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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

無駄の連続のようにみえて

2013年12月19日 07時45分40秒 | 思考試行

きっちりと物事に取り組んでいたなら、できていたことでも、いわば「手抜き」をしていると、身につかないというか、勉強したといっても、その大半が記憶に残らずじまいという、様相を呈している。

忘れることには、そのかわりに自信があって、嫌なことには、こだわらずにおれる傾向がある。これはいいことであると思っているが、映画をみても、本を読んでも、一度だけだと、情けないほど覚えていない。

大江健三郎さんの読書というのは、キチンと記憶がなければ、読んだとはいえないとあったが、ご母堂から、そう言われていたらしい。大江さんは、読書をそう定義しているのである。

この定義に従えば、小生の場合は、今まで、一冊の本も読まなかったことになる。だが、それでも痕跡ぐらいは残っているかもしれないと思って、自分を慰めるのだが、如何せん人の能力差があることを認めないわけにはいかない。

といいつつ、この忘れるということで、映画など、何度みても発見があり、筋など頭にはいっていても、退屈せずに見られるのは、有難いことでもある。「ショーシャンクの空に」など、何度みても面白くて、WOWOWあたりで、よく見た。

塗り物など、一挙に仕上げ塗りではなく、うす塗りをして、乾かしたあと、何度もその上に塗り重ねて仕上げていく工程があるようだが、これと似ているような気もする。

 


信仰について

2013年12月19日 00時00分05秒 | 思考試行

科学の業績は、宗教が力をもち、人々をしばりつけ、迷信に追い込んできたなかで、さまざまに、自然を、ものごとの真理を、解明し、宗教がもちこんだ、多くの迷信をうち砕いてきたことである。

しかるに、科学的な推量、推察を信仰と同列にとり扱う人もいる。たとえば、宇宙の始まりがどうであったかについて、今の現状から、ビッグバンがあったと推量したとして、これを信ずると扱い、宗教の信仰と同列にみるのである。

ビッグバンを、立証することは、困難であり、宗教と同様だというのである。小生は、ビッグバンは現在宇宙の広がっていると現状から、時間を逆回りさせると、最初は一点から始まるということになると推量するのは、有りうる推論であり、神がいるとかいないとかの問題とは、全然違うと思う。

信仰心がある人は、勿論神の存在について、確証があると断言する人もいるだろうが、神の存在について、わからないけれども、いると「賭けている」人もいる。賭けているから信仰なのだという。

神がいるかいないか、わからない。解らないから、仕方がない。いると賭けることもできない。しかし、その中で、だからといって、何をしてもいいとも思わない。自分の価値観をたよりに生きていくしかないのだが、宗教者の価値観にも無関心ではない。

宗教者の謙虚さを、神がいるかいないか、わからないという立場からも、人間社会の一員として、理解し評価し、共に行動するのである。その信仰者のいい面は評価するのである。だが、賭けることの副作用についても、無関心ではない。