投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 2日(日)17時28分31秒
それにしても「姫の前」は本当に興味深い存在で、彼女と義時の離縁が比企氏の乱の前か後かによって義時の人間像が全く逆転してしまいますね。
山本氏の文章を借りれば、
-------
比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は【特に複雑ではなかった】に違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、【少なくとも重時が誕生する建久九年(1198)までの七年間は】連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、【建久十年の頼朝頓死を契機として、「姫の前」側からの申し出で離縁した可能性が高く】、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと【は考えにくい】。
乱【前】、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も【乱の前か後かは不明だが】伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁【したが、そのため、幸いにも】妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされ【ることなく、むしろ妻に離縁された屈辱を晴らすために良い機会を得た】たのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない【のが普通であるが、義時は二年後、姉・政子とともに父時政を鎌倉から追放している】。苦渋の決断であったとは思【われず】、実父の命令に従うほかはなかった【訳でもない】のである。
【義時側から離縁を要求したのではないので】義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことで【はなく、妻から離縁されてしまった情けない夫の立場に置かれたことで】あろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していた【が、妻の方から離縁されてしまったので、結果的に】頼朝との誓約を守れなかったという負い目【を感じる必要がなかったことは不幸中の幸いで】あったのではないだろうか。
-------
ということになり、まるでオセロのように全てがひっくり返ります。
義時は比企氏の乱で苦悩するどころか、むしろ「姫の前」に離縁された屈辱を晴らす絶好の機会が到来した、と喜んだのではないか、二人の離縁は比企氏の乱の結果ではなく、むしろ原因のひとつだったのではないか、だからこそ義時は率先して比企氏打倒に活躍したのではないか、という具合いに、義時の比企氏の乱での行動は非常にすっきりと説明できそうです。
そもそも「姫の前」は無教養で無骨な義時などには全く魅力を感じることなく、しつこいラブレターにうんざりしていた立場です。
「姫の前」が義時と結婚したのは頼朝が無理強いしたからであって、三人の子ではなく、頼朝が「姫の前」と義時の「かすがい」であり、桎梏であった訳ですが、その頼朝が建久十年(1199)に死んだので、別に起請文など書いていた訳ではない「姫の前」としては、あっさりと義時に三行半を突き付けたのだろうと私は想像します。
そして、富裕な実家からの援助で京都まで大名旅行をして、義時とは違って知性と教養に溢れた歌人であり、由緒ある小野宮邸を伝承していてそれなりに豊かでもあった源具親と結婚し、幸せに暮らしていたところ、建仁三年(1203)九月、鎌倉で比企氏一族が滅亡するという大事件が発生したものの、既に実家と離れていた「姫の前」まではさすがに陰険な北条一族も手を出さず、「姫の前」は翌元久元年(1204)、無事に輔通を生んだ、ということになります。
さて、私が最後まで分からなかったのは「姫の前」と源具親の接点です。
この点、森幸夫氏は、
-------
源具親は能登守時代、姫前の実家比企氏─当時は比企能員が当主で能登守護であったとみられる─との関係が生じていた可能性があろう。それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
などと言われていますが、いくら何でも不自然であり、私は比企家の京都人脈ではなかろうかと考えていました。
ただ、「姫の前」と義時の間の三人の子のうち、ただ一人生年未詳の竹殿は、まるで母「姫の前」の人生を反復するかのように、大江広元の息子・親広と離縁した後、土御門定通と再婚しています。
この竹殿の動向から見ると、竹殿の生年は割と早く、朝時に近いと考えるのが自然です。
とすると、重時が生まれるまでの間に若干の空白期間が想定できます。
他方、源具親は九条兼実のライバル・源通親に近い存在であり、通親と頼朝の関係を考えると、大姫入内の問題に「姫の前」も絡んだのではないか、という微かな可能性が出てきます。
頼朝としては、大姫入内の準備工作に「姫の前」を参加させ、「姫の前」は頼朝の要請で京都に行き、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、というのが現時点での私の仮説です。
大江広元と親広の父子関係(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/02bfe20203c2da143795ec0989f10580
ま、最後の方は史料的な裏付けを取ることが難しい話になってしまいますが、人間の心理としては、けっこう自然ではないかと思います。
いずれにせよ、比企氏の乱の直後に「姫の前」が義時から離縁され、直ちに京都に行って源具親と再婚し、子供を産んだという従来説はあまりに乱暴です。
私としては、森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者に失望した後、女性研究者の山本氏にそれなりに期待したのですが、残念ながら山本氏は従来説に何の疑いも抱いておられないようです。
従って、私としては山本氏が「もっとも北条義時に肉薄していると評価」することはできず、むしろ山本氏は全く的外れな方向にタックルして頓珍漢な義時像を描き出しているのではなかろうか、と思っています。
それにしても「姫の前」は本当に興味深い存在で、彼女と義時の離縁が比企氏の乱の前か後かによって義時の人間像が全く逆転してしまいますね。
山本氏の文章を借りれば、
-------
比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は【特に複雑ではなかった】に違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、【少なくとも重時が誕生する建久九年(1198)までの七年間は】連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、【建久十年の頼朝頓死を契機として、「姫の前」側からの申し出で離縁した可能性が高く】、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと【は考えにくい】。
乱【前】、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も【乱の前か後かは不明だが】伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁【したが、そのため、幸いにも】妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされ【ることなく、むしろ妻に離縁された屈辱を晴らすために良い機会を得た】たのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない【のが普通であるが、義時は二年後、姉・政子とともに父時政を鎌倉から追放している】。苦渋の決断であったとは思【われず】、実父の命令に従うほかはなかった【訳でもない】のである。
【義時側から離縁を要求したのではないので】義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことで【はなく、妻から離縁されてしまった情けない夫の立場に置かれたことで】あろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していた【が、妻の方から離縁されてしまったので、結果的に】頼朝との誓約を守れなかったという負い目【を感じる必要がなかったことは不幸中の幸いで】あったのではないだろうか。
-------
ということになり、まるでオセロのように全てがひっくり返ります。
義時は比企氏の乱で苦悩するどころか、むしろ「姫の前」に離縁された屈辱を晴らす絶好の機会が到来した、と喜んだのではないか、二人の離縁は比企氏の乱の結果ではなく、むしろ原因のひとつだったのではないか、だからこそ義時は率先して比企氏打倒に活躍したのではないか、という具合いに、義時の比企氏の乱での行動は非常にすっきりと説明できそうです。
そもそも「姫の前」は無教養で無骨な義時などには全く魅力を感じることなく、しつこいラブレターにうんざりしていた立場です。
「姫の前」が義時と結婚したのは頼朝が無理強いしたからであって、三人の子ではなく、頼朝が「姫の前」と義時の「かすがい」であり、桎梏であった訳ですが、その頼朝が建久十年(1199)に死んだので、別に起請文など書いていた訳ではない「姫の前」としては、あっさりと義時に三行半を突き付けたのだろうと私は想像します。
そして、富裕な実家からの援助で京都まで大名旅行をして、義時とは違って知性と教養に溢れた歌人であり、由緒ある小野宮邸を伝承していてそれなりに豊かでもあった源具親と結婚し、幸せに暮らしていたところ、建仁三年(1203)九月、鎌倉で比企氏一族が滅亡するという大事件が発生したものの、既に実家と離れていた「姫の前」まではさすがに陰険な北条一族も手を出さず、「姫の前」は翌元久元年(1204)、無事に輔通を生んだ、ということになります。
さて、私が最後まで分からなかったのは「姫の前」と源具親の接点です。
この点、森幸夫氏は、
-------
源具親は能登守時代、姫前の実家比企氏─当時は比企能員が当主で能登守護であったとみられる─との関係が生じていた可能性があろう。それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
などと言われていますが、いくら何でも不自然であり、私は比企家の京都人脈ではなかろうかと考えていました。
ただ、「姫の前」と義時の間の三人の子のうち、ただ一人生年未詳の竹殿は、まるで母「姫の前」の人生を反復するかのように、大江広元の息子・親広と離縁した後、土御門定通と再婚しています。
この竹殿の動向から見ると、竹殿の生年は割と早く、朝時に近いと考えるのが自然です。
とすると、重時が生まれるまでの間に若干の空白期間が想定できます。
他方、源具親は九条兼実のライバル・源通親に近い存在であり、通親と頼朝の関係を考えると、大姫入内の問題に「姫の前」も絡んだのではないか、という微かな可能性が出てきます。
頼朝としては、大姫入内の準備工作に「姫の前」を参加させ、「姫の前」は頼朝の要請で京都に行き、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、というのが現時点での私の仮説です。
大江広元と親広の父子関係(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/02bfe20203c2da143795ec0989f10580
ま、最後の方は史料的な裏付けを取ることが難しい話になってしまいますが、人間の心理としては、けっこう自然ではないかと思います。
いずれにせよ、比企氏の乱の直後に「姫の前」が義時から離縁され、直ちに京都に行って源具親と再婚し、子供を産んだという従来説はあまりに乱暴です。
私としては、森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者に失望した後、女性研究者の山本氏にそれなりに期待したのですが、残念ながら山本氏は従来説に何の疑いも抱いておられないようです。
従って、私としては山本氏が「もっとも北条義時に肉薄していると評価」することはできず、むしろ山本氏は全く的外れな方向にタックルして頓珍漢な義時像を描き出しているのではなかろうか、と思っています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます