学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

土御門定通が処罰を免れた理由(再論)

2022-01-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 4日(火)16時28分10秒

「大河ドラマ愛好家」さんと私の地味なバトルはブログのコメント欄で続いていて、『公卿補任』の記載に何か問題があるようですが、今のところは先方の出方待ちです。


この地味バトルでは何となく土御門顕親の生年が論点になっていますが、私は別に顕親が承久四年(貞応元、1222)生まれであっても困る訳ではありません。
承久の乱の終結は承久三年六月十五日ですが、その後、竹殿が土御門定通に再嫁して翌年顕親を生んだとすると、竹殿が妊娠するまではどんなに長くても八か月程度です。
京都守護でありながら幕府を裏切った前夫(大江親広)が行方不明になった後、ただちに再婚すること自体が些か妙な感じがする上に、新しい夫・土御門定通も後鳥羽方で戦闘に参加していた人ですから、処刑・配流等の処罰を受ける可能性も相当あった立場です。
そんな状況下で、再婚して子作りに励みましょう、というお茶目な行動を取っていたら、夫婦そろって相当に能天気なのではないか、という感じがします。
そして、結果的に定通が全く処罰されなかったことをどう説明するのか、という重大な問題があります。
念のため確認しておくと、承久の乱に際して、定通がそれなりの軍事的活動をしていることは『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ています。

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。


「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に向かっていますね。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
そして官軍の敗北後、源有雅は甲斐で、藤原範茂は相模でそれぞれ誅殺され、坊門忠信はいったんは死罪と決まったものの、妹で実朝未亡人、西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながっています。
しかし、定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
この処遇の差はいったい何なのか。
ま、定通が承久の乱の前に既に竹殿の夫であったためだろうと私は考えます。

土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)

>ザゲィムプレィアさん
>姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。

率直に言って、私はザゲィムプレィアさんの見解に全く賛成できません。
「姫の前」が主体性のない女として、比企家当主の命令のままに動く存在であるかのように考えるのは誤りだろうと思います。
そうした人物像は「権威無双の女房」という『吾妻鏡』の描写にそぐわないですね。
私が考える「姫の前」は頭の回転が速く、自分の意見をはっきり言い、しかも存在するだけで周囲が明るくにぎやかになるような華やかな女性です。
幕府の創業期が終わって、二代目・三代目の世代になると、家格や女性の役割が固定化され、女性が活躍する余地も狭まったでしょうが、創業期はまだまだ緩くて、才能に恵まれた女性は個性的な生き方が可能だったように感じます。
何より北条政子や板額御前がいた時代ですからね。

>筆綾丸さん
>葉室幼稚園
葉室定嗣が中興の祖である浄住寺のすぐ隣なんですね。
何か関係があるのかは分かりませんが。

浄住寺

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

姫の前の離婚の政治面の考察 2022/01/03(月) 09:14:53(ザゲィムプレィアさん)
姫の前の離婚と再婚の時期を比企氏の乱前とした方が自然だという小太郎さんの意見に賛成です。

結婚と離婚の政治的な意味を考えてみました。
北条氏は政子が頼朝の妻であり、舅の時政が頼朝を旗揚げ以来支援してきて幕府で枢要な地位を占めるとともに家の勢力を伸ばしてきました。
比企氏は比企尼に対する頼朝の信頼が篤く、頼朝の勢力が拡がるにつれ一族の人間が重用されて、家の勢力を伸ばしてきました。
比企能員の娘の若狭局が頼家の妻になり、二人の間に一幡が生まれ、将来将軍になることが予想されます。
そうなれば政子がいるために北条氏が占めていた特別な地位が比企氏に移ることになります。
それを北条氏が喜ぶはずもなく、比企氏もそれを認識していたでしょう。この地位の交代を円滑に進めるためのキーパーソンは、家督継承者であり既に十三人の一人になっていて姫の前と結婚している義時です。
北条氏の家督となる義時を適切に処遇し続ける、両氏の間にトラブルが発生した場合、必要なら家督同士が直に話合い解決を図る。これを比企氏の基本方針とするべきでしょう。
姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、
比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。
しかし、そのようなことが起きた形跡はありません。吾妻鏡は義時と姫の前の結婚を隠していないのですから、もし義時が別の比企氏の女性と再婚していればそれを隠さなかったでしょう。
離婚が乱前ということは、北条氏と比企氏の間の亀裂を隠せなくなった或いは隠す気が無くなったということを意味するのではないでしょうか。
史料の裏付けの無い考察ですが、コメントを頂ければ幸いです。

葉室 2022/01/04(火) 09:08:54(筆綾丸さん)
小太郎さん
https://localplace.jp/t000174614
昔、この掲示板で、後鳥羽院の側近・葉室光親を悼んで、次のような駄歌を詠んだ記憶があります。
灌仏会
「この甘茶がいいね」と君が言ったから 四月八日は葉室幼稚園

姫の前に関する小太郎さんの新解釈によって、従来の学説が綺麗に覆るような気がします。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする