ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

淀川完歩15 伏見着

2015年08月31日 20時57分20秒 | ウォーキング

腹ごしらえを済ませて、
再び歩きはじめた。

このあたりで歩き始めて
約9キロだから
あとひと踏ん張りだ。

車を通行止めにした気持ちのいい堤防道路を、
電車の線路と並行してテクテクと進んでいくと、



やがて山科川と宇治川の合流点に到着。



もう夏も終わりに近く、
このあたりにも赤とんぼが
やたら群れて飛んでいた。

顔に向かって飛んできたトンボを
スウェイバックでよけた拍子に、
背中がぐきっとなってしまったぞ。
あ~あ、いくら無邪気に遊んでいても
寄る年波には勝てないなあ。

あ、こんなところに「江戸町」がある。



東京の江戸と何か関係があるのかと思いきや、
実は淀川と江戸には
語源的に深いつながりがあるのだ。

つまり水が淀んだ低湿地を「淀」といい、
それがなまって「江戸」となったという説がある。

また、別の側面から見ても
「江」は港のことで「戸」は入り口、門という意味があることから、
舟運の盛んだった淀川沿いのこの地域に
「江戸」という地名があるのは、
江戸幕府の出先があるとか
江戸の人が住んでいた街があるとかの
歴史的な意味合いがあるからではなく、
単に地形的なところによるものが
多いのだろうと思われるのだ。

あ、距離標だ。



河口まで45㎞とある。
着実に近づきつつありますな。

ここは宇治川のほとりの旅館

「桃山温泉 月見館」。



登録有形文化財の木造三階建ての建物が目を惹く、
伏見観光のお宿である。

前方に上下二段になった大きな橋が見えてきた。



これが「観月橋」。

ここから観る月がいいのかというとそうではなく、
少し上流の先ほどの「江戸町」あたりの
「月橋院」で秀吉が催した
月見の宴に由来している。

この橋の歴史は古く、
鎌倉末期頃からあったそうだ。

川が荒れることが多く、
何度も何度も付け替えが行われ、
とりわけ秀吉が豊後守に命じて作らせたころは
「豊後橋」といわれていたそうだ。

木幡にあった、あの土塁のような
築堤を使っていた火薬工場に
石炭を運ぶ船の画像が残っている。



今よりもっと水量の多かった当時、
この外輪船の煙突が
橋の欄干より高かったため、
通過するときは煙突が倒せる構造になっていたそうだ。

この観月橋と隠元橋、
そしてスタート地点の宇治橋が
この地域の三大橋と呼ばれていた。

その観月橋の下をくぐり
もう少し下流へと進み、
中書島の駅に向かって
本日のメイン歩行は終わり。
合計12km程度を歩いた。



京阪電車で先ほど歩いてきた
山科川や宇治川の流れを眺めながら、
再び宇治の駅に戻った。



普通ならここでまっすぐ車へと向かうのだが、
今回は京阪宇治駅周辺も少し散策をした。

駅のホームで買ったこれで水分補給をし、



出発。
駅を出てすぐのところにあったのが、

「東屋観音」。



この「東屋」というのが源氏物語にも登場する。



源氏物語は色恋沙汰が多く
人間模様が複雑なため
よくわからない部分も多いが、
まあこうして物語に名前を残しているので、
立派な一角にこの観音さんが据えられている。



見所はもうひとつ。

駅から宇治川の右岸に出て400mほど歩くと、

「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子御墓」

がある。



応神天皇の皇子で皇太子に任命されたが
自分より年長の兄こそ天皇にふさわしいと
自ら命を絶ったそうだ。
(継承争いが盛んだった頃だから自ら・・・という部分は怪しいが)

天皇になった兄が「仁徳天皇」なのだ。

そんな遺跡も見て歩き、



宇治から伏見を歩いた今回の散策。

当初は行こうかどうかウジウジ迷っていたけど、
8月も末になって、
気候的にもかなり歩きやすくなっており、
快適な散歩で来てよかったな。

これならもうそろそろ
熊野古道も再開できそうだな、
しめしめと思いながら今回の淀川完歩は終わったが
doironのほっつき人生はまだまだ続くのであった。