ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

ドジ旅日記柳生一族の陰謀編5

2013年12月11日 21時11分49秒 | ウォーキング

昼食でエネルギーチャージをして、
剣豪の里コースに進んでいく。

目指すは柳生の里。
待ってろよ、十兵衛。

相変わらず東海自然歩道の標識に導かれて、
途中、ずいぶんと悩んだ分岐もあったが、
標識通りくねくね道や分岐を越えていく。

どわ~

ここでジダンのブログの
進み具合と比較してみますと
えらいこちらが遅れて
置いてけぼりを食らってるではないですか。

宿題も巻き散らかされているし
ここらで一気に追いつかねばなりません。
シリーズもあと2回で終わらせないといけないし
ということで、すっ飛ばしましょう。
この辺りの素晴らしい
街道の景色をばしばらくお楽しみいただきながら
追いかけていきましょう。



















ガイドマップによると、
途中、岩盤に彫られた
「梵石」もあるとのこと。

梵石とは・・・ネットで調べてみると、
中国語のサイトがズラズラッと出てきましたが、
わかりません。

とにかく、ありがたい石なのでしょう。

写真をパチリ。



と、このあたりでdoironの携帯バッテリーが赤くなってきた。

経過報告を求めるメールが頻繁に来るし、
GPSを稼働し続けているのと、
田舎道なので思いのほか消耗が速いようだ。

あ~あ、バッテリーコードさえあれば
柳生一族の陰謀を打ち砕けるのになあ。

ジダンのカメラが頼りだあ。
ということで、ジダンだを踏みました。

途中で道に迷っている一人歩きの男性に道を聞かれた。

奈良から歩いてきているとのこと。

一瞬「へえ~」と驚いたものの、
自分も奈良からきているのだと気がついた。
近頃ボケてるなって思うことがよくある。

ボケながら、夜支布(やぎゅう)山口神社に到着。



最初はこれを「やぎゅう」と読むとは気づかなかった。

調べてみると、「楊生」・「夜岐布」・「養父」も
「やぎゅう」と読むらしい。
ずっと気になっていた
「柳生」のいわれが
ますます混沌としてきた。

それはさておき、
この神社で見たかったのが、
御神体になっているという大きな立磐。



交野市にある磐船神社と似ているが



岩の規模は小さい。

奈良の山間部には、
地形上巨岩が多く、
巨岩巨石に対する信仰が多く見られるという。

実際、平城京の構造物に使われている石の
ほとんどは奈良市内で調達されたといわれている。

そういう意味では、
石仏が多く点在する柳生街道は、
また巨石運搬の道だったのかもしれない。

この先にあった水木古墳の石も
このあたりの山から豊富に切り出される石を
用いて作られたのに違いない。



大柳生群落を見渡せる小高い丘に鎮座していた。

長閑な道を歩いていると、
こんなところが・・・。

「ダッチュ村」



と名付けられた奈良市青少年野外活動センターを
拠点とするNPO法人の施設。

そこにいた人に名前の由来を尋ねたら
「ダッシュ村のパクリや」と笑っていた。

とここでdoironの携帯のバッテリーが消滅した。

iPhoneを使い始めて8か月。
バッテリーがゼロになってしまったのは初めてだ。
何となく心細くなるもんだ。

ともあれ南明寺に到着。

鎌倉中期のモデル的建物だそうだが、
境内には入れず
トイレだけ済ませて先を急ぐ。

この先にあるのが「おふじの井戸」。



ちゃうちゃう。

これ。



この井戸にまつわる逸話が面白い。
文字数が多くなるので省略。
いわれを撮影したので
虫眼鏡で読んでください。



宗矩は柳生藩の初代藩主、
つまり十兵衛の父親だから、



この井戸で洗濯をしていたおふじは
もしかしたら十兵衛の母親なのかもしれない。

ただ側室も多く抱えていたので、定かではないけどね。

大柳生から急な坂道の阪原峠をふうふうと登り、
峠を越えたところからまた走り始める。

下りきったところにあるのが
この柳生街道の石仏の中でも
有名な「疱瘡地蔵」がある。





疱瘡除けを祈願して
鎌倉後期に彫られた地蔵なのだが、
有名になったのは、
この地蔵の右下に借金棒引きをうたった
徳政一揆の銘文が刻まれていたからだ。
(写真の赤い四角の中・・現物はかなり傷んでいる)



これにより農民に課せられた負債が
消滅したことが読み取れるのだそうだ。

そしていよいよ道は
柳生一族の痕跡が色濃く残る地域へと入っていく。

ここまでで約6時間が経過していた。
少し追いついたかな。