桜塚の由緒正しい原田神社で
「森のおはぎ」をいただいた後は、
またガシガシと進んでいきます。
豊中市役所前の交差点に出たら右折します。
しばらく交通量の多い
国道176号線の歩道を歩いていきますと、
左手にロードレーサーを主に扱う
シルベストサイクルがありました。
2011ジャパンプロツアーランキング10位の方が
スタッフにおられるというお店です。
皆生のバイクパートで200位以内に入ったことのあるdoironでも、
全く格が違います。
チョロッと寄り道しましたが、
さすがにメジャーなロードバイクが並んでおりました。
トラを始めた頃は
堺にあったこのお店にもよく行ったもんです。
確かその頃は、
女子レーサーの日本の第一人者がいた
と記憶しております。
その店を過ぎ、
中桜塚3の交差点を左折し、
住宅街に入っていきますと、
小学生がウロウロし始めます。
アチャー、
下校時刻に当たってしまいました。
子どもがウロウロとしているところでは、
写真を撮りにくいものです。
「変なおっちゃんや~」と言われて
石を投げられかねないからです。
まだまだ市民権を得ていない、
「街道ウォーカー」の宿命です。
その南桜塚小学校の
すぐ横の歩道には
「はにわロード」という名前が付けられてあり、
隙を縫ってすばやく写真を撮りましたが、
この通り。
不審者呼ばわりされたくないばかりに
慌ててピンボケになってしまいました。
その学校の北側の公園内にあるのが
「大塚古墳」
昭和58年に発掘調査が行われた、
桜塚古墳群の東群を代表する古墳です。
高さ18メートルの三段築造の円墳とのことで、
どんな形をしていたかというと、
公園内の砂場に再現されていました。
これ。
そして古墳本体には階段が付けられ、
墳頂に立つことができます。
ハトがたわむれておりました。
この近くの住宅街にも北天平塚古墳があったそうですが、
住宅開発で跡形もなくなっておりました。
公園をぐるっと回って、
再び小学校の方に戻っていくと、
今度は「御獅子塚古墳」があります。
昭和60年と平成2年に発掘調査が行われ、
円筒埴輪や勾玉など多数が出土しています。
中には須恵質のものも含まれています。
「須恵器」とは古墳時代の埴輪の多くが
野焼きで作られている土器であったのに対し、
ろくろ、窯を使って高温で焼き上げたものを
総称していいます。
高温で焼いているので硬いのです。
この御獅子塚古墳は
小学校に隣接してフェンスで囲まれ
とてもよく整備された状態でした。
そこを出て、ふたたび住宅の中を行くと
広い道路に面して
かろうじて古墳の一部が残されていました。
これが「南天平塚古墳」。
これで桜塚古墳群の残存している古墳は
すべてチェックしたことになります。
あとは服部緑地の北っぺりを歩いて、
新御堂に沿って走る
北大阪急行電鉄の駅に向かいます。
で、途中「熊野」という地名の街を通りました。
熊野詣と何か関係があるのか調べてみますと、
やはり関係がありました。
熊野古道のひとつ
中辺路の箸折峠近くに
牛馬童子像と言われる小さな石像があります。
石の文化ではなく木の文化であったといわれる熊野信仰のなかでも
珍しい石像です。
少し前にこの童子の首が
切り落とされるという事件がありました。
決して、柳生十兵衛の仕業でも
荒木又右エ門の仕業でも
ジダンの仕業でもありません。
今は復元されていますが
これは復元前の写真です。
いつかは本物を見たいと
思っているもののひとつです。
この像のモデルになったのが、
「花山法皇」と言われています。
その花山法皇が、
熊野信仰のお寺を
この豊中に築いたために、
「熊野」の名前が残っているとのことでした。
街道歩きが思わぬところでつながりました。
その熊野町を抜け、
桃山台の駅に出ると
その近くに、旧新田小学校の校舎が残されています。
いつか行った小豆島の岬の分教場のようでした。
そして桃山台から、新御堂に沿って
緑地公園駅まで歩く
全長約13キロの歩行旅を終えた
doironなのでありました。
街路樹が風に揺れ
道路の埃が舞い上がる風の強い日でした。
都会の風は何となく寂しげなにおいがしました。
豊中の世の中シリーズこれにて終わり。