学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

エマニュエル・トッドの所謂「宗教的空白」こそ日本に埋蔵された原油である。

2022-01-15 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月15日(土)13時39分36秒

斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の最大の問題点はその愚劣な内容ではなくて、「終末論」を唱えるこのような本が四十万部以上も売れるという社会現象の方ですね。
ソ連崩壊から三十年以上経って、コミュニズムに対する免疫のない世代が激増した、ということが一つの要因だろうと思いますが、他の先進国や鬱陶しい二つの隣国に比べて経済の不調が延々と続いて、ある種、破れかぶれみたいな心境になっている人も増えているのでしょうか。
ま、貧すれば鈍する、という格言はマルクスの『資本論』以上に人間と社会の真理を衝いていますので、マルクスウイルスのサイトウコウヘイ変異株に感染した貧乏神信者たちが目指す「脱成長コミュニズム」とは正反対の方向で、日本を豊かにする方策をしっかり考えねばなりません。
そこで私は、従来は否定的に捉えられていた日本の「宗教的空白」に着目し、この「宗教的空白」こそが日本に埋蔵された豊かな「原油」であって、これを精製して輸出することにより日本を豊かにしたいと考えるものであります。
そもそも「宗教的空白」とは何か。
これは、直接にはエマニュエル・トッドの表現であって、トッドは『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付けの「日本の読者へ」において次のように書いています。(p7以下)

------
 宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
 もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
 等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。
 日本における格差の拡大は著しい現象です。日本はもはや、国際比較の統計表の中でスカンジナビア諸国と並ぶ平等の極の一つではありません。まだアングロサクソンの国々の格差のレベルには達していませんが、そのレベルに近づいてきています。宗教的空白および格差の拡大(等式の左辺)を見れば、日本はまさに西洋の国です。あるいはむしろ、ヨーロッパの国です。米国には宗教性─これはより適切に定義される必要がありそうです─が存続していますから。
 しかし、右辺については何といえばよいのでしょうか。いうまでもなく日本は、ヨーロッパのあらゆる国がそうであるようにはイスラム恐怖症ではあり得ません。イスラム教徒は日本国内にはほとんどおらず、地理的にも近くもなく、海の向こうの存在です。実のところ日本は、人口の問題があるにもかかわらず、ドイツとは逆に、その問題の解決策としての大量移民の受け入れを、移民がイスラム教徒であるとないとにかかわりなく拒否してきました。では、日本の政治的行動はどうか。イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭も、私はそこに見出しません。すこぶるリアルな中国の脅威に対しても、日本のリアクションは穏健そのもののように思われます。ヨーロッパに見られるようなロシア恐怖症さえ観察できません。近代日本において日露戦争が占めている中心的な位置を考慮すると、ロシア恐怖症は容易に発生しそうなものですけれども。
-------

トッドは十代のころにフランス共産党員だった人なので宗教とは相性が悪く、もちろんキリスト教は理解できても、日本の宗教事情には何ともとまどったようですね。
トッドの所謂「宗教的空白」は、実際には何も存在しない真空ではなく、宗教的な何かではあっても狂信を生み出すことのない、例えていえばある種の不活性ガス、空気のようなものです。
ここに書かれたトッドの理解は、それ自体はあまり参考になるものではありませんが、日本の「宗教的空白」は「イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭」ももたらさず、非常に「穏健」なものであることは重要です。
仮にこうした「宗教的空白」を輸出することができるならば、世界の人びとに精神的安定を提供し、世界平和に資することになるはずです。
しかし、「宗教的空白」を輸出することができるのか。
その具体的方法が、私がこの五年ほどずっと考えてきた思想的課題です。

日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c685d9ef8a0773b9b1d90c3465625d5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7c61ab0ad3b0b3e3be33d6adec2dfa
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「高等遊民」の大幅な拡大を国家目標とすべきである。

2022-01-14 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月14日(金)12時47分2秒

私くらい『人新世の「資本論」』を熟読している読者は珍しいはずですが、ツイッターでは、私は何故か斎藤幸平氏にブロックされています。
私が何か斉藤氏の気に障るようなことを書いているのでしょうか。
「脱成長コミュニズム」のような大胆な「革命」を起こそうとする偉大な「経済思想家」ならば、もっと鷹揚な態度で読者に接していただきたいものですね。

https://twitter.com/koheisaito0131

さて、「脱成長コミュニズム」に対抗して、私は「資本主義のひょうきん化」を提唱したいと考えますが、「資本主義のひょうきん化」とは何かというと、資本主義のスピード感と柔軟性を維持しつつ、人々に過度の精神的負担を与えない、「遊び」のある資本主義ですね。
この「遊び」のある資本主義社会に正面から反するのが安倍元首相の唱えた「一億総活躍社会」で、本当に国民全員がみんな活躍してしまったら、国家の危機に際して予備兵力が足りず、社会が一挙に崩壊してしまいます。
平時には、社会にはあまり活躍しない人々、「遊び」に従事している人々が潤沢に存在することが必要です。

「一億総活躍社会の実現」(首相官邸サイト内)
https://www.kantei.go.jp/jp/headline/ichiokusoukatsuyaku/index.html

ただ、私が想定する「遊び」に従事する人々とは、もちろん昼日中から酒を飲んだりパチンコをしたりしている人ではなく、高度な教育を受け、いざという時には社会の重要な戦力となり得る能力を持った「高等遊民」です。
かつて「高等遊民」は、

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日本で明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E9%81%8A%E6%B0%91

などと定義されていましたが、私は「高等遊民」という言葉にもう少し肯定的なニュアンスを感じていて、職業の有無も別にメルクマールにする必要はないように思います。
1980年代後半からの莫迦げた「大学改革」が行なわれる前は、人文系の大学教員などずいぶん余裕のある生活を送れていた訳で、こうした人々も、というか、こうした人々こそ「高等遊民」の代表と考えるべきです。
そして私は「高等遊民」の大幅な拡大を国家目標とすべきだと考える訳ですが、そのためには多くの「高等遊民」候補に、あくせく働く必要はなくとも、それなりに余裕のある長期的かつ安定的な生活を保障する仕組みが必要となります。
もちろん、その前提として、日本全体が経済的に豊かな社会でなければなりません。
また、ウィキペディアによれば、町田祐一氏の『近代日本と「高等遊民」』(吉川弘文館、2009)には、かつての高等遊民が「最終的に昭和初期満州事変・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題は解消に向かっていった」といったことが書いてあるようですが、こうした歴史に鑑みても、戦争を起こさないことも大前提となります。
この点、岸田政権の唱える「新しい資本主義」に、戦争の回避のために我が国は何をなすべきか、という観点が乏しいことを以前少し書きました。

私も「新しい資本主義」について考えてみた。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/afa650289cf2a6a6e6377a31a4350d95

さて、こうした前提・大前提を勘案すると、仮に「高等遊民」候補に、ブラブラ働きつつも結果的に世界平和に貢献することができるような職場を提供することができれば、「資本主義のひょうきん化」への道筋も見えてくるような感じがします。

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町田祐一『近代日本と「高等遊民」─社会問題化する知識青年層』

明治末~昭和初期、高等教育を受けながら一定の職にない「高等遊民」が社会問題化した。「危険思想」への傾斜が懸念された彼らに、政府や世論はどう対応したのか。高等遊民の実像と政治社会へ与えた影響、各種政策や自助努力による解決策をメディア史料などから解明。現代のニート・フリーター問題にも通ずる社会矛盾を考え、近代日本社会を問い直す。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b75791.html
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来るべき革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならない。

2022-01-13 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月13日(木)12時13分22秒

従来のコミュニストはコミュニズムの神が貧乏神であることを隠蔽していたのに対し、「脱成長コミュニズム」を提唱する斎藤幸平氏は、コミュニズムの神が貧乏神でどこが悪いのだ、我は貧乏神が導く方向に突き進むぞ、と「カミングアウト」した訳で、確かにその点ではコミュニズムのコペルニクス的転回ですね。
こうした雑な結論を導いた斎藤氏が左翼知識人としてはさほどの知的水準の人物ではないことは明らかですが、左翼活動家としてはどうなのか、私には判断する能力がありません。
Eテレ「100deパンデミック論」等のマスコミでの華やかな活躍を見ると、池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)に登場する人物と比較するならば、あるいは斎藤氏は連合赤軍の森恒夫(1944-73)や永田洋子(1945-2011)クラスの優れた活動家なのかもしれないですね。
ま、斎藤氏を誉めそやすマスコミ関係者は、斎藤氏が日本国民を「山岳ベース」に誘導しているのではないか、他人の墓穴を掘る手伝いをしていたら、いつか自分たちもそこに埋められるのではないか、と疑ってみていただきたいものです。
なお、『人新世の「資本論」』を、

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【各界が絶賛!】
■佐藤優氏(作家)
斎藤は、ピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の資本論」である。
■ヤマザキマリ氏(漫画家・文筆家)
経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、本書は間違いなく力強い支えとなる。
■白井聡氏(政治学者)
理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。


と絶賛する人の中に『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』の共著者の一人である佐藤優氏がいるのは些か不審ですが、「斎藤は、ピケティを超えた」ことは客観的事実ですね。
斉藤氏自身が「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、斎藤氏なりにピケティを評価した後、

-------
 ただし、ピケティは脱成長の立場を明示的には受け入れていない。また、「参加型社会主義」を謳っていても、その移行のプロセスは、租税という国家権力に依存するところが大きい。この点は問題だ。つまり、資本を課税によって抑え込もうとすればするほど、国家権力が増大していき、③「気候毛沢東主義」に代表される国家社会主義に横滑りしていく。マルクスの脱成長コミュニズムから、離れていってしまうのだ。
-------

と批判されており(p290)、斎藤氏が「脱成長の立場を明示的には受け入れていない」ピケティの立場を超えていることは明らかです。
しかし、ピケティを超えたからといって、その跳躍が素晴らしい未来をもたらす保証はない訳で、まあ、私は地獄への「加速主義」ではなかろうかと思います。
さて、実は私自身も四半世紀にわたって「革命」の可能性を探っているのですが、私は来るべき革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならないと考えています。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が資本主義の誕生の秘密を解明したかどうかについては意見が分かれるところですが、資本主義とプロテスタント的な生真面目さとの間には確かに親和性があります。
そして、資本主義の神に捧げられる生贄には、この生真面目さの犠牲者が非常に多いですね。
他方、資本主義の悪を糾弾し、資本主義を打倒すれば素晴らしい未来が到来するのだと主張してきた旧来型のコミュニストは、生真面目さという点では、むしろ資本主義の讃美者を超える存在です。
そして「脱成長コミュニズム」を提唱してコミュニズムにコペルニクス的転回をもたらした斎藤氏は、生真面目さという点では旧来型のコミュニストを更に超えた存在で、生真面目の「加速主義」ですね。
生真面目さという点では、資本主義と旧来型コミュニズム、そして斎藤氏の唱える「脱成長コミュニズム」は連続しており、息苦しさは「加速」される一方です。
斉藤氏が主導する勢力が権力を握った場合、世界はプロテスタント的なお説教に満たされ、その精神的重圧は大変なものでしょうね。
果たしてそんなものが「革命」の名に値するのか。
むしろ逆に、来るべき真の革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならない、というのが長年にわたる私の資本主義研究の結論です。
そして、資本主義の「ひょうきん化」を具体的にどのように実現するか、が次の問題です。

>筆綾丸さん
>かりに、日本でこんなことをしようとしたら、憲法の13条と18条あたりが問題になり、

カナダの事情は知りませんが、日本も1948年の予防接種法制定時にはワクチン接種は罰則付きの義務とされており、これが1976年に罰則なしの義務、そして1994年に努力義務になっています。
ご紹介のカナダの例だと、罰則の代わりに課税ということで、ある意味では罰則より緩やかな義務付けの手法ともいえそうですね。
昔は社会防衛の観点が優先され、罰則について憲法13条の幸福追求権とか18条の奴隷的拘束の禁止との関係が議論されることはなかったのでしょうが、現在は確かに事情は違いますね。
ただ、今回のコロナ騒動を踏まえると、日本での努力義務化は羹に懲りて膾を吹いたような感じもします。
新型コロナ以上の感染力があるウイルスが登場するようなケースを考えると、特定の伝染病については罰則付きの義務化の復活も検討する必要があるかもしれないですね。
もちろん、その場合には正当な理由がある場合の拒否権は当然ですし、健康被害の救済措置の充実も前提となりますが。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その6)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

原因において自由な行為? 2022/01/12(水) 19:36:24
小太郎さん
カナダ連邦ケベック州首相は、以下のような見解を表明したそうです(仏フィガロによる)。
同州の集中治療患者の半数はワクチン未接種者(人口の10%)で、医療に負担を強いているので(90%の未接種者に迷惑をかけているので)、健康寄与税という名目により、未接種者に応分の課税をすることにした、と。
まるで刑法の「原因において自由な行為」のような感じですが、日本ではちょっと考えられない状況です。かりに、日本でこんなことをしようとしたら、憲法の13条と18条あたりが問題になり、侃々諤々、喧々囂々の騒ぎになりますね。

追記
https://confidenceman-movie.com/romance
フジテレビの放送で見たのですが、長澤まさみに、是非、姫の前を演じてもらいたいですね。
共演者の美男美女(三浦春馬と竹内結子)が、この映画のあと、立て続けに自殺したというのはミステリアスです。
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岸田首相とキリスト教の無関係(補遺)

2022-01-12 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月12日(水)10時12分48秒

日本の「ミッションスクール」は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、というのは客観的な事実ですが、ちょっと書き方がシニカルでしたかね。
ただ、この事実は法的観点からは決して悪いことではなくて、こうした実態があるからこそ、憲法89条の明文にもかかわらず、キリスト教系の私立大学に巨額の公的資金を提供することが可能になっていますね。
同条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」というものですが、一般に私学助成は憲法89条後段の「公の支配」の問題とされていて、「公の支配」と呼ぶにはどうにも弱い関与・監督であっても、まあ「公の支配」でいいのでは、ということになっています。
しかし、ウィキペディアにも紹介されている「1971年(昭和46年)3月3日、参議院予算委員会における内閣法制局長官答弁」にも、

-------
憲法八十九条の問題は、確かに率直に言って実は弱る規定であります。・・・日本のような国において慈善、博愛、教育の問題について、国費が公の支配に属していないものには出せない。逆に言えば、公の支配に属させることによって国費が出せるというふうにも解される憲法の規定が、規定の真の精神がそこにあるかどうかはわかりませんけれども、実際の日本の国情に合わすようなことをするにはやはりそういう解釈もやむを得ないのではないかというようなふうに考えまして、いまの私立学校法あるいは学校教育法その他の規定には、そういう補助と監督の相関関係を規定したものがございます。まあ、そういうことで始末をしておるわけでありますけれども、国会でもそういう法律を御制定になっていただいておりますから、そういう解釈がいまや公定的に是認されていると思いますけれども、正直に憲法の規定に立ち返ってみますと、その辺はやや問題があるように思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E5%8A%A9%E6%88%90

とあるように、相当苦しい解釈ですね。
そして、宗教系の私立大学の場合には、憲法89条後段を突破できたとしても、同条前段も大きなハードルとなります。
同条前段では「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため」に支出してはならないと明確に定めているのですから、公金支出を合憲とするためには、例えば、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」ではないのだ、といった論理が必要になります。
しかし、これは自己の存在を全面的に否定することになるので、宗教系大学からはなかなか主張しにくい話ですね。
別の論理としては、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」であるけれども、助成される公金は当該組織・団体の「使用、便益若しくは維持のため」ではなく、個々の学生の教育活動を支援するためのものだからよいのだ、みたいな論理も考えられますが、奨学金ならともかく、大学に支出する公金にこうした論理が説得的といえるのか。
まあ、宗教系大学は他の私学と並んで憲法89条の後段を突破するのは可能であっても、同条前段の突破は至難の業のように思われますが、現実には宗教系大学にも巨額の私学助成が行なわれています。
ただ、キリスト教系の大学の場合、形式的・名目的には「宗教上の組織若しくは団体」のようではあっても、その実態は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、宗教的には無色透明の「組織若しくは団体」だ、ということであれば、公金を提供してもいいかな、という話につながりそうです。
逆に、特定のキリスト教系の大学に素晴らしい宗教指導者が登場して、入って来る学生が軒並み信者になる、というような事態となれば、さすがにそういう大学への公的資金の提供はまずかろう、という話になると思います。
まあ、憲法89条は「アメリカ的発想に基づくが、目的趣旨が必ずしもはっきりしないまま成立」(佐藤幸治)した条文で、憲法改正による立法的解決が一番なのですが、当分は無理でしょうね。

「靖国神社大学」(仮称)と憲法89条
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f35bafa689d14932541afd8a6b2cb9b
裁判官可部恒雄の反対意見
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0febccdefd4f6baac1a24e22e941a4d
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岸田首相とキリスト教の無関係

2022-01-11 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月11日(火)13時30分57秒

>筆綾丸さん
>つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか

『真田丸』も最初はあまり評判が良くなかったそうですから、もう少し展開を見たいと思っています。
ところで、週刊ポストの記事で、正確性には保証はありませんが、

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 実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。


とのことで、確かに比率は高いですね。
ただ、大平正芳氏の例のように、宗教に対する姿勢を個別に検討してみたら相当に濃淡のバリエーションがありそうです。
また、岸田首相がキリスト教と何か関係があるのかと思って検索してみたら、『日刊キリスト新聞』の2020年9月9日付「【自民党総裁選】菅氏、岸田氏、石破氏3人のキリスト教との関わり」という記事が出てきました。
それによると、

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岸田氏は広島1区選出の、祖父から続く世襲議員。本籍地は広島だが、生まれは東京だ。血液型はAB型。
広島には、毛利氏家臣で三入高松城(広島市)城主だった熊谷元直(くまがい・もとなお)が1687年、黒田官兵衛の勧めで洗礼を受け、洗礼名メルキオルと名乗り、近年、福者となった。安芸広島藩主の福島正則もキリシタンを優遇したが、後に禁令が厳しくなると、キリシタンは衰滅していく。
岸田氏自身とキリスト教との関わりは特に認められないが、7歳下の裕子夫人が広島女学院高校の出身。2016年に創立130周年を迎えた、中国地方では最も歴史の長いミッションスクールだ。創立者は砂本貞吉(すなもと・ていきち)牧師。米国でキリスト教に触れ、1886年、米国南メソヂスト監督教会の宣教師W・R・ランバス(関西学院の創立者)らの協力を得て女学校を創立した。学院聖句は「我らは神と共に働く者なり」(1コリント3:9、文語訳)。


とのことで、夫人がキリスト教徒ならともかく、単にミッションスクールを卒業しただけでは、結局のところ何の関係もないという結論になりそうですね。
日本の「ミッションスクール」は、信者の拡大という「ミッション」は全然果たしておらず、せいぜい死亡する信者と同程度の信者を新たに供給するミニマム・ミッション機関ですからね。
ちなみに、記事の時点では既に総裁候補を降りていた菅義偉氏の場合、

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出身地は、宮城県や山形県の県境に近い秋田県南部の湯沢市で、イチゴ農家の長男として生まれた。最寄り駅は奥羽本線の院内駅だが、線路の反対側の西に、「東洋一の大銀山」とうたわれた院内銀山がある。江戸時代初期には多くのキリシタンが各地から逃れて鉱夫として働き、宣教師たちも伝道のために訪れたところだ。その後、迫害が強まり、殉教者が多数出た。
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とありますが、これまた菅氏の信仰・宗教観とは全く関係なくて、よくまあここまでこじつけたものだと感心します。

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5歳下の真理子夫人との間に3人の息子がおり、長男は明治学院大学を卒業している。米国長老教会のヘボン宣教師が1863年に創設した日本最古のキリスト教主義学校だ。教育理念は「Do for Others(他者への貢献)」。新約聖書マタイによる福音書にあるイエスの言葉「Do for others what you want them to do for you(人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい)」(7:12)から引用されたもので、ヘボンの信念をよく表す言葉とされている。
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これも「明治学院大学を卒業」という経歴がキリスト教信仰と特に関係ないのが日本の「ミッションスクール」の実態ですからね。
また、総裁選には結局立候補しなかった石破茂氏の場合、

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母方の曾祖父が、新島襄の愛弟子である金森通倫(かなもり・みちとも)。熊本バンドの一人として熊本洋学校から同志社へと進み、卒業後は日本組合基督教会・岡山教会の牧師を務めた。金森の妻、旧姓・西山小寿(こひさ)は神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1期生で、岡山の山陽英和女学校(現在の山陽学園)の創立者の一人。二人の間にできた長男、太郎が石破氏の祖父で、その長女の和子が石破氏の母親となる。
石破氏は、母親が通っていた日本基督教団・鳥取教会(現在は橋原正彦牧師)において18歳で洗礼を受けた(現在も現住陪餐会員)。同教会の宣教師によって始められた愛真幼稚園に通い、鳥取大学教育学部付属中学を卒業後、慶應義塾高等学校に進学。日本キリスト教会・世田谷伝道所(現在の世田谷千歳教会)に出席し、教会学校の教師も務めた。近年は国家晩餐祈祷会(日本CBMC主催)、キリスト教関係の講演会でゲストとしてスピーチに立つことも多い。
-------

ということで、こちらは本物の信者ですが、ただ、金森通倫(1857-1945)は極めて特異な宗教遍歴を経た人です。
同志社を出た後、自由キリスト教運動の影響を受けて「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」、更に1898年には棄教を宣言しますが、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
ま、変わり者という点では石破氏は金森通倫の直系といえそうです。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
金森通倫の「不穏な精神」
三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』
鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

娼婦ソーニャ 2022/01/10(月) 14:34:40
小太郎さん
大平正芳の『田園都市国家構想』を継承する岸田首相が、愛読書として、ドストエフスキーの『罪と罰』を挙げていたときは、えっ、とまず驚き、ついで、かりにそうだとしても、還暦過ぎの爺さんなら、そんなこと、恥ずかしくて言えないんじゃないの、と二度驚きましたが、あの小説の登場人物のなかでは、娼婦のソーニャだけがキリスト教的で、もし岸田首相がソーニャのファンだとすれば、岸田は大平のキリスト教的な精神の正統な継承者だ、と言えるのかもしれませんね。

昨日、『鎌倉殿の13人』を見て、つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか、というような、いやーな予感がしました。
追記
こういう真面目な見解もありますが。

虚実皮膜と青い卵 2022/01/11(火) 12:11:25
ザゲィムプレィアさん
最近、小田原は村上春樹『騎士団長殺し』の舞台で有名になりましたが、しばらく前、曽我の梅林に行き、曽我兄弟所縁の宗我神社と越前寺を訪ねたことがあります。中世であれば、あのくらいの仇討ちはむしろ普通の事件で、歌舞伎の影響があるとは言え、なぜかくも人気があるのか、実はよくわからないのです。わからないと言えば、なぜ兄が十郎で弟が五郎なのか、というのもわかりません。
梅と言えば、藤原定家に、
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
という名歌があって、考えようによっては、仇討ちの幻のようにも読めます。その場合、袖とは虎御前のものになりますね。
呉座氏のレビューに、頼朝の肖像画が掲載されていますが、現在では、あれを足利直義とする説が有力で、なぜ堂々と頼朝像としているのか、これもよくわかりません。せめて、伝源頼朝くらいがいいのでは、と思います。
初回放送では、女装の頼朝が馬に乗って逃げるシーンがありましたが、頼朝は、相模川の橋供養の帰路、落馬して、それが原因で死んだとされているので、逃げるとき、いちど落馬させて、あれえ、とかなんとか、女言葉で言わせておけば、面白い伏線になったはずで、かえすがえすも残念です。
次回以降では、平清盛(松平健)がマツケンサンバのステップで福原に遷都するとか、歌唱力のある西田敏行(後白河院)が朗々と今様を唸るとか、そんなシーンがあれば、重厚な喜劇になるのではないか、と思っています。

小太郎さん
マルクスの青い鳥と言えば、昨日の王将戦で、挑戦者が昼食に青い卵(アローカナの卵)のオムライスを食べて話題になっていましたね。
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斎藤幸平『人新世の「資本論」』についてのまとめ

2022-01-11 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月11日(火)11時20分31秒

そろそろ資本主義は「宗教」なのか、というコンニャク問答は終わりにしたいと思いますが、仮に資本主義が「宗教」であるとしたら、その神はヤヌスのように、少なくとも二つの顔を持っていますね。
ひとつは豊穣を約束する顔であり、もうひとつは生贄を求める残酷な顔です。
ただ、生贄を求めるのはコミュニズムも同じであり、資本主義が求めた生贄の人数とコミュニズムが求めた生贄の人数を比べたら、まあ、スターリンの大粛清や毛沢東の文化大革命、更にポルポト率いるクメール・ルージュの大虐殺等々の輝かしい歴史を誇るコミュニズムの方が優勢でしょうね。
さて、去年、というか先月の13日に「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」という投稿をして以降、主として自称・経済思想家、客観的にはマルクス考古学者の斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』を検討してきました。

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【「新書大賞2021」受賞作!】
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/

ただ、これはもちろん同書が素晴らしい著作だからではありません。

斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4c58d1fc98183db7e5fa73dbcea8237
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/523b1955e38c41d8c25648dfe43baf24
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4b59cd9fd8deab7f5ecf991e6f726fc1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e191c9b0b8147e060f16b1043387247
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59f0e77a8582704c5292a1c4d65044fa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3cbcc935bd33a63de22e15036fc061d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/267ba48217dc75589e4b74151783c65e

斉藤氏がアメリカ出羽守でもドイツ出羽守でもなく、実は日本出羽守であったというのは私にとっても意外な発見でした。
斎藤氏は「Deutscher Memorial Prize(ドイッチャー記念賞)」を受賞したのが自慢のようですが、別にノーベル賞のように賞金がもらえる訳でもなさそうで、数少ないマルクス主義の研究者が仲間内で褒め合い、マルクス主義文献の売り上げに貢献するために作った賞のようです。
要は「マルクス互助会」の宣伝戦略ですね。

マルクスの青い鳥(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0538ac45b7dc4a14628bb3f552a56496
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/528e2c3ee75efff95a402193dc3f04b6

さて、そんな斉藤氏がマルクスの正統的な後継者かというと、私は疑問を感じます。
1818年にプロイセンで生まれたマルクスは、1883年にロンドンで客死するまで、自然科学を含め、諸学問の最新の動向に関心を持ち、自身の理論を、その時代において最新の水準に保とうと終生努力した人ですが、斎藤氏にそのような姿勢があるのか。
マルクスが死んでから104年後、1987年に生まれた斎藤氏は、「環境危機」の「解決策」が「晩期マルクスの思想の中に眠っていた」ことを「発掘」したのだそうで、マルクス考古学者としての斎藤氏の努力に対して、私も「ご苦労様」程度の言葉をかけるのにやぶさかではありません。
しかし、二十代という学者として本当に大切な時期を単調な「発掘」作業に従事していた斉藤氏は、その間、様々な学問分野の動向を学ぶ時間はなかったようで、「資本主義の際限なき利潤追求を止め」ると息巻きながら、およそ現代資本主義を理解しているとはいえず、その労働関係についての理解は未だにテーラーシステム段階に留まっているようです。

斎藤幸平氏とテーラーシステム
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a1a01e1a421733b0eb0c4ec97d4d944

また、斎藤氏は東大理Ⅱに合格する程度の理系の素養はあったものの、「発掘」作業に従事している間にすっかり時代から取り残され、コロナ禍への製薬業界の対応に窺われる現代資本主義の最先端の動向についてもあまりに鈍感なようです。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その1)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1283ba9fc4698ea8e7de2e3dade9847
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb273a064dc23ec48b9984f54b74ab39
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/706107a4e358513ad5187fd3fa8777cc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c46bede94acc3da8a4ada4b6dd0c27bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e0c2cf27e30bb37d0ba9de9a5cbb8dd2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6fee6795ec9eaa49eb9a7d8c93f5687e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9142a5606e0cf2908c8836211c989511
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a049ac48d21a09b363291210f3226d0f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be09ed44f8008b0be44031029df8f65b

投稿の順番は前後しますが、私は筆綾丸さんに紹介された池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)を読んでみて、佐藤氏の、

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佐藤 だから共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。
 そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7083a71252c81209aa11af3fef15ac3

という見解には感心しました。
核心部分云々は、まさに私が『人新世の「資本論」』を読んでみた感想そのものですね。
斎藤氏は日本どころか世界全体を理性で組み立てようとしていますが、そんなことは全く無理です。
中国もロシアも、イスラム原理主義も存在せず、全人類が地球環境危機に一丸となって立ち向かって行く仮想世界ならば斎藤氏の思考実験も多少の価値はあるでしょうが、その前提が存在しないので、斎藤氏のようにファンタジーを語っても無意味ですね。
斎藤氏は自身が素晴らしい知性だと思っていて、既に「自己絶対化を遂げ」ていることが明らかですが、日本の左翼の歴史をざっと振り返っただけでも、斎藤氏程度の知性は掃いて捨てるほどいます。
斎藤氏レベルの頭の持ち主がそれなりに一生懸命考えた程度のことは、環境危機という要素を除けば、日本の左翼史の中で全てが出尽くしていますね。
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「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」

2022-01-09 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 9日(日)18時33分14秒

図書館で『大平正芳回想録』(鹿島出版会、1983)を借りたら、「回想録」というタイトルに反して638頁の詳細な伝記で、今はちょっと全部は読めないですね。
住家正芳氏の「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」に、

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 佐藤の講演に感化され,浅間山麓での修養会や青山での講演会に参加した1928(昭和3)年から10年を経た1938(昭和13)年,大蔵省に入省して仙台税務監督局間税部長となっていた大平は,ともに「イエスの僕会」で活動した友人を追悼して次のように回顧している。

 昭和三年から五,六年頃にかけて母校に在学せし諸君は「イエスの僕会」なる団体の
 果敢な活動を記憶されていることと思う。それは当時全国の大学高専を遊説されて多
 数の共鳴者を獲ち得た工学博士佐藤定吉氏の自然科学的宗教観に魅せられた一群の学
 生の結社で,既成の YMCAの萎靡沈滞に対する反動も手伝って或は校庭に或は街頭に
 この群独特の活潑な動きを展開していた。成程初期に於ては運動の焦点の見定めがつ
 かず綱領自体に清算さるべきものもあったので何かしら地につかない突飛な相貌を呈
 していたかも知れない。或は当時の学生層に喰入っていた一般的不安をこう言った側
 面から発散させようとする一つのもがきとして一般に受取られていたかも知れない。
 しかしともかくこの群は一つの異様なセンセーションを校の内外に捲き起し相当優秀
 な学生の多くを自己の陣営に迎えていた。そして彼等は抑え難い内面的闘争と清算の
 過程を辿って或者は基督教の正統に導かれ或者はこれを捨てて行った。
(大平[1938]2010:338)


とありますが、これと同じ文章が『大平正芳回想録』にも載っていて、その後に編者が、

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 大平自身は"正統に導かれたもの"か、あるいは"これを捨てたもの"か、この文章ではどちらとも明らかにされていない。しかし、その後を見るとき、彼は、聖書に親しんだ形跡は窺われるにせよ、キリスト者としての自らを強調したこともなく、ましてや伝道の挙に出たこともなかった。そういう点からするなら、おそらく右の一文は"イエスの僕会"に熱中した若き日の自分への別れの言葉であったのであろう。
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という見解を述べていますね。(p44)
高松高等商業を卒業した大平は、佐藤定吉のパトロンとなっていた実業家が経営する桃谷順天館という化粧品会社に就職した後、二十三歳のときに東京商大(現・一橋大学)に入学しますが、

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 大学へ入学して以後も、正芳のキリスト教への関心は継続し、もっぱら聖書を通じて、信仰を深めようとした。『私の履歴書』によれば、大阪時代から矢内原忠雄の著作には傾倒しており、自由ヶ丘の矢内原邸を訪ねて「聖書研究会」に参加した(ただし、矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない)。
 また、世田谷区東松原の自宅で聖書の講義をしていた賀川豊彦の門をたたいたこともあった。【後略】
-------

とのことで(p51)、「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」のだから、行ったとしても数回で、目立たない存在だったのでしょうね。
ま、矢内原忠雄の聖書研究会も独特の排他的な雰囲気があったらしく、なじめない人がいたとしても無理はありません。

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)

パラパラ眺めただけですが、結局、この後はキリスト教関係の話は出て来なくて、「エピローグ 永遠の今」に、

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 大平首相の遺体は、病理解剖に付されたあと、しばらく地下一階の霊安室に安置された。【中略】遺体の前で顔を合わせる遺族たちの悲嘆を慰めるように、東京聖チモテ教会の沢邦介牧師が"主ありて世を去りし信徒の霊魂安らかにいこわんことを"と祈りを捧げた。
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とあり(p614)、聖チモテ教会は聖公会ですから、密葬は聖公会の儀礼で行われたのでしょうね。
ただ、その場所は何故か書いてなくて、「立教学院諸聖徒礼拝堂」だったかは分かりません。
正式な葬儀は「国葬」ではなく、「内閣・自由民主党合同葬儀」として日本武道館で行われたそうですね。(p615)
若い頃を除くと、意外にキリスト教の色彩の稀薄な人生だったようですね。

>筆綾丸さん
>白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。

私も東北にいたときに白鳥をやたら観察する機会が多かったので、何だか白鳥は食傷気味です。
確かに悪そうな顔をしていますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

伝カルヴァン墓 2022/01/09(日) 14:39:40
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%AE-%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%9C%B0-%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B%E8%91%97%E5%90%8D%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1/46016586
十年程前、ジュネーブ郊外のCERNを訪ねた折、掃苔と称してプランパレ墓地の中をぶらぶらし、大平元総理は訪ねたことがあるのかどうか、知りませんが、伝カルヴァンの墓を見たことがあります。カルヴァンについてはほとんど知識がなく、ふーん、こんなものか、と思っただけで、むしろ、ボルヘスの墓を見たとき、こんなところにあるのか、と驚きました。
ホテルへの帰路、レマン湖の畔で、湖面に戯れる二羽の白鳥に話しかけたのですが、白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。
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磯前順一氏と京極純一氏、そして大平正芳元首相について

2022-01-08 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 8日(土)21時05分1秒

私は一時期、磯前順一氏を大変な知識人だと思ってけっこう尊敬していたのですが、東日本大震災以後、磯前氏の著書に何だか違和感を感じるようになり、単著では『死者たちのざわめき 被災地信仰論』(河出書房新社、2015)は納得できず、更に磯前氏が非科学的な反原発活動家である島薗進と共著を出すようになったのを見て、今は全く遠ざかっています。

磯前順一(1961生)

ただ、磯前氏の2000年代初めの頃の著書・論文は学問的に極めて洗練されており、明治維新前後の訪日外国人の記録を検討する際には『近代日本の宗教言説とその系譜』は本当に参考になりました。
この掲示板でも2019年に「国家神道」を論ずる際に磯前著を参照しましたが、その際には「宗教」の定義に関して、

-------
訪日外国人の記録を読む際に注意しなければならないのは、日本人との応答において「宗教」という概念について本当に意思疎通ができていたのか、ということですね。
英語圏の人であれば、"religion"という概念を前提に、日本人に対して「お前の"religion"は何か」と聞いているはずですが、"religion"の訳語が「宗教」にほぼ固定されたのは明治十年代に入ってからだそうです。(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』、p36)
それ以前はというと、最初に翻訳の必要が生じたのは日米修好通商条約(1858)の時で、この時以来、外交文書ではほぼ「宗旨」が用いられたものの、当時の啓蒙知識人による訳語は様々で、「宗門」「信教」「宗旨法教」「神道」「法教」「教法」「教門」「聖人の道」「聖道」「奉教」などが考案されたそうです。(同、p34)
従って、明治十年代以降はともかく、それ以前は通訳がどのように"religion"を訳したのかもはっきりしないことが多いのでしょうね。
ただ、そうはいっても、意思疎通に不自由な事態が生じた際には、仏教を信じるか、浄土真宗の門徒か、といった具合に、もう少し具体的なレベルに落として応答を重ねたでしょうから、丸っきり頓珍漢なやり取りにはならなかっただろうと想像されます。


てなことを論じていました。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)も「宗教学」とは何かを考える上で本当に参考になりました。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)
「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)

私もかれこれ三十年近く人文系の研究者の世界を外部から観察していますが、四〇歳前後で学問的にピークを迎える人が多いなと漠然と思っていて、磯前氏もその一人ですね。

>キラーカーンさん
私は小室直樹は全然読んだことがありません。
前にも書きましたが、私の場合は京極純一氏の講義でコミュニズムとキリスト教の類似性の話を初めて聞きました。
非常に醒めた言い方だったので、私はずっと京極氏を無神論者と思い込んでいたのですが、その京極氏が東京女子大の学長になったと聞いたときはちょっと驚きました。

京極純一氏とキリスト教&共産主義

>筆綾丸さん
>大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派

少し検索してみたら、リンク先ブログに「聖公会の信徒として、葬儀は立教学院諸聖徒礼拝堂で行われました」とありますね。


また、住家正芳氏「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」(『立命館産業社会論集』2019年12月)という論文を読んでみたら、大平正芳が十八歳のときに参加した佐藤定吉の「イエスの僕〔しもべ〕会」というのは、救世軍などに近い運動形態の、当時としても相当に急進的な団体だったようですね。
佐藤定吉は若くして東北帝国大学教授となった化学者で、科学とキリスト教の関係の究明を終生の課題としていたようですが、だんだん国粋主義的方向に進み、現在のキリスト教史では位置づけが非常に難しい存在になってしまったようですね。
晩年には、

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 佐藤は,先に挙げた大平の回顧の前年,1937(昭和12)年の年末に『皇国の世界指導原理』と題する共著を出版して「神が,皇国を世界歴史第二の発足点として選んでゐ給ふ事は歴然たる事実」(佐藤・原1937:12-13)であるとしており,「愛国的皇室中心主義」への傾斜をさらに強めていた。昭和10年(1935年)以降の佐藤は『信仰殉国』『国体と宗教』『皇国日本の信仰』『皇国信仰読本』『皇国信仰概説』『皇国神学の基礎原理』『皇国信仰鉄壁の布陣』などのタイトルの著作を矢継ぎ早に出版し(佐藤定吉著書目録:277-278),1941(昭和16)年には「イエスの僕会」を「皇国基督会」と改名するに至る。これは息子である佐藤信の目にも,「確かに戦時中,父は時流に乗って日本精神を強調し,栄光の日本を夢見ていた」ように映ったが,「父の本意は何とかしてキリスト教を日本に土着させたいと念願していた」ようでもあり,「日本精神の完成こそキリスト教の十字架であると信じていた」という(佐藤1970:560)。


といった境地に達していたそうです。
ま、大平正芳はそこまで変化する前に離脱したようですが。
少し興味が湧いてきたので、後で大平正芳の回想録を見て、思想的・宗教的変遷を確認してみたいと思います。

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

そういえば 2022/01/08(土) 00:09:42(キラーカーンさん)
>>コミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います

多分『ソビエト帝国の崩壊』だと思いますが、小室直樹は、宗教をマックスヴェーバー流に

『ある個人に一定の行動様式を形成させる一定の心理的なもの』(うろ覚えですが)

と定義すれば、共産主義のような「イデオロギー」も十分「宗教」として語るに足るものとなると述べていました。
(小室は、儒教もその意味での「宗教」であるとしています。何故なら、孔子は「怪力乱神を語らず」と多くの宗教が有する超常現象や死後の世界などの分野については何も語っておらず、儒教は祭祀の体系であり、その点において「イデオロギー」に近いとしています。さらに言えば、俗にいう「現世宗教」もその類かもしれません)

宗教的動機 2022/01/08(土) 12:35:36(筆綾丸さん)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613410
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佐藤??大平(正芳)さんはたしかに半端ではない読書家でした。
池上??あと吉田茂がいますね。(中略)
佐藤??もう一人のインテリ総理と言えば、石橋湛山ですね。(中略)そして、大平と石橋の二人に共通しているのは、強力な宗教的動機があることです。
池上??たしかにそうです。
佐藤??大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派で、石橋は日蓮宗で得度した僧侶です。二人は政治をやる背景のところに、つまりエトスのところで宗教的動機があって、それが本を読むことにつながっていたんじゃないか。超越的な使命を持っていたという意味では、二人はちょっと珍しいタイプかもしれません。(196頁)
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池上・佐藤両氏が、枝野幸男、志位和夫、不破哲三各氏に言及しているところなどは、まるで漫談のようで笑えます。
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資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。

2022-01-07 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 7日(金)21時16分43秒

資本主義に「殉教者」はいるのか、とか大仰なことを書きましたが、コミュニズムと違って資本主義は基本的に体制側の理念・思想なので、「殉教者」が必要になる状況自体が考えにくいですね。
ま、ロシア革命やキューバ革命などは「殉教者」が登場してもおかしくない事態でしたが、革命的争乱の中で、自分個人の財産権を守るために命を捧げた人は多くとも、資本主義という理念・思想を守るために命を懸けた人はあまりいなさそうです。
もう少し広く、「自由」を守るために命を懸ける、となるとそれなりに格調が高く、「殉教者」も多少はいそうですが、資本主義≒経済的自由に限定してしまうと、いささか格調が低くなり、「殉教者」は生まれにくいですね。
従って、「殉教者」がいないから資本主義は「宗教」ではないのだ、という結論になりそうですが、しかし、そもそも前提として「宗教」をどう定義するか、という問題があります。
先にコミュニズムについて検討した際に、「コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論」などと書きましたが、こうした悪意のある冗談ではなく、真面目にコミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います。
これは国際日本文化研究センター教授の磯前順一氏風に言うと、コミュニズムが「ビリーフ」っぽいからですね。
磯前氏の『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』はなかなか難解なので、石川明人氏の『キリスト教と日本人』(ちくま新書、2019)から、そのエッセンスを紹介すると、

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 磯前順一は『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』のなかで、日本語で「宗教」に統一される前の religion の訳語には、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)を中心としたものと、「ビリーフ」(概念化された信念体系)を中心とするものとの二つの系統が存在していたと述べている。前者には「宗旨」「宗門」など、後者には「教法」「聖道」「宗教」などが例としてあげられている。
 そして彼によれば、一九世紀後半に religion の概念をもたらしたと同時に日本へのキリスト教宣教の主流となったプロテスタントは、儀礼的要素を廃するビリーフ中心のものであり、プラクティスを中心とした近世日本的な「宗旨」の概念とは嚙み合わなかったため、religion の訳語としてはビリーフ系統の「宗教」が選ばれることになったのではないか、という(三六~三七頁)。
 一九世紀後半は、「宗教」という日本語も、「キリスト教」という日本語も、ともにまだ出来たばかりのものであった。それらがいったい何なのか、どう理解すべきかについては、当事者たちのあいだでさえしばらくは不安定なものだったのである。
-------

といった具合です。(p217以下)
この磯前理論を前提とすると、「殉教者」のいない資本主義は「ビリーフ」(概念化された信念体系)的な宗教ではないとしても、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)的な宗教の可能性は残ります。
またまた悪意のある、しかも更に出来の悪い冗談を言い始めたな、と思われる方がいるかもしれませんが、苛烈な競争を伴う資本主義が利潤追求のために膨大な数の死者を生み出してきたことを考えると、これらの死者は資本主義の神に捧げた「生贄」ではなかろうか、という見方も、まんざら冗談でもない響きを帯びてくると思います。
営利企業のあくなき利潤追求の過程で生じた労働災害による死者、競争社会の精神的重圧に追い詰められた自殺者、更に斎藤幸平氏が問題にするような環境破壊による死者等々、資本主義はその成立期から現在に至るまで、膨大な数の労働者・市民に死を要求してきたことは紛れもない事実です。

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磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』(岩波書店、2003)

日本において,「宗教」概念はどのように誕生したのか.「宗教」という視座によって,従来の心性構造はいかに変貌し,いかなる言説の空間が開かれたのか.「宗教」概念が導入された幕末,「政教分離」の成立した明治20年代,そして「宗教学」が構築された明治30年代に焦点をあて,近代日本における「宗教」の命運をたどる.


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石川明人『キリスト教と日本人─宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書、2019)

日本人の九九%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか?そもそも「宗教」とは何か?宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。


>筆綾丸さん
『英雄たちの選択』は磯田道史氏が苦手なので見ていませんが、「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」は井上章一氏が出たのですか。
正直、専門的知識のない井上氏が何のために出てくるのか、よく分らないですね。
国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏による井上所長への忖度、おべんちゃらでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

受信料 2022/01/07(金) 13:01:51
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/Q69QJ41RGW/
間違って、この番組を見てしまいました。
坂井孝一氏は平凡なことしか言わず、井上章一氏は食えない人で、中野信子氏は脳科学者(?)らしくトンチンカンなおしゃべりをしてました。受信料の無駄遣いとしか思えない内容でした。
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資本主義は「宗教」なのか。

2022-01-06 | 斎藤幸平『人新世の「資本論」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 6日(木)14時32分56秒

中世史の話題は大河ドラマの進展に合わせて随時取り上げることにして、そろそろ「新しい資本主義」の問題に戻ります。
正月三日、Eテレで夜十時から「100deパンデミック論」という番組をやっており、司会者の伊集院光以下、斎藤幸平(経済思想家w)・小川公代(英文学者)・栗原康(政治学者)・高橋源一郎(作家)といった、頭が悪いか性格が悪いか、もしくは両方を兼ね備えた人たちが「白熱トーク」をやっていました。

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古今東西の「名著」を、25分×4回=100分で読み解く「100分de名著」。スペシャル版として「100分deパンデミック論」を放送します!
今回は、「パンデミック」がテーマ。多角的なテーマから名著を読み解くことで、「パンデミックとの向き合い方」について考察します。
通常の4回シリーズではなく、100分間連続の放送でお届けします。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2022special/

私も最初の二十分ほど見て、予想通り陰気で知的水準の低い番組であることを確認してから「マツコの知らない世界大新年会SP」に変えましたが、斎藤幸平氏は、まあ、よくしゃべる人間ですね。
あれだけ無内容なことを連続的に話す能力は私にはなくて、その点は敬意を表したいと思いました。
さて、コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論なのですが、そうはいっても、旧来のコミュニズムは貧乏が正しいなどとは絶対に主張せず、生産力=富の増大と公平な分配を主張しつつも、実際にはそれがうまく機能せず、結果的に社会の全体的な窮乏化をもたらす宗教でありました。
この点、斎藤氏は貧乏それ自体が正義であることを確信しており、みんなで貧しくなろう、それもなるべく早く、という「加速主義」ですね。
斎藤理論は確かにある意味ではコミュニズムのコペルニクス的転回であり、すごいといえばすごいですね。
ところで、コミュニズムが何故「宗教」かというと、それはコミュニズムが「殉教者」を伴うからです。
マルクスの『資本論』等のコミュニズムの「根本聖典」自体に「殉教者」を要求する主張があるかというと、そこは若干の議論が必要でしょうが、少なくともレーニンは明らかに「殉教者」を求めていますね。
そして、理論ではなく現実の歴史を振り返れば、コミュニズムの歴史は夥しい「殉教者」に溢れています。
戦前の日本に限っても、『しんぶん赤旗』の記事によれば、

-------
1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-22/20050922faq12_01_0.html

とのことで、この全部がコミュニストという訳ではありませんが、「転向」を肯ぜず、思想に殉じたコミュニストの数は大変なものですね。
また、戦後は、いわゆる「新左翼」の「内ゲバ」で百人近い犠牲者が出ており、これも当該組織を離れれば殺されることはなかったのに、離脱せずに結果的に死に至った人々ですから「殉教者」に含めることができるはずです。
このように、コミュニズムは多数の「殉教者」を伴う「宗教」ですが、では資本主義は「宗教」なのか。
マックス・ウェーバーは資本主義とプロテスタンティズムの関連を追求しましたが、日本のように住民の多数がキリスト教を受けれなかった土地でも資本主義は根付いているので、資本主義とプロテスタンティズムの結びつきは必然的なものではないですね。
ただ、そうはいっても、資本主義に「殉教者」が伴うならば、プロテスタンティズムとの関係とは別の意味で、資本主義を「宗教」と呼ぶこともできそうです。
果たして資本主義の歴史の中で「殉教者」はいたのか。
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『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在

2022-01-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 6日(木)14時22分41秒

「姫の前」と義時の関係は、その結婚に至る経緯が「ヨシトキ君の恋バナ」として面白い上に、通説、というか私の超絶単独説以外の定説では最後に悲劇的結末が待っているので、これまた視聴者の涙を誘って大いに盛り上がりそうです。
従って、大河ドラマに「姫の前」が登場しないはずはないと思うのですが、不思議なことに、「鎌倉殿の13人」サイトを見ても、「姫の前」のいるべき場所は未だに空白です。


私としては、ナレーターの長澤まさみが怪しいと思っていて、長澤まさみは「権威無双の女房」として最も適役のように思われるので、実は彼女が「姫の前」でした、という展開になるのではないかと疑っています。
当たれば自慢したいので、ここに記しておきます。
なお、ツイッターで相互フォローしているエミさんは、

-------
初恋の人・八重役の新垣結衣ちゃんが2役やるっていうのはどうでしょう?
初恋の人に似てるから好きになった説。


という説を提唱しておられます。

>筆綾丸さん
>①姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。

前者は分かりませんが、朝時は『吾妻鏡』建永元年(1206)十月二十四日に「相州二男〔年十三〕於御所元服。号次郎朝時」とあるので、実朝の偏諱でしょうね。

「吾妻鏡入門」(『歴散加藤塾』サイト内)

>②竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。

これは私も前々から気になっているのですが、ちょっと分からないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

女のgenealogy 2022/01/06(木) 12:40:34
初歩的な疑問で恐縮ですが。
①姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。
②竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。何か意味があるはずである。この竹の重複は何を暗喩するのか。

付記
竹はパンダの主食というような知識は鎌倉時代にはおそらくなく、また、爺臭い竹林七賢も関係ないだろう。比企氏の家紋には竹の葉の図柄があり、武蔵国比企郡及び鎌倉比企谷は筍で有名であった、というのは、ドコモダケならぬ孟宗(妄想)竹である。
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野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)

2022-01-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 5日(水)13時33分49秒

山本氏は『サライ』サイトで、「姫の前」についても「出逢いと別れはどう描かれる? 義時の最初の正妻、絶世の美女・姫の前―北条義時を取り巻く女性たち5【鎌倉殿の13人 予習リポート】」という記事を書かれていますが、これは『史伝 北条義時』と同じ内容ですね。

-------
さて、困ったのは義時である。自分の一族と妻方の一族が対立することになった。相当な苦悩があったと思われるが、親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない。義時は、父時政の命令に従い、武士たちを率いて比企一族を滅ぼした。
当然、これまでのように夫婦生活を送ることはできない。姫の前は義時に離別され、3人の子を残して、鎌倉を去った。
程なく上洛し、貴族の源具親(みなもとのともちか)と再婚。翌1204年には輔通、次いで輔時を出産するが、1207年3月にその短い生涯を終えた。鎌倉を去ってから、わずか3年後のことであった。

https://serai.jp/hobby/1041312

「親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない」というのはどうにも変で、義時と政子は二年後の「牧氏の変」で時政と牧の方を鎌倉から追放しますから、少なくとも義時と政子にとっては「親権が絶対」ということはないですね。
なお、山本氏が紹介されている、

【北条義時】ヨシトキ君の恋バナ聞いちゃったよ!【鎌倉国宝館×鎌倉歴史文化交流館】
https://www.youtube.com/watch?v=By9xprpGJ9k

を見たところ、次のような悲しいやり取りがありました。

-------
とにもかくにも、ヨシトキ君は一目ぼれの人と結婚できたからハッピーエンドってことだね!
「いやいやいや、そんなに幸せな時間は長くは続かなかったんだ。頼朝様が亡くなったあと、頼朝様の長男頼家様が鎌倉殿になるんだけど、その頼家様が病気になってしまい、またまた次の鎌倉殿を選ばないと、って話になったんだ。
それで北条氏は頼家様の弟の千幡様(11歳)を、姫の前の生家、比企氏一族は頼家様の息子一幡様(6歳)を推して対立してしまい戦うことに……。僕は武士たちを率いて比企氏一族を滅ぼしたんだ」
それって、ヨシトキ君と姫の前の関係はどうなるの?
「そう、僕が先頭を切り姫の前の生家である比企氏一族を滅ぼしたんだから………。やっぱりね。離れるしか道はなかったんだ」
結婚している相手の一族と戦うなんて残酷な出来事だな。
「うん、800年経っても忘れらないよ。あの戦いのことも、姫の前のことも。姫の前との間には二人の子供もいたしね」
その後の姫の前はどうしたんだろう。
「僕と離れてからの姫の前は京に引っ越し、しばらくして貴族と再婚したらしい。幸せだったらそれでいい、幸せを願うしか僕にはできないから」
そういえば、ソレちゃんは姫の前にそんなに似ているの?
ヤッダー!
「うん、髪の毛が長くて黒いところなんて、そっくりだよ!」
そこ!?
よし! 元気出せ! ヨシトキ君! 夕日に向かって走るよ!
「よく分らないけど、いくよ」
おー!!
-------

「姫の前との間には二人の子供もいたしね」は変で、実際には朝時・重時・竹殿の三人ですね。
監修者は山本氏ではなさそうです。
コメント (1)
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野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち

2022-01-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 5日(水)11時42分43秒

『史伝 北条義時』(小学館、2021)の「あとがき」には、

-------
 岡山に生まれ育った私は、歴史を学ぶなら京都に行こうという単純かつ明快な理由から京都の大学に進学した。ここから大学・大学院とあわせて、十年もの間を京都で過ごすことになる。京都では、上横手雅敬先生・野口実先生・元木泰雄先生・美川圭先生といった第一線の中世史研究者からご指導を賜った。
-------

とありますが(p298)、学部は京都女子大だそうですから野口実氏の影響が一番強そうですね。
また、

-------
 なお、小学館から刊行されている雑誌『サライ』のウェブサイトでは、政子や牧の方など義時を取り巻く女性たちについて綴った文章を連載しているので、本書と合わせて読んでいただきたい。義時周辺の人間模様が、より立体的に描けるようになるはずである。
-------

とのことなので、『サライ』サイトで読んでみたところ、「京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】」は特に面白いですね。
この記事には、

-------
1226年11月、牧の方は上洛し、翌年正月23日、娘婿藤原国通の有栖川邸において、時政の十三回忌供養を執り行った。供養は、娘たちのほか、国通や冷泉為家ら公卿6名、殿上人10名、諸大夫数名が出席するという盛大なもので、牧の方のもつ人脈の広さがうかがえる。
さらに、供養の後には、宇都宮頼綱に嫁いだ娘と孫娘(冷泉為家の妻で妊娠7、8カ月か)を引き連れて、天王寺や南都七大寺に参詣している。歌人藤原定家(為家の父)は、嫁の体調を心配し、日記に「身重の女性を連れて行くとはいかがなものか」と不満を記しているが、牧の方にとってはどこ吹く風、親子三世代で遠出を楽しんだようである。すでに60代と推定されるが、なかなかパワフルな女性であった。

https://serai.jp/hobby/1033821

という指摘があります。
また、「続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】」に登場する牧の方の三女について、

-------
三女は、武士の宇都宮頼綱(1172~1259)に嫁ぎ、女子と男子(泰綱)を産んでいる。長女と同様、政子が危篤に陥った際には、京都から関東に下向しており、姉妹の関係は良好であったことがわかる。
1233年、三女は47歳にして62歳の松殿師家(1172~1238)と再婚した。頼綱と離縁した時期や理由は不明であるが、前夫と娘に再婚を知らせる便りを送っている。中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができたから、この年齢での再婚も驚くことではない。

https://serai.jp/hobby/1036729

とありますが、「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という指摘は重要ですね。
さて、山本氏はこのように義時周辺の「なかなかパワフルな女性」たちに注目されながら、「姫の前」については、その評価はずいぶん消極的です。
山本氏は「三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう」(p91)、「彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」(p126)などと言われますが、子供が多いことから「琴瑟相和す夫婦」と決めつけるのは現代的な「良妻賢母」的発想じゃないですかね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1) (その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448

義時周辺の「なかなかパワフルな女性」を正確に認識できる山本氏が、「姫の前」に限っては森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者と同じような女性像を想定するのは、結局のところ義時が書いたという起請文の呪縛ではなかろうかと思います。
神仏に離縁しないと誓った以上、その結婚は永遠なのだ、それを破った義時は苦悩に打ちひしがれたに違いない、とマッチョな研究者たちは思い込んでいますが、起請文を書いたのは義時だけ、という一番単純な事実を忘れていますね。
ここは「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という、多くの研究者が同意できるであろう認識に戻って、起請文など書いていない「姫の前」には離縁の自由があったと素直に考えるべきです。
重時が生まれた建久九年(1198)までの七年間はともかく、義時と「姫の前」が「およそ十年連れ添」ったとの史料的裏付けはありません。
「姫の前」が「権威無双の女房」であり、鎌倉から京都に移動して貴族と再婚した「なかなかパワフルな女性」であることを考えれば、源頼朝という「かすがい」ないし桎梏が死去した建久十年(1199)以降、ある時期に「姫の前」から離縁の申し出があって、二人は離縁した、と考えるのが自然です。
そして、その時期が早ければ早いほど、義時の心理的負担は減少し、比企氏の乱で率先垂範して比企邸に殴り込みをかけることができたはずですね。
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土御門定通が処罰を免れた理由(再論)

2022-01-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 4日(火)16時28分10秒

「大河ドラマ愛好家」さんと私の地味なバトルはブログのコメント欄で続いていて、『公卿補任』の記載に何か問題があるようですが、今のところは先方の出方待ちです。


この地味バトルでは何となく土御門顕親の生年が論点になっていますが、私は別に顕親が承久四年(貞応元、1222)生まれであっても困る訳ではありません。
承久の乱の終結は承久三年六月十五日ですが、その後、竹殿が土御門定通に再嫁して翌年顕親を生んだとすると、竹殿が妊娠するまではどんなに長くても八か月程度です。
京都守護でありながら幕府を裏切った前夫(大江親広)が行方不明になった後、ただちに再婚すること自体が些か妙な感じがする上に、新しい夫・土御門定通も後鳥羽方で戦闘に参加していた人ですから、処刑・配流等の処罰を受ける可能性も相当あった立場です。
そんな状況下で、再婚して子作りに励みましょう、というお茶目な行動を取っていたら、夫婦そろって相当に能天気なのではないか、という感じがします。
そして、結果的に定通が全く処罰されなかったことをどう説明するのか、という重大な問題があります。
念のため確認しておくと、承久の乱に際して、定通がそれなりの軍事的活動をしていることは『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ています。

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。


「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に向かっていますね。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
そして官軍の敗北後、源有雅は甲斐で、藤原範茂は相模でそれぞれ誅殺され、坊門忠信はいったんは死罪と決まったものの、妹で実朝未亡人、西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながっています。
しかし、定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
この処遇の差はいったい何なのか。
ま、定通が承久の乱の前に既に竹殿の夫であったためだろうと私は考えます。

土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)

>ザゲィムプレィアさん
>姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。

率直に言って、私はザゲィムプレィアさんの見解に全く賛成できません。
「姫の前」が主体性のない女として、比企家当主の命令のままに動く存在であるかのように考えるのは誤りだろうと思います。
そうした人物像は「権威無双の女房」という『吾妻鏡』の描写にそぐわないですね。
私が考える「姫の前」は頭の回転が速く、自分の意見をはっきり言い、しかも存在するだけで周囲が明るくにぎやかになるような華やかな女性です。
幕府の創業期が終わって、二代目・三代目の世代になると、家格や女性の役割が固定化され、女性が活躍する余地も狭まったでしょうが、創業期はまだまだ緩くて、才能に恵まれた女性は個性的な生き方が可能だったように感じます。
何より北条政子や板額御前がいた時代ですからね。

>筆綾丸さん
>葉室幼稚園
葉室定嗣が中興の祖である浄住寺のすぐ隣なんですね。
何か関係があるのかは分かりませんが。

浄住寺

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

姫の前の離婚の政治面の考察 2022/01/03(月) 09:14:53(ザゲィムプレィアさん)
姫の前の離婚と再婚の時期を比企氏の乱前とした方が自然だという小太郎さんの意見に賛成です。

結婚と離婚の政治的な意味を考えてみました。
北条氏は政子が頼朝の妻であり、舅の時政が頼朝を旗揚げ以来支援してきて幕府で枢要な地位を占めるとともに家の勢力を伸ばしてきました。
比企氏は比企尼に対する頼朝の信頼が篤く、頼朝の勢力が拡がるにつれ一族の人間が重用されて、家の勢力を伸ばしてきました。
比企能員の娘の若狭局が頼家の妻になり、二人の間に一幡が生まれ、将来将軍になることが予想されます。
そうなれば政子がいるために北条氏が占めていた特別な地位が比企氏に移ることになります。
それを北条氏が喜ぶはずもなく、比企氏もそれを認識していたでしょう。この地位の交代を円滑に進めるためのキーパーソンは、家督継承者であり既に十三人の一人になっていて姫の前と結婚している義時です。
北条氏の家督となる義時を適切に処遇し続ける、両氏の間にトラブルが発生した場合、必要なら家督同士が直に話合い解決を図る。これを比企氏の基本方針とするべきでしょう。
姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、
比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。
しかし、そのようなことが起きた形跡はありません。吾妻鏡は義時と姫の前の結婚を隠していないのですから、もし義時が別の比企氏の女性と再婚していればそれを隠さなかったでしょう。
離婚が乱前ということは、北条氏と比企氏の間の亀裂を隠せなくなった或いは隠す気が無くなったということを意味するのではないでしょうか。
史料の裏付けの無い考察ですが、コメントを頂ければ幸いです。

葉室 2022/01/04(火) 09:08:54(筆綾丸さん)
小太郎さん
https://localplace.jp/t000174614
昔、この掲示板で、後鳥羽院の側近・葉室光親を悼んで、次のような駄歌を詠んだ記憶があります。
灌仏会
「この甘茶がいいね」と君が言ったから 四月八日は葉室幼稚園

姫の前に関する小太郎さんの新解釈によって、従来の学説が綺麗に覆るような気がします。
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大河ドラマ愛好家さんのコメントへの回答

2022-01-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 3日(月)10時29分16秒

元旦の投稿「山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)」に対して、当掲示板の投稿保管用のブログ「学問空間」で「大河ドラマ愛好家」さんから長文のコメントをいただきましたので、こちらで回答致します。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669

まず、

-------
『葉黄記』6月2日条を見ますと、葉室定嗣が顕親出家の知らせを受けたのは定通が送った使者からでした。また、6月5日に定嗣は定通と面会しています。これらの点から、『葉黄記』に記載された顕親の年齢は正確と判断してよいと思いました。それに、顕親が出家した霊山は定嗣の一族が多くいた場所です(注)。この点も、記事の正確性を示すものと思います。
(注)林譲「南北朝期における京都の時衆の一動向―霊山聖・連阿弥陀仏をめぐって―」(『日本歴史』第403号、1981年)で指摘されています。
-------

との点ですが、そもそも葉室定嗣とはいかなる人物かを確認しておきます。
『朝日日本歴史人物事典』によれば、葉室定嗣は、

-------
没年:文永9.6.26(1272.7.22)
生年:承元2(1208)
鎌倉中期の公卿。承久の乱(1221)の首謀者として誅された権中納言藤原光親の子。母は参議藤原定経の娘。初名光嗣,次いで高嗣,定嗣。建保2(1214)年叙爵。但馬守,美濃守,蔵人,弁官を歴任し,仁治2(1241)年に蔵人頭。翌年参議となって公卿に列する。摂関家九条流に仕え,二条良実の政治顧問となる。また後嵯峨天皇の側近としても活動し,寛元4(1246)年に九条家が没落すると専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった。大蔵卿,左兵衛督,検非違使別当に任じて宝治2(1248)年に権中納言。後嵯峨上皇の第一の側近として大納言を望んだが,家格のゆえに果たさなかった。日記があり,『葉黄記』という。
(本郷和人)

https://kotobank.jp/word/%E8%91%89%E5%AE%A4%E5%AE%9A%E5%97%A3-1102018

という人で、土御門顕親が出家した宝治元年(1247)六月の時点では、前年の九条家没落を受け、「専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった」立場です。
仁治三年(1242)の後嵯峨即位に多大の貢献をした土御門定通は、寛元四年(1246)の後深草天皇への譲位以降も後嵯峨院政において権勢を誇っていたので、その息子が出家してしまったことは貴族社会の大事件であり、土御門定通と「後嵯峨上皇の第一の側近」である葉室定嗣との間には密接な連絡の必要が生じることになります。
従って、定嗣の日記『葉黄記』は顕親出家に関する信頼できる一次史料であることは間違いなく、この点は私にも異存はありません。
しかし、この顕親出家騒動において、顕親の年齢それ自体が重要なのか。
顕親の出家時の年齢が二十六歳か二十八歳かで、出家騒動の様相が変わってくるのか、そして葉室定嗣の出家騒動に関する認識が変わってくるのかというと、そんなことは全然ありません。
定嗣は別に顕親の親戚でも何でもなく、顕親の生年に特別な関心を抱くような立場ではなくて、たまたまこの出家騒動の経緯を日記に記録するに際して顕親の年齢もメモ程度に記しただけです。
従って、聞き違い、記憶違い等の可能性は否めません。
次に『公卿補任』の信頼性についてですが、

-------
次に『公卿補任』に記載された年齢に誤りが多いことは、以下の例を思い出しました。
●平重盛
日下力先生 『平治物語の成立と展開』(汲古書院、1998年)
「重盛の生年については、保延三年あるいは同五年とする誤りが多い。『公卿補任』記載の年齢に混乱があるからで、『山槐記』並びに『玉葉』所引『頼業記』には、重盛の死を報じて「四十二」とあり、逆算すれば保延四年の誕生となる」
●藤原茂範
小川剛生先生「藤原茂範伝の考察ー『唐鏡』作者の生涯ー」(『和漢比較文学』第12号、1994年)
「茂範は経範の長男である。生母は不明。生年は『公卿補任』文永十一年(一二七四)条の「非参議従三位藤茂範(三十九)」から逆算した嘉禎二年(一二三六)説があるが、明らかに誤りである」
●京極為教
井上宗雄先生『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006年)
「頼綱女との間の三男が為兼の父為教である。これも上記石田論文(引用者注:石田吉貞「法服源承論」)に周到な考察がある。すなわち『明月記』安貞元年(一二二七)閏三月二十日にみえる、為家の冷泉邸で出生した男子が為教と推定される(『公卿補任』『尊卑分脈』の弘安二年〈一二七九〉五十四歳没とある享年は非)
●豊臣秀吉
桑田忠親先生『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
「第一、天文五年説の唯一の根拠となっている『公卿補任』の記事も、いわゆる、当時における書き継ぎの記録であり、理屈からいえば誤りはまったくないはずだが、事実としては錯誤も生ずるのである。ことに、人物の姓名の下に注記した年齢にいたっては、それが、果たして何を根拠としたものか、推測に苦しむ。その一々を、当人に聞きただして書いたという証拠でもあれば、結構だ。が、そうでない限りは、伝聞によって書いたに相違ない」
たぶん山本さんは、このような点も踏まえて、『葉黄記』を優先したんだと思います。ご参考になりましたら幸いです。御研鑽をお祈りいたします!
-------

との御指摘を見て、豊臣秀吉まで広げても、この程度の誤記しか見つからないのか、と私は吃驚しました。
実は私も『公卿補任』の年齢の誤りについて別の例を調べたことがあります。
それは後深草院二条の父、中院雅忠についての記述です。
雅忠は文永九年(1272)に四十五歳で死んだと記されているので、逆算すると、安貞二年(1228)生まれのはずですが、『公卿補任』をずっと追ってみると非常に奇妙なねじれがあります。
即ち、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
『公卿補任』自体に矛盾があり、雅忠は嘉禄元年(1225)生まれの可能性もあるのですが、まあ、これはある時点で誤記に気づいたということだろうと思います。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9df962f6fffa8d9a9e13f51006887b4

さて、土御門顕親の出家時の年齢について『葉黄記』と『公卿補任』のいずれが信頼できるか、という問題に戻ると、私はやはり「書き継ぎの記録」である『公卿補任』の方が信頼性が高いと思います。
既に紹介しているように、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付は、

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貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

という具合いに相当詳細であり、記録に連続性があります。
『公卿補任』の年齢の誤記は、貴兄が十二世紀から十六世期まで調べても僅か四例しか見つけることのできないとのことなので、もともと顕親の生年に特に関心のない葉室定嗣の単発の記録より『公卿補任』の方が信頼性が高い、と考えるのが常識的ではないかと思います。
コメント (11)
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