日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
名胡桃城(=ナグルミ城と呼びます)に行ってきました
先だって久しぶりに、リンゴを食べたいなと、群馬・水上の方に、行ってきました
群馬は北関東に位置し結構リンゴの産地があります
味、種類は青森、長野に一目置くかのようですが、最近は果樹農家も増え、結構独自の品種改良もあって美味しいリンゴが食べれるようになっています
群馬で品種登録されたリンゴは、名月、陽光、赤城などあります
群馬の中では沼田が有名ですが、水上、中之条・四万等の各山間地で作られています
訪ねた時は、ここ群馬・水上では、リンゴの実りは時期的に早い感じで、走りながら見るリンゴ園のリンゴの樹は紅くなっているものは少なめでした
水上を訪ねたのはもう一つ目的がありました
リンゴの売っている水上地域は利根川の上流地域で、歴史的には縄文時代からの遺跡も残っているくらい古くから生活されていたところですが、戦国時代には地理的意味合いから軍事的に城跡がいくつか残っています
そんな城の中で利根川の河岸段丘に、沼田氏が築いた「名胡桃城」が有名です
「名胡桃城」は現在の群馬利根郡みなかみ町下津にあったお城で、今は「名胡桃城址」として県指定の史跡として残っています
城址の位置は利根川上流の右岸断崖部にあり、川を挟んで北東に位置した「明徳寺城」と対峙しています
「名胡桃城」は、伝承によれば室町時代の明応元年(1492年)に沼田城の支城として沼田氏によって築かれたとされています
史料上では、上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となっていた北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として築いた城だそうです
真田昌幸は名胡桃城を足場に念願の沼田城を調略し沼田一帯を治める事になりました
この後、武田氏は織田信長に寄って滅ばされ、その信長も本能寺の変で倒れました
関東に影響を及ばしていた武田、織田の強力大名が消えた為、この地における勢力図が変わり、北条氏政と徳川家康との約定(北条氏が利根・吾妻の二郡は北条氏が甲斐都留郡と信濃佐久郡は徳川氏が治める)が結ばれることになりました
それは真田昌幸には知らされず、後に家康より、沼田を北条氏に渡すように要請を受けますが、これを拒絶し徳川氏と一戦交え徳川軍を撃退する事になりました
この年豊臣秀吉が関白になり、関東・奥州の大名に私闘を禁ずる令を出し、それと同時に各大名に上洛を命じます
北条氏は上洛の条件として、利根・吾妻地域の領有を要求しましたが、これに対し昌幸は『沼田城は渡しても、臣の墳墓の地である「名胡桃城」は渡すことはできない」と訴え、これを秀吉は許したといいます
しかし北条氏はこれで納得せず、この後沼田城に入った北条氏は「名胡桃城」を不法に攻略します
この事件は秀吉を激怒させ、北条氏討伐の軍が発令されます・・・即ち「名胡桃城」の領有問題が、「小田原の役」の原因になっています
そしてこの役によって、5代百有余年にわたって関東に覇を称えた北条氏は滅亡しました
北条氏滅亡後、関東は秀吉によって家康に与えられましたが、利根・吾妻は軍事上重要な地であったにもかかわらず、真田の旧領としてそのまま真田氏に安堵され、以降真田氏が沼田領を治める事になります(➝1681年真田は沼田を改易されます)
真田に沼田城が安堵された後、「名胡桃城」は廃城となり、結果的には城として機能したのはわずか10年ほどでしたが、その間の「名胡桃城」の果たした意味は日本史上重要な山城であったといえそうです
そんな事が城址跡に建てられた看板書かれていました
往時の「名胡桃城」は天守閣もなく、物見櫓や守備隊の詰所程度のものがあるだけのいわゆる山城だったようです
遺構からは馬出しから三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭が直に並ぶ連郭式の山城出会ったことが分かっているようです
城の両側は切り立った天然の要害です
近年の発掘調査で、土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されています
向かいの台地は、沼田台地で、沼田城(➝今は城跡だけです)は右手の方向に当たりますが、実際には往時でも山にさえぎられて見えません
何にもない荒廃したばかりの名胡桃ですが、さまざまな想いが駆け巡ったのだなと歴史を堪能したひと時でした