投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月15日(土)13時39分36秒
斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の最大の問題点はその愚劣な内容ではなくて、「終末論」を唱えるこのような本が四十万部以上も売れるという社会現象の方ですね。
ソ連崩壊から三十年以上経って、コミュニズムに対する免疫のない世代が激増した、ということが一つの要因だろうと思いますが、他の先進国や鬱陶しい二つの隣国に比べて経済の不調が延々と続いて、ある種、破れかぶれみたいな心境になっている人も増えているのでしょうか。
ま、貧すれば鈍する、という格言はマルクスの『資本論』以上に人間と社会の真理を衝いていますので、マルクスウイルスのサイトウコウヘイ変異株に感染した貧乏神信者たちが目指す「脱成長コミュニズム」とは正反対の方向で、日本を豊かにする方策をしっかり考えねばなりません。
そこで私は、従来は否定的に捉えられていた日本の「宗教的空白」に着目し、この「宗教的空白」こそが日本に埋蔵された豊かな「原油」であって、これを精製して輸出することにより日本を豊かにしたいと考えるものであります。
そもそも「宗教的空白」とは何か。
これは、直接にはエマニュエル・トッドの表現であって、トッドは『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付けの「日本の読者へ」において次のように書いています。(p7以下)
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宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。
日本における格差の拡大は著しい現象です。日本はもはや、国際比較の統計表の中でスカンジナビア諸国と並ぶ平等の極の一つではありません。まだアングロサクソンの国々の格差のレベルには達していませんが、そのレベルに近づいてきています。宗教的空白および格差の拡大(等式の左辺)を見れば、日本はまさに西洋の国です。あるいはむしろ、ヨーロッパの国です。米国には宗教性─これはより適切に定義される必要がありそうです─が存続していますから。
しかし、右辺については何といえばよいのでしょうか。いうまでもなく日本は、ヨーロッパのあらゆる国がそうであるようにはイスラム恐怖症ではあり得ません。イスラム教徒は日本国内にはほとんどおらず、地理的にも近くもなく、海の向こうの存在です。実のところ日本は、人口の問題があるにもかかわらず、ドイツとは逆に、その問題の解決策としての大量移民の受け入れを、移民がイスラム教徒であるとないとにかかわりなく拒否してきました。では、日本の政治的行動はどうか。イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭も、私はそこに見出しません。すこぶるリアルな中国の脅威に対しても、日本のリアクションは穏健そのもののように思われます。ヨーロッパに見られるようなロシア恐怖症さえ観察できません。近代日本において日露戦争が占めている中心的な位置を考慮すると、ロシア恐怖症は容易に発生しそうなものですけれども。
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トッドは十代のころにフランス共産党員だった人なので宗教とは相性が悪く、もちろんキリスト教は理解できても、日本の宗教事情には何ともとまどったようですね。
トッドの所謂「宗教的空白」は、実際には何も存在しない真空ではなく、宗教的な何かではあっても狂信を生み出すことのない、例えていえばある種の不活性ガス、空気のようなものです。
ここに書かれたトッドの理解は、それ自体はあまり参考になるものではありませんが、日本の「宗教的空白」は「イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭」ももたらさず、非常に「穏健」なものであることは重要です。
仮にこうした「宗教的空白」を輸出することができるならば、世界の人びとに精神的安定を提供し、世界平和に資することになるはずです。
しかし、「宗教的空白」を輸出することができるのか。
その具体的方法が、私がこの五年ほどずっと考えてきた思想的課題です。
日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c685d9ef8a0773b9b1d90c3465625d5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7c61ab0ad3b0b3e3be33d6adec2dfa
斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の最大の問題点はその愚劣な内容ではなくて、「終末論」を唱えるこのような本が四十万部以上も売れるという社会現象の方ですね。
ソ連崩壊から三十年以上経って、コミュニズムに対する免疫のない世代が激増した、ということが一つの要因だろうと思いますが、他の先進国や鬱陶しい二つの隣国に比べて経済の不調が延々と続いて、ある種、破れかぶれみたいな心境になっている人も増えているのでしょうか。
ま、貧すれば鈍する、という格言はマルクスの『資本論』以上に人間と社会の真理を衝いていますので、マルクスウイルスのサイトウコウヘイ変異株に感染した貧乏神信者たちが目指す「脱成長コミュニズム」とは正反対の方向で、日本を豊かにする方策をしっかり考えねばなりません。
そこで私は、従来は否定的に捉えられていた日本の「宗教的空白」に着目し、この「宗教的空白」こそが日本に埋蔵された豊かな「原油」であって、これを精製して輸出することにより日本を豊かにしたいと考えるものであります。
そもそも「宗教的空白」とは何か。
これは、直接にはエマニュエル・トッドの表現であって、トッドは『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付けの「日本の読者へ」において次のように書いています。(p7以下)
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宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。
日本における格差の拡大は著しい現象です。日本はもはや、国際比較の統計表の中でスカンジナビア諸国と並ぶ平等の極の一つではありません。まだアングロサクソンの国々の格差のレベルには達していませんが、そのレベルに近づいてきています。宗教的空白および格差の拡大(等式の左辺)を見れば、日本はまさに西洋の国です。あるいはむしろ、ヨーロッパの国です。米国には宗教性─これはより適切に定義される必要がありそうです─が存続していますから。
しかし、右辺については何といえばよいのでしょうか。いうまでもなく日本は、ヨーロッパのあらゆる国がそうであるようにはイスラム恐怖症ではあり得ません。イスラム教徒は日本国内にはほとんどおらず、地理的にも近くもなく、海の向こうの存在です。実のところ日本は、人口の問題があるにもかかわらず、ドイツとは逆に、その問題の解決策としての大量移民の受け入れを、移民がイスラム教徒であるとないとにかかわりなく拒否してきました。では、日本の政治的行動はどうか。イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭も、私はそこに見出しません。すこぶるリアルな中国の脅威に対しても、日本のリアクションは穏健そのもののように思われます。ヨーロッパに見られるようなロシア恐怖症さえ観察できません。近代日本において日露戦争が占めている中心的な位置を考慮すると、ロシア恐怖症は容易に発生しそうなものですけれども。
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トッドは十代のころにフランス共産党員だった人なので宗教とは相性が悪く、もちろんキリスト教は理解できても、日本の宗教事情には何ともとまどったようですね。
トッドの所謂「宗教的空白」は、実際には何も存在しない真空ではなく、宗教的な何かではあっても狂信を生み出すことのない、例えていえばある種の不活性ガス、空気のようなものです。
ここに書かれたトッドの理解は、それ自体はあまり参考になるものではありませんが、日本の「宗教的空白」は「イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭」ももたらさず、非常に「穏健」なものであることは重要です。
仮にこうした「宗教的空白」を輸出することができるならば、世界の人びとに精神的安定を提供し、世界平和に資することになるはずです。
しかし、「宗教的空白」を輸出することができるのか。
その具体的方法が、私がこの五年ほどずっと考えてきた思想的課題です。
日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c685d9ef8a0773b9b1d90c3465625d5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a7c61ab0ad3b0b3e3be33d6adec2dfa