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ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊取 プチトレイル 

2013年04月20日 21時19分49秒 | ウォーキング

この季節、街道もいいけど
若葉の中を動き回るトレイルも楽しい。

そこで、どこかのプチトレイルに行ってみようと思い立ち、
図書館で借りたこの本で
コースを探ってみました。



この本は山と渓谷社が出しており、
身近な里山も書かれてあって
なかなかの優れものです。

地図は小さいけれど、
別の大きな地図を用いて、
街道歩きの時のように
事前にオリジナルコース図を
作成すればよいしね。

で、今回はその本のページを繰っていろいろ考えた挙句、
熊取の雨山周辺のコースをセレクトしてみました。

大阪体育大学から山の方に入ってゆき、
永楽ダムという堰止湖に至るコースは、
くまとりロードレースという大会の舞台となっており、
そのダムの周りに連なる山々は、
ちょっとしたハイキングコースになっています。
熊取町のホームページには
こんなマップも掲載されています。
必要な方はそちらをどうぞ。

雨山ハイキングマップ
熊取町ホームページより

ここはかつて何度か訪れたことがあるコースです。

最近では、冬イチゴの収穫に来ました。



その前はむかごの収穫でした。

なーんか、食糧がらみが多いなあ。

そして今回のプチトレイルの目的は山菜狩り・・・ではなく、
新しい試みとして
久しぶりに弁当を作ることにしてみました。

以前、いろいろとキャラ弁を作っていたことを思い出し、
久しぶりにがんばって作ったのが

これ。


ソーセージの下には卵焼き。
ご飯面は山の噴火を表しています。

これからは街道を歩くときにも弁当を入れようと思っています。
質素倹約だからね。
それに弁当だと食べる量も決められるので、
ダイエットにもなろうってもんだ。

昼はお弁当ダイエット、
夜はワンプレートダイエットね。

ダムの入り口に車を停めます。
このあたりは、少し前なら桜の季節で
花見客が押し寄せていたから、
道端にこんな看板がありました。



山の中に、ちょっとした珍百景出現です。
こんな静かな山道で、混雑緩和って・・・

そしてダムに向かって歩き始めます。
今回のコースの最初の目的地は、
ダムから見上げると、
急斜面の上の方にちょこんと見えるこの展望台です。



車の走れる道からいきなり階段が始まります。
それが登山道です。



ここら辺りはダムに向かって急斜面になっています。
ていうか、そういう地形だから
ダムを作ったんでしょうねえ。

いきなりの急斜面をえっちらおっちら登っていき、
尾根に出るとそこは
展望のきいたトレイルコースでした。



泉南独特のがれ場もあったりして
なかなか面白いコースではあります。

高校の時に「泉南酸性岩」とか習ったのを思い出しました。

つつじも見ごろで、
先日歩いた堺の里山でみたのと同じつつじが
ここでもいっぱい咲いていました。



気持ちのいい山道を25分ほど歩くと展望台に到着します。
ここからの眺めは360度抜群です。

365度といってもいいほどです。
ってわけわからん。



手前に永楽ダム、遠くには関空が見渡せます。

展望台には平日のこんな時間ですから、
案の定、誰もいませんでした。
おお~貸切だぜ!と喜びつつも、
風が強かったので
下の芝生に持ってきたシートを広げて弁当を食べました。

ノンアルコールも飲みながら、
花見ではなく、
緑見としゃれてみたわけです。

帰りは少し道をそれて、
以前山の中で見た駐車禁止の表示が
まだあるかどうか確認に行きました。

あれこそ珍百景やもんね。

で、ありました。こんな山道に・・・



チャンチャンチャンチャン、ジャーン

これ。



えへ。
たしかこのネタは2回目です。
でもまだこの景色が残っていたのでうれしくなってつい
出来心で2回やっちまいました。

しかし、いつみても珍百景でしょ。

そして元来た道を戻っていきます。
来るときには気付かなかった
蛾の痕跡を二つ見つけました。

一つはこれ。



自然の造形というのはまことに深い。
実に面白い!(ガリレオ風に)

こんな網目のマユってどうですか。

まゆゆもびっくりです。
(はいはい、精いっぱい若ぶってます)

そしてもう一つがこれ。



30年ほど昔、二上山で同じものを見つけて以来かな。
ウスタビガのマユの緑はとてもきれいな緑です。

地面に落っこちていたのですが、
通常は樹の高い枝にぶら下がっています。
降るとカラカラ音がしたのは、
中に幼虫がいるのでしょうか。
高い枝のところに置きなおしておきました。
蛾の恩返しがあるかもしれません。

いらんいらん。

こんなコースや



こんなコースを歩き回って、



ネイチャーと触れ合うと心身ともに癒されますね。

さて次はどこ行こう。


みちのくふらり旅にて

2013年04月19日 21時09分01秒 | 最近の出来事

ちょうど1年ぶりの東北でした。

被災地を目の当たりにした
昨年の旅で受けた衝撃は大きく、
doironの心に小さなささくれを残しています。

そしてまた一方で、
復興を目指す現地の人々の心を慮ると、
早い復興を願わずにはいられないと同時に
当時直面していた自分自身の生活の再起動にあたって、
ともに頑張ろうという意識を強く抱いた旅でもありました。

今回の旅は、
逆に力強い復興を果たそうとしている東北の姿を見て、
自分自身の再生に力を与えるべく
再び訪れることにしたわけです。

前回は友達との旅でしたが、
今回は東北が初めてのミセスdoironを連れての旅でした。

少し前から関空と仙台空港をつなぐピーチが就航し、
片道6千円~1万円で行けるようなのですが、
申し込んだときにその情報を知らなかったため、
利用したのは伊丹からのANA便でした。

朝から親父のショートステイと
グーのペットホテルへの送り出しを済まして、
午後の便で行くことにしました。
介護の暮らしはそういうところにも
思わぬ配慮を強いられるんだよね。
伊丹空港まで車で行き、
空港のPに駐車して、
昼食を済ませ、ビューンと仙台までひとっとびです。
家を出てから3時間でみちのくの地に
立っているという便利さが
あるからこその現代旅ですね。
街道を歩いていたりしたら
何カ月もかかりそうやもんね。

仙台空港に降り立ち、
レンタカーの手配をして最初に向かったのが、
空港のすぐ北側にある
閖上(ゆりあげ)地区でした。

海辺の平地で家が全部流された地域です。

近くに高台などがないため、
車での避難も
渋滞でほとんど逃げることができず、
助かったのは学校、公民館などの
高い建物に逃げることができた人だけだったという場所です。


被災前


被災後

その地域を見渡せる、
日和山という場所に立った昨年、
その景色はまさに衝撃で思わず手を合わせてしまいました。



今回もその同じ場所に行き、
どうなっているのか見届けようと思ったわけです。


高台の上には、慰霊の施設が建てられています。

上がってみますと、そこから見渡した景色は・・・変わっていませんでした。

再びこの地区に人々が帰ってくることはもうないのかもしれない、
とそう思わせるような景色のままでした。
この1年間で唯一変わったのが、
新しい慰霊のおやしろが建てられてあったことでした。



横に建てられた案内板には
平成25年5月と書かれてありましたから、
これから竣工されるんでしょう。

災害から2年余りで復興したのは、
このおやしろだけというのは
いかにこの地域の復興が難しいかということを物語っています。

そういう風景にミセスdoironも衝撃を受けたようでした。
帰宅後、最も印象に残った光景は?
と聞くと、やはりここでの景色が
一番衝撃だったと言ってます。

初日の訪問はここだけにして
このあと宿に向かったのですが、
車中はいつになく静かな二人でした。

宿泊したのは、「遠刈田(とおがった)温泉」です。
蔵王のふもとにある古くからの温泉です。
こけしで有名です。



doironは今から30年ほど前に一度来たことがあります。
あの時は、雪の中やったなあ。

今回泊まった宿の部屋からは、
雪解け水が轟々と流れる松川の支流と
その向こうに蔵王連山が見えました。



そこでようやく、旅情がこみ上げてきました。

ここへ来るまでの道には、桜がいっぱい咲いてましたが、
山あいのこの温泉はまだ少し早いようで、
この川沿いに植えられているという一目千本桜の樹々も
満開となるのにはまだ1週間以上かかるような感じでした。

でも露天風呂に入り、
おいしい料理をいただいて、
ミセスdoironもしっかりのんびりしたようでしたな。
嫁ハン孝行できたかな?

翌日は、早くに旅館を出て、
まず中尊寺に行きました。
昨年も訪れたのですが、
ここはミセスの要望もあって、
外せなかったところでした。

境内は前回よりもかなり春っぽい雰囲気で、
さすがに東北ですね。
参道の脇の斜面にはカタクリの群落がさりげなくあったり、


ショウジョウバカマや



エンレイソウ



などが道端の雑草のように咲いていました。

お寺は当然、昔から変わらない姿なんですが、



自然の装いはやはり季節に合わせて変わるんですね。
それらの花々が咲く姿は、
昨年はまったく見なかった景色でした。


お寺を後にし、いよいよ二日目の被災地訪問です。
最初に向かったのは、気仙沼でした。

がれき類はほとんど撤去されていましたが、
こんな大きな船はまだ残されたまま。



それとやまあいの空き地なんかは、
そこまで手が回らないといった感じで、
法面の補修などは放置されたままのところも多くみられました。

一年前と違っていたのは、
被災地の雰囲気が活況を呈していたことです。
ハード面での素人ボランティアの出番などは、
ほとんどなく、専門の土木業者が
ガシガシと復興工事をしているような印象でした。

そこから海沿いを南下したのですが、
山を越えて小さな港に出るたびに、
壊れた堤防や寸断された線路が
まだまだ痛々しい姿をさらしていました。

そして南三陸町では、
復興屋台村に立ち寄りました。

仮設の店舗で、懸命に商売をされている人々の表情は明るく、
doironは、「お前も頑張れよ」と言われているような気がしました。

それが今回の旅で一番「来てよかった」
と感じた瞬間でした。

そしてdoironの今回の旅も終わりました。

最後に訪ねた「復興」にかけた仮設の「福幸」商店街では、
色とりどりで賑やかな大漁旗が、
懸命に働く人々の気持ちを象徴するように
元気に海風にはためき、



あの時牙をむいた海は、



何事もなかったように、
被災地の浜に静かに打ち寄せ、
青く輝いていたことを最後に報告して、

doironのみちのくふらり旅を終わります。


紀州街道を歩くさかい 最終話

2013年04月18日 21時52分15秒 | ウォーキング

ようやく最終話です。
みちのく話は後にして
とりあえず、この話のゴールをしてしまいましょう。


ヘルシアコーヒーと
キョロちゃんチョコでの休憩を終えて
再び歩き始めると、
道に建てられてあるこんな石碑に出会いました。



この石碑、このあと4キロほどの間に
15本ほども乱立気味に建てられており
少々、これでも感がありましたな。



見ると建立された年が違っているので、
どんどん増やしていってるように見受けました。
ま、もうこれくらいにしといたってくださいな。

駅が近いのでにぎやかな場所を歩いていると、
商店街の入り口のようなところで
小さな橋を通りました。
これ。



賑やかなところで写真を撮るのも
気恥ずかしいのですが
頑張っています。
それに写真を撮ろうとする場所に
宅配業者の車が止まっていたりすることも
たびたびありました。
さすがに人が集まって井戸端会議をしているところへ
「ごめんなすって」と分け入って
写真を撮ったりすることは・・できませんでした。

そんな橋のそばにあった自治会館も
三光会館となっています。



「三光」?そうですね前々回紹介した
「浜寺」の語源となった大雄寺を
創建した三光国師の名前から
きているんですね。

いにしえの面影が
橋や会館の名前となって
今に残っているんだそうです。

それにしても寺のあったのが
ここからずいぶん離れた伽羅橋付近と考えたら、
いかに三光さんの御高名が
あまねく地域に響き渡っていたか
ということが伺えますね。

先を急ぎます。

諏訪ノ森の地名は
やはりこの街道から400mほどそれたところにある
諏訪神社からきているのでしょうが、
その先の「石津」の地名の由来が面白いので
すこし書きます。

神代の昔、出来の悪かった神様である
蛭子命(ひるこのみこと・・戎様のこと)が
親の神様に見限られ捨てられて、
葦船で漂流しながら
この地にたどり着いたといわれています。
その際に携えてきた五色の神石を
ここに置いたので、
石津といわれるようになったとのことです。
それにしても、いくら出来が悪いからといって
子どもを海に捨てるって
非情な神様ですねえ。

その五色の石は、
今の石津太(いわつた)神社の鳥居の前、


石津太神社
(前の地面が黒いのはやっさいほっさい祭りのせい?)


紀州街道沿いにポンと置かれてあります。



歩道のかなりの部分を占領して
置かれてありました。
(けつまづきそうです)

それらを見ながら
なおもてくてく歩いていくと、
石津川にかかる太陽橋を渡ります。


太陽橋の南詰めの石碑


橋の南詰には石碑がいっぱい(街道モノではないようでした)


橋の上から石津川上流を眺める


そして下流には南海電車の鉄橋が

やがて街道は大きな道路の
泉北一号線にでてきます。
その道も果敢にまっすぐ突っ切り、
街道はいろんな表情を見せつつ
まだまだ続いていきます。

昔、南海電車に揺られて
外の景色を眺めていると、
あちこちで風車の姿を見かけました。
実際に見たのを覚えています。

今は全く残っていないそうですが、
その先の新湊小学校の横の
街道沿いの空き地に復元されていました。



これはとても懐かしい姿でした。

とまあ、そんなこんなで
いよいよ間もなくこの旅も終わります。

最後に船待神社で、
菅原道真が腰かけたといわれる石に腰かけて、



今回の旅を振り返ります。

思えばここまで2時間半。
もっと時間がかかると思いましたが、
意外に早く着きました。

街道を行き来した昔の人の旅も、
思ったほどスローではなく、
一日かけたら案外結構遠くまで行けるものだと
ちょっぴり感心させられました。

また、今回は歩く旅と決めて
そういう装備で移動しましたが、
ジョグができるような
走る格好だったら、
何もない区間なんかは気が向いたら
ゆっくり走れるから、
時間の節約にもなって
いいかななんて知恵がわいてきました。
(勝手に寄り道ばかりしているくせに・・・)

そんなこんなをいろいろ考えたのも
さすがに菅公の石の御利益なのかもしれません。

道はこの後ですぐに御陵通の大きな交差点に出ます。
そこから先は、
熊野街道と紀州街道は
同じ道を行くことになります。
(旧熊野街道として御陵通を東に行き
もう少し東側を北上するという道もあります)

それらはまた、近いうちに必ず行くぞ~と
固く心に誓ったdoironなのでした。

「紀州街道歩くさかい」はこれにておしまいです。

もっと石津太神社の
海からあがった蛭子命を温めるために
火を焚いたのが始まりと言われる
「やっさいほっさい祭」のことや
太陽橋のことも書きたかったのですが
読む方も疲れると思いますので
最後は少々駆け足で書きました。
それらはまた
別の機会にでも書けたらいいなと思っています。

また、今月29日の堺シティマラソンの日には
篠田王子から大仙公園まで熊野街道を
歩いて行こうかと思っています。

すべて天気次第なのではありますが・・・


紀州街道を歩くさかい その4

2013年04月17日 22時34分42秒 | ウォーキング

みちのくふらり旅を終えて帰ってきました。
現在写真データ等を整理中です。

とりあえず、紀州街道を
引き続きお読みください。
今回は浜寺公園周辺です。


何度も通ったことのある道なのに
じっくり歩くといろんなことに
引っかかります。
紀州街道の歩き旅を
書き綴っているものの
話が寄り道ばかりだから
なかなか進まない。
ここからは心を入れ替えて
しっかり歩き旅を紹介しようと思ったのですが
なかなかそうもいかない
doironなのでした。

今回のお話の舞台である浜寺公園は
泉州マラソンスタート地点としても
おなじみの公園です。
なんでも日本で初めての都道府県立公園だとか。
そしてこの公園の片隅にも
ちょっとした逸話が残されていたのです。

大会時には、かなりレトロな浜寺公園駅



を降りて公園に向かいます。
この駅は案内板によりますと
明治生まれだそうです。



大正生まれのうちのおやじより古い!

そしてこの駅舎の南側には
「ステーションギャラリー」なる看板が
掲げられています。



ここはなんでも、沿線の人の作品展示発表などに
有料で利用できる仕組みなんだそうです。

ふむふむ

そんな駅舎を後にし、左手に
「ちん電どら焼き」と「松露だんご」の表記が
気になる和菓子屋さんを眺めつつ



また右手に阪堺線の「どこまでのっても・・・」の
運賃の看板貼紙を気にしつつ



府道を横切って
公園に入ったところをすぐに右の松林に入っていくと
大きな石の碑が建っています。



これにはその昔、財政難から
浜寺公園の松をどんどん伐採していた時に
そこを訪れた大久保利通が読んだ歌が
刻まれています。



つまり、どんどん松を伐採していく行為を
嘆いた歌だと言われています。

「音に聞く 高師浜の 浜松も 世のあだ波は 逃れざりけり」

この碑は彼がこの公園の松を惜しんで建てたことから

「惜松の碑」と呼ばれています。

泉州マラソンの時に、
毎年みんなが集まるところからすぐのところに
こんな碑が建っているとは
思いもよらなかったですねえ。
歩きならではの発見です。

とまあそんな寄り道ばかりせずに
先を急ぎましょう。

この公園に沿って、紀州街道は
府道の歩道を行きます。
そして公園の北の端を越えたところで
右折をし、線路を越えてすぐに左折する道へと
街道は続いて行きます。

と、その前に
角のコンビニで小休止しました。
心地よい気候とはいえ、
脱水は禁物のdoironです。
水分補給に持ってきた薄いスポドリを飲むと同時に、
ここで買った今話題のこのコーヒーと
キョロちゃんチョコをいただきました。



ここまでで約1時間30分が経過していました。
この後、諏訪ノ森、石津、湊と
続いて行きます。


みちのくふらり旅

2013年04月16日 21時04分15秒 | 最近の出来事

あの地震・津波から2年以上が過ぎました。
昨年、退職を機に
友人とその状況を目に焼き付けようと
出かけた東北に
今回は、ミセスdoironとふらりとやってきました。

空港をおりたち
昨年と同じコースをたどります。
当時、復興はまだまだだと感じた
気持ちの通りの現地でした。

今日は蔵王のふもとに
宿泊中です。

みちのくふらり旅は
帰って落ち着いたらまた書きます。


紀州街道を歩くさかい その3

2013年04月15日 21時10分52秒 | ウォーキング

高石神社を後にして
街道に戻り、doironは
さらに北へ北へと向かいます。
って、まるで演歌のようですねえ。

ほどなく、南海高師浜線の高架下をくぐります。
この東側に伽羅橋(きゃらばし)駅
西側には高師浜(たかしのはま)駅があります。

実はこの二つの駅名は
この地域の地名である
「高石」や「浜寺」と深い関係があります。

その昔、「高師の浜」は摂津の住吉から
今の堺・高石に至る広い地域のことを言ってました。
遠くに淡路や神戸を臨む白砂青松の
いわゆるリゾート地であったと言われています。
広重も名所図でこんな絵を描いてます。



そんな高師の浜の近くに
三光国師の号を持つ弧峰覚明(こほうかくみょう)が
大きな「大雄寺」を創建し「浜の寺」と呼ばれるように
なったのが「浜寺」の地名の由来だと言われています。

その大雄寺も応仁の乱で焼失し
今は遺構もありませんが、
伽羅橋駅前に碑があるそうです。
残念ながら今回はその確認はしていません。
この碑も含めて、今回見逃したところは
後日バイクで見に行こうかと考えています。

とまあ、「浜寺」の由来はそんなわけで
「高石」の地名も「高師の浜」が変じたものと
この地域の地名の由来には
「高師の浜」が深く関係しているというお話でした。

それからもう一つ気になるのが
「伽羅橋」という名前ですね。

この地域のやや北側には
芦田川という川が流れています。



昔、伽羅橋はこの川に架けられていたと
言われています。
橋の板が香木である伽羅だったため
そう呼ばれています。
伽羅というのは、正倉院に収蔵され、
これまで、足利義満や織田信長、明治天皇らが
その香を嗅ぐために削ったとされる
蘭奢待(らんじゃたい)と同じ香木なんですね。
樹脂化した部分が
強い香りを放ちます。

この橋には、別名があり、
ある時その香木を売り払ったら
銭千貫にもなったことから
千貫橋ともいわれていたそうです。
(別の説では、香木を使ったので
千貫もの費用がかかったからともいわれています)

いずれにしましても
今は橋は架かっておらず
新伽羅橋という名前の橋が
改修後の芦田川に架けられています。



そうか、もう伽羅橋はもうないのかと
思うとそうではありません。
しつこく調べてみますと
なんと別の場所に
移設されて残っているのです。

臨海の埋め立て地をどんどん沖の方に向かっていくと
突き当り近くに「高砂公園」という公園があります。
その中に移設されてあると資料に書かれてあったので
歩いて寄り道するにはあまりに遠いから
後刻に車でそこを訪ねて捜索してみました。

大きなタンクローリーやダンプが往来する
埋立地をどんどん進んで行くと
やがて右手に樹がたくさん植えられた
公園が見えてきます。
それが、高砂公園です。



このあたりも昔は走ってきたこともあるし
バイクでも休日の閑散とした広い道路は
エアロポジションをとる絶好の練習場所でしたから
たびたび訪れていた場所でした。
なので公園があることは知っていたのですが
中まで入ったことはなく
今になってこうして出かけていくのも
奇なものですな。

駐車場に車を止めて公園内に足を踏み入れたら
すぐにわかりました。
公園内でオーラを放っておりましたから。

森の入り口あたりに架けられた石の橋、
それが幕末に再建されたという
「伽羅橋」でした。





残念ながら、香木ではなく石でできた橋でした。



昭和63年に移設されたと書いてありました。

で、その伽羅橋の周りを見てみたら
何とびっくり

最初に通った小高石橋の橋げたの標柱や



不審者すれすれで公共施設の周りを
探し回った道標も



この場所に移設されていました。
橋の写真の手前に写っている狛犬と
4つの石柱がそれです。

狛犬は出土したもの
その横の二本が小高石橋の標柱
次が高石街道(初耳!)の道標で
一番右端が、探していた紀州街道に建てられていた道標です。

少し前の資料に基づいて探していて
ないないと思っていたら
こんなところにきていたんですねえ。

しかし、道標なんてその場所にあるから
価値があるもので
こんな人里離れたところに置いといて
どうするねんて感じですけどね。

とまあ、今回のその3は歩くというより
いろいろといにしえ探りが過ぎました。
気を取り直して次回その4からは
続きの浜寺公園からゴールの御陵通まで
もう少ししっかり
歩いていくことにします。


全日本濱練

2013年04月14日 17時40分25秒 | トライアスロン

久しぶりに濱練に行ってきたので
紀州街道ネタは一回飛ばしとなる。
それに、昨日熊取の山にも行ってきたのになあ
それはしばらく後になりそうだ。

って、なんかブログの形態まで
ジダン化してきたかも

ま、その辺は気を取り直してっと。
(立ち直り、はやッ)

さて濱練とは、何かと申せば
昔からのトラ友達である
濱ちゃん主催の貝塚は二色浜公園周辺で行われる
バイクとランの練習会なのである。

春真っ盛りのいいお天気の下
ぶらっと参加してきた。
駐車場は、国華en近くの二色浜公園

日曜日でも普段はひっそりとした
静かないい公園なのだが、
今日は水上バイクの全日本選手権が開催されており、
浜の周りや駐車場には結構な人出があった。



それにしても何でも「全日本」をつけたらいいというものではない。
トライアスロンでも「全日本大会」と名前の付いた
大会は多いが
かといって出ている選手が全日本クラスかというと
そうでもない。
「全日本」・・・つけたもん勝ちですな。

てなわけで、今回の練習会は
「全日本濱練」と名付けた次第なのであ~る。

浜周辺のにぎやかさとは違い
バイクコースは休日とあって
休みの会社も多く、
道はすいていて快適であった。

ただし、風は強かったなあ。
ほんで、波もかなり荒かったよん
とはいえ、スイムの練習はありません。

参加したのは、
浜ちゃんとひげパパひげママ夫妻、
そしてセイゾー君と私。

来週に宮古島の全日本トライアスロンを控えて、
気合の入ってきた夫妻と
常にハイテンションの浜ちゃんの
バイクについていくのはやめて、
マウンテンバイクのセイゾー係長と
小一時間つるんで走った。
そうそうセイゾー係長も
5月の萩70キロに向けて
頑張っているとかいないとか。

仕事の事とかいろいろとお話しながら
小一時間のんびりバイクに付き合っていただきました。

しかしまあなんですねえ
そうしてバイクに乗ってると
ほんとに気持ちいい季節だこと。
そうやなあ
何もレースだけがバイクじゃない。
のんびりとバイクでツーリングもありかもしれない
なあんて、最近スローに生きてるdoironなので
しみじみと考えてしまったなあ。

うう、いかんいかん。
今はやることが多すぎて
欲張るのは控えよう。


さて、全日本濱練では、
バイクの後はランである。

これもみんながランコースを二周する間、
doironは半分の約1周を歩いたり走ったり、

写真を撮ったり、





海を眺めたり、



関空に着陸していく飛行機を眺めたりしながら1時間。



半袖のTシャツ姿だったけど
全然平気の快適さだった。

そして、この公園には
釣りをする人も多い。
埋立地の沖だから
結構魚影も濃いように思える。

そうそう二色浜と言えば
昔は潮干狩りのメッカだったけど
最近は



こんなことで、ちょっと困ったもんである。



そこのけそこのけと
ハトも蹴散らす勢いで
みんなが帰ってきたところで
本日の全日本濱練は終了。

次回は、来々週だとのことです。
天気よければまた行きま~す。


紀州街道を歩くさかい その2

2013年04月13日 21時10分43秒 | ウォーキング

いきなりの道標騒ぎを尻目に街道を北上してまいります。
まずは泉大津美原線の高架です。

先日調べた時に、
泉大津に残っている紀州街道の道標は
この高架下の一里塚のみ
と書かれてあったので、
それを探そうと思ってました。

高架下をキョロキョロと、
まるで不審者のように探しましたが、
その甲斐もなく見つかりませんでした。
どこかに移設でもしたんでしょうかねえ。

仕方なくこのときはあきらめることにしました。

また、機会でもあれば
教育委員会にでも聞いてみようかと思います。

さて、街道ですが、
そこから50mほどで小さな橋に出ます。

そこが「小高石(こたかいし)橋」です。



そうです。
もう高石市に入っているのですね。

この橋の下を流れる川の名前は

「王子川」

といいます。



きっと熊野街道と何か関係があるのだろうと、
上流を地図でたどってみると、
暗渠になっている部分もあったりして
不確かなのですが、
やはりどうもくずのは稲荷の方向から
流れ出す支流を持つようです。

その神社の近くには王寺町の地名もあるから
きっとそんな関係でしょう。

そのときはそう思ったのですが
紀州街道が熊野詣と深い関係にあることは
この後でわかりました。

それにしてもそんな歴史ある川に
架けられた街道の橋なのに、
橋げたの標柱は最近のもののようなので、
きっと架け替えられたんだろうと思われます。

その橋を過ぎて王子川の名前の付いた交差点で



街道は府道を斜めに横切っています。
ここからしばらくは、
府道と並行して1本東側の道を
歩くことになります。
その旧道に入ってすぐに、
昔の姿を思わせる古い家の塀の前に
案内板が建てられていました。



高石市が建てたもののようです。

そこには、紀州街道が昔熊野詣にも使われたこと、
参勤交代に行き来する道であったこと、
伽羅橋と小高石橋のこと、
府内部分で50キロほどあることなどが
書かれていました。
街道ウォーカーの好奇心を満たしてくれる
ありがたい案内板ですね。

この手の案内板は
高石市内の各所で、
その場所にあった内容で
建てられてありました。

そしてそこからさらに400mほど行ったところで、
今度は右側に立派な太子堂がありました。



doironが住んでいる村でも、
月に一度、村の太子堂ともいえるお寺で

「おだいっさん」

といわれるご詠歌をあげる集まりがあります。
きっとこの太子堂でも
そんな集まりがあるんでしょうねえ。
きれいに整備されておりました。
そしてその太子堂の前にある地蔵がまた面白い。



高石の浜の地引網であげられた
2体の石が地蔵の姿をしているのでと、
祀られてあります。



よく見ると石のあちこちに
貝殻がついており、

「貝殻地蔵」と呼ばれています。

地方へ行けば、化石がついた
恐竜地蔵やアンモナイト地蔵なんかが
あるかもしれませんな。


ここまで歩き始めておおよそ25分くらいでした。

経過時間は、この街道を歩くにあたって
あらかじめ下調べをし作成した地図に書き込んでゆきました。
また、その地図には道標や
いわれのありそうなところも
チェックして書き込んであります。



これによりますと、
この太子堂の先300mくらいの所にある
公共の建物の周りに一つの道標があることに
なっていましたが、見当たらずかなり探し回りました。
ここでも不審者すれすれの行動となったので、
街道歩きは一人じゃない方がいいなあなどと思いましたね。

で、結局その道標は見つからなかったのですが、
実はそれが意外な場所に移設されていたことが、
後でわかるのです。
そのことは次回以降に書くとして
この後、少し街道をそれて
高石神社にもお参りをしました。







境内には

「白川鳳皇 熊野権現御旅所」

と書かれた岩もあり、



先の案内板にあったとおり
紀州街道と熊野詣が密接な関係にあったことをうかがわせました。

そして神社の横には4台のだんじり小屋が集まっています。



わが村でも祭りが近づけば
だんじり小屋の周りには毎夜青年団が集まったり
鳴り物練習をしたり大騒ぎとなりますが、
1台だけでもそんななのに、
4台が集まっているって、
どんなけ賑やかなんやろうと思ってしまいますね。

祭りのときは日がかぶるので、
祭り前に一度様子を伺いに行ってやろうと思いました。

そうそう、この神社でオヤっと思ったことがもう一つあります。

それはこの神社の縁起を書いてある案内板なんですが、
神社の名前のルビが

「タカイシ」神社ではなく「タカシノ」神社

となっていたことです。



このことは、このあと通過する「浜寺」とあわせて
この地域の地名の由来について、
ひとつの事実を物語っているわけですが
そのことも次回にあわせて紹介します。

ここまで歩き始めて40分が過ぎました。


紀州街道を歩くさかい その1

2013年04月12日 21時27分07秒 | ウォーキング

さて、先日泉大津市内の部分を歩いた紀州街道なんですが、
爽やかな天気の日に
花粉ニモ負ケズ、黄砂ニモ負ケズ
PM2.5にも、北のミサイルにも負ケズ
今度は助松より北の部分を歩いてきました。
題して「紀州街道を歩くさかい」
もちろん「さかい」と「堺」はかけています。

この道は、今もランニング仲間が
住吉大社まで走ったりする道で、
アブさんちもよく走っていたように思います。
もちろんdoiron自身も
何度か走ったことがある道です。

ですが、今回歩いてみて思ったのは、
車と走るのとでは
全然景色が違うように、
走るのと歩くのとでも
まったく違う印象でした。

この歳になるまで考えたこともなかったことや
全然気づかなかったことなどもあり、
いささかオーバーかもしれませんが、
また新たな世界に出会ったような気がします。

街道を歩くのは、
先人の想いに触れ、
謎に触れ、未知のいにしえにも触れる
なかなか味わいのあるものだと、
今回のウォーキングでしみじみと感じました。

まあ、あくまで自己満足の世界なんで、
何ゆうてんねん、というお方もおられるでしょうが、
この街道歩きのdoironの言葉に触れ、
走るときにちょっとした周りの風景に
興味と親しみを持っていただけたら
一段とほっつき走りも楽しくなるんではないかと
思っておりますので、ぜひご一読ください。

それでは、紀州街道 高石~堺編の始まりです。

前回は、北助松駅をまっすぐ海の方に下がって、
突き当たりの紀州街道を左折して南下しましたが、
今回は右折して北上していきます。

で、その起点でいきなり、
未知のいにしえに出会いました。

これ。



右折しようとする道の角に一つの石の道標がありました。
前回、泉大津に紀州街道の道標はないと
書いたのにここへきていきなり訂正か、
と思いつつ眺めてみると、
そこに書かれてあったのは
大正6年に建てられたものであることと

「中和泉街道」

なる文字が刻まれていました。

先日、図書館で見つけた
「大阪の街道と道標」にも
そんな街道名は出てなかったはずです。

ただ「和泉街道」はあった記憶があるので、
その時は「右、○○街道」とよく道標に書かれてあるように
きっと、「中」にも何か表現の意味があるんだろうから、
帰って調べようと
その場は「中・和泉街道」であると納得して歩き始めました。

で、先に後刻に調べた内容を書きますと、
和泉街道というのは
高石の取石で熊野街道を離れて、
太子町の聖徳太子の墓所があるといわれる
叡福寺に至り、
その先で日本最古の官道である竹内街道に
つながる街道なので、
まったく別物であることがわかりました。

で、さらに調べていくと、
やはりネットの威力はすごいですねえ、
答えに行きつきました。

実は、街道の名前そのものが

「中和泉街道」

だったんです。
この助松町から伸びる
「中和泉街道」は
「布引の道」とも称され、
助松浜に上陸した信太大明神が、
先日少し前に、このブログの
「信太楽しむのだ」シリーズで紹介した
聖(ひじり)神社に向かった道なんだそうです。

確かに、それなら地理的にも
つじつまが合います。

そしてその道行の際に布を引いたことから、
「布引の道」なんだとか。

布引という漢字でも、由来の記述でも
布を「引いた」となっているので、
ずるずると引きずって歩いたのでしょうか。
それとも泉州のこのあたりでは
敷く(しく)とはあまり言わずに
敷く(ひく)と言います。
なので、古代のレッドカーペットよろしく、
道に布を敷きつめたのかもわかりません。

三省堂の「新明解国語辞典」では
「布引」は『(さらすために)布を引っ張ること』
あるいは『布を張ったもの』となっていますが
なるほど六甲の布引の滝は
布を引っ張って貼ったような
様子を呈していますねえ。
でも、歩くのにそれはどうなんでしょう。
おつきのものが、ちょっと誤って踏もうものなら
まるでドリフか吉本やもんな。

結局その辺はよくわかりませんでした。
またそれは次の課題にいたしましょう。

ともかく、道標に彫られていた言葉は
そういう伝承をはらんでいたわけでした。

とまあ、歩き始めていきなり
いにしえに出くわしたわけですが
この後も歩を進めるにつれ
地名にまつわる話や
道標にまつわる話などいろんな
いにしえに出会った旅になりました。

doironが出会った意外なエピソードや秘話とは?


「紀州街道を歩くさかい」

は次回に続きます。


活動量計

2013年04月11日 21時33分20秒 | 生活

先日、ひょんなことで活動量計をいただいた。

あの食堂でおなじみの、
ていうかもともと医療や健康に関する機械器具でおなじみの
「タニタ」の製品だ。



これまでの、いわゆる「万歩計」の進化型で、
歩数のみならず消費カロリー、
脂肪燃焼量、移動距離なども計測してくれる。

そしてなにより
これまでとは異なるのが、
基礎代謝量ともいうべき
安静時のカロリー消費量なども
一応設定してくれるという優れものだ。
まあ、これは標準的なものにすぎないだろが・・・。

それらすべてを加味して、活動量ていうか
消費カロリーが一日の時間帯別に記録されるとともに、
2週間分がメモリーされるというものだ。

ネックストラップで首からぶら下げておいてもいいそうだが、
doironはたいていは
ズボンの左ポケットに入れている。

で、ここ最近の消費量を
その器具のメモリーで見てみると、
おおむね標準的な一日だと、
生活に要する消費カロリーは
約2000キロカロリーであることがわかります。
0℃の水20リットルを沸騰させることができるエネルギー量です。

そこへ夕方のジムでノルマを課している
500キロカロリーの運動が加わったり、
昼間のウォーキングなんかが加わったりすると、
多い時で約3500キロカロリーを
消費しているということがわかってきました。

ダイエットするにも、
まず己から知ろうということで、
これはなかなかありがたいいただきものでした。

おかげで、なんとなく自分の活動量がわかってきました。

そうそう、昔は練習で一日65キロを走ったり、
バイクを180キロ漕いだりとか
していた頃もありましたが、
それだとどんな具合だったんでしょうねえ。
萩往還で何万キロカロリー消費!
とかきっと言ってたでしょうねえ。

そんな日々に比べて
運動量がぐっと減った昨今ですが、
遅ればせながらこんな具合に
一日の消費カロリーを計算する準備は整ったので、
あとは身体のためにも、
摂取カロリーをきちんと把握して、

消費カロリー>摂取カロリー

を目指して、ダイエットを進めていかねばと、
チューハイを飲みながら考えているdoironなのでした。

それがあかんやん!