人間はどういう動物か。日本人は、特別すばらしいのだろうか。昨日の、ハーバード教授、マイケル・サンデル氏の「授業」は、考えさせられた。
「サル」達の行動が、賞賛に値し、その深層心理を探ろうとする。ついに、アメリカのお嬢さんからは、「誇りに思う」のお言葉まで、登場した。
高幡女優さんは、イエスかノーか式の質問に、家族か社会か、みたいな質問であったが、家族です。と言い切ってしまっていた。彼に、振り回される感じが出ている。
そんな質問では、それほどパニックにならない日本人の「特性」は、解るはずもない。日本人は、「家」が中心であったろうか。主君が戦争をすることになれば、状況により、「家」を二つに割り、一つを残すようにしたり、今でも、家族のことよりも、「仕事」を優先したりもしてきている。
今回の時期、だれもが、家族が一番で、そのために行動していると見えるだろうか。それぞれの、位置、役割、それは自分でもわかり、簡単に、家族の元に逃げ帰ったりはしない。辛い思いを抱えながら、意気高く、仕事に向かうのである。それは、「あたりまえ」の感覚がある。「滅私奉公」の常識的感覚。
マイケル氏は、「報酬」をもちだす。もちろん、そんなところに本質はない。そのあたりを、作家の石田氏だったか、キチント指摘した。マイケル氏は、スルーした。理解不能だったのかもしれない、と思った。
全体として、日本に起きていることは、「助け合い」の精神が、あたり前として、行なわれているのである。助け合いというのは、アメリカ流の「弱者を助けることに、猛反対する風潮」とは、真反対である。
彼らの嫌う「アカ」世界が、現出するのである。支配層がもっとも、恐れる世界である。だが、多くの人民にとって、これこそ、求める世界なのである。
「誇りの持てる人間関係」なのである。官僚主導であれば、官僚が支配者として、自らをトップにおく。財界主導も同様だろう。だが、その背景には、伝統的な考えがあれば、それなりに、機能はしてきたと思う。自分達だけのことを、考えてきたわけではない。まあ、充分に尊大にはなるが。
さて、これからは、どうなっていくか。石川君や、孫正義氏のような、また、一郎選手、松井選手のように、高額所得者が、どういう行動をとるのか、によって、世界は、社会は変わる。そこは、新世界である。
単に、高額所得を誇ってどうなるのか。いまこそ、というか、常に、社会のために、弱者のために、手を差し伸べることの出来る存在として、大きな流れを作り出したいものである。