日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
マイ庭に来る小鳥達・・・“メジロ”・“ヒヨドリ”・“ホオジロ”・“ etc.”
先週、インフルエンザに罹ってしまい寝込んでいました
過去風邪は引いても、インフルエンザには始めて罹りました
お医者さんに5日間は禁足令がしかれ忠実に守ったせいか、今はすっかり治りましたが、この間の退屈さはなんとも・・・
実は病院に行った日は高い熱が出ましたが、その翌日にはすっかり熱が下がり、食欲も出てきました
そうなると、寝ているのが退屈で、起き出しては一杯着込んで庭ばかり眺めていました
ガラス戸越しにみる、手入れのしてないジャングル庭は格好の野鳥の集まり場です
寝ているせいか小鳥達も割りに私のいる事が分らないようで、近くまで近寄って餌取りに来ましたから退屈しのぎに助かりました
幾つかデジカメで、撮りましたので見てください
2m程に育った“ライラック”の木に、 “メジロ” が2羽やってきました
いつもこの木に止まって、あたりの様子を確認してから、次第にガラス戸の方にある餌を見ては近寄ってきます
黄色のミノの中にミカンを置いておいたのですが、いつも仲良く2羽(下:左画像)でやってきます
同じ“メジロ”かどうか分りませんが、1羽でくるメジロがいました (下:右画像)
気のせいか淋しげで、独身“メジロ”のように思えました この後、いつもの2羽かどうかはわかりませんが、2羽がくると飛んでいってしまいました
ハナミズキの樹に、 “ヒヨドリ” です
“メジロ”を追い払って、ミノに飛んできて、中のミカンを食べ始めてます
庭の整理をしないまま、草取りして、枝落としたままの庭で、“ホオジロ” が餌探しです
公園の芝生などを歩いているのは良く見ますが、マイジャングル庭には始めて(?)来ました
何を探しているのでしょうか!? もっと近づいてこないかなと思っていたのですが、飛んで行っちゃいました
この他に色々飛んできましたが、残念ながら撮る前に飛んでいってしまい、紹介できませんでした
確認は以下の小鳥です
“シジュウカラ”、 “ハト”、 “スズメ”、 “ムクドリ”、 そして多分 “ウグイス” です
今度パチリできた時、紹介します
上州・倉賀野宿には、中山道と例幣使街道の合流辻があります
昨日に続いて・・・
中山道69次のうち、江戸から数えて12番目の宿場町・倉賀野に行ってきました
倉賀野は群馬・高崎の町で、東京方面からR17号を走り、埼玉との県境神流川を渡って更に烏川・柳瀬橋を渡ってすぐ、左に折れるところにある街です (因みに、昨日紹介した岩鼻にある「北向き観音」は、中山道・新町宿と倉賀野宿の中間に建っていた観音堂です)
ちょっと街道名の薀蓄(うんちく)ですが・・・ 中山道は、東海道と共に日本の近世にあたる江戸時代に栄えた五街道の一つで、前身は『東山道』とも呼んで古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要街道でした・・・〈東海道は53次とよく知られています)
『東山道』という呼び名は文武天皇の頃(697-707)で、「近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸奥」の8国を指していました 和銅5年(712)にはこれに出羽が加えられ、宝亀2年(771)には武蔵がこれから外され、東海道に移されたといった具合に、古くは国々を集めての総称だったそうです
『東山道』が道の名として用いられるようになったのは、孝徳天皇の大化元年(645)に始まる大化の改新以降のことではないかといわれています
中山道の通っているのは、江戸・日本橋と京・三条大橋の間を結ぶ主要街道2路のうちの、山地側の1路です 温暖な太平洋岸に面していたために次第に整備され始めた東海道に対し、しばらくは裏道的な存在として、いつしか東山道の名が二分し中山道名が通称になったようです
これ等の事は、戦国時代の群雄割拠の頃、戦の伝馬などのため宿駅がつくられ始め、江戸時代に入って街道路整備されると共に、宿場町街道として繁栄してきたようです 街道は、人類文明の進歩の印なのですね
本論に戻します・・・
中山道・倉賀野宿は、中山道の烏川河岸の宿場であり、「日光例幣使街道」の分岐点としての交通上の重要要地でもありで、街道は大名の宿泊や日光東照宮へ派遣される例弊使などで、賑わっていた様子です 日光へ向かう「日光例幣使街道」が分岐していた分岐地点には、現在でも常夜灯と共に、「閻魔堂」が建てられ残っています
向って左:「日光例幣使街道」、右:「中山道」、中央奥:閻魔堂、手前:道しるべと常夜灯
閻魔堂の前に例幣使街道と常夜灯の説明看板がありました
『日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)』は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道です 現在地名では、栃木県日光市今市から群馬県高崎市倉賀野間の路線が、「(日光)例幣使街道」と呼ばれています
「中山道」から「日光例弊使街道」が分岐する辻に、地元では阿弥陀堂と呼ばれている閻魔堂と、その脇に常夜灯と角柱の道しるべがあります
石づくりの道標(みちしるべ)は、年代不詳です
「従是 右江戸道 左日光道 (→これより みぎえどみち ひだりにっこうみち)」と大きく刻まれています
道しるべの背後に立つ常夜灯には、西面「日光道」、南面「中山道」、北面に「文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書(たかはしかねじょしょ)」と彫られています
寄進者の名も基台に彫られており、その中には名力士 雷電為右衛門や鬼面山与五右衛門など三十八名、歌舞伎役者、松本幸四郎や市川団十郎なども名を連ねているそうですが、残念ながらそこまで見てきませんでした
閻魔堂の中には閻魔大王が鎮座しているそうですが、閉まって見れませんでした
閻魔大王は地蔵菩薩の化身と言われ、信仰すれば地獄に落ちず、救われると言われています
群馬・高崎の岩鼻にある「北向き子育て観音堂」
昨日に続いて・・・
県立公園・「群馬の森」周辺の史跡を探していたら、古~い観音様を見つけました
国道R17号を埼玉方向から高崎に向って走ってくると、利根川の支流烏川を渡った辺りは昔の由緒ある地名が多く残った地点です
というのもこの辺りは旧中山道が通っており、時代小説には舞台として登場するに事欠かないようです
見つけた古~い観音様は、「北向き子育て観音様」です
この観音様のある事は、この近くで育った友人が教えてくれました
藤岡市と高崎・岩鼻との境の柳瀬橋を渡ってすぐ、横切る道にぶつかりますが、これが旧中山道です (旧中山道はとても古い街道道路なので、色々面白いものが隠されていると思っており、調べて後々紹介します)
柳瀬橋を渡り、岩鼻町交差点を右に曲がって、ちょっと急坂を下ると、途中すぐの右奥にある御堂が、「北向観音」と呼ばれる「子育観音様」です
道路沿いの木造山門をくぐると、御堂までまっすぐ・・・小さな観音堂です
ひっそりとした御堂の中では、頬杖した如意輪観音様が微笑んでいらしゃいました 実はガラスの格子戸越しにパチリ したのだけど、上手く撮れず申し訳ありません
御堂入り口の欄間は、とても立派な造りです
彫り込まれた龍はすごいです
名の知れた名人作ではないのかもしれないけど、一体いつ造られたのでしょう
その形は勢いがあり、まるで活きているかの力強さを感じますが、隠れた名人ですよ・キッと!!
下から見上げた龍の喉元ですが、まるで鰐口の様に、口を開き前に向った突進しているように見えます
こんな龍の掘り込みは見たことなかったな
いつの頃からか分りませんが、毎年夏になると、地元岩鼻町「子育て観世音大祭 奉納煙火大会」が、盛大に催されます
もちろん花火を上げるのは、近くの烏川の河原でです
観音様を教えてくれた友人は、子供の頃手を引かれ、この境内へ花火を見に来るのが、とても楽しみだったそうです
群馬県は岩鼻県と呼ばれていたって知ってました
「インフルエンザ」に罹る数日前、群馬県立自然公園・「群馬の森」周辺の史跡めぐりをしてきました
県立公園・「群馬の森」は、「旧東京第二陸軍岩鼻製造所」の跡地に整備された公園ですが、この辺りは戦後日本火薬製造所(現日本化薬〈株))として多くが払い下げられ、社有地として現存しているのが多い状況のようです
江戸幕府の時代この地は幕府直轄の天領として統治されており、現在往時の史跡として、岩鼻代官所跡が小さな丘状の天神山にあります
芝生状に綺麗に整備された代官陣屋跡地 (奥が天神山で神社が祀られています)
陣屋跡は、一部が住宅地内の広場となり、土居と堀が僅かに残るのみでした
当代官所は、江戸幕府が上野国内六郡の天領を統治のため、寛政5年(1793)に岩鼻陣屋を建てたものです
陣屋は幕府の関東取締出役の活動拠点となり、 慶応元年(1865)、木村甲斐守なるものが関東郡代役として、上野、下野、武蔵の三カ国の幕府直轄地五十万石を管理しました
郡代の木村甲斐守は、慶応4年東山道総督府の進軍を期に罷免となり、高崎藩が陣屋を接収し、業務を引き継ぎました
その後明治政府の発足により、上野国内と武蔵国西北部の旧幕府領、旗本領は、岩鼻県と呼び変わり、明治4年の廃藩置県による群馬県の発足と共に岩鼻県は廃止となりました・・・この時点では県庁は高崎城内に移されたそうですから、現前橋に移るには更に変遷があるのですね)
往時のいわれが、代官所跡地の片隅に看板として立てられていました
とにかく江戸幕府が崩壊した際、群馬県になる前の3年間、この地に県庁が置かれ、「岩鼻県」と呼ばれた事があったというのはなんか興味が持てました
跡地のある「天神山」には天神様が、小山の上に祭られています
ところで「天神様」とは、本来「天神(雷神)」に対する神道信仰のことで、特定の神の名ではなかったが、菅原道真が死後、火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどが由来となり、道真の神霊に対する信仰もあわせ、天神様信仰となったそうです
社の下、石段の左側に、大きな牛が伏せているのが見えますか?
「インフルエンザ」にかかっちゃいました
いやぁ~参りました
インフルエンザにかかってしまい身動きが出来ません
割に丈夫な体質だったせいか、数年に一回風邪で高熱を発症し寝こむことはありましたが、それ以外の病はせず、まして「インフルエンザ」だと診断された事はなくて、初めての経験です
冬のはじめ、インフルエンザ防止のため、ワクチン投与を進められますが、今までかかった事がないからとばかりに、投与は受けた事がありませんでした
今年はインフルエンザの患者が急増しているそうで、国立感染症研究所感染症情報センター(=医療介護CBニュース)によると、1月14~20日の週に全国約5000か所の定点医療機関を受診した患者数は1施設当たり22.58人で、その前の週の12.07人に比べ2倍近くに増えたそうです (→この値を基に推計した全医療機関の受診者数は約140万人となり、今シーズン初めて100万人を超えたことをいみするそうです)
ちょっと数日ずれましたが、私も増加要因に加担したようです
「インフルエンザ」とはラテン語(:Influenza)で、インフルエンザウイルスによる急性感染症の一種で、「流行性感冒(略称・流感)」とよばれ、発病すると、高熱、筋肉痛などを伴う風邪の様な症状があらわれるものです
しかしここまでの知識しかなく、「インフルエンザ」とはどういうものかはよく分かっていないなと調べてみました
「インフルエンザ」の語は16世紀のイタリアで名づけられたもので、当時は空気伝染が病原体によって起こるとは思っておらず、毎冬季になると天候の不順や寒気によって汚れた空気が発生し、春を迎える頃になるとこれが終息するので、流行性感冒という意味で、「影響」を意味するイタリア語・「(influenza)」と名づけたのだそうです・・・日本語読みで「インフルエンザ」、イタリア語での読みは「インフルエンツァ」だそうです
「インフルエンザ」はウイルス感染によるものですが、その型はA・B・Cの3型あり、このうちA型とB型がヒトのインフルエンザの原因になり、C型は小児期に感染して呼吸器感染症の原因になっているそうです
A型インフルエンザウイルスには変異型が特に多く、色々な型が発見されてきていますが、更に複雑に変異が進んでいくようです B型は遺伝子がかなり安定しており、免疫が長期間続くそうです 更にC型は遺伝子がほとんど変化しないので、免疫が一生続くそうです
即ちA型ウィルスが時々遺伝子が大きく変わりやすので、注意が必要なんですね
今回私の罹ったのは、A型です・・・うぅ~ん今後も用心ですね
「インフルエンザ」の感染は、主に次の3つのルートで伝播するそうです
1.患者の粘液が、他人の目や鼻や口から直接に入る経路、 2.患者の咳、くしゃみ、つば吐き出しなどにより発生した飛沫を吸い込む経路、 3.ウイルスが付着した物や、握手のような直接的な接触により、手を通じ口からウイルスが侵入する経路
この3つのルートのうち、どれが主要であるかについては明らかではないが、いずれのルートもウイルスの拡散を引き起こすと考えられています
とにかくウィルスは大変小さいので、空気感染において、人が吸い込む飛沫の直径は0.5から5ミクロンであるが、たった1個の飛沫でも感染を引き起こし得ます 1回のくしゃみにより40,000個の飛沫が発生するそうですが、多くの飛沫は大きいので、空気中から速やかに取り除かれるそうですが、空気中で残っているのかもしれません
飛沫中のウイルスが感染力を保つ期間は、湿度と紫外線強度により変化し、冬は、湿度が低く日光が弱いので、この期間は長くなるようなのです
「インフルエンザウイルス」は、いわゆる細胞内寄生体なので細胞外では短時間しか存在できないそうです
更に物の表面において、「ウイルス」が生存可能な期間は、条件によってかなり異なるようです
「ウィルス」の存在は、紙幣、ドアの取っ手、電灯のスイッチ、家庭のその他の物品上にあるわけです
そしてプラスチックや金属のように、多孔質でない硬い物の表面では、実験的にはウイルスは1~2日間生存させたのが最長記録で、人が絶対に触らない乾燥した紙では、約15分間生存するそうです
しかし、手などの皮膚の表面ではウイルスは速やかに断片化されるため生存時間は5分間未満で、手洗い等がいかに防護に役立つか推測できます
地球外生物の侵略防止以外には役立たないと思える「インフルエンザウィルス」は何とか駆除できないのかな
病気でお休みします
子供の頃いつも何か事ある時、体調を崩すのが多かった気がします。
大人になるに従い、そんな事は忘れて、ちゃんと社会人としての役割は果たせるようになりました。
繊細な神経と言う言葉があるけれど、子供の頃は繊細で、大人になるに従い、神経も太く成長するのでしょうか!?
神経が太くなるとは、感受性が薄らぎ、緊張感があまりない状態になる事かなと思えるけどどうでしょう。
そして歳をとり、老化すると、神経の働きも鈍り、感受性や緊張感から放れて、無になるのかな!?
先日人ごみ〓〓にでて、インフルエンザAにかかりました。
今日囲碁の大会、年度総会があります。
役をしており急な欠席は、何とも気が引けますが、インフルエンザAを人に移す事になれば余計迷惑だろうと、昨日急遽役割りを代わって貰いました。
まさか子供の頃のように何かある為、体調崩したのかと思いましたが、お医者さんの検査でインフルエンザだと解り、ちょっと複雑な気持ちです。
何が複雑か…? それはまあいいでしょう。そんな訳でブログ作りもしばらくお休みします。
観葉植物 ”ピレア”の緑が綺麗です
寒さが厳しくなると、青々した緑が見たくなります
先日群馬高崎にある植物園の温室に行ってきました
観葉植物が青々と茂っているのが見られ、なんとも気持ちが若やぎました
なかでも、“ピレア”がグランドカバー状にビッシリ茂っている様子がとても綺麗に映りました
“ピレア”の名前はラテン語のピロス(フェルトの帽子)に由来し、ある種の萼の形に因んでいるといわれています
“ピレア”はイラクサの仲間で熱帯、亜熱帯におよそ400種が分布し、日本には10種ほどが自生しているそうです
葉の美しい観葉植物として親しまれており、葉はタマゴ型で、縦方向に3本の葉脈がくっきり入るものが多いようです
温室内で見つけた“ピレア”は、“カディエレイ”といい、観葉植物として最も親しまれている種類で、ベトナムが原産です
葉に銀白色のくっきりした模様が入るので、別名“アルミニウムプランツ”とも呼ばれます
この銀白色模様は、葉の表と裏の間に空気の入ったすき間ができているためにそう見えるものだそうで、ちょっとエキゾチックな感じです
和名を“アサバソウ”といい、小型種のものは“ミニマ”と呼び普及種になっています
株立ち性なので室内インテリアに合うとして、最近人気のようです
花は小さな花が寄り集まってボンボリ形に咲くそうで、見たことがあった気がするけど忘れちゃった
花期は10~11月だったそうで、見に行ったのが遅かったかな ・・・残念!!
群馬県立「群馬の森」にある「近代美術館」で、彫刻を見ました
昨日に続いて・・・群馬県立自然公園・『群馬の森』での、のどかな冬の一日
寒が一休みしたかのように、和らいだ陽射しで、暖かさを感じさせたこの日散策しに行ってきました
県立公園『群馬の森』は、地域の気候風土文化を活かした緑豊かな都市公園です
『群馬の森』に入ると、正面には芝生公園が拡がり、一杯の陽射しは、冬は何処に行ったのかと思わせます
ベンチではのんびり日向ぼっこ姿も見えました
画像 手前の刈り込みは、“ドウダンツツヂ” その向うの銅像は、あかぎ国体を記念して敷島公園に建てられた銅像の原型で、題は、『飛躍』
芝生公園の片隅には建設当時のままに、『群馬県立・近代美術館』、『県立・歴史博物館(左下画像の向かって右建造物)』が建てられています
散策に訪れたこの日、『破壊された都市の肖像』展と名づけられた展覧会が、『県立近代美術館』で開催されていました
向って左・白亜の建物は近代美術館 美術館内に置かれた『破壊された都市』の像
展覧会場には入らなかったのですが、会場入り口フロワーには、旧ロシア領ベラルーシ出身の「オシップ・ザッキン」の代表作、『破壊された都市』の銅像が置かれていました
「オシップ・ザッキン」は、20世紀半ば、オランダロッテルダムを訪れた際、第2次世界大戦にドイツ軍による空爆で、壊滅的被害を受けた惨状を目撃し、《破壊された都市》の製作イメージを膨らませました
戦後、ロッテルダム市の依頼を受け、爆撃の記憶を後世に伝えると共に、そこからの復興を願う記念碑の制作に取り掛かり、《破壊された都市》と、腰から上だけをあらわした《「破壊された都市」のトルソ》を制作しました
彫像の胴体は、破壊された都市中心部を象徴する巨大な空洞に貫かれ、両腕は、人間の救いを祈るかのように天に突き上げられています
大きく開かれた口は、何を叫んでいるのでしょう
断末魔の都市の姿から、開放と救いを求める祈りが伝わってきます
群馬県立自然公園・群馬の森の冬
寒に入って寒い日が続いています
先日、群馬県立自然公園・群馬の森に行ってきました
群馬の森の入り口のトチノキの街路樹群・・・この日は空っ風も割りに弱く陽射しが暖かでしたが、トチノキはすっかり冬木立然でした
根が長く伸びて、まるで細胞のネットみたいに見えました
何か冬なんだけど、春間近の暖かさ感じます
下左画像 入り口横を流れる河には、カモ達がのんびり集って餌取りしてました〈画像が小さく分りにくいかな!?)
上右画像 葛飾北斎の群鶴図が河の石塀にありますが、まるで鶴も暖かさに舞い集ってきたかのようでした
春はまだ遠いけど、確実に近づいている感じです
“福寿草”の花が間もなく・・・ (^^♪
今日は「大寒」です
「大寒」とは降雪多く、一年でもっとも寒さの厳しい時期です
毎朝しているウォ~キングで見る周囲の山々は、すっかり雪景色です
数日前のウォ~キング中に見た榛名山系です 朝日に映え、薄く雪を被っているのですが、ちょっと分りにくいですね
冷気の為か、とても身近に見えます
そんな寒い中にも春はどうなっているのかなと思いながら、この日、群馬・高崎の植物園に行ってきました
園内の樹木はすっかり冬景色でしたが、陽だまりの強い片隅で、“福寿草”が花芽を出し、開き始めていました
まさしく春が近づいてきているのですね
“メジロ”が来始めました
マイジャングル庭には、渋柿の樹が3本あります
買って食べた柿の実の種を、撒いておいたら大きくなって実をつけるようになりました
食べたときは甘柿だと思っていたのですが、生っているのを食べると渋いのです
察するに、渋柿に甘柿を接いであった為なのでしょうか!?
ともあれ毎年この柿を捥いでは色々に食べ方を工夫しています
小さい柿ですが、物好きな私にとっては結構楽しんでいます
その一環で、窓際に柿を並べて熟させました
昨年までは庭先に餌台を作り、ミカンを載せて小鳥の来訪を待っていたのですが、今年はもっと身近にと、ミノの中に柿を置きました
しばらくは何事もなく過ぎましたが、数日前から、メジロがやってき始めました
最初は一羽でしたが、すぐにカップル(?)で来るようになりました
あっちを向いたりこっちを向いたりして、啄ばんでいます
向って右が雄かな・・・そんな気がします
毎朝7時過ぎごろからやってき始め、ちょっと啄ばんでは去り、又やってきます
一羽の時もあるので、これって別なメジロなんでしょうか!?
見分けが付かないけど、とにかく毎日パソコンいじりにつかれると、眺めては微笑ましく思っています
“サザンクロス”の本当の名は・・・“クロウエア”
先日出かけたスーパーの花木コーナーで、星型をしたピンク色の花を見つけました
鉢のところに付いていた名札には、“サザンクロス・ピンクスター”とありました
「サザンクロス」とは、南十字星の事で、 北半球に住む日本人にとっては、ロマンティックなあこがれの星名です
実は“サザンクロス”という花は、本来はオーストラリア西南部の山地に自生しているセリ科の多年草で、小さな白い花を抱くように数枚の白い苞が囲み、これが十字形に着いてとても清楚な雰囲気をかもす花を咲かせます
スーパーで見かけた“サザンクロス”は和製のニックネームで、ミカン科のクロウエア属の植物で、やはりオーストラリア原産の植物だそうです
すっかり“サザンクロス”の名で有名になっているので、仕方ないのですが、実際は“クロウエア”と呼ぶべきなのかもしれません
“クロウエア”はオーストラリア南部に分布する常緑性の低木で、本物同様かわいらしい星形・5弁の花を咲かせるのが特徴です
花の大きさは径1~3cmほどで、表面にはロウのような光沢があり、色は濃ピンク~淡ピンク、白があるそうです
開花期は春から秋、枝は細かく枝分かれしてよく茂り、葉っぱは先端のとがった細めの楕円形です
葉色は明るいグリーン、その葉の香りは柑橘特有の香りがします
“クロウエア〈=和製サザンクロス)”の
花言葉は、「 願いをかなえて 」、 「 まだ見ぬ君へ 」 です
“クロウエア(=和製サザンクロス)”は、1月13日の誕生花です
「大道芸人」がやってきた
お正月が明け切らぬ内の日曜日、関越道・藤岡ICにある「道の駅・ららん」に行きました
目的は買い物でしたが、「ららん」のイベント広場で、“大道芸” をしているカップルに足を止めちゃいました
このカップルは時期こそ違え、前にもここで見かけた芸人です
あっちこっち旅をしながら芸をして、藤岡にまた立ち寄ったのでしょう 変わらぬ芸なのでしょうが、磨きがかかって、今年は動きも安心して見られます
更に芸をするにあたって、掛け声でなく音楽を取り入れ、リズムに合わせてのアクロバットです
簡単なような芸だけど、やはり凄いなと眺めちゃいました
持ち上げる方も大変だけど、持ち上げられる女性の方も、体を硬直させなければあがらないだろうから、その為の鍛錬、健康管理がとても大事です
体の柔らかさ、腕力、バランスの見事さです
女性の柔軟性に対して、男性のバランスも素晴らしいです
路上で椅子を積み上げての開脚片手倒立は、思わず観客から拍手でした
実は彼はこの後もう一段椅子を重ねました
今年の新しい技のお披露目でした・・・見るのに懸命で残念ながら私はパチリ!!しませんでした
どんな芸も、こつこつとたゆまぬ精進が自分を鍛え、進歩を促すようです・・・私の弱い碁がちっとも進歩しないのは、精進不足のせいだなと反省です
“ロウバイ”の花が咲き始めました
寒に入って、寒さが本格的です
一昨日は全国的に雪が降り、太平洋岸でも大雪となりました
雪の対策に不慣れな関東都心部では、冬用タイヤを履かない車もあり、スリップしてちょっとした坂も上がれず、渋滞を生じ、鉄道網も安全を見ていたるところが路線不通になりました
昨日は割りに暖かくなり、降り積もった雪も大分溶けました しかし今日はまた気温は上がらず、溶けかかった雪の再び路面凍結が心配されています
関東甲信越でここ2日間で雪による事故での受災者は1600人にもなると報道されるほどです
そんな厳しい寒さの続く中で、ウォーキングを続けています コースの途中で、“ロウバイ”の花が咲き出しているのを見つけました
“ロウバイ”の開花時期は、12月下旬頃から3月中旬頃です
花の少ないお正月の頃から咲き出し、春を呼ぶかのような明るい色でふっと香りを運ぶ“ローバイ”の花は幸せな気持ちにしてくれます
雪の降る一両日前、ウォーキング中にとあるお宅の生垣の上で、見かけました
向って右が“ロウバイ”です (向って左はまだツボミが固い“梅”の木です)
枝にはチラチラ咲き始めていました 別なお宅の庭先で咲く一輪
下の画像はまだ明け始めた時のものです
この日はとっても寒かったぁ~ この日の夜から各地で雪が降り始めました
この“ロウバイ”花はどうなっているのかな
そうそう雪の降る前、各地の花情報で“ロウバイ”が咲き出して賑わいだしたといってましたが、ちょっと一休みかな
松の内の反省
お正月から早くも2週間が経ちました
本当に時間の経つのは早いですね
年末の頃、新年が来たらこれもやろうとか、来年こそは今年できなかったあれもこれもちゃんと整理してやろうと思っていました そしてお正月の期間中はやりたい事をちゃんと考え準備しようなんて思ってました
お正月に入って(=「松の内」というらしい)、お酒を戴いて、お雑煮を食べて、駅伝を見て、まあ準備は明日から・・・一年の英気を養ってスタートさせよう
「松の内」というのは、正月の松飾をしておく期間内のことで、松飾のある間は正月の年神祭が続いていると考えられます その期間は土地によって必ずしも一定せず,元旦から3日まで、あるいは7日、15日前後までとする所などがあるそうです
私の「松の内」計画作戦は何にもしないで過ぎちゃった気がします
今年のダッシュはどうも上手くいかなかったから反省しなくちゃと、敢えてブログに載せて自分を喚起する作戦に変更しました
事始め 張り切る程に 出来もせず ( ダッペ )
今年こそと 思うほど出来ず 事始 ( ダッペ )
ところで、「事始」と言う言葉の意味は、『物事に初めて手をつけること。手始め。着手』ですから、正月過ぎて始める事に当てはまるかと思っていましたが、実はそうではなく、正月を迎える準備を始めることだそうです
かっては旧暦12月13日、現在は新暦12月13日に始めるのだそうです・・・要は新旧暦に関係なく12月13日に始める正月準備なんですね
昔はこの日に門松やお雑煮を炊くための薪など、お正月に必要な木を山へ取りに行く習慣を指したようです
経済改革を最優先でスタートした阿部内閣、「事始」はデフレ経済脱却とか・・・
まずは山に木を取りに行く事からなんだろうか、それとも薪は出来ているのかな!?
雑煮の材料は高すぎては誰も食べないし、不味くては勿論駄目
安全で美味しいお雑煮を食べられるように阿部さん期待してます・・・一年総理が続いているけどあなたは大丈夫!?
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