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「いまどき連名の論文は珍奇なようであるが」(by 細川重男・本郷和人氏)

2022-01-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月22日(土)23時30分4秒

念のため書いておくと、前回投稿の「「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので」云々はもちろん冗談です。
ま、近時のある出来事をヒントにはしていますが。
さて、従前の常識に従って時政と牧の方の結婚が牧の方の父の承認を得た政略結婚であり、かつ身分違いの年の差婚であったとするならば、時期的にはやはり頼朝が石橋山合戦の敗北から奇跡的に立ち直って、東京湾を一周廻って鎌倉に入った治承四年(1180)十月六日以降じゃないですかね。
牧の方の父としては、それまでは北条など身分違いと思っていたとしても、時政の地位が劇的に向上したのを見て、世の中、やっぱり金と実力だよね、という方向にあっさり転換し、娘を嫁がせたのではなかろうかと私は想像します。
そして、山本みなみ氏によれば、牧の方は文治三年(1187)に宇都宮頼綱室、文治五年(1189)に政範を生んだ後、もう一人娘(坊門忠清室)を生んでいて、都合「一男五女」という多産の女性ですが、婚姻のときに三十歳くらいまでであれば「一男五女」を生んでもそれほど不自然ではないはずです。
山本みなみ氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)によれば、

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 時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。


とのことですが(p2)、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当な理解だと思います。
ただ、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
うーむ。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように感じます。
なお、細川・本郷論文の「はじめに」には、

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 鎌倉幕府を領導した北条氏とは、そもそもどのような家であったのか。そしてどのようにして武家政権の中枢に近づいていったのか。五味文彦先生の『吾妻鏡』の研究会を通じ、細川と本郷は共通の疑問をもち、議論を重ねてきた。そしてその作業の中から、いま一定の知見を得るに到った。そこで本稿を公にし、大方の批判を待ちたいと考える。
 いまどき連名の論文は珍奇なようであるが、本稿は両名共同の研究作業の成果であり、やむを得ずかかる形をとることにした。1は本郷、2と3は細川が主に叙述したが、私たちは本稿全体への責任を共有するものである。
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とありますが、二十年前の両者の関係とその後の推移を知っている私としても感懐の深いものがあります。

>筆綾丸さん
>牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。

そうですね。
女優ですから本気で化粧すれば十代にも化けるのでしょうが、自然な年代設定でしたね。

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の出自と池禅尼との関係については、ツイッターでも「千葉一族」というホームページを運営されている方からご意見を伺っています。
正直、つい最近、この問題に関わるようになった私には対応する能力がありませんが、大河ドラマの進展に合わせて、もう少し深めて行きたいと思います。

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武者所宗親と大岡時親は同一人物ではないかと思っています。あくまでも推測ですが。
『愚管抄』によれば、「大舎人允宗親」は「牧の方」と「大岡時親」の父。『吾妻鏡』では「牧の方」の兄弟が「武者所宗親」。(続く)

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牧の方の父「大舎人允宗親」や「牧武者所宗親」と同一人物とされる、池禅尼の兄弟「諸陵助宗親」は、保延2(1136)年12月21日に諸陵助に任じられています(『中右記』保延二年十二月廿一日条)。

※筆綾丸さんとザゲィムプレィアさんの下記三つの投稿へのレスです。

炯眼 2022/01/21(金) 19:24:11(筆綾丸さん)
小太郎さん
牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。野暮なのは研究者だ、と。

https://www.nhk.or.jp/bunken/accent/faq/1.html
NHKは、北条を頭高型(ホウ\ジョウ)で発音するのですが、平板型の発音に慣れている私には、別の氏族のような違和感があります。

牧宗親は池禅尼の弟か? 2022/01/21(金) 21:16:29(ザゲィムプレィアさん)
小太郎さんが紹介された野口実氏の『伊豆北条氏の周辺』を読み、改めて池禅尼の周辺を調べてみました。

宝賀寿男氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』を見つけました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
結論は弟であることを否定しています。系譜研究者の文章は慣れていないのですが、なかなか興味深いものでした。
なお、(2002.8.9記)という文章です。

以前に紹介した『資料の声を聴く』を運営している原慶三氏が宝賀氏を取り上げているのですが、そこで『諸陵助宗親について』を見つけたので引用します。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1180.html
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 池禅尼ならびに待賢門院判官代宗長の弟とされる宗親について、『中右記』保延二年一二月二一日条に関連記事があることに気づいた。杉橋氏の論考に否定的な宝賀氏を含め、これまでの研究で言及されたことはないようである。 統子内親王御給で任官、叙任した人物を確認する中で偶然遭遇した。統子内親王が母待賢門院からその所領の一部を譲られた時期を考えるためであった。
 まさに同日の小除目で藤宗親が諸陵助(正六位上相当)に補任されている。その前には二一才の源師仲と一二才の藤伊実が侍従(従五位下相当)に、年齢不詳の藤為益が縫殿頭(従五位下相当)に補任されたことが記されている。師仲は四年前、伊実は六年前に叙爵しており、為益もすでに叙爵していたと思われるが、宗親は叙爵前であった。宗親には系図にも関連する記載がなく、叙爵することなく死亡したと考えられる。
 兄宗長は大治五年正月には「五位判官代宗長」とみえ、叙爵した上で待賢門院判官代であったことが確認できる(『中右記』)。和泉守に補任された時期を示すデータはないが、前任者である父宗兼は長承三年末に重任している。宗親が諸陵助に補任された前後に、和泉守が宗兼から子宗長に交替したと思われる。兄宗長の叙爵が確認できる六年後にも宗親は叙爵しておらず、両者の間にはそれ以上の年齢差があったのであろう。
 源師仲は師時の子、藤原伊実は伊通の子であり、叙爵年齢の違いは親の差(その時点ではともに権中納言であるが、年齢は伊通が一七才若い)によるのだろう。宗長と宗親の父宗兼は院の近臣ではあったが、その位階は従四位上であり、諸陵助に補任された時点の宗親は二〇才前後で、その生年は永久五年(一一一六)前後ではないか。池禅尼はその時点で三三才で二男頼盛はすでに生まれている。宗長は二〇才代後半であろうか。
『尊卑分脈』でも宗長には「従五位上下野守」、宗賢「下野守従五位下」(ただし宗賢を歴代下野守に挿入可能な時期はない)との注記がある。宗長は仁平三年の死亡時で四〇才前半であったと思われる。宗親も三〇才過ぎには叙爵可能であったはずであり、極官が「諸陵助」であるならば、それ以前に死亡したことになる。当然、大岡宗親とは別人であり、牧の方(以前述べたように政子=一一五七年生と同世代か)が生まれる前に死亡した人物となる。杉橋氏とその関係者は一刻も早くその説を撤回すべきである。
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可能性としては死亡以外に長患い或いは出家もありますが、いずれにしてもこのようなキャラクターが地方に下り荘官になることは無いでしょう。
この結論が正しいとすれば、時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚ということになります。

幽霊 2022/01/22(土) 13:13:55(筆綾丸さん)
ザゲィムプレィアさん
幽霊の正体見たり枯尾花
といったところでしょうか。
余談ですが、藤沢周平の名作『蝉しぐれ』の主人公は牧文四郎といいますね。
コメント
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