ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

すっ富田林 3

2015年12月09日 21時25分56秒 | ウォーキング

この店のそばにあった石には

「衝破徐」と書かれてありました。



こういう石は南河内によくあるといわれています。
道の突き当りや三叉路のところには
よくない霊が宿るといわれ、
それを取り除くのが
この石の役目のようです。

そう、もう思い出しますね。
沖縄の「石敢當」と同じ発想ですね。

沖縄、鹿児島でよく見かけますが、
「石敢當」は長い間歩いておりますと、
和歌山の熊野古道沿いでも見かけたことがあります。

この衝破徐は、これまでの研究で
どうも明治時代ころのものが多いようです。

でもねえ、ホンとは、
こういう魔よけの石は
「チンリンサン」と言われて
昔からあったそうなんです。



地蔵さんやお寺の境内に
転がっている丸い石が
ほんとは昔からそういう石
だったのかもしれません。

いやあ、それにしても初めて
「衝破徐」見かけました。

そして、ここの寺内町のもう一つの特徴が、
「あてまげ」と言われる制度です。



最初、これを見たときは
道が何か川なんかのせいで
整備しなおしたときに
おかしくなったのかなあ
と思っていたのですが、
そうではなくて、
なんとこうなっているのは、
最初から遠くを見渡せないように
わざとこんな造りにしたそうなんです。

これを「あてまげ」といい、
特に城之門筋と富筋が東西の町筋と重なるところは
こうなっているそうです。

今もその痕跡は、
あちこちで見かけることができます。



道のあちこちに立つ、
こんな古い木も



もしかしたら昔からの樹木なのかもしれませんね。

この家の二階には鍾馗さんが2期ありました。



でもねえ、これはまあ鍾馗さんでしょうけど、



これは果たして鍾馗さんなんでしょうか。



鍾馗さんと一緒に掲げられているのは
鬼だったりすることはあるようなんですが、
鬼にも見えませんしねえ。

ちょっとこれはわかりませんでした。

この鍾馗さんの後ろにある窓が
「虫籠窓」ですね。



屋根裏部屋の風通しと
明り取りのためにつけられた窓なんですが、
これもまたいろんな種類がありました。



こういう形はどうも江戸時代の
ものなんだそうです。

これもまた、この寺町界隈を歩く時の
楽しみの一つなんでしょう。

コーヒー豆やさんの隣にあったのが、



佐藤家住宅です。



屋根にいっぱい乗ってる鬼瓦も
なかなかのものでしょ。



どうもここには鬼瓦のついている家が多いなあ
と思っていたら、
あとのほうにあった寺内町センター内に、
たくさんの鬼瓦が並べて置かれてありました。

きっと昔のそんな鬼瓦が珍しく、
並べておいてあるのでしょう。

こんな石が置かれてあったのが、
もともと平井村(現美原町)から来た
という越井家です。



で、その先をふと見上げると、
道の向こうが大きく広がっています。



そうかあ、もともとお濠で囲まれた寺内町は、
周りに比べてこんなに高いところに
あったんですねえ。
先を見に行くと、大きな会談で
ドヨーンと下がっておりました。

野生ランの鉢植えや、



大峰講の名前の付いた町なんかが



この一角にはありました。

さあ、また反対向いて西へと向かっていきましょう。

おっと、ここに富田林市の汚水蓋が
3枚重なっておりました。



どんなのかと言いますと、



葛城山と金剛山が重なった山の景色の前に、
この寺内町の古い建物が描かれ、
市の木である楠と市の花であるつつじが
飾っているというものです。

相変わらずの古い竹物を見ながら歩いていきますと、
おお~ここには三階建ての
古い建物がありました。



前「葛原家」の建物です。



前にあるのが本家の「葛原家」。



もともと十津川の元郷士で
酒屋を営んでいたそうだ。

その分家ということで、
前葛原家は味噌、醤油などを譲造して
商売をしていたようだ。

そこからしばらく進んでいくと、
お堂の前にちょっと変わった
土蔵の台が置いてあるところが見えてきた。



ちょろっと近づきつつ、次回に続く。