学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」

2022-01-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月24日(月)21時58分56秒

山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち」に先行研究として紹介されていた星倭文子(ほし・しずこ)氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)を読んでみましたが、これは面白い論文ですね。

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成人男性中心の歴史からは見落とされがちだった「女・子ども」の存在。
その姿を平安王朝の儀式や儀礼、あるいは家や親族関係のなかに見出し、「女・子ども」が貴族社会に残した足跡を歴史のなかに位置づける。


星論文の構成は、

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1 はじめに
2 婚姻の成立と家長の力
 1 武家の場合
 2 貴族の場合
3 婚姻の政治的背景……関東との縁
 1 藤原実宣の場合
 2 藤原国通の場合
 3 藤原実雅と源通時の場合
4 離婚
 1 藤原公棟の婚姻と離婚
 2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
 3 離婚不当の訴え
5 おわりに
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となっていて、面白い事例がふんだんに紹介されているのですが、藤原公棟の例は特に面白いですね。(p284以下)

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 1 藤原公棟の婚姻と離婚

(18)嘉禄二年五月二十七日条
   中将入道<公棟>に嫁ぎたる新妻独歩すと云々。時房朝臣の子次郎入道の旧妾なり。<彼等の妻妾皆参商
   といえども、所領を分け与える之間、猶その力あり>本妻の常海の女、又離別せず、なお相兼ねる。

 ここでは、離婚についていくつかの史料を提示したい。まず、北条時房の息の次郎入道・北条時村のもとの妾が、藤原公棟に嫁いでいる。しかし公棟は、本妻とは別れていない様子が記されている。北条時村は、前年の十二月八日条に「十二月二日に死去」とある。妾は、半年足らずで再婚していることになる。「所領を分け与える之間、猶その力あり」とあり、女性に資産があったことから結婚したともとれる。ところが、

(19)嘉禄二年六月十日条
   世間の事等を談ず。中将入道<公棟>新妻<本より大飲して、ここ衆中に列座して、盃酌す。其比にセトノ法橋、
   定円闍梨、公棟朝臣、その妻列座すと云々。>程なく離別す。

とあり、一か月も経たないうちに離縁している。当時は離婚の理由が明確にならないことが多いのに、「新妻大飲して」と明記されているのは興味深い。新妻は大酒飲みだったのである。このことが離婚の理由であったと考えられる。
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結婚の理由が金目当て、離婚の理由が妻が大酒飲みであるという非常に分かりやすい事例ですが、宴会に女性が参加すること自体は公棟も認めていて、ただ、そこまで飲むとは思わなかった、ということのようですね。
「新妻」はまことに豪快な女性ですが、ただ、こうした自由奔放な行動を取れるのは、結局はその女性に財産があることが裏づけになっていますね。
北条時村の「妾」だったというこの女性の出自を知りたいところですが、この婚姻は純粋に公家社会の例とはいえなさそうです。
なお、北条時村は時房息という出自に恵まれながら若くして出家したようで、この人もちょっと変わった人のようですね。
政村息の時村(1242-1305)とはもちろん別人です。

北条時村 (時房流)

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の娘に貴族に嫁した女性が多いのは間違いないので、仮に「時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚」に過ぎないとしても、牧家が京都との特別な関係を持つ家であることは争えないと思います。
また、平頼盛の所領は後に久我家の経済的苦難を救うことになるのですが、その伝領に、もしかしたら牧の方の周辺も絡んでくるのかな、といった予感があるので、もう少し丁寧に見て行きたいですね。

>筆綾丸さん
>天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、

これは本当にその通りですね。
歌好きも殆どビョーキっぽいところがありますね。

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

宗親と時親に関する宝賀寿男氏の意見 2022/01/23(日) 09:41:28(ザゲィムプレィアさん)
1/21の投稿「牧宗親は池禅尼の弟か? 」で紹介した宝賀氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』から引用します。
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大岡時親は、宗親が『東鑑』の記事から消えた建久六年(1195)の後に、ごく短期間だけ登場する。すなわち、同書の建仁三年(1203)9月3日条に初出で大岳判官時親と見え、比企合戦(
比企能員の乱)の鎮圧に際し、時政の命により派遣され比企一族の死骸等を実検したと記される。次いで、その二年後の元久二年(1205)6月21日条に畠山父子誅殺に際し、備前守時親は、牧御方の使者として北条義時の館に行き、重忠謀反を鎮めるように説得したことが記される。その二か月後の8月5日条には、時政の出家に応じ、大岡備前守時親も出家したと記され、これが『東鑑』最後の登場となった。終始、時政の進退に殉じたわけである。以降、牧氏が歴史に再浮上することはなかった。
 『愚管抄』の記事により牧の方の兄とされる時親であるが、突然に判官(五位尉)として現れ、その二年後(1205)には備前守に任じている。備前は上国で守は従五位下相当とされるが、北条時政ですら従五位下遠江守に任じたのが正治二年(1200)、義時が従五位下相模守に任じたのが元久元年(1204)、
その弟・時房がその翌年の元久二年(1205)に時親に少し遅れる8月に従五位下遠江守に任じた(当時31歳)ことからみて、なぜか異例の昇進を時親が遂げたといえよう。
 これらの動向を見てみると、建仁三年(1203)には判官になっていたのは、建久六年(1195)の武者所を承けて官位昇進したものとみられ、「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。すなわち、時親は宗親の改名であり、牧宗親が判官補任を契機に「大岡判官」と名乗り、名前も北条氏に名前に多い「時」を用いて時親に改名したのではないかと推するのである。そう考えないと、父が六位で卒去したのに、その八年ほどしか経たないうちに息子が最初から五位で登場するという不可解なことになるからである。
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なお愚管抄について「時正(註:北条時政)ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウト(註:同腹の兄)ゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ」
を引用していて、同時代史料と認めた上で以下のように述べています。
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『東鑑』のほうから『愚管抄』の記事を見ていくと、後者にはいくつかの混乱・誤記があると考えざるをえない。それらは、著述者の居住地・環境による情報源や問題意識の差異により生じるものでもあり、当時としてはやむをえないものでもあろうが。
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大河寸評 2022/01/24(月) 21:41:37(筆綾丸さん)
『鎌倉殿の13人』第3回は、文覚(市川猿之助)が頼朝の前に伝義朝髑髏を放り投げて辞すときの、
「(そんなものは)ほかにもまだあるから」
という捨て台詞が素晴らしかった。猿之助は三谷映画の端役として絶妙な味を出していますが(『ザ ・マジックアワー』では、まだ亀治郎だったので、往年の時代劇スター・カメという端役でした)、これも大河ドラマの名場面になるかもしれません。

慈円は、
おほけなくうき世の民におほふかな
わが立つ杣に墨染の袖??(小倉百人一首95番)
などと殊勝な歌を詠んでますが、愚管抄の「時正ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹二子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ」というような一文を読むと、天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、とあらためて思います。
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