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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その2)

2022-01-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月25日(火)11時21分46秒

星倭文子氏には『会津が生んだ聖母 井深八重―ハンセン病患者に生涯を捧げた』(歴史春秋出版、2013)という著書があって、その著者紹介によれば「1939年水戸市生まれ。福島大学大学院地域政策科学研究科修了。総合女性史研究会会員」だそうですね。

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会津藩家老西郷頼母の一族に生まれた井深八重は、同志社女子学校を卒業し、長崎県立高等女学校の英語教師として長崎に赴任しました。その後身体に異変が生じ、ハンセン病と疑われて神山復生病院に入院しましたが、それは誤診だったのです。しかし八重は病院を去る事はありませんでした。看護婦としてハンセン病患者の看護に一生を捧げた生涯でした。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784897578118

「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」は冒頭の学説史整理がありがたいですね。

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1 はじめに

 婚姻形態についての本格的な研究は、高群逸枝氏が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に始まるといっても過言ではない。高群氏は古代から現代までの婚姻体系を提示し、歴史的変遷を明らかにした。古代は群婚から妻問婚をへて婿取婚へ、平安中期は純婿取婚、平安末期は経営所婿取婚とし、鎌倉時代になると、婿取儀式形式を残しつつ、次第に夫方居住に移行をはじめ、それに伴い、家父長権が絶対的なものとなった、と指摘している。その結果、室町時代から嫁取婚が行われるようになり、婚姻も男女よりも家と家の結びつきが濃厚になった、とする研究である。
 その後、関口裕子氏は、高群氏の主張と実証が乖離しているとしながらも批判的に継承している。一方、高群説には多くの問題があると批判している研究者は、主として江守五夫氏、鷲見等曜氏、栗原弘氏の三人である。さらに、服藤早苗氏は、高群氏が婿取婚とした平安時代の婚姻形態に関し、最新の研究成果から、①「婿が妻族に包摂されないので、婿取婚の用語は不適切」、②「居住形態からは妻方居住を経た独立居住と当初からの独立居住」、③「十世紀以降の婚姻決定は妻の父であり、夫による離婚が始まるので、家父長制下の婚姻形態」との特徴を持つ、と述べている。
 小稿で検討する鎌倉期の婚姻形態については、次のような研究がある。辻垣晃一氏は平安時代末期から鎌倉時代初期の公家の結婚形態についての検討で、石井良助、高群逸枝、関口裕子各氏の嫁取婚成立時期に関する研究は十分な史料的裏付けに基づいて展開されていないと指摘し、独自の史料検討を行った結果、一般的な婚姻形態は婿取婚だった、と結論づけている。また、辻垣氏は、武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている。一方、五味文彦氏は「『明月記』の社会史」「縁に見る朝幕関係」「女たちから見た中世」などで、杉橋隆夫氏は「鎌倉初期の公武関係」で、政治的背景や社会史の面から具体例を検証しているが、婚姻形態の専論ではない。
 婚姻決定権については、奈良時代までの婚姻形態は、男女ともに婚姻決定権・離婚権があり、両者の合意により婚姻関係が発生し、どちらかの一方が婚姻を解消したい場合は、自然解消している。平安時代には、妻方の両親が婚姻決定に介入し、次第に妻方の父親が婚姻の決定権を持つようになる。鎌倉時代になると夫方の父が婚姻決定に介入し、夫方・妻方ともに父が決定権を持つ、とするのが通説的見解のようである。
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いったん、ここで切ります。
私の関心からは、鎌倉時代は公家の場合「一般的な婚姻形態は婿取婚」で、「武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている」辻垣晃一氏の見解が気になります。

https://researchmap.jp/tsujigaki

また、婚姻決定権については、「姫の前」の場合は「夫方・妻方ともに父が決定権を持」っておらず、頼朝が事実上の決定権を持っていたという非常に特殊な例ですね。
義時としては、おそらく「姫の前」の父親ないし比企一族の最有力者に手を廻して「姫の前」を説得してもらおうとしたのでしょうが、「姫の前」の強烈な個性に拒まれ、最後は頼朝に泣き寝入りという感じだったのでしょうか。
さて、星論文の続きです。(p263以下)

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 離婚については、栗原弘氏の『平安時代の離婚の研究』、田端氏の「中世社会の離婚」「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」、脇田晴子氏の「町における女の一生」などの研究がある。栗原氏は、平安時代の離婚は夫婦二人の問題であり、当事者主義が原則的で、夫は妻の過失の有無にかかわらず、妻を離別することが認められていた、と主張する。その背景には、夫は結婚・再婚に経済的負担がないため、安易に結婚・離婚・再婚を行うことが可能であったこと、両性の権利の不均衡の淵源は古代社会が一夫多妻制であり、離婚の権利を男性が所持していたこと、などを述べている。さらに、離婚された女性は、離婚をドライに受け止め、新しい結婚生活へ立ち向かおうとする積極的な姿勢が乏しい、あるいは、離婚後の女性の明るい話がほとんど見られないことなども述べている。だが、果たしてそういいきれるだろうか。
 田端氏は、鎌倉期の離婚について次のように説明している。まず、鎌倉期には婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれたので、武家社会で公然化された。そのため離婚は、家と家との結合の破綻を意味することになり、これも公然化する必要が出てきて、宣告離婚が発生した、と述べている。首肯しうる見解であるが、貴族社会については具体的・実証的検討はされていない。
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田端氏の見解について、星氏は武家社会については「首肯しうる」とされていますが、田端説が正しいのであれば、「姫の前」についての私見、すなわち「姫の前」は比企氏の乱(1203)の結果、義時と離婚させられたのではなく、その前に「姫の前」の側から離婚を「宣告」した、という考え方(超絶単独説)は、政治史の面にも波及しますね。
鎌倉期の武家社会が、当事者、というか夫の意思で自由に離婚できる社会から「婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれた」社会になっていたとすると、義時と「姫の前」の離婚は北条家と比企家の「結合の破綻を意味することになり」ます。
とすると、二人の離婚が比企氏の乱の原因の一つではなく、主因であった可能性すら出てきますね。
ま、私見では、「姫の前」はそんな面倒くさい家と家の関係など知ったことか、とさっさと義時に三行半を突き付け、のんびり京都まで大名旅行をして、義時のような野暮ったいマッチョとは異なる教養溢れる歌人の源具親と再婚して楽しく暮らしていたのだろうと思いますが。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/babd1dd5ca102ffbaab5d68f32abce50
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67926550b1660dd6064a65b821b6b46a
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b876a9cd6219d69351ec2679a7f2c2c1
コメント
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