲けを最大化しようと躍起である。

お客様の信頼を高めるということを口実にする。本当に、お客さまのことを考えているかどうか、が問題である。それは、ホンネではない。切捨てのための道具と化している。利便性、その成果をお客様に返すという視点ではなく、自分達の都合が中心であり、関心である。

なにか異常があれば、ルール違反がないか調査して、退場に追い込む。これは、最初から、狙いは明確なので、何も問題のないときは、動かないが、少しでも問題発生とみるや、チャンスとばかり始動する。

こういう業界(会社)にいては、いずれは退場ということになるほかない。手数料も一方的に下げてきた。書類のやり取りには、送り状もはいってないし、電話連絡も制限をかける。問い合わせは、ファックス、メールでという。そんなことで、顧客の信頼を高めるような情報を提供できるだろうか。

ミエミエのイヤガラセなのだが、生活があるから、そう簡単にやめるわけにはいかない。そこをジリジリとイヤガラセをかけるという図式である。

「シンドラーのリスト」という映画があった。収容所で、簡単に人が殺される。チョットしたことから、ナンクセをつけて、処刑の理由にする。同じようなやり口、手口である。





一人ひとりの覚悟が必要

2009年08月12日 09時11分11秒 | 思考試行
政権交代が、どうやら現実にものになりそうということで、あちこちで、ネズミが動き出している。郵政は、元通りにもどるのか。官僚政治が変わるのか。確かに、時代が変わろうとしているように見える。

昨今の異常気象や、国民不在の富裕層優遇政策の転換、年金の破綻、自分達だけの「省益」しか頭に無い官僚達の一掃、政治の方向を変えなくてはならない現状が、明かになるにつれて、この方向は、ほぼ決まりとみえる。

こうしたなかで、国民は、どういう選択をするのか。ながれにのって、いくだけなのか。それとも、何らかの意識改革がなされているのだろうか。

マスコミ報道の戦争回顧番組をみていると、従来見たことのないほど、力が入っているように見える。何故、戦争がおこったのか。その責任者はだれなのか。海軍の主だった連中が、反省会をしており、それがテープに残っていたと言う。

その肉声が流れる。いずれも80,90歳代の老人である。その発言からは、国民にたいする謝罪の雰囲気はない。彼らは、みんな当時のエリートである。それでも、宮様の言うことには、なんでも「ハイハイ」だったなど、負けて当然のような、レベルの低い感じを受ける。こんな連中の指揮で、戦争に行かされたものはたまったものではない。

人が人を殺す。戦争なら当たり前なのか。戦争を絶対にさせないために、一人ひとりが、本当に覚悟をきめておかなくてはならない。

一人ひとりの質を高めあうしかない

2009年08月11日 08時23分06秒 | 思考試行
創価学会が何故問題なのだろうか。国会議員など見ると、チャント東大卒もいるし、テレビタレントもいる。創価大卒の漫才師もいる。

彼らは、格別問題発言をするわけではない。では、どこが問題なのだろうか。

彼らの、トップに池田大作というおっちゃんがいて、みんながとんでもない集中をしていること、そして、当の本人が、どこからみても、そんなにいい人とは思えないこと、にも関わらず、そうしていること。その違和感だろうか。

各国の大學に、寄付でもしているのだろうか。池田氏は、多くの名誉博士号をもらって、それを誇る。宣伝する。勲章がほしいのだろう。竹入氏が、勲一等旭日大綬章という、途轍もない勲章をもらったものだから、ヤキモチをやいた。竹入氏はいじめられ続けている。

マスコミには、多くの広告代金を支払い、事実上買収行為を、臆面もなく実行している。対抗するものには、攻撃することもある。その勢力の伸ばし方は異常である。

彼らの目的は、なんだろうか。かつて、国立戒壇ということを言った。国を支配しようという目標を設定した。いまは、あまり聞かないが、そのホンネは、希望はそこにあるようにみえる。

池田大作をトップに、どんな国ができるのだろう。そんな国はロクでもない。

自分の頭で考える。自分で決める。これを忘れると、人間がつまらなくなる。誰かの言うとおりという生き方は、楽かもしれない。およそ人は、モデルを求めて、その人を真似ながら、生きていくような仕組みになっているから、その共通項を決めてしまえば、「同志」もできて、いいのかもしれない。

だけど、ヘンなものを、モデルにすると、弊害がある。たえずフレキシブルでないと、事実を探求することもしないし、どこが問題かもわからなくなる。

確信、自信に溢れて、邁進する。だが、肝心の方向が、どこへ行くのかわからない。チェック機能がないのだ。

共産党の場合も党内で権力争いというのは、あまり聞かない。同じような問題をかかえているようにみえる。信頼を基本に、幹部の能力の有無の判断は、時のリーダーのメガネにまかせて、組織を動かす。きれいな人間ばかりであれば成り立つ。だが、そこには真の競争がない。教条的になりがちである。間違う可能性はある。しかし、その視点は、弱者に向いている。方向は健康なのである。

最後は、やはり一人ひとりである。その質が高ければ、へんな方向を糺すことは可能である。というより、それしかない。お互い、協力して、高めあうほかない。間違ったモデルを持たないために。

カルト創価学会の片鱗

2009年08月11日 00時35分33秒 | 思考試行
傍若無人な創価学会の戸別訪問があった。親類とはいえ、葬式で何度かすれ違ったにすぎない関係であるにも関わらず、仲間3人を引き連れて、ドヤドヤとにぎやかにやってきて、選挙のお願いだという。顔も定かでない日頃付き合いもないのに、大声で、仲間も一緒にきましてん。みんな上がらしてもらい、ドヤドヤという具合である。

エライ戦闘的な行動力でんな、とやる。そうです。みんな幸せなんです。ところで、創価学会と公明党の関係は、どうなんだ。憲法違反でしょう。政教分離はどうなっている。いや、今はいいんです。よくなったんです。竹入さんは、ものすごい勲章をもらっているのに、今はどうしているんですか。彼は裏切ったのです。矢野さんは手帳を返せと裁判しているがどうなんですか。あれは、矢野さんが差し出したんです。この前、手帳を返せといって記者クラブで、記者会見しているのを、インターネットでみましたよ。そんなことはないわ。と言う具合。

クダンのシンルイ婦人は、小生を無視して、母親だけに話かける。二元のやりとりになる。同席しながら、珍妙な風景。

品の悪い、強引な運動。事実を知ろうとする姿勢はない。どこかで、聞いてきたことを、言われたことを、そのまま言っている感じ。それを確信して話している。これこそが危険な証拠である。とんでもない集団である。

地球環境は大丈夫だろうか

2009年08月10日 07時34分59秒 | 思考試行
台風が来ている。日本の近所の熱帯低気圧が台風に変わるなんて、聞いた事が無い。まさに、異常気象である。

あちこちで土砂崩れがあるし、雨の降り方も尋常ではない。環境のこの激しい変化に果たして、行政は対応できているのだろうか。環境学者の意見はどうなのだろうか。国際的な検討はなされているのだろうか。

充分な対策があるとは思えない。こういう風に書くのは簡単なことであるが、責任をもって、地球環境全体について、把握し、提言をするという動きは、あまりないように思う。

しかし、一方では、環境対策の自動車の売れ行きがすごく、中古車が新車の値段を追い越しているという。国民は、環境に、敏感になっている。

もはや、遅いのだろうか。学者の意見、異常の分析、国と地域でその感覚はちがっている。とはいえ、狭い地球になっている。このまま、ずるずると、滅んでしまうのでは、もったいない。

総力をあげて、事態に対処しなければならない。

キッパリと平和でいこう。戦争をしてはいけない。

2009年08月09日 15時17分39秒 | 思考試行
政権交代が現実味を帯びてきて、急に安全保障のことがテーマに取り上げられてきている。民主側の足並みの乱れを狙っていると言われている。

北朝鮮のミサイルについて、攻撃されたらどうのこうのと、憲法9条をどうしても改悪したい口ぶりである。

戦争になれば、どんなに悲惨なことか、本当に真剣に考えているとは思えない。やられたらやり返すという時代ではない。戦争は絶対にしてはいけない。その覚悟と実行が貫徹されなければならない。

やられたら、軍事力で、やり返さずに、やったほうが、やったことを反省し、悔やみ、謝るほかないように、軍事力以外で、あらゆる手段を講じるのである。現憲法は、そうすることを宣言しているのである。

北がそんなことをしても、なんの利益があるというのだろうか。やりたいならやってみたらいい。それは、北の破滅を意味する。

こちらは、戦争をしないし、武力による威嚇、行使はしないと憲法で宣言しているのだし、武力も持たないと決めているのだ。これほど、はっきりと平和を目指している憲法は、世界でも先駆的といわれる。

まさに、これからの人類の進むべき方向をキチンとしめしているではないか。この憲法があったおかげで、平和が保たれてきた。そうでなければ、アメリカの子分として、どれだけ戦争に付き合わされていたことだろうか。

軍需資本の儲けのために、貧しい階層の人から、悲劇に突き落とされてきたのである。戦争が可能となれば、今の非正規雇用の人は、軍隊にいけば、「正社員の待遇」が保証されるとなると誘われるのである。

要員を確保するために、そのために、非正規雇用を合法化したのかもしれない。郵政で三分の二の議席を掠め取った自民党は、憲法改悪を目指して、周辺整備に着手した。着々と手を打ってきた。もともと憲法のことは、争点でもなんでもなかったのだ。議席をとったものだから、急遽そのホンネを持ち出してきたのである。

なんでも、議席をとりさえすれば、民意などどうでもよく、彼ら権力者の一人前の国家になりたい権力欲と、国の力を背景に、なお、儲けたい富裕層の期待をうけて庶民の平和に暮らしたいというささやかな希望を奪おうとするのだ。

小選挙区制は民意を反映しようとする制度ではない。少ない支持で、議席数をとろうとする、姑息な支配権力の長年の希望でできたものである。こんなものを持ち出してきたところにも、きたない、不健全なネライが透けて見えるのである。




庶民は大したものなのである

2009年08月08日 07時49分57秒 | 思考試行
裁判員制度が始まって、裁判員のふるまいに、マスコミが集中した。オタオタするところを見たかったのだろうか。心理的動揺を見逃さないぞ、みたいな姿勢が記事にあったように思う。

新聞記者がどういう動機で、そうなったのか、おそらくは、官僚になろうか、それとも、大企業のどこかとか、その中の選択の一つであったのだろう。大學は一流といわれるところ、成績もよかっただろう。

入院時に、「私は、アサヒのものですねん。」と声をかけられたことがあった。アサヒは、朝日なのだろうが、旭と頭に浮かんだ。それで、ああそうですか。と応じた。あとで、朝日かと思ったのだが、気付いてから、そういう目でみると、いつも微笑を絶やさず、デカイサイズの頭を長髪にして、胸には、貴重品をいれた手縫いのひも付きの小袋を下げている。防御もしっかりしている。そうしていなかった小生は、その後盗難にあった。

入院したのは、小生同様に、救急車できたという。病院のベッドに担ぎこまれたときには、意識がなかったという。小生は、意識はずっとあったが、同じ心筋梗塞でも症状は随分違うものだなと思った。ダメージをうけた数値は、しかしながら小生の方が高い。こちらも、危なかったのだが、実感がなかった。この病院で助けられたという意識が強かった。

その彼が、退院したら、スポーツの方に配置換えとなるという、それが不満で、退院を長引かせようと考えているという。ところが、病院は退院をせまるので、手首にできているこのグリグリを口実に手術しようかと思っているという。

この病院は、緊急時に対応することが使命としており、儲け主義的な雰囲気は、全然ないし、後の人のためにも、すぐ退院するのが筋だろうと思った。新聞記者らしいとわかったあとで、このことを思い出して、エリートらしいなと思ったことであった。

そこで、冒頭の、初の裁判員制度では、明かに、裁判員の姿勢が反映されている。職業もマチマチで、確かに普通の人と思われる人びと。だが、判決にその意志が反映されている。従来の機械的にみえる判断だけでないものが加わっている。

庶民は大したものなのである。

「よーいドン」はよろしいなあ

2009年08月07日 10時35分24秒 | 思考試行
涙もろくなって、チョット感動するとすぐにウルッときてしまう。朝のテレビ番組で「よーいドン」というのがあって、八光と円が、街をぶらぶら歩いて、住民とのかけあいをするコーナーがある。

なんでもないやりとりの中に、人情の機微が出てくる。朗らかに、楽しげに構成されているのだが、庶民のよさが随所にあらわれる。職人の永年のワザがでてきたり、家族との話がでてくる。

日頃は、とりたてて、話題にもならないのだろうが、テレビがきたというので、家族の日頃、聞けない話を聞かせてもらうことになる。そんなとき、不意にウルがくるのである。

こういう世界を、為政者や権力者は、みておかないといけない。戦争ができる国なんぞにしていいものか。全地球上の立場で庶民は考えている。自分達だけがよくなることをなんて、考えてはいない。

そんな考えでは、いい仕事はできない。いい付き合いは不可能である。そんな結論がすぐに出てくる。真実にせまるには、現場にいかないとわからない。いま選挙戦の前哨戦が始まっているが、本当に一人ひとりの暮らしに関心をもつ方向にと向かってほしいものだ。

タレントの質も問われる。準レギュラーのロザンの二人も好感が持てる。円も八光もいい。女性人もいい。

現場を重視しているこの番組のねらいは、タレントの良さもあって、みごとに成功している。

自然のふるまいの心地よさ

2009年08月06日 10時03分11秒 | 思考試行
久しぶりに、当ブログへの訪問者数が100を越えた。上地雄輔さんのことを、少し書いただけで、増えたのだろう。有名人の人気というのはすごいものだと思った。

文藝春秋8月号には、鳩山兄弟のこと、鳩山家のルーツの紹介が出ている。相当にすごい家系で、一族のことが詳しく記事になっている。特に、西川郵政社長の退陣をせまって、結局総務大臣を退任した鳩山邦夫氏のインタビュー記事は、彼の人柄をよく伝えている。

これは、半端ではない日本のエリート家族の話であるが、こうしてみると、それが普通のようにみえてくるから不思議である。アッケラカンと蝶の魅力を語る邦夫氏には、育ちのよさの特殊性をみるが、そのなかで健康に暮らしている普通さもあるのが、不思議である。

最近の有名人の特徴は、ことさらに自分を隠そうとはしない。自然にふるまう。また、そのようにできない人は、有名人たりえないように思う。まさに、ハダカにされてしまうから、隠しようもなく、それがどうした、といえるぐらいでなければいけない、という感じである。

この傾向は、すばらしいことだと思う。ことさら背伸びをしたり、卑屈になったり、威張ったり、無理することは、本人はもちろん、周囲の観客にとっても、気持ちのいいものではない。それは、有名人のみならず、普通の暮らしをしているものにとってもいえる。

世の中、少しずつ進歩しているのだろう。

反省

2009年08月05日 08時20分59秒 | 思考試行
ブログの世界も、結局数字なのだろうか。羞恥心のタレント上地雄輔さんのブログがギネス記録になるほどの、人気を集めているという。昨日NHKの番組をみていたら、そのように、紹介していた。

お馬鹿キャラで人気を取ったタレントであるが、考え方は健全で、スポーツマンらしい良さがあって、好感のもてる人である。どんどんと、成長してほしいものだ。昨日の自分に負けたくないというようなことを、述べていた。それは、成長していくという意味だから、普遍的な話で、まことにもっともである。

努力して、改善していくことは、誰しも心がけなければならないことで、また、権威、上下関係など、人間関係の機微についても、卓越した率直さがあって、愛されキャラといわれているらしい。これも、新鮮な感じがした。

昨日は、家内の助けがあって、相当仕事がはかどった。期限ギリギリのものがあって、家内に、攻め立てられ、漸く着手できた。その勢いで、当面の課題を連鎖的に片付けていく。やればできてしまう。

もう少し、計画的に、仕事をしなければいけないと、痛感した。今まで、さほど真剣に仕事を考えてはこなかったように思う。それなりに、取り組んではきたものの本気ではなかった。そう言われても仕方がない部分がある。

反省することを、遅まきながら、はじめてはいる。同窓会で飲みすぎて以来、禁酒に近い状態にしたことをはじめとして、「ふるまい、みだしなみ、言葉」に気をつけるようにしようと思ったのは、PHPの本からの影響である。仕事についても、キチンとしていきたい。

そして、見るもの聞くものから、学ぼうという気になっている。ようやく、そんな気分が出てきている。遅いがな、といわれても、仕方がないことである。今からである。

裁判員制度は新しい風をおこすのでは

2009年08月04日 09時39分48秒 | 思考試行
新しい裁判制度が始まった。報道陣の姿勢を見ると、裁判員の挙動を、みることに興味があるようだ。はたして、このような任務が普通に人にできるのだろうか、という疑念である。

しかし、経験的に我々庶民は知っている。普通の人が結構立派なことを。難しい入試に合格したからといって、一流の人間とは限らない。とんでもないのは、案外エリートと言われる人の側であって、通常の普通人というのは、レベルが高い。報道姿勢に、普通の人に対する見方の偏見が、現れている。

おそらく、制度は、この分であれば定着するようにみえる。普通人のレベルの高さに、法曹が驚き、自分達の独善を本当に知るならば、世の中もう少し良くなりそうな気がする。

庶民をなめていると思うのは、マスコミの姿勢である。マスコミは、広告収入がすべてであるから、視聴率という指標にしばられている。数字さえとればの思いがあるのだろう。真実を伝え、世の中を良くしようという思いがない。

おおよそエリートといわれる人間は、庶民を馬鹿とみている。非正規雇用を進めてきた背景には、人を人とは思わない残酷な思い上がりがある。

司法界で、こういう改革が始まったことは、一人ひとりを本当に大事にする世の中にかわる新しい動きの端緒になるだろうと期待する。